07,ライの怒りと思い出のハンカチ
お皿を拾うライの姿を見た女性は、マズいと思ったのか「客に手伝わせるなんて最低ね」と嫌味を吐いて顔を背けた。
私は慌ててライの側にしゃがみ込む。
「ライ、いいよ! ごめんね、私がやるから」
「いや、一緒にやった方が早ぇだろ? それに俺、マジで腹が減ってるからさ。これ片付けるより先に、もう一回飯の用意してもらってきてくれねぇ?」
「あ……っ」
私はライの言葉に目を見開いた。
(――そうだ。私、ライのご飯を駄目にしちゃったんだ……。ライの、せっかくのご飯だったのに……っ!)
私はじわりと浮かぶ涙を堪えて、急いで厨房へと戻る。
事情を説明すると、料理人達は憤慨しながらも再び料理を作り始めてくれた。
それから床を拭くためのモップやちりとりを取り出していると、フロアから「きゃーっ!」と大きな悲鳴が聞こえてきた。
(もうっ! 今度は何なの!?)
走ってフロアに戻ると、私に足を引っかけた女性は、何故か自分が駄目にした食事を頭から被っていた。
綺麗に結われた髪から肉汁やソースがぽたぽたと垂れ、お洒落な洋服も無惨な有様になっている。
その横にはライが、女性の頭の上でお皿をひっくり返して立っていた。
どうやら床に落ちてしまった料理を拾って、わざわざ女性の頭からかけたらしい。
私は悲惨な光景を見て「うわぁ……」と顔を引き攣らせる。
やり返してくれるのはいいが、掃除しなければならない場所が増えているではないか。
何してんのよ……と溜息を吐いていると、女性が顔を真っ赤にして声を荒らげた。
「ちょっと、何するの!?」
「何って、ゴミはゴミ溜めに捨てなきゃなんねぇだろ?」
「何ですって!? 私がゴミだって言いたいの!?」
「……あぁ。そう言ってんだよ」
そのいつもより数段低い声に、肌がピリついた。
ライは女性の頬を片手で鷲掴み、周りはヒュッと息を飲む。
あれは……ヤバい。
それは私や孤児院の子供達と戯れている時の、冗談で怒っている雰囲気とは全く違う、本気の怒り。
扉も窓も開けてもいないのに、まるで外の冷気が入り込んだように気温がぐっと下がった気がする。
ぶるりと体が震え、ライの纏う空気にただ圧倒された。
「テメェはせっかくの飯を無駄にしやがった。他人の努力や苦労を容易く踏み躙ったんだ。食材を育てた奴やそれを運んだ奴、販売した奴、調理した奴にこうして運んできてくれた奴。それをテメェの身勝手で駄目にしたんだよ」
「な、何よ……! これくらいのもの、また作らせればいいでしょ!?」
「ハッ! これくらいだと?」
令嬢の言葉にライは口の端を釣り上げた。
更に力を込めたのか、女性は「痛い、痛い!」とライの手を振り解こうと顔を振る。
しかし男の力に敵うはずもなく、顔を掴まれたまま引き寄せられ、女性の目前にライの顔が迫る。
氷のように冷たい瞳に睨まれて、女性はか細い悲鳴を上げた。
「食いたくても食えねぇ奴なんてごまんと居るんだよ。飢えて弱って死んでいく奴もな。こんな立派な飯がありゃあ、そんな奴らなら多少腐ろうが数日に分けて食うだろうよ。テメェに分かるか? そんな生活が」
「えっ? あ……っ」
女性はライが元々孤児だったことを思い出したのだろう。
口をはくはくとさせ、顔はみるみる青ざめていく。
ライの言葉に、私は彼が来た時の姿を思い出した。
今の言葉は彼が実際に見たものだったのだろうか。
飢えて弱り、その内息もしなくなる誰かの姿を見るような、そんな恐ろしい世界で暮らしていたのだろうか。
(ライが孤児院に来た時、十二歳くらいだったんだよね。一体何歳の頃からそんな暮らしをしていたの……?)
私はそれまで必死で堪えていたというのに、ライの言葉で涙が零れ落ちていく。
ライは女性から手を離すと、更に冷えた目で見下ろして言い放つ。
「しかも、ディアを転ばせやがって。あいつが怪我でもしてたらタダじゃおかねぇからな。……あぁそういやテメェ、前に聞いてもいねぇのに、勝手に自己紹介してたよなぁ? テメェのことはよくよく報告してやるよ、公爵様になぁ」
「い、嫌っ! 待って、許して!」
縋り付く女性に、仕返しと言わんばかりに「汚ぇな」と言ってその手を振り払うと、ライはこちらに近付いてきた。
ライと目が合った私は目元を擦るように拭う。
「馬鹿、擦るんじゃねえよ。瞼が腫れんだろ。手とか足は? 怪我してねぇのか?」
そう言いながら乱暴にハンカチを顔に当てられる。
私は子供みたいに涙を拭われ、ふとそれが目に入った。
「それ……」
「ん? あっ……!」
それはライが来たばかりの頃。
三ヶ月が経って初めて話してくれた時、とても嬉しくて何かしてあげたかった私は、まだ下手くそなのに一生懸命ハンカチに刺繍をして、ライにプレゼントしたのだ。
ハンカチ……と言うのも烏滸がましいような、布の切れ端を丁寧に切って一から繕った歪なもの。
刺繍したイニシャルだってガタガタで、こうして改めて見るとなんともお粗末な出来だ。
それなのに、ハンカチはもうヨレヨレで、何度も洗って使われているのが分かった。
あれからもう何年も経っているのに。
それこそ公爵家に行くようになっても、こんな歪なハンカチをずっと捨てずに持っていてくれたなんて――。
「あぁくそ、頼むから泣くんじゃねぇよ! なんだよ、何処か痛ぇのか!?」
「うぅ〜〜っ、これはライのせい〜〜っ」
「あぁっ!?」
私の涙腺は決壊してしまったらしく、涙は一向に止まる気配がなかった。
私は落ち着くまで一旦裏で休ませてもらうことになり、私がグズグズと泣いている間にエルバさんが怪我の確認をしてくれた。
案の定、肘や膝には擦り傷が、その他にも所々痣が出来始めていたようだ。
エルバさんがフロアに戻ると、代わりに一緒に配膳をしている先輩が私の手当てをしてくれた。
零した料理の掃除はトゥルガのみんなと「俺もやり返して汚してっからなぁ……」と言って、ライも手伝ってくれたそうだ。
結局迷惑をかけてしまい申し訳ないと謝ると、みんなから「気にするな」「向こうが悪い」「飯を粗末にする奴なんか怒鳴り返してやればいい」と励ましてもらった。
(本当に温かい職場……。あの女の人の方が絶対に身分が高いのに……。私を叱らないどころか励ましてくれるなんて)
みんなの優しさに、私は再びぽろりと泣いてしまった。
後から教えてもらった話だが、エルバさんはフロアに戻ると女性に向かって「代金は要らないからお引き取りを」と言って追い出したらしい。
女性はエルバさんやライに色々と言い縋ったらしいが、これまでの行いを見ていたエルバさんが許すことはなく、あれだけ怒ったライもまた、女性の言い分に耳を傾けるはずもなかった。
私が泣きやみフロアに戻る頃には、とある商家の娘だというその女性は金輪際入店禁止にされ、退店させられていた。