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第10話 剣と筆の夜(864年)

 第十話:


 博多はかたの港から少し離れた山あいの小さな寺院。夕暮れの光が斜めに差し込む境内に、菅原道真すがわらのみちざねは身を潜めていた。彼の傍らにはからすの構成員である葦切あしきりが静かに佇んでいる。


「この寺が偽経を書写している場所だと?」


 道真は声を潜めて尋ねた。


「間違いありません」葦切は頷いた。「我々の斥候せっこうが確認しています。裏堂で経典の改竄かいざんが行われている」


 道真は寺の構造を見つめた。表向きは地方の小さな寺院に過ぎないが、裏には広い建物が見える。そこに明かりが灯っていた。


「いつ動きますか?」


「まもなく」葦切は夕闇を見上げた。「他の部隊が配置につけば」


 その時、彼らの後ろから微かな足音がした。振り返ると、黒装束の男が五人、静かに近づいてきていた。全員が顔を布で覆い、腰には刀を差している。


「用意は整いました」


 先頭の男が葦切に告げた。声の主は陸奥むつと呼ばれる鴉の武闘員だった。その厳しい目は、すでに戦いの心構えができていることを物語っていた。


「菅原殿はここで待機を」


 葦切が道真に言った。


「いえ、同行します」


 道真の返答に、葦切は驚いた様子を見せた。


「危険です。彼らは武装しています」


「私は学者です。もし経典が本当に改竄されているのなら、それを自分の目で確かめたい」


 葦切と陸奥は顔を見合わせた。そして陸奥がわずかに頷いた。


「では、我々の後ろにお付きください。何かあれば、すぐに退避してください」


 夜の闇に紛れ、一行は寺に近づいた。表門は開いており、堂内は無人のようだった。陸奥の示す手合図に従って、彼らは建物の周囲を回り込み、裏堂へと向かった。


 窓から漏れる灯りに照らされて、道真たちは中の様子をうかがった。そこには十人ほどの僧侶の姿があった。しかし彼らの着ている衣は本朝の僧のものとは微妙に違い、新羅風の特徴があった。彼らは机に向かい、何かを筆写していた。


 陸奥は葦切に小声で告げた。


「彼らは武装しています。衣の下に小刀を隠しているでしょう」


「了解した」


 葦切は頷いた。


「急襲する。動きは素早く」


 陸奥は配下に手合図で指示を出し、全員が抜刀した。次の瞬間、彼らは一斉に裏堂に飛び込んだ。


「動くな! 朝廷の命により捕縛する!」


 陸奥の声が堂内に響き渡った。書写をしていた僧たちは突然の侵入に驚き、中には筆を落とす者もいた。しかし、すぐに彼らの表情が変わった。


「抵抗するな!」


 葦切が叫んだが、すでに遅かった。新羅の僧たちは衣から武器を取り出し、反撃の構えを見せた。堂内は一瞬にして戦場と化した。


 道真は入り口付近から、この混乱を見つめていた。鴉の武闘員たちは見事な連携で僧たちを抑え込んでいく。彼らは殺すのではなく、捕縛することを目的としているようだった。


 戦いは短時間で決着した。新羅の僧たちは全員が組み伏せられ、五人が縄で縛られた。他は抵抗による負傷で動けなくなっていた。


「菅原殿、安全です。お入りください」


 葦切が道真を招き入れた。道真は緊張した面持ちで裏堂に足を踏み入れた。そこには机や筆、そして大量の経典が散乱していた。


「これが証拠です」


 葦切は机の上に広げられた経典を指さした。道真はそれを手に取り、注意深く内容を読み始めた。それは表向き『法華経』の写本だったが、随所に不自然な変更が加えられていた。


「これは...」


 道真は眉をひそめた。


「本来の経典の教えが歪められています」


 彼が読み進めていくと、そこには本朝の皇統を軽んじる記述や、新羅の優位性を匂わせる文言が巧妙に挿入されていた。また、民衆の心を惑わす内容に改変されているところもあった。


