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20,黒い少年の独白


 物心がつく頃にはジメジメとした薄暗い場所で僕は生きていた。

 

 育ててくれたのは乳母だという女性。

 母を知らない僕にとっては、乳母が母のような存在だった。

 

 不定期にしか来ない食事。

 ひび割れた石の床の粗末な部屋。

 あるのは手洗い場とトイレ、あとは硬いベッドくらい。

 音が反響する無骨な空間で聞こえるのは、僕と乳母の声以外に時々耳にする子供の泣き声。

 僕の世界はたったそれだけだった。

 


 乳母はそんな環境で懸命に僕を育ててくれた。

 壁や床の崩れた石を使って数字を教え、文字を教え、言葉を教えてくれたのだ。

 外の世界を知らなかったその頃の僕は、その生活が普通なのだと思っていた。


 そんな乳母は、時折僕を抱き締めて泣いていた。

 理由は分からないけれど「すみません。すみません……」と言って。

 

(何に謝ってるの……? 何がそんなに悲しいの?)


 僕は何も知らず、その涙を拭うことしか出来なかった。

 僕は……何も出来なかったんだ。


 



 あそこで暮らした日々には月日という感覚がなかった。

 部屋の寒暑で四季を悟るくらい。

 だからいつのことだったか明確には分からないけれど、ある日、ギラギラと眩しい服を着た男がやって来た。

 僕を見て顔を(しか)めたのをよく覚えている。

 その男の後ろに続いて入ってきた何人かが、僕の髪や腕を無遠慮に掴みあげた。


「う、うあぁ……っ!」

 

 何本もの毛が抜けたり途中で千切れたようなブチブチという音が響く。

 乳母が(すが)るように「おやめ下さい!」と止めてくれたけれど、一瞬で乳母は男達に蹴り飛ばされてしまった。

 何が起こっているのか理解出来ず、ただされるがままに引き()られ、男の元に連れていかれる。


「はぁ……。どうしてこちらにこの色が継承されるのだ。忌々しい」


 男はそう呟くと、僕のお腹を蹴り上げた。

 内臓が押し潰され、僕はカヒュッと空気を漏らしながら地面に転がる。

 蹴り上げられたお腹も、石の床でぶつけた体も、全てが痛かった。

 霞む視界で見えた、こちらに手を伸ばす乳母の姿。

 男達に掴まれ上半身がはだけかかっていても気にせず、必死で僕の名前を呼んでいた。


 

 ――その後どうなったかは知らない。


 

 僕は痛みで意識を失ってしまったらしい。

 地面に転がったまま目を覚ました僕は、無惨な姿を見下ろすことになる。

 きっとあの後も殴られたのだろう顔や体に痣を作り、ドロドロに汚れた乳母が気絶していた。

 

 僕は痛むお腹を押さえ、ボロの布を手洗い場で濡らして乳母を拭いた。

 粗方綺麗になると、今度は腫れた顔を冷やそうと前髪を払い、顔を覗き込む。

 すると目を覚ました乳母が叫声を上げて後退った。


「大丈夫……?」


 どうやら乳母は錯乱していたようで、暫くして目の前に居るのが僕だと気付いたらしい。

 今度は自分の体を見下ろし――その身を掻き抱いて、声を押し殺しながら嗚咽を上げ始めた。

 きっとそれほど恐ろしかったのだろう。

 こんなにも弱った乳母を見たのは初めてで、僕はその時に怒りの感情を覚えたんだと思う。


(あの人達、絶対に許さない……!!)


 


 それから食事を運んでくる人間とは別で、度々人が訪れるようになった。

 ギラギラ服の男が来ることはなかったけれど、その人達はどうやら僕の監視に来ているらしい。

 

 ――あの日以来、乳母の体調がよくない。

 時々吐き気を催し、顔色を悪くしていることが増えた。

 僕が寝たフリをすると、啜り泣く声や祈るように呪文を唱える声が聞こえるようになって、僕は悲しくて悔しかった。

 

 だから乳母に手を出そうとする姿を見れば、僕は必死に男達に飛びかかった。

 乳母がもう泣かなくてすむように。

 でも……。


「すみません……。私などのために、すみません……」


 やはり乳母は泣いていた。

 ボロボロにされた僕を抱き締めて、声を殺すように。

 ずっと何かに謝っていた。


(泣かないで……。僕が強くなってみせるから……)




 そんなことを何度も何度も続けているうちに、僕が戦い方を学んだからか、簡単にはやられなくなっていった。

 恐らくそれが気に食わなかったのだろう。

 今度は食事を減らされるようになってしまった。

 元々だって十分な食事量ではなかったのに、忘れられたかのように食事が届かない。

 届いた日でさえ一人分もあるかどうか。


「私はお腹が空いていませんから、さぁ」

「ほら、食べないと大きくなれませんよ。私は十分大きいですからね」


 乳母はそう言って僕に食べさせてくれた。

 僕はこんなにも腹が減るのに、乳母は大丈夫だと言う。


 その言葉が僕を生かすための嘘だと気付いたのは、もう手遅れになってからだった。

 乳母は衰弱し、自力で起き上がることも出来なくなってしまったのだ。


「私の分もお食べ下さい。こんな不浄な私は……夫の元に戻れません。ですからどうか、どうか生きて下さい」


 僕は首を横に振り、どうにか乳母に食事を食べさせようとした。

 でも飲み込む力すら衰え、水も食事も口の端から零れてしまう。


「嫌だ……嫌だよ……っ!」

「どう……か、生……て……。あの……方の……分ま……、お守……したか……った…………」



 

