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第八章 項羽





 韓信は劉邦からの書状を見て大いに喜んだ。

 自分も王になったと……。

 そして劉邦に命をかけて尽す事を誓った。

 英布、彭越も同様に漢軍に下る事を約束した。






 項羽軍は、各地に存在する漢軍を相手にどんどん消耗していった。

 しかしその項羽は劉邦の首級と虞美人の救出に躍起になっていた。

 彭越、英布、韓信の働きで項羽は徐々に真綿で首を絞められる様に苦しい戦いになっていったのである。






 漢軍は黄河付近のある山中で、項羽軍が来るのを待っていた。

 英布の軍勢が項羽軍をその方向に追い込んだのである。

 その上に項羽軍の補給路は彭越によって完全に断たれていた。


 西側の山に漢軍、東側の山に項羽軍が陣取った。

 早期に決着を付けたい項羽と、持久戦に持ち込み、消耗させたい漢軍の睨み合いが始まったのであった。






 項羽軍はそこに辿りついた時には既に食糧も乏しく、覇気もなかった。

 しかし項羽は虞美人を助けたい一心でそこまで来たのだった。


 両軍の間には大きな谷があり、直接攻撃出来ない地形であった。

 そのため両軍は、その谷を挟んで罵りあう日々を送った。


 その間に項羽軍の食糧は底を付く。


 漢軍は咸陽から絶え間なく送られてくる物資を山と積んでいた。

 すべて蕭何の采配だった。

 咸陽では兵の鍛錬も行われ、漢王劉邦の命令さえあれば、いつでも援軍を送れる万全の状態であった。


「漢王」


 張良は劉邦に声をかけた。


 劉邦は幕舎の中で椅子に座り、目を閉じていた。

 劉邦は毎晩行われる醜い罵りあいに飽き飽きしていた。

 その打開策考えていた。


「張良か……。どうした」


 劉邦は目をゆっくり開けて張良を見た。


「はい。近々、項羽は夜襲を仕掛けてくるでしょう」


「確かか……」


 劉邦は上体を起こす様に座り直した。


「はい。そろそろ食糧が切れた頃だと思われます。もう項羽には後がありません」


「そうか……。しかしこちらは虞美人を擁しておる。無茶は出来んだろう」


 劉邦はゆっくりと立ち上がり、幕舎の入口から向こう岸の項羽軍を見渡した。


 項羽の軍は遠目に見ても覇気がなく、静まり返っていた。


「張良。俺はあの項羽を討つ事が出来るのだろうか……」


 劉邦はその言葉が口癖の様になっていた。


「はい。必ず討つ事が出来ます」


 張良はゆっくりと劉邦の傍へ歩み寄った。


「不思議なモノだな……。お前にそう言われると本当にそう思えてしまう」


 劉邦はチラリと張良を見て言った。


「漢王……」


「張良。お前の采配で夜襲に備えろ。必ず項羽を討つのだ。そして……」


 劉邦はそう言うと自分の椅子に戻った。


「俺は天下を取る」


 そう呟く様に言った。






 その前日、項羽の軍では密かに軍議が行われていた。

 項羽の軍には范増無き後、項伯がその全軍を仕切っていた。

 その日の軍議も項伯を中心に行われていた。


「項王。この谷は漢軍を攻撃するのに不利でございます。我が軍は疲弊し、食糧も乏しい。このままいたずらに時を費やせば、我が軍の敗北は火を見るより明らか……」


 項伯は項羽の前で、身振り手振りで言った


「そんな事は言われずとも分かっておるわ。お主になにか策があるのか」


 項羽は腕を組んだまま、項伯に聞いた。


 項伯は項羽に歩み寄り、卓の上に周辺の地図を広げた。


「こちらをご覧ください」


 その地図は、この項羽と劉邦が陣取る広武山が描かれていた。

 項伯は幾つかの色の塗られた石をその地図の上に並べる。


「現在、この様な布陣になっております。この東広武と西広武の間にある谷を越えて攻撃するのは、到底無理でございます」


 項羽の軍と劉邦の軍の間には大きな谷があり、その谷を越えて攻撃を仕掛ける事は出来なかった。


「この谷は深く、橋をかけて攻め込む事も出来ません」


「分かっておる。どうしろと言うのだ。このまま罵り合うだけではこちらに不利だ」


 項羽は立ち上がり、地図を覗き込んだ。


「項王には、この陣を守りながら、漢軍を攻めて頂きたいのです」


 項羽は項伯の顔を覗き込んだ。


「何を言っておるのだ……」


「鍾離昧殿」


 項伯は鍾離昧を呼んだ。


 鍾離昧は軍議の席に座っており、項伯に呼ばれるとゆっくりと立ち上がった。


「はい」


 鍾離昧は項伯と項羽の立つ場所へ歩み寄った。


「皆はどう思う。項王と鍾離昧殿は背丈も体格も似ていると思わんか……」


「言われてみればそっくりじゃな」


「確かに。声も似てるしな……」


「闇夜だとわからん事もあるからな……」


 などと口々に囁き出した。


 項伯は鍾離昧が項羽と背格好も似ている事から、この策を思いついたのだった。


「鍾離昧殿には項王としてこの陣から漢軍相手に声をかけて頂く。その間に項王は間道を抜けて、漢軍が陣取る西広武の裏手より夜襲をかけて頂きたいのです」


 項伯はそう言うと項羽に頭を下げた。






 その夜。

 夜陰に乗じて項羽は陣を抜け出した。


 夜の間道は険しく、谷に落ちる者などが続出した。

