第七章 范増
劉邦は静かに目を開けた。
視界はぼんやりと広がって行った。
そして何かを思い出したかの様に飛び起きた。
「虞美人は……。虞美人はどうなった」
その劉邦の声に気付き、張良は部屋に入って来た。
「漢王。落ち着いて下さい。虞美人は大丈夫です……」
張良は劉邦を押さえ、揺さぶった。
劉邦は我に返った。
「張良か……。虞美人は……」
「はい。大丈夫です」
張良は劉邦を寝台に座らせた。
「そうか……」
劉邦は膝に肘をついて顔を覆った。
「大事な捕虜だ……。変わらず丁重に扱え……」
そう静かに言った。
「はい。今は魏粛が付き添っておりますので、ご安心ください……」
張良は頭を下げた。
「もうしばらくお休み下さい……」
そう言うと部屋の入口へ向かった。
「張良……」
劉邦は出て行こうとする張良を呼び止める。
「はい」
「そろそろ項羽がやって来る頃だろう……。軍備は整っているか」
「はい。万全です。ですが……」
張良の言葉を遮る様に、
「わかっておる。今一度、各地の諸候に檄を飛ばせ。諸候が動き出すまで我が軍を持たせるのだ……良いな」
劉邦はそう言うと寝台に横になった。
圧倒的な兵力の差は誰もがわかっていた。
しかし今の漢軍には籠城しか打つ手がなかったのだ。
その劉邦を見て、張良は頭を下げた。
「承知致しました……」
項羽の軍が滎陽城に到着したのはその数日後だった。
五十万の大軍は滎陽城を囲み、項羽の命令を待っていた。
范増は幕舎の前で腕を組み滎陽城を見つめ、ここへ向かう途中の出来事を思い出していた。
「やはり項王は范増殿を」
「いや……亜父と慕っておられるのだ。そんな事は無いと思うのだが」
「しかし、最近は対立しておられるのが見え見えだからな……」
范増はそんな声を聞いて、幕舎の陰に隠れた。
「しかし、范増殿の知恵無くしては勝てないであろう」
「もう范増殿を必要とする敵はおらぬと項王は考えておられる様子じゃ。そうすれば項王の一番の厄介な相手は范増殿という事になるか……」
范増は更に耳を澄ました。
兵卒の噂話であった。
それを偶然耳にしたのだった。
「ああ……。間違いなく劉邦を討った後、項王は范増殿を亡き者にされるであろうな……」
范増は怒りに震えた。
おのれ……項羽め……。
普段の范増であれば、その様な噂話など信じなかったであろう。
しかし、度重なる項羽との衝突は、そんな范増の冷静さも失わせたのだった。
どうせ、あの餓鬼には天下は取れぬ……。
范増は手に持った杖を怒りにまかせて圧し折った。
これは劉邦の軍師、陳平の仕掛けた離間の策であった。
しかし今の范増はそれと疑う事も出来なかったのだった。
「范増殿……」
滎陽城を見つめる范増に項伯が声をかけた。
「項伯か……」
「はい……。ただ今より、軍議を行うとの事です。范増殿にも参加されたしと項王のご命令にございます」
項伯はそう言うと、范増の視線の先を見た。
「もう策など何もござらん。儂の役目は終わったのだろう……。項王が天下を取る下準備はすべて出来てござろう……」
范増は静かにそう言った。
「しかし……」
「軍議には出席致そう。項伯、お主の顔も立たぬだろうからの……」
范増はそう言うと踵を返し歩き始めた。
「申し上げます。趙が韓信により陥落致しました」
項羽の前に跪き、間者は報告した。
「韓信だと……誰じゃ……」
項羽は不機嫌そうに言った。
「劉邦の将軍でございます……」
従事する文官が項羽に説明する。
項羽は更に顔を赤らめて怒りを露わにした。
「またあの百姓の名が出るのか……」
項羽の奥歯は、ギシギシと音を立てていた。
「項王。ここは一気に滎陽城を落とし、斉を平定し、その韓信とやらを討つべきです」
一人の将軍が項羽にそう進言した。
「それはならぬ……」
項羽は低い声でそう言う。
「何故です」
「儂の正室が人質に取られておるのだ……」
項羽を取り囲む者たちは呆気に取られた。
范増はその幕舎の壁に寄り掛かって立ち、無言のままそのやり取りを見ていた。
そして、その范増の姿をじっと項伯は見つめていた。
「項王……」
将たちは口々に項羽を諌めようとする。
しかし、項羽は首を縦に振る事はなかった。
「范増殿はどうお考えですか……」
一人の将がそう言うのを聞いて、范増は声を出して笑った。
「そこにおるのは王でも何でもない。ただの餓鬼よ……。天下国家を共に論じる様な相手ではないわ……」
范増は項羽を指さしてそう言った。
項羽は唇を噛みしめ、拳を握った。
「范増……貴様、儂の言う事が不服であれば出て行くが良かろう」
項羽の形相はまさに鬼の様だった。
「出て行き申そう。もうそなたに与える策など爪の垢程もないわ……」
范増はそう言うと顔を歪め不気味に笑った。