「これを広めようとしていたのか」


 道真の声には怒りがにじんでいた。仏の教えを政治的目的で利用するとは、彼の学者としての魂が許せなかった。


「敵国の工作だったのですね」


 葦切が言った。


「彼らから話を聞き出さねば」


 陸奥が捕らえた僧の一人を道真の前に連れてきた。この僧は他の者より年長で、見るからに指導的立場と思われた。


「お前の名は」


 陸奥が厳しく尋問した。


 僧は黙ったままだった。


「なぜこのような偽経を作っていた? 誰の指示だ?」


 依然として僧は口を開かない。陸奥が再び問いかけようとした時、道真が手をかざした。


「私に話させてください」


 陸奥は少し躊躇ちゅうちょしたが、葦切の頷きを見て退いた。道真はゆっくりと僧の前にひざまずいた。


「私は菅原道真と申します。学問を修めている者です」


 道真は静かに語りかけた。僧は無表情のまま、道真を見つめていた。


「あなたがこのような行為に及んだ理由を知りたい。仏の教えは人々を惑わすためのものではないはず」


 長い沈黙の後、僧はついに口を開いた。


「我は文の兵士なり」


 その声は低く、重々しかった。本朝の言葉だったが、微かになまりがあった。


「文の兵士?」


「そう」


 僧は冷たく微笑んだ。


「汝らは剣で戦う。我らは文で戦う」


 道真は僧の言葉の意味を理解した。彼らは武力ではなく、文化や思想を通じて本朝に侵入しようとしていたのだ。


「誰の命令で?」


「言うべきではない」


「あなたは本当に仏門の人ですか?」


 僧は道真の問いに戸惑いを見せた。


「我は...かつては真の僧だった」


「では、なぜ仏の教えを歪める?」


 僧の表情に一瞬、苦悩が浮かんだ。


「国のため...」


 道真は机から筆と紙を取り、僧の前に置いた。


「では、あなたの思いを記してください。なぜこれが国のためになると思うのか」


 僧は驚いたように道真を見た。


拷問ごうもんではないのか?」


「私は学者です。言葉で対話したい」


 僧はしばらく迷った後、筆を取った。彼は流暢りゅうちょうな筆致で漢字を連ねていく。道真はその様子を見て、この男が相当な学識を持つことを確信した。


 書き終えると、僧は紙を道真に差し出した。道真はそれを読み始めた。


 そこには、新羅の現状と彼の使命が記されていた。新羅は内政の混乱で力を失いつつあり、本朝の影響力に対抗するために文化的浸透を図っていた。彼自身は元々は学僧だったが、国の命により「文の兵士」となり、仏典の改竄を通じて本朝の民心を操ろうとしていたのだ。


鶏林社けいりんしゃの指示...」


 道真はつぶやいた。鶏林社とは、これまでの調査で浮かび上がってきた新羅系の秘密組織だった。


「あなたは本当に、これが正しいことだと思っているのですか?」


 道真の問いに、僧は顔を伏せた。


「我に選択肢はなかった」


「今ならある」


 道真は穏やかに言った。


「真実を話せば、あなたの罪は軽くなるでしょう」


 僧は長い間黙っていたが、やがて重い口調で語り始めた。彼の名は金徳成きむ・とくせい、新羅の名門寺院で学んだ学僧だった。鶏林社は彼の学識を利用し、偽経の作成を命じたのだ。彼の下には複数の書写僧がおり、作られた経典は博多周辺の寺院に密かに広められていた。