 しかし、項羽とその精鋭は翌日の夜襲に間に合うように、東広武から西広武へ移動したのだった。







「時間だな……」


 項伯は椅子から立ち上がり、幕舎を出た。


「松明をつけろ」


 項伯がそう言うと項羽陣営は数万本の松明で照らされた。

 その中央には項羽が立っていた。







「漢王。項羽の陣に明りが灯りました」


 そう言って慮綰が走り込んで来た。

 慮綰も劉邦が沛で旗揚げした当初からの仲間だった。


「そうか……。懲りもせずによくも……」


 劉邦は先程の張良の言葉を思い出し、脇に置いた兜を被った。


「よし、こちらもありったけの松明に火をつけろ。真昼の様に陣を照らすのだ。弩弓兵を並べろ。今日こそ決着を付けてやる」


 劉邦は腰に剣を帯びた。






「良いか鍾離昧。こちらが擁しておる劉邦の父を前面に晒す。それで向こうも容易に弓を撃つ事は出来まい」


 項伯は鍾離昧にそう説明した。


「人質を出せ」


 項伯のその言葉は陣内に響いた。

 ゆっくりと板に縛られた劉太公を晒した。


「鍾離昧……」


 項伯がそう言うと、鍾離昧は小さく頷いた。


「劉邦。聞こえるか」


 鍾離昧は大声で言った。

 その声は項羽の声の様にも聞こえた。


 劉邦はその声を聞いて幕舎を出た。

 東広武には劉邦の父、劉太公が数万本の松明に照らされていた。


「オヤジ……」


 劉邦は足早に前面に出て言った。


「おのれ……項羽め……」


 そう小さく呟いた。


「劉邦。これが誰だかわかるか」


 項羽に扮した鍾離昧はそう言った。


「漢王。如何致しますか……」


 劉邦の周囲でその様な声がした。


「騒ぐな」


 そう言うと劉邦はゆっくりと腕を組んだ。

 そして、


「どこかで見た老いぼれだな。もう誰だったか忘れたわ」


 劉邦は大声で言うと笑った。


「お主は自分のオヤジの顔も忘れたと言うのか。老いぼれたのはお主ではないのか」


 鍾離昧もそう言うと笑った。

 それに続いて項羽の兵も笑い出した。


 劉太公が縛られた丸太の横に、煮えたぎる鍋が運ばれてきた。


「そなたの返事次第では、お前のオヤジをこの鍋で煮てくれるわ」


 鍾離昧は声を枯らしながら対岸に立つ劉邦にそう言った。


 劉邦は額に汗を流しながら、


「おう。その汁が出来たら、俺にも一杯振舞ってくれや。しかし俺とお前は義兄弟の契りを結んだ仲だ。その老いぼれはお前のオヤジでもある。それでも煮殺すか」


 鍾離昧は慣れない項羽の兜を手で直した。


「知った事か。懐王との約束など塵芥の様なもんよ」


 鍾離昧はそう言うと手を大きく挙げた。


 その鍾離昧の手を合図に漢軍の後方より鬨の声が上がった。


 劉邦は驚き振り返った。

 そこには馬に跨った項羽の姿があった。


「漢王。項羽でございます。項羽が背後より夜襲を……」


「張良……。そなたは鬼人か……」


 劉邦はそう呟き、剣を抜いた。


「ええい。狙うは項羽の首ただ一つ。怯むな。迎え討て」


 劉邦はそう言って先頭に出た。


「劉邦。劉邦はどこだ」


 項羽は立ててある松明をなぎ倒し、劉邦の陣営の中心に踊り出た。


「百姓。出てこい。この項羽が相手だ」


 項羽の愛馬、騅は火をも恐れずに漢軍へ突っ込んでくる。


「項羽」


「劉邦」


 項羽と劉邦、お互いがお互いを見つけた。


「劉邦」


 次の瞬間、項羽はそう叫びながら剣を構え、騅から飛び降りる様に劉邦めがけて切りかかった。

 その剣を劉邦は自分の剣で受けた。


「ほう。儂の剣を受け止める事が出来る様になったか……。成長したモンだな」


 項羽の剣と劉邦の剣はギシギシと音を立てる。


「お前が老いぼれたんじゃないのか……項羽」


 劉邦はそう言うと項羽の剣を弾き飛ばした。

 項羽と劉邦は剣を構え睨み合った。


「劉邦……」


「項羽……」


 その二人を囲む様に両軍が集まった。


「項王」


「騒ぐな。こいつは俺が斬る」


 項羽は劉邦を睨んだままそう言った。


 漢軍は項羽に向けて槍を構えていた。


「お前たちも騒ぐな。こいつとは決着を付けなければならぬのだ……」


 周囲は静まり返っていた。


「劉邦。貴様は何故、俺に刃向かうのだ……」


 項羽は剣先を小さく揺らしながら言う。


「教えてやろうか……。お前が嫌いなのさ」


 劉邦はそう言って項羽に斬りかかった。


 今度はそれを項羽が受け止めた。

 再び二人の剣が軋む。


「天下の安泰を望むのは、同じ気持ちだったのではないのか……」


 項羽は劉邦を弾き飛ばした。


 そしてまた二人は剣を構えて立つ。


「お前は天下の安泰など望んでいない。お前が天下を取ったとしても、民草は始皇帝とお前の違いには気が付かない筈だ」


「俺があの始皇帝と同じと言うのか」


 項羽は足先をジリジリと劉邦の方へ滑らせた。


「鏡を見てみろ。同じ顔をしているぞ」


 劉邦はそう言うと再び項羽に斬りかかった。


 今度は数度、剣と剣がぶつかる音がした。


「ならば死ねい。百姓め」


 項羽は劉邦に向けて剣を振り下ろした。


「お前こそ、地獄に帰れ、鬼めが」