「貴様、儂に斬られる前に失せろ」
「ああ……そうさせて頂こう。この国は劉邦の下に治まる。将軍たちも今一度考え直されるが良かろう……」
「范増」
項羽は剣を抜き范増に斬りかかろうとした。
項伯は項羽を羽交い絞めにして止めた。
「項王なりませぬ。ここで范増殿を斬ると軍の士気が乱れます。それでは劉邦を喜ばせるだけです……」
項羽も納得したかの様に振り上げた剣を下ろした。
「二度と儂の前にその面を出すな……」
項羽はそう言うと近くにあった酒の入った器を范増に投げつけた。
「所詮、項羽といえど、ただの餓鬼であったわい……。そなたは劉邦に討たれる運命じゃ。せいぜい首を洗って待っておれ……」
范増は大声で笑いながら幕舎を出て行った。
その晩の内に范増は項羽の下を去った。
項羽は世紀の名軍師を失ったのだった。
劉邦軍が動かないのを見て、項羽は五十万の軍勢を幾つかに分けて、斉を始めとする反乱の起こっている各地に派遣した。
滎陽城には項羽の精鋭十万の兵を残して……。
その後も両軍ともに動きは無く、項羽は兵糧攻めを行う事になった。
劉邦軍三万、項羽軍十万の睨み合いはそのまま、数十日が過ぎた。
張良は項羽軍に包囲される前に、魏粛と数名の配下の者を連れて関中、咸陽に向かっていた。
咸陽に残る兵をまとめあげ、滎陽城の救援に向かうためだった。
蕭何は既に兵を準備し、張良の到着を待っていた。
張良は休む事も無く、その兵を受け取ると、滎陽城へ引き返した。
その数三万。
項羽と戦うために作られた精鋭部隊だった。
「小休止致そう」
張良はそう言うと進軍を止めた。
馬を下りる張良に周囲を偵察していた馬式が駆け寄った。
「子房殿」
「どうした……」
「それが……」
馬式は張良の耳元で囁く様に伝えた。
「なんだと……」
張良の顔色が変わった。
「わかった、行ってみよう」
張良はそう言うと再び馬に飛び乗った。
「馬式。すまぬが、中軍にいる魏粛殿を連れて来てくれ」
張良はそう言うと馬を蹴った。
しばらく走ると小高い丘が見え、その脇に大きな木があった。
張良はその木の辺りへゆっくりと馬を歩ませる。
木陰には老人と小僧が二人座っていた。
張良は馬を下り、腰の剣に手をかけ、ゆっくりとその老人に歩み寄った。
老人もその張良に気が付き、見上げる様に張良を見て言った。
「韓の宰相の子倅か……。儂に何の用じゃ」
張良はその老人の言葉に敵意は無いと見て、剣から手を離した。
「やはり范増殿でしたか……。どうなされたのですか」
張良は老人、范増に聞く。
「項羽の不甲斐なさに嫌気が差して、故郷へ帰るところよ……」
范増はそう言うと痛みに耐えている様に顔を歪めた……。
「どこが痛むのですか……」
張良が手を伸ばそうとしたその時、
「触るな……。儂は項羽の軍師。劉邦の軍師などに情けを受けたくない」
范増は張良の手を払い退けた。
「病人に誰の軍師も無かろう……」
張良は、范増に再び手を差し出した。
「甘いのう……。儂にその気があったなら、今ここで漢軍の軍師は刺殺されておったわ」
范増は力無く笑い、横になった。
そしてゆっくりと目を閉じる。
「范増殿はどうされたのだ……」
張良は范増の世話をする小僧に聞いた。
「范増様は背中に張れ物が出来て、たいそう苦しんでおられます」
張良は背中を庇う様に横になっている范増を見た。
「失礼……」
張良は短刀を取り出し、范増の着物を切り、背中を開けた。
ちょうど心臓の裏辺りに大きな拳程の張れ物があった。
赤く腫れ上がり、その赤みは既に背中全体に達していた。
「張良殿……」
ちょうど馬に乗った魏粛がその時現れた。
「如何なされたのですか……」
そう言い魏粛も横たわる老人を覗き込んだ。
「これは……范増殿……」
魏粛は直ぐに范増の背中の張れ物に気づき、膝をついてその張れ物を触った。
「どうだ……」
「はい。膿が溜まっております。その膿が身体中に回り始めておるのでしょう」
魏粛はそう言うと立ち上がった。
「助かるか……」
張良は魏粛の顔を見た。
魏粛は顔を伏せて目を閉じた。
「そうか……」
「しかし、何故この様なところに范増殿がおられるのですか」
「どうやら項羽の下を出て来られたらしいのだが……」
張良は、後ろにいた馬式に、
「范増殿を我が軍にお連れする。馬車を回してくれ」
そう命令した。
「承知致しました……」
馬式はそう言うとすぐに馬に乗り、軍へと戻って行った。
「魏粛殿……。范増殿に萬能丹を飲ませては如何でしょうか……」
張良は魏粛の顔を見た。
「誰であろうとあの薬が万全であるとは言えません。もしお試しになるのであれば、范増殿に断った方が良いでしょう……」
魏粛はそう言い、張良に微笑んだ。
