36.過去からの呪縛
「私は小さい頃はとてもお転婆で、事あるごとに他の種族の族長様や周りの大人たち、そして、母様にいろんなことを聞いては村中を走り回っていました。昔のこと、森の外の話、それからどこかに住んでいると言われている人族のこと」
そう話す彼女の美貌には、愛郷の念を偲ばせる穏やかな表情だけが浮かんでいた。
「いろんなことを知れば知るほど、私は外の世界への憧れを強くしていきました。森の外に出てみたい。噂に聞く人間たちと出会い、古の時代に結ばれたあの二人のような恋物語をこの目で見てみたい。そんな思いばかりが募っていきました。当時既に、私が知る限りでは、私たちナフリマルフィス族は母様と私の二人だけしか、あの村で生活していませんでしたから。ですので、幼いながらも、同族間での恋物語を紡ぐことができないと、理解していたんだと思います」
遠くを見つめていたオルファリアはそこまで言って、恥ずかしそうに僕を見た。月明かりや夜光幻虫の明かりだけではよくわからなかったけど、柔らかそうな頬が上気しているような気がした。
思春期の頃、誰もが一度は抱く異性や恋愛への憧れ。彼女もまた、幼少期は恋に恋する乙女だったということなのだろう。
「そうだったんだね。オルファリアも、小さい頃はいろんな思いを抱いていたんだね」
「……はい」
「そっか。だけど二人か。お母さんと二人きりだけっていうのは、やっぱり寂しいよね」
「そうですね。ですがご存じの通り、あの村や森の中には家族と呼べる仲間たちが大勢いましたから、そういう意味では寂しくありませんでした。ですが、それでも私は、日増しに高まっていく好奇心や、もの悲しさをどうしても抑えることができなかったのです。ですから、大人たちの目を盗んで村の外、魔の領域外へと出ていってしまったのです」
世界に対する憧れ、見たこともない事物と触れあいたいと思う好奇心。僕も人一倍好奇心旺盛とよく言われていたから、よくわかる。
大人であっても容易に抑えられないのに、子供であればなおのこと。しかし、それがすべての悲劇の始まりだった。
「村から飛び出した私を待っていたのは地獄でした……。たまたま森の中に入り込んできていた人間たちと遭遇してしまい、彼らは私の姿を見て口々に化け物と罵ってきました。ですが、こうも言ってきたんです。好事家や奴隷商に売ったら高く売れるのではないかと……」
「それって……」
「はい……。人間たちはわたしを捕まえようと躍起になりました。どうしてこんなことをするのかと、悲しくて、泣きながら訴えました。ですが彼らは話を一切聞いてくれませんでした。結局、森中を駆けずり回りましたが、何もできず、私は彼らに捕まって、そのまま連れ去られそうになってしまったのです。ですがそんなとき、ずっと私のことを心配して探してくれていた母様が、助けにきてくれたのです」
オルファリアはそこまで言って耐え切れなくなったのか、口をつぐんでしまった。見ると瞳も閉じて、肩まで震えている。
僕は少しためらったけど、彼女の細い肩に右腕を回し抱き寄せるようにした。それに驚く彼女だったけど、
「無理しなくていいよ。辛いなら話さなくていい」
僕の言葉に彼女は首を横に振った。
「大丈夫です。話したいんです。リルに私のすべてを知って欲しい」
そう前置きして、僕の肩に頭を乗せるようにしながら、話を再開した。
「母様は、人間に捕まってしまった私を必死になって助けようとしてくれました。ですが彼らは十人以上いて、多勢に無勢。手には武器も持っていました。彼らを退けるためには精霊神術のすべてを使って抑え込まなければならなくて……。ですが、力を覚醒させた母様の姿を見て、人間たちは目の色を変えました。化け物。殺せ。捕まえろと。ずっと、怒号が鳴り響いていました。そしてその結果……」
オルファリアはそこで一拍置き、
「母様は人間たちによって、殺されてしまったのです……」
そう告げた彼女はついに泣き出してしまった。
ある程度、わかっていたことだったけど、改めて本人から直接聞くと、その衝撃は計り知れないものがあった。まったく無関係な僕ですらこんなにも胸くそ悪くて心が張り裂けそうになってしまうのに、それを目の前で、しかも幼かった彼女が目撃してしまったとしたら。
とてもじゃないけど、襲いかかってくる胸の痛みに耐えきれなかっただろう。
「リル……私たち幻生獣は幼い頃、自制心が利かないと言いましたよね?」
「そういえば、そんなこと言っていたね」
ザクレフさんのところに来る前にカャトが魔法をぶっ放したとき、確かそんなことを言っていた。