 劉邦は項羽の喉を目がけて剣を突いた。


 その瞬間を両軍の兵は息をするのも忘れて見ていた。

 周囲に音は無く、項羽と劉邦の息遣いと剣の交わる音だけが響いていた。


 二人の剣はお互いの寸前で止められた。


 劉邦の剣は項羽の喉の寸前で、そして項羽の剣は劉邦の兜の寸前で……。


「何がお前の力をそこまで奮い立たせるのだ……」


 項羽はニヤリと笑って言った。


「お前こそ、何故ひと思いに剣を振り下ろさない」


 劉邦も同じ様に笑った。


「次は手加減せぬぞ」


「それは俺のセリフだ」


 劉邦と項羽は、お互いに少し後ろに下がる。

 そして再び剣を握り直した。


「この先の世に、お前の様な鬼は必要ない」


 劉邦は項羽に剣先を向けた。


「黙れ百姓。力だ。この世を治めるには力しかないのだ」


 項羽も剣を劉邦に向けた。

 二人の額には汗が滲んでいた。


「その首級。この項羽が貰い受ける」


 項羽は劉邦に向けて剣を振り上げた。


 その時だった。


「項羽」


 そう叫ぶ声がした。

 項羽はその声の方を見る。


 張良だった。

 張良が虞美人を抱き、その虞美人の喉元に短剣を突きつけていた。


「虞……」


 項羽は怯んだ。

 その意識をすべて虞美人の方へ向けたのだった。


 その瞬間に斬りつければ劉邦は項羽の首を取る事が出来た。

 しかし劉邦は動かなかった。


 項羽を囲む、漢軍がその瞬間に項羽に槍先を向けた。


「やめろ」


 その漢軍の槍先は劉邦の一言で止まった。


「大人しく武器を捨てて、立ち去りなさい。さもないと虞美人の命はありませんよ」


 項羽の形相は瞬間的に変わった。

 顔を真っ赤にして怒り狂った顔になった。

 その顔はまさに鬼であった。


「何と卑劣な……」


 項羽はそう言うと、剣を持つ手を震わせた。


「劉太公を人質に取っているあなたと何が違うのですか。こちらは虞美人を丁重に扱っている。そちらはあのように劉太公を縛り付けているのです。卑劣呼ばわりされる事は微塵もありません」


 張良はそう言うと更に虞美人の喉元に剣を近づけた。


「どうしますか。虞美人の命……ここで終わらせますか」


 項羽は唇を噛んだ。

 その唇からは血が流れ出した。

 そして項羽は剣を地面に突き立てた。


 その剣は項羽が今まで斬ってきた人の血糊で黄金色に光っていたという。


「劉邦よ……。今日のところは引いてやる。その代わり次に直接剣を交える時は、貴様の最後だと思え……。よく覚えておけ……」


 項羽はそう言うと騅に飛び乗った。


「退却する」


 項羽の太い声は夜空に響いた。


「皆の者。楚軍に手を出すな」


 劉邦はそう言うと項羽の剣を地面から抜き、項羽に投げた。


「そんな呪われた剣を置いて行くな。お前が斬った人間の怨念の匂いがする……」


「貴様を斬るために磨いておくわ……」


 項羽はそう言うと馬の腹を蹴った。


 劉邦は立ち去る項羽の背中をずっと見ていた。






 項羽の軍勢は翌日の夕刻、陣に戻った。

 一睡もせずに陣に引き返したのだろう。


 その様子を張良は見ていた。


「漢王。今、項羽は陣へ戻りました」


 張良は寝台で横になる劉邦の傍に膝をついて報告した。


「本当に帰ったのか……」


 劉邦は上体を起こし、そう言った。


「項羽なら帰るでしょうな……。虞妃がいる限り下手な手出しは出来まい……」


 そう言って張良の横に現れたのは范増だった。


「范増。そなたの入れ知恵か……」


 劉邦は鼻で笑った。


「時と場合によっては女子も強力な武器になるのですよ……」


 范増は張良の横にあった椅子に座った。


「虞美人はどうした」


 劉邦はそう言うと寝台から足を下ろした。


「はい。ゆっくり休んでおられます」


 張良は頭を下げた。


「大事な人質だからな……丁重に扱え」


「はい」


 張良は顔を上げた。

 そして、


「漢王。この際、劉太公と虞美人の人質交換をなさってはいかがでしょうか……」


 張良は范増を見た。


 范増は、


「儂はなにも言わん。この軍の人間ではござらぬよって……」


 そう言うと天井を仰いだ。


「父上を見殺しにしたとなると、後々の漢王の名を汚す事になるでしょう。早目に虞美人と劉太公を……」


 劉邦は寝台の横の卓の上に置いた器で茶を飲んでいた。

 その手が張良の言葉で止まった。


「張良……。後の……と申すが、その様な事で俺はあの鬼に勝てるのか」


 劉邦は立ち上がった。


「もう楚軍に食糧はありません。自滅も時間の問題です」


 楚軍の後方は韓信や彭越らに押さえられ、援軍どころか食糧物資の運搬も出来てなかった。


「自滅か……」


 劉邦は幕舎の入口を開けて、明かりのついた対岸を見た。


「俺には想像出来んのだよ。あの項羽が自滅する事など……。項羽は初めて見た時から鬼だった。鬼神というに相応しい男だった。秦帝国を滅ぼすまで……味方である内はそれで良い。しかし、いざ、あの男を敵に回すと……おっかねえ……。俺は項羽を敵に回してから一日たりとも熟睡した日がない。韓信は自分の腕が項羽に匹敵すると嘯いていたが、あり得ねえ。あの英布でさえ項羽には敵わないだろうよ……」