「これらは...本朝の民を惑わすための第一歩にすぎない」


 金徳成は告白した。鶏林社の最終目的は本朝の地方勢力を思想的に支配し、やがては朝廷への影響力を築くことだった。


「驚くべき計画だ」


 葦切が言った。


「しかし、それも今日で終わりだ」


 金徳成は静かに頷いた。彼の表情には諦めと、どこか安堵あんどの色も見えた。


「菅原殿」


 金徳成が道真を見つめた。


「あなたは珍しい人物だ。武ではなく、筆で私を打ち負かした」


 道真は首を振った。


「勝ち負けではありません。私たちは互いに学ぶべきことがある。ただ、その学びが争いやあざむきのために使われるのは...」


「許せぬということか」


 金徳成は苦く微笑んだ。


「聖人の教えに背いた私の罪だ」


 陸奥たちは他の捕虜とともに金徳成を縛り上げ、外へ連れ出す準備を始めた。


「どうなるのでしょう、彼らは」


 道真が葦切に尋ねた。


「朝廷の判断を仰ぐことになります。だが、協力したことは考慮されるでしょう」


 道真は書写された偽経を一冊手に取った。


「これらは?」


「証拠として押収し、残りは焼却します」


「一部は保存すべきです」


 道真は言った。


「将来、同様の脅威に備えるため」


 葦切は頷いた。


「賢明な判断です」


 ***


 夜も更けた頃、道真は博多の鴉の詰所にいた。先ほどの急襲で得られた情報を整理していた。


「金徳成の証言で、多くのことが明らかになりました」


 葦切が道真に告げた。二人は地図を広げて座っていた。地図には博多周辺の寺院が印されており、偽経が配布された場所が赤く示されていた。


「鶏林社の活動範囲が見えてきましたね」


 道真は言った。彼らの影響は予想以上に広がっていた。


「そして、華胥道かしょどうとの繋がりも」


 先日の調査で、中国系の秘密結社である華胥道も博多で活動していることが判明していた。両者は表向き協力関係にあるようだったが、実際は互いを牽制けんせいしあっていた。


「本朝を巡る諸外国の争いが、ここ博多で展開されているのですね」


 道真は物思いにふけった。彼は学生として筑紫に来たが、今や国際的な謀略ぼうりゃくの渦中にいた。


「菅原殿」


 葦切が真剣な表情で道真を見つめた。


「あなたは今夜、重要な発見をしました」


「発見?」


「はい」


 葦切は首肯うなずいた。


「武力だけでは守れないものがある。言葉と文化こそが、真の戦場なのだと」


 道真は静かに考え込んだ。彼は剣を持たない。彼の武器は筆であり、学問だった。しかし今夜、その「筆」が本朝を守る力となったのだ。


「私にできることは...」


「大きいですよ」


 葦切が微笑んだ。


「あなたは今後も学問を極めてください。そして本朝の文化と思想を守る盾となってください」


 部屋の外では、捕らえられた新羅の僧たちが護送される準備が進んでいた。道真は窓から、縄で縛られた金徳成の姿を見た。彼もまた、国のために自らの学識を捧げた人物だった。しかし、その方向性は誤っていた。


「私は筆を武器とする」


 道真は静かに決意を固めた。「しかし、それは人を欺くためではなく、真理を示すためであるべきだ」


 葦切は道真の言葉に深く頷いた。


「それこそが、真の学者の道」


 夜空に月が高く昇り、博多の街を銀色に染めていた。今夜の出来事は、菅原道真の心に深く刻まれることになる。彼は学問の力が、時に剣よりも強力であることを身をもって知ったのだ。


 そして、その力をどう使うかが、彼の生涯をかけた問いとなっていくのだった。

【語り:八咫烏?】

「貞観六年、十九歳の菅原道真が博多でこのような活動をしていたという史料はないけれど、当時の国際情勢を考えると、なかなか興味深い想像やな。実際、この時代の新羅は内政が不安定で、百済・高句麗を併合した後の統治に苦慮していたんや。一方、渤海や唐との関係も複雑で、日本の九州地方は実際にこれらの国々の文化的・政治的影響が交錯する場所やった。


 史実として、道真は若い頃から優れた漢詩人として知られ、『菅家文草』『菅家後集』には彼の優れた詩文が残されている。十一歳で初めて漢詩を詠み、周囲を驚かせたという逸話もあるくらいや。そんな彼が『文の力』を重視したというのは、史実と整合しとる。


 また、道真が後に宇多天皇の信任を得て、寛平六年(894年)に遣唐使停止を建議したのは、中国情勢の不安定さを見抜いての判断やった。ここに描かれた『文による侵略』の危険性への認識は、後の彼の政治判断に影響したかもしれん思わせる内容やな。


 物語の新羅僧・金徳成は架空の人物やが、実際に当時の東アジアでは仏教が政治的にも利用されていたことは事実や。道真自身も仏教に理解があり、特に空海の真言密教との関わりが深かったことが知られている。だから、この『剣と筆の夜』の物語は、史実に基づいた想像力豊かな創作と言えるやろう」

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