「そうですね……。是非薦めてみましょう」
張良も魏粛に微笑みかけた。
「どうすれば良いのだ……」
劉邦はイライラしながら部屋中を歩き回っていた。
「落ち着いて下され」
少しうんざりしたかの様に陳平が言う。
「もう食糧も底を付くのだぞ……。これでは援軍が来る前に全軍飢え死にしてしまうわ」
劉邦はそう言うと椅子を蹴った。
「張良殿がもうすぐ到着します。それで形勢は逆転するでしょう」
陳平は細い目でニコニコと笑いながら言った。
劉邦はその陳平の顔を見た。
「陳平……。そなたの顔を見ていると沈んだ心も晴れるな……」
「ええ。人は笑う事の出来る間は大丈夫ですよ。ここにおるのは漢王の精鋭です。十万の項羽軍など烏合の衆です。互角に戦えるでしょう」
陳平は髭を撫でながらそう言った。
「陳平」
劉邦は陳平の前に歩み寄った。
「気を使わせて悪かったな……。もう大丈夫だ。こちらには虞美人がおる。いざとなると虞美人と引き換えに兵を引かせても良い」
「ほう……。漢王は虞美人を娶られるおつもりではなかったのですか……」
曹参はそう言ってニヤニヤと笑っていた。
劉邦は一度咳払いをした。
そして澄ました顔をして、
「俺の妻になりたい女など五万といるだろうよ。虞美人程の女は見つからんとしても……。俺は元々百姓だ。百姓には百姓に相応しい女がおる。虞美人は、元々項羽の女だしな」
劉邦は大声で笑った。
周囲にいた将たちもそれにつられて笑っていた。
「まあ、戦も同じで、百姓には百姓の戦がある……」
劉邦はそう言うと項羽軍の篝火で明るくなった城外を見つめた。
「俺は逃げようと思う」
劉邦は皆の方を振り返りそう言った。
周囲は静まり返り、皆じっと劉邦を見ていた。
そして皆が一斉に笑った。
「いや……。漢王らしい」
「俺もそれを進言しようと思っておったのです」
「そうと決まれば急いで準備を」
などと皆が騒ぎ出す。
劉邦もその光景を見て微笑んでいた。
「お待ち下さい」
その笑いを止めたのは魏無知だった。
「なんだ……。魏無知。そなたは反対か」
「いえ……そうではありません。が、しかし、この項羽の包囲網を突破するのは容易ではございませぬ」
周囲は一気に現実に引き戻された。
「漢王」
曹参が声を上げた。
「なんだ、曹参」
「私に策がございます」
劉邦は曹参の力強い目と声に決意を感じた。
「私にあの日の恩返しをさせて下さい……」
曹参はそう言った。
「項王。劉邦より使者が参りました」
項羽はその言葉で目を覚ました。
座ったままうたた寝をしていたのだった。
先日見た夢……自分が鬼の形相になり角が生えた夢。
項羽の脳裏からその夢が消える事は無かった。
「劉邦からの使者だと……」
「はい、書状を持って来ております」
項羽は少し考えた。そして、
「書状のみ受取り、さっさと帰せ。顔を見たら斬ってしまうのでな……」
項羽はそう言うと再び目を閉じた。
虞美人を取り戻したい。
今使者を斬ると、劉邦が怒り虞美人に危害を加える可能性もある。
大人しく帰した方が無難だろう。
項羽はそう考えたのだった。
「項王。劉邦よりの書状。私が受け取りました」
項伯は幕舎の入口でそう言った。
「読め……」
「はい」
項伯は項羽の傍に来て、革をなめした書状を広げた。
「明朝、漢王劉邦は項王の正室である虞美人を引き連れ投降する。劉邦の首級を項王に預ける。引き換えに漢軍の一兵卒までの命、お救い願いたい。とあります……」
「虞が帰ってくる……」
項羽はゆっくりと立ち上がった。
「虞が帰ってくるぞ……」
項羽は大いに喜んだ。
その書状にある様に、二里程項羽は軍を引いた。
そして虞美人を迎えるべく項羽は準備をした。
項羽自身も身体を清めるために沐浴し、着物を着替えた。
「項伯。実は先日、夢を見てな……」
項羽は話始めた。
「おかしな夢だった。儂の顔が鬼の様に真っ赤に染まっており、頭に角が生えてるのだ……」
項羽は礼服をしっかりと着た。
「どんな意味があるのじゃろうな……」
項伯は膝をついて、頭を下げた。
「それは項王が鬼の如き勢いで天下を平定するという夢でございましょう……」
そう言った。
「お主もそう思うか……。ならば良い。虞も帰って来る事だしの……。すべて良い方向に動いておる」
項羽はそう言うと滎陽城を見た。
「虞よ……。儂は待ちかねたぞ……」
項伯とその部下の陳来は項羽の幕舎を出た。
「項伯殿。先程の夢はその様な夢なのですか……」
陳来は項伯の横を歩きながらそう聞いた。
「陳来……。私は項王の叔父にあたる、言わば一族じゃ。項王と運命を共にするしかないのだ。だかお前は違う。陳来よ、お前の未来はお前自身が決めるが良い……」
項伯はそう言うと微笑んだ。
「項伯殿……。つまり……」