 劉邦はそう言うと振り返って張良を見た。


「それでもお前は俺があの項羽に勝てると言うのか……」


 張良は微笑んで、劉邦の横に立った。


「漢王。私もそう思っておりました。漢王があの項羽に勝てる訳がないと……。しかし、違ったのです。戦は力でその瞬間の形勢を変える事は出来ます。しかし、勝ち負けは別の話なのです。漢王が項羽に九十九敗しても最後に一勝すれば良いのですよ」


 張良も対岸の明かりを見ていた。


「最後に一勝か……」


「はい」


 劉邦は腕を組み対岸を睨む様に見た。

 そこには一度も勝てなかった項羽がいる。

 その気迫が対岸の炎の様だった。


「張良」


「はい」


 張良は劉邦を見上げるように見た。


「矢文を撃て。項羽と話がしたいとな……」


 劉邦の視線はじっと対岸を見つめたままだった。


 張良は早速文をしたため、矢文を対岸に撃たせた。







「項王。漢軍より矢文が参りました」


 警護を任されていた鍾離昧が項羽の幕舎に飛び込んで来た。


「読め」


「はい」


 鍾離昧は矢にくくられた革の文を開いた。


「漢王、楚王と会談をしたく文を送る。応じるのであれば項王を照らす松明を準備し、兵を後方に引かれたし」


 項羽はゆっくりと立ち上がった。


「劉邦……。何を考えておるのだ……」


 項羽は呟く様に言った。


「夜陰に乗じ、項王を狙撃するつもりなのではないでしょうか……」


 鍾離昧はそう言うと文をたたんだ。


「なるほど……。そういう事か……。ならば……」


 項羽は急いで鎧を付けた。


「鍾離昧、我が軍で一番弩の腕が立つのは誰だ」


「はい。江東の黄郭という者でございます」


「ほう。知らぬな……。その男を北の物陰に潜ませろ。儂の合図で劉邦を先に狙撃するのだ。良いか、矢には河豚の毒を塗れ。かすり傷でも劉邦の命を奪える程のな……」


 項羽はそう言うと壁に立てかけてあった剣を手に取った。

 劉邦が言った様に、その剣は人の血で黄金色の光を放ち、項羽が斬った敵の怨念がこもっている様だった。


「劉邦。今夜がお前の最後だ……」


 項羽はそう言うと幕舎を出て行った。






 明け方近くに項羽の陣に煌々と松明が準備された。

 それを見て張良も松明を準備した。

 項羽を照らし出す様に立てられた松明と違い、劉邦を少しでも大きく見せるために、劉邦の後ろに張良は松明を立てた、これも兵法なのだろう。


 両岸に立てられた松明は辺りを昼間の様に照らした。


「楚王項羽である。漢の王を名乗る百姓よ。儂に何の用だ」


 項羽は大声でそう言った。


「今度はホンモノだろうな……。貴様の様に不意打ちをするしか能のない男には呆れておるからな……」


 劉邦がそう言うと漢軍は一斉に笑った。


 その笑い声に項羽はムッとして劉邦を睨んだ。


「本当の事を言われて怒ったか。気の短い男だの……」


 劉邦が言うと再び漢軍は笑う。


「貴様ほど、暇ではないのだ。要件を言え」


 項羽の野太い声は、少し離れた対岸にいる者にもよく響いた。


「ほう。蕎麦でも植えるのか。そりゃ忙しいな……」


 再び漢軍からは笑い声が聞こえる。


「貴様、これ以上愚弄すると……」


 項羽のその声を劉邦が遮る。


「おっと、今日はお前を怒らせるつもりはないのだ」


 劉邦はそう言うと手を挙げた。

 奥から虞美人が張良に連れられてやってきた。


「虞……」


 虞美人の姿を見て、項羽は表情を変え、無意識に前に出た。


「項王。危のうございます。お下がり下さい」


 脇に控えていた鍾離昧が小声でそう言った。


「虞美人はお前のところには帰りたくないと言っておる。しかし、お前がどうしてもと言うのであれば、帰してやろう」


 項羽の耳にその劉邦の声は既に入っていなかった。


「どうだ項羽。その場に跪き、俺のオヤジを返し、軍を引く事を約束するのであれば、虞美人はくれてやる」


「おのれ劉邦……」


 項羽の奥歯はこの劉邦のせいで確実に磨り減っていた。

 その様子を見ていた鍾離昧も項羽と同じ様に怒り狂っていた。


 ここまで項王を怒らせる男……許さん……。


 鍾離昧は、北の物陰に隠れる黄郭に弩を放つ合図を出した。


 次の瞬間、劉邦を狙撃するために構えていた黄郭は矢を放った。


 その矢は正確に劉邦の胸を捕えた……かの様に見えた。


「鍾離昧」


 項羽はその劉邦を捕えた矢を見て怒鳴った。


 劉邦を今撃つと虞美人の命にも危険が及ぶ。

 咄嗟にそう考えたのである。


「貴様」


 項羽は鍾離昧に掴みかかった。


 辺りは静まり返った。

 しかし劉邦は倒れる事も無く、対岸に立ったままだった。


 項羽はゆっくりと対岸の劉邦を見た。


「また不意打ちか。お前らしいな項羽。しかし、お前の軍には矢一つまともに撃てる奴もおらんのか。少し指を掠ったわ」


 劉邦はそう言うと大声で笑った。


「指を……掠った……」


 項羽はニヤリと笑いそう呟いた。


「指を掠ったのだな……」