「あの頃の私もそうでした。致命傷を受けて、ただ目の前で死に逝く母様を見て、頭が真っ白になってしまいました。あのとき、今でも自分が何をしたのか覚えていません。ですが、気が付いたときには、私たちを探しにきてくれた村のみんながすぐ側にいて、そして、私を捕まえようとしていたはずの人間たちはすべて死んでいたのです。口から泡を吹き、身体中の毛穴という毛穴から大量に出血して……」
僕はそのときの光景を脳裏に思い浮かべ、妙な既視感を覚えた。そう。フランデルクにオルファリアが攻撃を加えたとき、あいつもまた泡を吹いていたような気がした。
「まさか……それって、もしかして……」
「……はい。おそらく私がやったのだと思います。幻生獣は幼少期、力を制御できず暴走しやすいと言います。母様は多分、いろんなことを考えて、力を抑えながら戦ったために全力を出せずに殺されてしまったのだと思いますが、暴走した私は――」
「――オルファリア。それ以上言わなくていい。もういいよ。十分だ。大体わかったから」
皆まで聞かなくても容易に想像できる答え。暴走した彼女は、その場にいたすべての人間を身体の内側から破壊して圧殺。皆殺しにしてしまったのだ。
その事実をあとで知った彼女が、どれだけ心を痛めたか計り知れない。憧れを抱いていた人間たちから受けた、悪魔のような仕打ち。裏切られ、大切なものを奪われ、争い事と無縁な人生を歩んで幸せな毎日を送っていたのに、一瞬ですべてが壊されてしまった。
しかも、仲良くしたいと思っていた人間たちを、彼女自ら皆殺しにしてしまったのだ。
いくら母を殺した憎い仇だったとしても、到底受け入れられる話ではないだろう。
いつか人間たちの隣に立って、お互いに笑い合って楽しく過ごしたいと思っていただけなのに、ずっと心の中で温め続けてきたその無邪気な思いを、人間たちの裏切りがすべてを破壊してしまった。しかも、止めとばかりに自らの手でもそれを壊してしまったのだから。
僕は、そのときに彼女が感じたはずのどうしようもない喪失感を想像し、胸が張り裂けそうになってしまった。
事件の概略は最初からわかっていたけど、実際に起こった悲劇の内容は、僕が思っていた以上に悲惨だった。だけど、それなのに彼女は……、
「ですが……リル……? 子供の頃はいろいろありましたが、それでも私は、人を恨んだりはしていないんですよ? だってそれが、亡くなる前の母様と交わした最後の約束だからです。『人を憎んではなりません。健やかに、そして心を強く持ちなさい。希望を持って願い続けていれば、きっといつかそれは叶う。それが、私たちナフリマルフィスの力だから』と。そう言い残して母様は旅立ちました。だから私は……決して人を……他人を恨まないと誓ったのです。たとえそれが危害を加えてくる敵であったとしても……! 私を殺そうとする相手だったとしても……! ですが……!」
次第に語気が荒くなってくる彼女。オルファリアは僕の肩から顔を上げ、僕の胸元を掴むようにしながら、横に座ったまま正面から見つめてきた。そのときに浮かべていた表情は、痛々しいほどに悲しみに満ちあふれていた。
「私は……私はっ……心の底から湧き上がってくる、黒い感情を抑えられなかった……! 母様の言いつけを守りたいのに、どうしても抑えられないの! 憎い! 悲しい! 攻撃してはダメ! 戦ったらまた私は人を殺してしまう! 亡くなった母様を悲しませてしまう! 裏切ってしまう! でも憎い! でも恨んではダメっ、誓いを破りたくない! だから……だから私は! 争い事なんかに関わりたくない! 他人を傷つけたくなんかないんです! 誰も死んで欲しくない! だってっ……みんなきっと……大切な人たちが……帰りを待っているはずだからっ……」
相反する矛盾した思い。幼少の頃に心に刻み込まれた決して消えない傷は、今もやはり健在ということなのかもしれない。
表面上は恨んではいないと自分に言い聞かせているけど、やっぱり人への憎悪が消えることは決してなかったということなのだろう。
自分の大切なものを壊す人間たちへの、抑えられない憎しみ。しかし、かつて自分が殺してしまった人間たちにも同様に、大切な人たちがいたかもしれない。
その思いが楔となって、強い罪悪感に襲われ続け、罪の意識が消えてくれない。しかも、大好きだっただろう母親との誓いもある。
そんな状態でずっと悩み、苛まれ続けた結果、争い事そのものが深い心の傷となって、彼女を苦しめ続けてきたということなのだろう。
「そうか……やっとわかったよ。オルファリアがなんでそんなに苦しんでいたのか」
泣き濡れた顔で不思議そうに僕を見る彼女に、これ以上ないというぐらい優しく微笑みかけた。