「古来より頭に角の生える夢は悪夢と言われている。角とは「刀」を「用いる」と書く。項王に刀が用いられるという事だ。鬼の様な赤い顔は血の色だ……。范増殿の言う様に項王にこの国の平定は出来ぬのかもしれぬ……」
項伯はそう言うと立ち止まった。
その両目からは涙が溢れていた。
「私はそれでも項王と運命を共にする。それが私の運命でもあるのだよ……」
陳来は顔を伏せた。
「項伯殿……」
「何も言うな。誰にも言うでないぞ……」
項伯は陳来の肩を叩いた。
「誰がこの国を治めようと今よりはマシだろう。そうは思わぬか……」
項伯はそう言うと空を仰いだ。
倒秦の時代より戦乱に次ぐ戦乱で、皆疲れきっていた。
「今夜それも終わるかもしれぬ。劉邦が天下に号令する価値のある男ならばな」
その夜、滎陽城の城門はゆっくりと開いた。
百名程の兵に囲まれて、一台の馬車が出て来たのが項羽にも見えた。
「来たか……」
項羽はそう言うと立ち上がった。
馬車は白旗を掲げてゆっくりと項羽の陣営に近付いてきた。
「行くぞ……」
夏候嬰は声を殺して言った。
「漢王。よろしいですか……」
劉邦は無言のまま腕を組んでいた。
「行きますよ……」
夏候嬰が馬に鞭を打とうとした瞬間だった。
「待て……」
劉邦は夏候嬰を止めた。
「樊噲を呼べ」
「はい。樊噲」
夏候嬰は大声で後ろにいた樊噲を呼んだ。
樊噲は走って劉邦の馬車の横に跪いた。
「はい。漢王。お呼びでございますか」
劉邦は馬車から身を乗り出す様にして、
「良いか、樊噲。命に代えても曹参を守れ。必ず生きて俺の前に連れて来い。それがお前の仕事だ」
「漢王……」
「分かったらすぐに行け。二万の兵を持って項羽を蹴散らして来い」
劉邦は樊噲に微笑んだ。
「地獄で待ってるぞ……樊噲」
樊噲は曹参を助けろと命じられた喜びで、目から涙を流して笑った。
「承知致しました、漢王」
樊噲は今一度、劉邦に頭を下げた。
「後軍、我に続け」
樊噲は大声でそう言うと馬に飛び乗り、城内を走って行った。
「私めに、漢王の影武者をやらせて下さい。項羽に漢王が虞美人を連れて投降すると伝え、城外へ出ます。その間に漢王は裏門よりお逃げ下さい」
劉邦は曹参のその言葉に硬直した。
「曹参……」
一瞬言葉を失った劉邦はふと我に返った。
「なにを言っているのだ。夜半に全員で裏から出れば……」
その言葉を曹参は遮る。
「裏門にも項羽の武将、鍾離昧が控えております」
曹参は頭を下げた。
「鍾離昧は項羽の軍勢でも有数の武将でございます。すぐに項羽の本隊が合流し漢軍は全滅するでしょう。私が偽の漢王になりすまし隙を見て項羽の首級、必ずや取って参ります」
劉邦は口を開けたまま曹参を見ていた。
「つきましては、百名程の兵と偽の虞美人を私にお与え下さい」
曹参は額を床に付けたままそう言った。
「曹参……」
劉邦はゆっくりと曹参の前に座った。
「一度はあきらめた命です。漢王に救って頂いた命です。この命、もう一度漢王のために使わせて下さい」
顔を上げた曹参の目はしっかりと劉邦を見ていた。
「漢王がこの滎陽城を抜け出す時を私が必ず作ります」
周囲も何も言えなかった。
静まり返った部屋に曹参の決意の声だけが聞こえた。
劉邦は手薄になった裏門より一気に走り出た。
二万程の漢軍は西の咸陽を目指し走る。
兵を引く。
これは進軍よりも困難である。
追われる方が追う方の数倍も力を使うという事である。
項羽軍は突然裏門から走り出した漢軍に驚き、たじろいだ。
約二万の漢軍はその浮足立った項羽軍を斬りつけながら、ひたすら西へと走った。
「待ちかねたぞ。劉邦」
項羽は劉邦の馬車に向かってそう言った。
劉邦の鎧を身に付けた曹参はゆっくりと馬車より下り立った。
その横には虞美人の姿もあった。
「項王。間違いございません。劉邦の兜でございます」
項羽の横にいた項伯が耳元でそう言った。
暗がりに立つ劉邦と虞美人。
顔など見える筈もない。
「項王。約束通り、我が首で兵の命救って頂けるのですな……」
劉邦、いや、曹参はそう言った。
項羽は少しイラつきながら、
「もちろんだ。お前の首級と虞さえあれば何もいらん」
そう言うと項羽は、ゆっくりと劉邦の馬車へ歩き出した。
「虞よ……。虞よ……」
項羽にはもう劉邦の姿も見えていなかった。
劉邦の横に立つ虞美人の下へと走り出した。
何度も躓きそうになりながら項羽は走った。
そして、項羽が虞美人に触れようとしたその時だった。
滎陽城の城門が開き、鬨の声が上がった。
項羽はそのまま虞美人を抱きしめた。
「何事だ……」
項伯は城門を見た。
「しまった……。謀られたか……。項王」
項羽の名を大声で呼んだ。
「何だ……」