 その矢には河豚の毒が塗られており、掠っただけでも死に至る程だった。






 劉邦は項羽の立つ対岸を睨みつけたまま立っていた。

 後ろに立っていた張良はその劉邦の胸に矢が突き立つ瞬間を見ていた。


「漢王」


 張良は劉邦に走り寄ろうとした。

 しかしその張良を劉邦は制した。


「騒ぐな。敵に気づかれる……」


 劉邦は小声で言った。


「今日はこのくらいで勘弁してやろう。俺に跪く気になったらいつでも言ってこい」


 そう言うと劉邦は振り返り、颯爽と歩いて自分の幕舎へと入って行った。


「おのれ……劉邦」


 項羽は拳を強く握って、去りゆく劉邦を見ていた。

 項羽の両手の爪は手の平に食い込んでいた。


 胸に矢を突き立てた劉邦は、幕舎に入った瞬間に崩れる様に倒れた。


「漢王」


 張良は歩み寄る。


「軍医を呼べ」


 そう言うと馬式はすぐに走って行った。


 劉邦の胸に突き刺さった矢は浅かったが、その矢尻にはギラギラと光る毒が塗られていた。

 それは張良が見てもわかった。


「いかん……」


 張良は劉邦の鎧を脱がせ、劉邦の胸の傷から毒を吸い出した。

 劉邦の周囲には沛の時代から一緒に戦ってきた仲間が集まって来た。


 その仲間を割って駆け寄る者がいた。

 魏粛である。


「張良殿。早くこれを……」


 そう言って魏粛が張良に渡したのは一粒の萬能丹だった。


「魏粛殿」


 魏粛は傍らに投げ捨ててあった劉邦の胸に突き刺さっていた矢の先を見た。


「この毒は河豚の毒です。迷っている暇はありません。早く。早く漢王に」


 魏粛はそう言うと劉邦の寝台の脇にあった水の入った器を取り、劉邦の口にあてがった。


 張良も手に持った萬能丹を劉邦の口に押し込む様に放り込んだ。


 劉邦の息は荒く、全身から汗が噴き出していた。







「植物の毒と違い、河豚の毒は確実に命を奪います」


 黄郭は項羽の前に跪いていた。


「そうか……。これで劉邦は死ぬのだな……」


「おそらく……」


 鍾離昧と項伯もその場に立っていた。


「しかし……。黄郭ともあろう者が矢を外すとはな……。よほど劉邦は強い運を持っておるのだろう……」


 鍾離昧は笑った。


「本当に外れたのでしょうか……」


 黄郭はそう言うと鍾離昧を見た。


「河豚の毒を塗った矢を突き立てたまま、あんなに話は出来んだろう……。まあ良い。今頃劉邦は高熱に襲われ苦しんでおる」


項羽は酒を飲んだ。


「明日が劉邦の葬式かもしれぬな……」


 項伯はその項羽の言葉を聞いて、項羽の幕舎を出た。

 歩きながら、対岸の劉邦の陣を見た。


「毒矢を使うなど、武士としてあってはならぬ事ではないのか……項王……」

そう呟いて再び歩き出した。






 その日、劉邦の幕舎は煌々と照らされていた。

 毒のせいなのか、萬能丹のせいなのか、苦しむ劉邦を皆が見守っていた。


「この薬か……。私が飲んだ薬は……」


 范増はそう言うと劉邦の横に座った。


「ええ。この苦しみに耐え切れず死んでいく者もおります」


 張良は劉邦を見守りながらそう言った。


「天下を取る男は、こんな苦しみ如きには負けぬか……」


 范増はニヤリと笑った。


「はい。漢王は必ずや戻って参ります」


「ふん……。この百姓。どこまでもしぶとい男よの……」


 そう言って范増は立ち上がった。


「心配いたすな。この私でも絶えた苦しみじゃ……。この男なら必ず乗り切るだろう……。天下を取るために生まれてきた男じゃからの……」


 范増は張良の肩を叩き、幕舎を出て行った。






 魏粛は無数の星が光る空を見ていた。

 あの時咄嗟に魏粛の身体は動いた。

 萬能丹を自ら飲ませようと思えた唯一の人間。

 それが劉邦だった。

 劉邦には生きていて欲しかった。

 長い間苦しみ続けた民草を守る事の出来る男は劉邦を置いて他にはない。

 そう思ったのだ。


「魏粛とか申したな……」


 魏粛は背後から声をかけられて振り向いた。

 そこには范増が杖を突いて立っていた。


「范増殿……」


 范増はゆっくりと魏粛の横に来て、空を見上げた。


「あの薬……。仙人丹らしいのう」


「はい」


「何の躊躇いも無く劉邦に飲ませたようじゃの……」


「はい」


「死ぬかもしれぬのに……何故じゃ……」


 范増は魏粛を見た。


 魏粛は再び空を見上げた。


「漢王は希望です。次の世を切り開くための希望なのです。その漢王をたかが毒矢などで失う訳には参りません」


 魏粛は范増にゆっくりと視線を移した。


「范増殿に、漢王はそうは映りませぬか」


「私にはわからん。私はあの百姓を何度も殺す様に項羽に命じた男よ……」


 そう言って歩き出した。


「項羽は強い。劉邦には勝てぬだろう。しかし、劉邦も強い。項羽が逆立ちしても持つ事の出来ぬ強さを持っておる。項羽の強さと劉邦の強さ……。次の世がどちらを望んでおるか……。私は静観させてもらう事に致そう。もう血生臭い事は飽き飽きじゃ……」