「決して逃れられない矛盾をはらんだいろんな思いが、ずっと君を苦しめてきたんだね。一人で胸に抱え続けることしかできなくて、本当に大変だったんだね。だけどね、オルファリア。もう、一人で抱え込まなくても大丈夫だよ?」
「リル……?」
どこかぼぉ~っとしたような瞳を浮かべているオルファリアに、軽く頷いて見せた。
「大丈夫。この先、もしかしたらオルファリアにとっては見たくない現実が目の前に飛び込んでくることもあるかもしれないけど、だけど、僕がいる。すぐ側に僕がいるし、みんながいる。だから、辛くなったり迷ったりしたら、その都度話してよ。何も抱え込むことなんかない。僕たちが……ううん。僕が全力で支えるから。僕がずっと守ってあげるから。だから何も心配せず、君は笑っていなよ」
そう語りかけた僕の言葉に何を感じたのかはわからない。だけれど、オルファリアは、
「リル……」
僕の名前を小さく呟くと、そのままおでこを僕の胸に預けるようにした。僕はそっと彼女の背中に左腕を回して抱きしめ、右手で頭を撫でてあげた。
僕たちはそのままの格好でしばらくを過ごしていたけど、
「リル……」
「うん?」
「……正直、私はまだ迷っています。争い事を回避する方法があるなら、そうしたいって。ですが、あなた方と行動するためには避けて通れないことも自覚しています。ですから、私にできる範囲内で、協力したいと思います。たとえそのせいで、誰かを傷つけることになったとしても……」
彼女はそう、声を詰まらせながらも決意を表してくれた。
「そっか……」
「はい……」
オルファリアはその後、沈黙して動きを止めてしまったけど、
「しばらく、こうしていてもいいですか?」
そう言って顔を上げた彼女は、僕の背中に両腕を回して抱きついてきた。必然的に彼女の柔らかいものが胸に当たり、その押し潰されるような感触に危うく昇天しかけたけど、
「うん。いいよ」
僕は表面上、極めて冷静に対応し、同じように抱きしめてあげた。
「温かい……どうしてでしょうか? 以前、リルに私を守ると言われたときからずっと、胸の辺りがぽかぽかしているような、不思議な感覚に包まれていたんです。とても幸せな気持ちになれる温かさ。こうしていると、それがより強く感じられます」
彼女はそこまで言って身体を離した。
「リル、これってなんでしょうか? これはどういう気持ちなのでしょうか?」
「え、えっと……」
多分だけど、僕と一緒だよ、などとは口が裂けても言えなかった。そんな洗脳教育まがいの図々しい真似してまで、彼女に好きになってもらいたいとは思わない。だけど、
「多分、安らぎじゃないかな」
これぐらいは許されるだろう。
「安らぎ……ですか?」
「うん。安心できる場所を見つけて、ほっとしてるんだと思うよ」
「そういうものなのでしょうか?」
「うん、多分」
適当に誤魔化す僕にきょとんとしていた彼女だけど、
「そうですか。そうですね。確かに以前よりも大分、心穏やかになれたと思います」
「そっか、だったらよかった」
「……はい」
「だけど、そっか。僕が側にいても安心してもらえてるんだね。本当によかったよ」
「えっと……リル? それはどういう意味でしょうか?」
「え……? いやだってほら。僕はこれまで、いろいろオルファリアに嫌われてもおかしくないようなことばかりしてきたでしょ? 石碑のところとか廃村遺跡とかで」
争い事の嫌いな彼女の前で、大暴れしてきた僕。
それを誤魔化すために、あははと乾いた笑い声を上げてみたけど、僕が何を言いたかったのか理解したようで、オルファリアはなぜかいきなり眉を吊り上げた。
「リルのこと、嫌いになるはずないじゃありませんかっ。わたしはあなたとともにありたいと、そう思っています!」
見たこともないぐらい頬を膨らませる彼女。右手まで頭の上に掲げ、僕を殴るような仕草を見せてくる。そんな可愛らしい反応に思わず笑ってしまった。
「ご、ごめん! 謝るから許して!」
「許しません! しばらくそうして、反省していてください! それから二度と、私が嫌っているだなんて、悲しいこと言わないでください!」
なんとなくだけど、本気で怒ってしまったらしい彼女は、そのまま足早に歩き去ってしまった。
僕はそんな消えた彼女の幻影をいつまでも眺めながら、
「だけどオルファリア。僕のこと、そう思ってくれてるってことは、既に答え出てるんじゃないかな……? 君の胸の中にあるものがなんなのか」
彼女が去り際に言い残した言葉を反芻し、僕は胸の鼓動が早くなるのを感じるのだった。
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