項羽は虞美人を……虞美人の偽物を抱きしめたまま城門を見ていた。
「馬鹿な男よ……」
曹参は兜を取り、投げ捨てた。
「范増のいないお前の軍を誰が恐れようか……」
曹参は剣を抜き構えた。
「おのれ……どこまでも姑息な……」
その時だった。
項羽の腹部に激痛が走った。
その項羽の足元には赤い血が流れていた。
「何だと……」
項羽は声にならない声を発した。
「死ね……項羽」
虞美人……いや、その声は男の声だった。
項羽は思い切りその小柄な男を跳ね除けた。
「貴様ら……」
項羽は腹部より血を流しながら、剣を抜いた。
「儂を……儂を裏切る奴は許さん」
項羽はそう言うと、虞美人に化けた男を真っ二つに斬った。
血飛沫は周囲を赤く染めた。
その血は項羽の顔を赤く染め、曹参にまで降り掛かった。
項羽は刺された腹部を片手で押さえ、曹参に斬りかかる。
曹参も項羽の豪剣を剣で受けた。
傷を負った項羽の剣でも、曹参のその剣を握る手を痺れさせていた。
「ちっ……」
曹参はここで斬られる事を覚悟した。
項羽が片手で振り下ろした剣は曹参の剣を弾き飛ばした。
曹参の剣は少し離れたところに突き刺さった。
「死ねい」
項羽は剣を曹参の頭に振り下ろす。
曹参は目を閉じた。
劉邦を守りたい。
その一心で項羽の前に立った。
しかし曹参では項羽の敵ではなかったのだった。
漢王……。
私は漢王の下で戦えた事を誇りに思います……。
曹参は今までの劉邦との日々を思い出していた。
沛でゴロツキだった劉邦を救った日。
劉邦が沛公として旗を挙げた日。
幾度と無く項羽と戦って逃げ伸びた日々……。
そのどれもが曹参には良き思い出であった。
その時、曹参の頭の上で剣と剣が触れ合う音がした。
曹参はゆっくりと目を開けた。
「お主……」
項羽は自分の剣を片手で受け止める男を見た。
樊噲だった。
「樊噲……」
「早く後ろに乗って下さい、曹参殿」
樊噲は馬上から項羽に何度も斬りかかった。
項羽はその樊噲の剣を腹を押さえたまま片手でかわしている。
「樊噲とか言ったな……。貴様。劉邦はどうした。劉邦を出せ」
項羽は怒り狂って剣を振り回す。
「漢王は既に裏門から抜け出しておるわ」
樊噲は後ろに曹参が乗った事を確認した。
「項王も耄碌したな。もうお前に勝ち目は無い。今日のところは許してやる。その首級、良く洗って待っておれ」
そう言うと樊噲は項羽から離れた。
「待て」
そう言って追いかけようとする項羽を駆けつけた項伯と鍾離昧が押さえつける様に止めた。
項羽が動く度に、項羽の腹に開いた傷口から赤い血が溢れ出していた。
「項王、おやめ下さい。このままでは死んでしまいます」
鍾離昧はそう言うと項羽を止めた。
「離せ鍾離昧。俺は劉邦を斬って虞を助け出すのだ……」
項羽は我を忘れて暴れていた。
「落ち着いて下さい。ここは一旦引きましょう。このままでは劉邦の思うツボです」
項伯も項羽を押さえながらそう言った。
その間に樊噲たちも西へ向い走り出していた。
その夜、項羽は気を失う様に倒れ込んだ。
そのまま数日、項羽の意識は戻らなかった。
劉邦は漢軍を咸陽に向かわせた。
蕭何に今一度、軍を立て直す指示をした。
そして劉邦自身は張良の遣いである馬式に連れられてある小さな村へ辿りついた。
あの日から数日、生きた心地のしない逃亡劇が繰り広げられた。
項羽が倒れる前に、劉邦の首級を上げた者を王とすると言い残した。
そのため、執拗に項羽軍に追われる羽目になった。
しかし、劉邦がそちら方面に逃げて来ると読んでいた張良の手筈は完璧だった。
上手く逃げ伸びて、先程その村に到着したのだった。
その劉邦に従軍する兵は無かった。
劉邦自身が兵をすべて咸陽に向かわせたのだった。
「漢王」
途中馬車に斬りかかってくる項羽の兵、矢を射てくる者もおり、劉邦の乗る馬車は滎陽城を出た時と比べると同じ馬車とは思えない程変形していた。
その傷だらけの馬車を降りると張良と魏粛が待っていた。
「張良、魏粛……」
劉邦は助かった事を実感した。
「あちらに風呂と食事の用意が出来ております」
張良はそう言うと劉邦を誘った。
数人の女官が劉邦と夏候嬰を連れて屋敷に入って行った。
「よくご無事でおられましたな……」
魏粛は劉邦たちを見ながらそう呟いた。
「天の時を味方に付けておられるのです。今の漢王は天に守られているのですよ……」
張良も劉邦を見送りながら言った。
「さて、いよいよ決戦ですな……」
「項羽も致命傷を負ったと聞きましたが……」
二人はゆっくりと歩き出した。
山間の小さな村に張良は三万の兵を隠した。
項羽の軍が村を見つけてもここに劉邦がいるとは思わないだろう。
その村に張良たちは数日前に入り、滎陽城を抜け出した事を聞いた後、劉邦を迎える準備をしていたのだった。