 そう言うと振り返り、


「張良によろしく伝えてくれ……。もちろん。漢王にもな……」


 范増は暗闇の方へ歩き出した。


 その范増の後ろ姿を黙って魏粛は見送った。

 もう二度と会う事はない。

 それを確信しながら……。






 劉邦は翌日の夜遅くに目を覚ました。

 劉邦も萬能丹を飲み、その苦しみに耐え、生き伸びたのだった。


 劉邦を取り巻く人々は大いに喜んだと言う。

 しかし、河豚の毒が完全に抜け、劉邦が起き上がれるまでその後三日を擁した。


 その三日目の夜の事だった。


「張良」


 劉邦は床に伏したまま、張良をか細い声で呼んだ。


 張良はすぐさまその声に気づき、劉邦の傍に駆け寄った。


「はい。何でございましょう」


 膝を付き、劉邦の口元に耳を近づける。


「項羽に和睦を申し入れよ。滎陽を境に西と東で漢と楚。その両国が並立出来る様に交渉するのだ。それで一先ず漢の国を保つ事は出来る。虞美人とオヤジの人質交換を持って、和睦とする。場所は任せる。両軍軍師以下二十名の側近者をもって会談を行う。そう伝えよ。項羽も苦しい……。必ずやこの話に乗って来るだろう……」


 劉邦は息を切らしながら言った。


 張良は何も言わずにただ頷いた。


「張良」


 劉邦は再び張良に声をかける。

 声にならぬ程の小さな息で、張良の耳元に何かを語った。


「承知致しました」


 張良はそう言うと、足早に劉邦の幕舎を出て行った。


 周囲にいた側近たちにはその声は聞こえなかった。






 呂赫は咸陽の屋敷で薬を調合していた。

 ゴリゴリという石臼の音だけが部屋に響いている。

 その呂赫の戸を叩く音がした。


「ごめんつかまつる。誰かおられるか」


 そんな声がした。


 呂赫を訪ねる者など、そうそういる訳ではない。

 呂赫は手を止める事も無く、ゴリゴリと石臼を挽いていた


「誰じゃ」


 呂赫は部屋の中からそう返事をした。


「祭承と申す者でございます」


 部屋の外にいた男はそう名乗った。


「祭承。ほう祭傳の息子だな……。戸は開いておる入るが良い」


 呂赫は淡々と言う。


 祭承はゆっくりと戸を開けた。


「どうした。こんなあばら家に。お主は江南へ行ったのではなかったのか」


 呂赫は祭承を見る事も無く言った。


「はい。お久しぶりでございます」


 祭承は戸を閉めて、呂赫に頭を下げた。


「その昔、お前が儂の言う事を聞いて、あの楠の下で眠った結果がもうすぐ出る。劉邦……いや、漢王は天下を取るだろう。お前が作った歴史だ」


 呂赫は薬草を挽く手を止めなかった。


「いえ……。私はそうは思いません。この世に萬能丹があろうが無かろうが、人々が望むこの世は、人々が望む様にしかならないのです……。そう思います」


 祭承はその場に立ったままそう言った。


「変わらぬ奴よのぉ」


 呂赫は初めて手を止めた。


「お前が萬能丹を託した男。あの男はちゃんとお前の意志を受け継いでおる。良い弟子を持ったな……」


「ありがとうございます」


 祭承は深々と頭を下げた。


「萬能丹は歴史の表舞台と裏舞台の両側に存在する。使い道を間違う者も今後出て来るであろう。人の命や歴史は、本来一粒の薬などでどうこうして良いモノではない。そうは思わぬか」