 乳母が動かなくなって二日後。

 食事を持ってきた男が悲鳴を上げた。

 虫が湧き、ネズミも群がっていて、乳母だったものは見る影もなくなってしまっていた。



 乳母が部屋から運び出されていき、男は当初の目的だった食事をそそくさと置いていく。

 僕はそれを部屋の隅で(うずくま)りながら見ていた。

 涙もとっくに枯れ果て、食事を食べる気など起きるはずもない。

 なのに、乳母の言葉が頭から離れなかった。


(こんなところで生きて、何になるの……?)


 そう思いながらも、自分の命を捨てることは出来なかった。

 乳母の最期の望みを叶えなければ。

 それだけの思いで重い体を動かし、僕は味のしない食事に手を伸ばした。


 



 それからまたどれくらい経った頃だろうか。

 公爵にあの部屋から連れ出されたのは。


 ギラギラした服ではなかったが、公爵もあの男と同じように上に立つ人間特有の雰囲気があった。

 乳母が居なくなっても男達は定期的に僕を甚振りに来ていたため、僕にとって大人の男は全てが敵にしか見えない。

 警戒し臨戦態勢を取ろうとすると、公爵は乳母の名前を呼んだ。

 その名前に体がピクリと固まる。

 僕が呼ばなければ誰からも呼ばれることのなかった、乳母の名前。


「……この名を知っているのだな。私はお前を逃がすために来た。だから抵抗するな」


 そう言われても信じていいか分からない。

 僕はジリジリと後ろに下がる。

 それを見た公爵は溜息を吐き、指示を出すように片手を手を上げ……



 僕はあっさり簀巻(すま)きにされてしまった。



 隠密が得意な兵士達が隠れていて、声も出せないように口を覆われてぐるぐる巻きにされたのだ。

 僕が抵抗し声を荒げれば見付かってしまう可能性があるからだと、今落ち着いて考えれば理解出来る。

 けれどあの時の僕は死を覚悟したし、とても恐ろしかった。


「私がここに来たと知られるのが一番危険だからな。先に戻る。伯爵が時間を稼いでくれている内に準備を整え、何としてもその子を連れ出せ。その後の対応は手筈通りに」


 公爵はそう言うと立ち去っていき、兵士達は部屋に細工をしてから僕を大きな木箱に詰めた。

 これから自分はどうなるのだろう。

 最初は真っ暗な箱の中で恐怖を抱いていた。

 

 でも……途中からどうでもよくなった。


(自分から命を投げ出さなかったのだから、もしこれで僕が死んでしまっても、乳母は怒らないよね……?)



 そのままガタゴトと揺られ、次に蓋が開いて見たのは、目が眩むほどの明るく綺麗な一室。

 公爵の執務室だった。

 あの殺風景な部屋しか知らなかった僕は、こんなにも眩しく明るい世界があるのかと胸が痛んだ。

 それなら僕や乳母は、どうしてあんなところで生きていたのか。

 知りたいようで、知りたくなかった。


 けれど、その疑問への答えはすぐに語られた。

 暴れ出さないようにと簀巻(すま)きの状態で全てを聞かされ、手足の自由を奪われているにも関わらず、僕は周囲に当たり散らした。

 まな板の上で跳ねる魚のように反動で体を動かし、周囲の家具や床にぶつかる。

 そうでもしなければ怒りや憎しみ、やるせなさといった、ぐちゃぐちゃになった気持ちの行き場がなかったから。


(あの人達のせいで! この人達だって、もっと……もっと早く来てくれていれば……!)


 そんな僕の様子を見兼ねてか、公爵は大人達に囲まれた環境ではなく、同世代の子供と居させた方が少しは落ち着くかもしれないと考えたらしい。

 そうして僕はそのまま孤児院に連れられ――ディアと出会ったんだ。



 

 

 僕に美味しいものだと伝わるよう、わざわざ目の前でパンを食べ始めた少女。

 けれどこちらに必死で笑顔を向けながらも、その体は震えていた。

 勢いよく食べたせいで無様にもパンを喉に詰まらせた僕に、脇目も振らず伸ばされた手。


「いいから! 早く水を飲んで!!」

 

 叩こうが暴れようが、苦しむ僕を労る手が、その目が、僕の心を掴んで離さなかった。


 『どうか生きて下さい』


 ふと乳母の声が蘇る。

 

 僕は、自分が生きていていいのか分からなかった。

 乳母の命を奪って生き延びてしまったけれど、自分にそんな価値があるのか。

 ずっとそればかり考えていた。

 公爵から聞かされた話も、そんなものどうだってよかった。

 あずかり知らぬところで巻き込まれ、勝手な思惑のために生かされ、甚振られ、そうして乳母は……。

 

 でも、見ず知らずの自分に身を挺してくれた優しい少女が「生きて」と言ってくれているようで。

 まだ生きてもいいと許されたようで。


(温かい。この子の手は、温かいな……)

 

 これまで乳母以外に優しくされたことのなかった僕は、ディアの温かさにみっともなく泣いてしまったのだ。



 

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