「この村は巴蜀に似ていますね……」
魏粛はそう言うと空気を思い切り吸った。
「ええ……。良い村です。漢王に再起してもらうには打って付けですね……」
張良も同じ様に空気を吸い込んだ。
「天文を見る限り項羽の運命はまだ尽きておりません。必ず近い内に虞美人を取り返す名目で兵を挙げるでしょう。それが最終決戦ですよ」
魏粛は優しい顔で微笑んだ。
「女とは偉大ですな……。女によって歴史が動く。そんな事は思ってもみませんでしたよ」
「魏粛殿……。男も女も、皆、女から生れてきます。その女が歴史を動かす。当たり前の事ですよ……」
二人は村を見渡せる丘の上にいた。
「ましてやそれが絶世の美女であれば……」
「そうですな……。漢王も惚れた程ですからね……。虞美人。男に抱かれるために作られた女。その女が秦だけじゃなく項羽まで陥れるとは……。男が興るのも女で……、落ちるのも女ですか……」
「すべては女次第……。そういう事ですね……」
二人は心地良い秋風に吹かれながら笑った。
数日後、ゆっくりと休養を取った劉邦は張良を呼びつけた。
その村の一番大きな屋敷で劉邦は膝を揺すりながら張良を待った。
「魏粛。張良はまだか……」
先に来た魏粛を睨む様に見て劉邦は言った。
「朝早くに隣の町まで行かれましたので、もう戻られると……」
「逃げたんじゃないだろうな……」
劉邦は冗談交じりにそう言うと苦笑した。
「こんな山の中に押し込みやがって……」
「漢王。張良殿を信じて下さい」
魏粛は頭を下げた。
「解っておる。あいつは俺の下を去る事は無かろう……。天下を取るまではな……」
劉邦は言って爪を噛んだ。
「漢王。お待たせ致しました」
戸が開き、張良は部屋に駆け込む様に入って来た。
「遅くなり申し訳ありません」
劉邦に頭を下げた。
「張良……。どう言う事だ。俺はここで何をすれば良いのだ。芋でも植えるのか」
劉邦はイラつきながら言う。
「はい。今日はその話を聞いて頂こうと思いまして……」
張良はゆっくりと頭を上げた。
「その前に聞きたい」
劉邦は一瞬にして顔つきを変え、張良を睨んだ。
「お前は俺には天下を取る器があると言ったな」
「はい」
「項羽に勝てると言ったな」
「はい」
「いくらでも人は付いてくると言ったな」
「はい」
張良は微笑みながら真っ直ぐに劉邦を見ていた。
「だったら、このザマは何だ。兵を挙げて、一度たりとも項羽に勝った事なんてない。その俺に……本当に天下など取れるのか」
劉邦はそう言うと酒の入った器を卓の上に叩きつける様に置いた。
幾度となく、同じ事を聞く。
張良、蕭何、曹参、韓信……皆が劉邦に同じ事を聞かれていた。
そしてその皆が同じ様に答える。
天下は必ず劉邦が取ると……。
「漢王……」
魏粛はその卓を叩く様な音に、劉邦の苛立ちを感じとった。
「いえ……良いのです」
張良は魏粛を制する様に言った。
「良いのです。漢王のおっしゃる通りですから……」
そう言うと劉邦をしっかりと見た。
「漢王……。いよいよ項羽を討ちます。この為に今までの戦はあったのです」
張良は静かに言った。
「今まで討てなかったのだぞ……。それだけじゃない韓信はその間にどんどん勢力を伸ばし、今朝の書状では斉王を名乗らせろと言って来た。あいつは俺の将軍だよな……。違うか」
今朝早くに、劉邦の元に一通の竹簡が届いた。
斉を落とした韓信が斉の国を治めるために、仮の斉王を名乗らせて欲しいと許しを乞う内容だった。
その書状にも劉邦はイラついていたのだった。
自分の配下にいた男が自分と同じ地位を得ようとしているのだ。
「韓信と漢王の違い、おわかりになられますか……」
張良はそう言うと座り直した。
「なんだ。言ってみろ」
劉邦は酒を呷る。
「韓信は項羽とは彭城以来、一戦も交えておりません。韓信は項羽に恐れ戦いておりますので……」
張良はしっかりと劉邦を見た。
「韓信が王を名乗れるところまで来たのは漢王があってこその話なのです。漢王が項羽を引きつけていたからこそ、韓信は項羽のいないところで戦えた。だから韓信の今はあるのです」
劉邦は口元で器を止めた。
「……」
「韓信もそれが分かっているからこそ、漢王に許しを乞う書状を送って来たのですよ」
張良はニコニコと微笑んだ。
「先程、新しい情報が入りました。韓信の下に滎陽城を逃げ出した、曹参殿と樊噲殿が合流した模様です」
劉邦は身を乗り出して、
「曹参も樊噲も生きておったか……」
そう聞いた。
「はい。途中で他の軍を吸収して五万の兵で韓信殿に合流したそうです」
「あいつらも大したもんだな……」
劉邦は嬉しそうに笑って酒を飲んだ。
「しかし、これはすべて漢王の徳のおかげなのです」
「俺の……」