 呂赫はゆっくりと祭承を見た。


「左様でございます」


 祭承は目に涙を溜めていた。


「ほう。やはりお前が祭傳に一番似ておるな……。良い男になったな」


 呂赫はそう言うと立ち上がった。


「茶を入れさせる。その辺に座れ」


 呂赫は女中を呼んだ。


「ところで祭承。お前は自害用に一粒、萬能丹を持っておるだろう」


 祭承は茶をすする手を止めた。


「やはりな……。お前の事だ。もし萬能丹が間違った使い方をされた時に責任を取って自害するために持っておるだろうと思ったよ……」


 呂赫はゆっくりと茶をすすった。


「呂赫様……」


「よい。だがな、人は死んでも償う事にはならんのだ……。しかし、もうそれも必要ないであろう」


 祭承はその言葉に微笑んだ。


「そうですな……」


「儂もお前も老いた。そろそろ肩の力を抜いて余生を楽しもうではないか……」


 呂赫はいつかの様に笑った。


 その後、祭承は呂赫の屋敷を後にした。

 その呂赫の屋敷には小さな革の袋に入った一粒の萬能丹が残されていた。







「では、滎陽を境に西を漢、東を楚と定め、両国一切の干渉をしない。そういう協定で和睦と致します」


 張良は両側に並んで座る漢軍と楚軍の前で書状を読み上げた。


「劉邦……。いや……漢王。そなたの首級が取れなかったのは残念だか、これからはお互い干渉せずに、自国を盛り立てて行こうではないか」


 項羽はそう言うと盃を掲げた。


「ふん。お前こそ、蛮族に首を欠かれん様に気を付けるんだな……」


 劉邦も盃を掲げて一気に酒を飲み干した。


 その後、楚軍からは劉邦の父である劉太公、漢軍からは項羽の正室と言われる虞美人が連れ出され、人質の交換が行われた。


 これで平和が訪れたかの様に思われた……。






 劉邦は陣に帰るや否や大声を張り上げて張良を呼んだ。


「張良」


「はい」


 張良は劉邦の傍に駆け寄った。


「準備は整っているか」


「もちろんでございます」


 張良は頭を下げてそう言った。


「よし。ではこれから楚軍を追う。今度こそ全滅させるのだ」


 劉邦の側近たちは驚き、声を失った。


「漢王……。何を……」


「今、和睦を結んだところではありませぬか……」


「それは人の道に反します」


 口々に側近たちは言う。


 もう皆、戦に疲れていたのであろう。

 これで平和が訪れた。

 そう思いながら和睦を結んだのだ。


「少しは考えろ。項羽は楚に帰り、力を付けるとすぐにまた漢に押し寄せるだろう。そうなると二度と楚を討つなどという事は出来ない。天下統一など夢物語となってしまう。俺は初めからそのつもりよ……」


 劉邦は自分の椅子にドカッと座った。


「陳平。そなたは各諸候に檄を飛ばせ。項羽を討つ事に協力した者はそれぞれ領土と王の称号を与える。褒美は惜しまぬ。すぐに合流せよとな……」


陳平も呆気に取られていたが、ふと我に返り、


「はい。すぐに準備いたします」


「蕭何にも連絡せよ。咸陽よりありったけの物資と兵をこちらに回せとな」


 劉邦はいつになく興奮していた。


「これですべてを終わらせるのだ。楚を討ち平和な世を作る……」






 一夜にして破られた和睦協定。

 その翌日から執拗なまでの楚軍への攻撃が始まった。

 食糧も無く、退却途中の楚軍は呆気なかった。


 徐々にその楚軍の数は減り、項羽が垓下城に入った時には七万の疲れ果てた兵が残っているだけだった。

 その垓下城に逃げる様に入った楚軍を、劉邦は、韓信、英布などと合同し八十万を超える兵で攻めた。


 しかし百戦錬磨の項羽である。

 その兵力の差に動じる事も無く、漢軍を迎え撃つ。


 その戦いは三日三晩続いたと言う。

 項羽は七万の兵で漢軍三十万の命を奪ったのである。






 項羽はその夜、垓下城で月を見ながら酒を飲んでいた。

 兵たちも疲弊し、ただ夜が明けるのを待っていた。


 項羽は脇に虞美人を座らせ、疲れのせいか、いつもより少し酔っていた。


 すると項羽の耳には楚で流行していた歌が何処からともなく聞こえてきた。


「この状況でもこの様に歌が歌えるとは、流石は我が軍じゃ……」


 満面の笑みを浮かべて項羽は言った。


「項王……」


 項伯は項羽に頭を下げた。


「これは城外から聞こえてくる歌であります。我が軍の兵が歌っているモノではございませぬ……」


 その言葉に項羽は手に持った盃を床に落とした。


「城の外……四面から我が楚の国の歌が……。外には楚の国の人間も多くおるという事か……」


 項羽は静かにそう言うと立ち上がり、外の景色を見回した。


「四面楚歌か……」


 項羽は大声で笑った。


 そして普段は見せる事のない舞いを舞い始めた。






 力 山を抜き


 気は世を蓋う


 時 利あらず


 騅逝かず


 騅逝かざるを


 奈何すべき


 虞や 虞や


 若を 奈何にせん






 項羽はそう歌いながら舞いを舞った。


 その歌に側近たちは涙した。


「今宵は飲もう……」


 そう言うと項羽は再び床に腰を下ろした。






「漢王」


 韓信は曹参を連れて幕舎へ入って来た。


「おう。韓信に曹参か……。今日は見事であった。礼を言う」


「いえ……すべて漢王の徳あっての事です」


 韓信は頭を下げた。


「いよいよ明日。決着を付ける。項羽を斬れるのは韓信、お主か英布くらいだろう……」


 劉邦は嬉しそうに笑い、酒を呷った。


「私にも斬れますまい……」


 韓信はそう言って劉邦を見た。


「それ程の鬼神か……項羽は」


「おそらくは項羽を斬れる者はこの世にはおらぬでしょう……」


「そうか……」


 劉邦は微笑んだ。


「斬れぬとも……やるしかないのだ。項羽を討つ。それが今、俺が唯一やるべき事だ……」


「はい……」


 韓信は目を伏せた。


「曹参。身体は大丈夫なのか」


 劉邦は韓信の脇に立っていた曹参にそう言う。


「はい。おかげさまで……」


 曹参も劉邦に頭を下げた。


「俺もあの薬を飲んだ。そして今も生きている。これは天が生きろと言っておる証だ。俺はそう思っている。お主も、韓信もあの薬を飲んだ。そして生きておるという事は、天が生き存えろと言っておるのだ……」