「はい。漢王の軍の韓信、曹参、樊噲だからこそ人が集まるのですよ……」
「やめろ……。嘘だと分かっていても背中がむず痒くなるわ……」
劉邦は器を置いた。
「今、天の時、地の利、人の和。このすべてが漢王に味方しております。今を置いて項羽を討つ時はありません」
「どうやってあの化け物を討つと言うのだ。俺は項羽に一勝もしてないのだぞ……」
劉邦は再び声を荒げた。
「戦とは勝ちの数ではござらん。最後に勝った者が勝者である」
その声はその部屋の奥にある戸の向こうから聞こえてきた。
劉邦を始めその場にいた者すべてがその戸の方を見た。
しかし、張良だけはじっと劉邦を見つめたままだった。
「今日は漢王が勝つための、教えを説いて頂く方を連れて参りました」
張良は静かにそう言った。
劉邦はその戸の向こうを睨む様に見ていた。
「お前以上の知恵者なのか……あの向こうにいる男は……」
劉邦は呟く様に言った。
「左様でございます」
張良はそう言うと深々と頭を下げた。
「そんな男がまだいたのか……」
劉邦はそう言うと立ち上がった。
「その男の面、拝んでみたい……」
そしてズカズカと歩き、勢いよくその声のする戸を開けた。
彭城の広い寝室で項羽は目を覚ました。
起き上がらずじっと天井を見つめていた。
そっと入口の戸が開き、項伯が入って来た。
項羽はそれを天井を見たまま感じていた。
「項伯……」
突然項羽に呼ばれた項伯は驚いた。
そして足早に項羽の傍に歩み寄った。
「項王。お目覚めだったのですね。お待ち下さい、すぐに医者を呼びます」
そう言うとまた出て行こうとした項伯を項羽は止めた。
「良い。儂の身体は儂が一番良くわかる。もう大丈夫だ……」
そう言うと上半身を起こした。
「こうしてはおれんのだ……。儂は一刻も早く劉邦を討つ。そして太平の世を築かねばならん。虞のためにもな……」
そう言うと寝台より起き上がった。
「なりません。まだ傷口が……」
「この様な傷、屁でもないわ。項伯、儂の鎧を持て……」
「しかし……」
項伯は慌てた。
「項王……」
項伯は項羽の気迫を感じた。
夢で見た「角」はもしかすると今回の事だったのかもしれない。
そう思ったのだ。
「かしこまりました……」
項伯はそう言うと部屋を出ていった。
「おのれ劉邦……。必ずやお主の首級……この儂の手で挙げてみせるわ……」
項羽はそう言うと拳を握った。
「そなたは……」
劉邦は戸の向こうにいた男を見て目を大きく見開いた。
「范増……」
范増は手を着物で隠し、そこに立っていた。
「劉邦……。勘違いするな。私はお主に下ったのではない。太平の世が欲しいだけじゃ」
范増はゆっくりと歩き出した。
そして、
「私は太平の世を作り出すのに一番近い男は項羽だと思った。しかし、項羽は思ったよりも餓鬼だった。知っての通り、何度もそなたを斬れと私は項羽に進言した。しかし、奴はそなたを斬るどころか……。今は私の予想通りそなたに手を焼いておる……」
范増はそう言うと振り返り劉邦を見た。
「何が言いたいのだ……范増」
劉邦はズカズカと歩き、再び上座に座った。
これはこの場では范増よりも上位に立っているという意識の表れだった。
「何も申さん。そのつもりだった。項羽の下を去った時に私は郷里に返り、余生を楽しもうと思っておった。しかし天はそれも許してくれんかった様じゃ」
范増は劉邦の前、張良の横に胡坐をかいて座った。
「私は郷里までの道のりの途中、病にかかって死にかけた。それをこの張良が助けてくれた様だ。それもいらぬお世話なのだがな……」
「漢王のお許しも無く「萬能丹」を范増殿に飲ませました。お許し下さい」
張良はそう言うと頭を下げる。
「なるほど……。それで命拾いしたって訳か」
劉邦は腕を組んで見下ろす様に范増を見た。
「劉邦よ……。私はもう、そなたや項羽の如き人間に仕える事に飽き飽きしておるのだ。それに……」
「なんだ……」
劉邦は少しニヤリと笑って范増を見た。
「いや……何でもござらん」
范増も劉邦にニヤリと笑った。
「泥田にまみれておった百姓が天下を取る瞬間。私はそれが見たくなった。そのための秘策を教えてやろうと思ってな……」
范増と劉邦は探り合う様な目で見つめあっていた。
「私は項羽の事を虎だと思っていた。しかし飛んだ間違いだった。項羽は兎じゃ。ピョンピョン飛び跳ねて鬱陶しいだけの兎じゃ」
「項羽を兎と申すか……。面白い。それでその兎を捕まえるにはどうすれば良いのだ」
劉邦は座り直し、前に乗り出した。
「賢い犬が必要じゃ」
范増はそう言うと懐に手を入れた。
「犬か……。してその犬はどこにおる」
劉邦と范増の二人の会話には、誰も入る余地が無かった。
張良でさえ、二人を目で追うだけだった。
「兎を捕まえるのに必要な賢い犬がこの中国には三人おる。その三人をまず味方に付けるのだよ……。それが出来たら劉邦、そなたの天下はなったも同然じゃ……」
范増は声を出して笑った。
「面白いな……。今や俺には何にもない。そんな俺にその犬たちは付いて来るのか……」
劉邦は唇を触りながらそう言った。
「無論タダでは付いてこんだろうな。しかしそなたには不思議な魅力がある。人を引き付ける力は誰にも負けはせぬ。やってみる価値はあろうぞ……」
范増は劉邦を指さしてそう言った。
「ふん……。范増……。お主もその一人か」
劉邦は唇を歪めて聞いた。
それを見て范増は声を殺す様にして笑った。
しかしその殺した声は徐々に漏れ始め、最後には大声で笑っていた。
「劉邦。そなたがこの国を平定したならば、私はお前の言う事を何でも聞いてやろう。しかしそれまではこの張良に命を助けられた恩返しじゃ。それ以上の事は無いわ」
劉邦はその言葉を聞いて立ち上がった。
そして窓の外に広がる村の景色を見た。
「范増よ……。この景色、素晴らしいと思わんか。これぞ人間の生きる風景よ。血生臭い世の中には俺も……いや、項羽も飽き飽きしておるだろうよ。太平の世を望むのであれば、お主も仲間じゃ。俺は百姓だ。だからこそ民草の痛みがよくわかる。その痛みをもう誰にも味あわせたく無いのだよ」
劉邦はそう言うと振り返り范増を見た。
そして范増の前に出た。
「頼む。この俺に力を貸してくれないか」
劉邦は范増の前に座り頭を下げた。
部屋の中は静まり返った。
物音ひとつない部屋だった。
その静寂を范増が破る。
「王たる者……。そう簡単に頭を下げるでない……。だが……その様な事が出来るそなたこそ、王に相応しいのかもしれぬ」
范増は劉邦の肩に手をかけた。
「今から私は独り言を言う。一度しか言わぬから、良く聞いておれ……」
そう言うと今度は范増が立ちあがり、窓辺に歩いて行った。
その范増を部屋にいた皆は目で追う。
「まず一人目の犬。これは九江の英布だ」
范増は劉邦と同じ様に村を眺めていた。
「奴はそなたが彭城を攻めた時に、項羽の命令を受けながら、それを無視した。今はどうするか揺れておろう……。そこを上手くお主に付かせるのだ」
范増の白い髪が風に揺れていた。
背中にあった瘤は徐々に無くなりつつあった。
張良に飲まされた薬、「萬能丹」。
経験した事のない激痛が范増の背中に走った。
縄を噛み、一晩その激痛に耐えた。
その内に気を失い、目が覚めると背中の痛みも引いていた。
今ではその瘤も気にならなくなっていた。
「二人目は山賊の頭である彭越。奴は斉の田王をけしかけ、項羽に反旗を挙げさせた。この彭越は侮る事の出来ん男だ」
范増は振り返り劉邦を見た。
「そんな男が俺の言う事など聞くのか……」
劉邦も立ち上がり范増の傍へ歩いた。
「そなたが彭城を攻める際に、斉の田王に謀反を起こさせ、彭城を空にしたのだ。それが無ければそなたに百万の兵があろうとも彭城は落とせて無かっただろう……」
劉邦は顔を強張らせた。
「三人目は……」
劉邦は呟く様に聞いた。
「三人目はそなたの将軍、韓信じゃ」
范増は再び外を見た。
「韓信は優れた人物じゃて……。自分で嘯いてそう言うが、それも間違ってはおらん。そなたも項羽もおらん世であれば、韓信が天下を取っておったかもしれぬ。今、韓信は斉を平定し、斉王を名乗ろうとしておる。それをそなたが快く思わん事もわかる。しかし、そなた、それを許してみんか……。そなたと同じ地位を与えてみろ」
范増は楽しそうに外を眺めた。
「血生臭い世界が好きな人間は天下国家を語るに価せん。そんな奴は自ら滅ぶ。この三人がそなたの犬か、はたまた、飼い主にも食らいつくような狼か……。それは天下が成ってから考えれば良かろうて……」
范増は窓際に座りこんだ。
劉邦は范増の言葉を聞いて体が震えていた。
つい最近まで項羽の軍師だった男が今、自分の前で自分に天下を取らせる方法を説いたのだ。
劉邦にもその范増の言葉に嘘など無い事はわかった。
「張良……」
劉邦は小さな声で張良を呼んだ。
すぐ近くに座る張良には充分で、張良は劉邦に歩み寄った。
「今すぐ、韓信に斉王を名乗る事を許可せよ。良いか、仮の王などではない。堂々と斉王を名乗れと伝えよ。そして、項羽を討つ事に全面的に協力せよとな……。英布、彭越にも檄を飛ばせ。項羽を討った後の褒美はケチらん。いいか、さっさと支度せい」
劉邦は勢いよく立ち上がった。
「范増よ。良く教えてくれた。礼を言う」
「なに……。独り言じゃ。そなたの加勢をしようとは思っておらんよ。太平の世が見たくなっただけじゃ……」
范増はそう言うと、劉邦を上目づかいに見たまま笑った。