「漢王……」


 三人は黙ったまま頷いた。







「虞よ……」


 項羽は外を見ながら虞美人に声をかけた。


「はい」


 虞美人も項羽に寄り添う様にして立っていた。


「そなたは生きろ……。劉邦もそなたまで殺しはしないだろう……」


 項羽は虞美人の頭を引き寄せながら言った。


「私は……」


 虞美人は項羽の胸に抱かれながら言う。


「私は項王の妻として死にとうございます。生き存えて生き恥を晒す気はございません」


 項羽は涙した。

 生涯で唯一愛した女。

 虞美人。


 その虞美人の言葉は鬼神と言われた項羽に涙を流させる程だった。


「私は敵の手にかかり死ぬのであれば、夫項羽の手で……」


「言うな……」


 虞美人の言葉を項羽は止めた。


 二人は無言のまま寝台へ移った。

 この世の最後に激しく愛し合う。

 その姿を差し込む月明りが照らしていた。







「またいつか、生まれ変わったら一緒になろう……。その時はこの様な時代ではなく、平和な時代が良いな……。虞よ……。そなたは儂の唯一愛した女である……。先に逝って待っておれ……」


 項羽はそう呟く様に言った。


 その寝台には動かなくなった虞美人が横たわっていた。






 翌日、項羽は垓下城を抜け百万に膨れ上がった漢軍を抜き、数騎の部下と共に長江の沿岸である烏江まで逃げのびた。


 執拗に項羽を追う漢軍はその項羽を烏江で追い詰める事となる。


「ええい。死にたい奴は前に出ろ」


 項羽はそう叫びながら詰め寄ってくる漢軍をなぎ倒した。


「項王」


 その時、長江から声がした。


 そこには小舟に乗った船頭がいた。


「項王がこちらへ逃げ伸びられるのではないかと、お待ち申しておりました。さあ、早く船にお乗り下さい。この長江を渡れば江南の地でございます。そこで今一度再起の時を」


 船頭は項羽にそう言った。


 項羽はその言葉を聞き、ゆっくりと愛馬、騅を下りた。

 そして目を閉じて微笑んだ。


「船頭。馬鹿を申すでない。この儂がいまさら江南の地にどの様な顔で帰れると言うのだ……」


 項羽は静かに言う。


「しかし……項王」


「気持ちは有難く頂いておく。お主も戦火に巻き込まれる前に江南へ帰るが良い……」


 そう言うと手に持った薙刀を振り下ろし、愛馬の騅を斬った。

 騅も分かっていたかの様に鳴きもせず、その身体を長江へ沈めた。


 いよいよ項羽の最後である。


 江南の地にて旗揚げした後、九年余り。

 八十に近い戦を繰り返し、そのすべてに勝利した項羽。

 その項羽が敗北した瞬間だった。


「項羽」


 漢軍の兵が声を挙げて剣を項羽に向けていた。


 項羽はその声の主を見た。


「ほう。お主は我が軍にいた者だな……。そうか……これでは四面より楚歌が聞こえてくる筈だな……」


 そう言うと声を出して笑った。

 その笑いをピタリと止め、


「どうせ劉邦の事だ。儂の首級に賞金でもかけておるのだろう……。良い。同郷の誼でお主に儂の亡骸をくれてやろうぞ」


 項羽はそう言うと自分の胸に剣先を突きつけ、地面に倒れ込む様にして剣を突き刺した。


 「虞よ……。今逝くぞ……。待っていろ……」


 項羽の身体は、賞金の欲しい漢軍の兵により引きちぎられ無数の破片となったと言う。


 これがおそらく中国最強の武将であった項羽の最後である。







「漢王」


 張良は馬上の劉邦に声をかけた。


「ただいま、項羽が討ち死にしたそうでございます」


 張良は静かに劉邦にそう言った。


「そうか……」


 劉邦は馬を下りて烏江の方向を向き、手を隠して亡き項羽に拝した。

 それを見て、張良も周囲にいた側近も同様に項羽に敬意を表し、拝したという。






 ここに秦帝国の滅亡から続いた戦いは終わった。


 翌年の春、漢王劉邦は帝位につき、漢帝国を建てた。








「どうしても行ってしまわれるのですか」


 張良は魏粛に言った。


「はい。私に萬能丹を託された主との約束なのです。病に苦しんでいる人々はまだこの漢の世でも大勢います。その人々を私は助けたいのです」


 魏粛はそう言うと空を見た。


「高祖にあなたを死んでも引き止めろと言われましたが……無理そうですね……」


 張良も同じ様に空を見上げた。


 漢王であった劉邦は帝位に付き、高祖と名乗った。

 

 高祖劉邦。


 百姓の身分から帝位に就くまで約十年であった。


 漢は法治国家として秦とは違う様々な方法を取り入れた。

 しかし、国とは誰かの強い思惑で少しずつ崩れて行くモノである。

 漢も例外では無く、劉邦の正室である呂氏の力が強まる気配がしていた。


「すみません……。私はどうも一処にじっとしている事が出来ない性分の様です」


 二人は空を見上げながら、微笑んでいた。


「あなたがいなければ漢帝国はなりませんでした。礼を言います」


 張良は魏粛を見た。


「いえ……。漢は私などいなくてもなっておりました。これは高祖の徳、それを取り巻くあなた方の熱意の表れですよ……」


「萬能丹。漢帝国で預かって良いのですか」


「ええ。人々の為にお役立て下さい。それが私の主の言葉でもあります」


 張良はその言葉に微笑んだ。


「ではお預かりします」


「もしあの薬を託す人間を見い出せない時は、張良殿、あなたの手で焼き捨てて下さい」


 魏粛はそう言うと荷物を背負った。


「分かりました……」


 張良も静かに頭を下げた。


「それでは」


 魏粛も張良に頭を下げた。


「はい。お元気で」


「はい。病にかかった時には良い薬がありますから……」


 魏粛はそう言って笑った。








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