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第六章 虞美人






「どうであった、劉邦は……」


 南士はいつもの様に釣り糸を垂らしたまま、松石に聞いた。


「不思議な男だな。あの男の下にはいくらでも人が集まる……」


 松石はそう言うと南士の横に座った。


「うむ……。して……項羽は……」


 南士はピクピクと動く浮を気にしながら、そう聞いた。


「項羽の下にも人は集まっておるだろうに……」


「項羽の下に人はおらんよ。おるのは恐怖に慄いて項羽の下を離れる事の出来ん屑ばかりだ……」


 松石も南士の浮が気になった。


「相変わらずだの……。屑は人ではないか……」


 南士の浮は深く沈んでいった。


「お主もな……。どうせ逃げ切れんかった魚しか釣り上げんのだろう……。しかしこれからはお主の様に優しい心の持ち主が、国を動かすのかもしれんのう」


 松石は笑った。


「それは劉邦の事を言っておるのか」


 南士は沈んだ浮が浮いて来るのを待った。


「さあな……。少なくとも劉邦は屑ではない」


「そうか……。で、お主の言う屑とは誰の事じゃ……」


 南士は浮が完全に浮いたのを見て、ゆっくりと竿を上げた。

 その糸の先には魚が下がっていた。


「釣られてしまう魚……。これもこの魚の運命じゃろうて……。さて、この国はどこへ行くのかの……。誰の竿にこの魚はぶら下がっておるのだろうな……。それが見てみたいだけじゃ……」


 南士は釣れた魚を針から外した。


「そうじゃな……」


 松石は立ち上がった。


「ところで……」


 南士は立ち上がった松石を見た。


「今日は私の魚もあるか……」


 松石は桟橋を南士の小屋の方へ歩き出した。


「ちゃんと用意してある。その代わり……」


 南士も立ち上がった。


「この世を誰が釣り上げるか……、それを一緒に見るまで付き合ってもらうぞ……」






 項羽は楚に戻り、楚の懐王に謁見した。


 先の論功行賞で、恩賞を懐王の断りなく勝手に諸侯に与え、更に自らも西楚王を名乗り、懐王を蔑ろにしたその事に懐王とその取り巻きは怒り狂っていた。

 その懐王に項羽は皇帝に即位し、全中国を治めて欲しいと遜った。


 懐王はその言葉に納得し、項羽の素行を疑った自らを責めたのだった。


 しかし、はやり項羽の思惑は違っており、懐王を廃する事が目的であった。

 その日の内に懐王とその側近を長江の畔で惨殺した。


 項羽はその瞬間に名実ともに全中国の支配者となったのだった。






 その頃、劉邦は巴蜀へと向かっていた。

 巴蜀の地は想像を絶する自然の要塞だった。

 蜀の桟道と言われる絶壁に杭を打ち、その杭に板を乗せただけの道が延々と続いている。


 劉邦の軍、三万は漢中に入るまでに、滑落する者、脱走する者が後を絶たず、その数を半数近くにまで減らしていた。


 ようやく蜀の地に辿りついた頃、劉邦を始めとする皆はすべての意欲を殺がれていた。


「流刑の地に利用する筈だな……。ここまで来ると、二度と戻りたく無くなる道だ……」


 劉邦は酒を飲みながら言った。


「そして何のやる気も無くなるわ……。自分には何にも出来ん気になる……」


「劉将軍……」


 蕭何がそれ以上の劉邦の愚痴を阻止した。


「わかっておる。わかっておるよ……。もう言わねえから」


 劉邦はそう言うと横になった。


「将軍。申し上げます」


 その時、部屋の外から曹参の声がした。

 曹参の身体はすっかり良くなり、体力も戻った。


 蕭何は部屋の戸を開けた。


「どうした。こんなところに攻め込んで来る敵もおるまい……」


 劉邦は横になったままそう言った。


「それが……」


 曹参は少し慌てた様子だった。


 その様子に普通では無い事を察し、劉邦は素早く起き上がった。


「どうしたのだ」


 今度は蕭何がそう聞いた。


「桟道が焼き捨てられております」


「何だと」


 劉邦も蕭何も裸足のまま、部屋を飛び出た。

 そして桟道が見える場所まで走った。

 そこには既に劉邦軍の兵が集まっていた。


「なんて事をするんだ」


「これじゃ一生ここから出られないぞ」


「誰だ、こんな事をしたのは一体……」


 口々に兵たちは言っていた。


 険しい道だが、その道が繋がっているからこそ兵たちはいつか祖国へ帰れるという希望でなんとか気持ちを保っていたのだった。


「どこの軍だ、こんな事しやがるのは……」


 劉邦は兵たちを押し退けて前に出た。


 桟道が見える崖の上に馬に乗った兵が見えた。


 その旗には章邯の軍を記す文字があった。


「章邯か……。項羽に命じられたか……」


 劉邦は拳を握ってその軍を睨んでいた。


 楚の懐王は関中に一番乗りした者に関中王の称号を与え、関中を治めさせると約束した。

 そしてその言葉通りに劉邦は関中に一番乗りし、秦の皇帝子嬰を降伏させた。

 しかし、その事で項羽の逆鱗に触れ、関中王は愚か、漢中、巴蜀の地へ流される様に追いやられてしまったのだった。

 その劉邦が治める筈だった関中は章邯、司馬欣、薫翳に分割された。その章邯の兵が劉邦の軍の近くにまで迫っていたのだった。


「多分范増あたりが命令したのでしょう」


 蕭何もその軍勢と、炎の上がる桟道を見ながら言った。


「いや……違いますよ」


 そう言って燃える桟道の方から歩いて来たのは韓信だった。


「韓信か……」


 劉邦は目を疑った。


 韓信は手に松明を持っていたのだった。


「桟道を焼いたのは私です」


 韓信はそう言ったのだ。


「なんて事を……」


 劉邦は我を忘れて韓信に掴みかかった。


「なんて事をしやがるんだ」


 掴みかかられた韓信は何も言わなかった。

 それどころか、その場に膝をついた。


「聞いて下さい。漢王」


 韓信は松明を投げ出し、地面に手をついてそう言った。


「あの崖の上にいた軍勢は章邯の軍でございます」


「そんな事はわかっている。それと桟道を焼く事と何の関係があるのだ」


「今の漢王では項羽はおろか、あの章邯にさえ勝てますまい」


 劉邦の声を遮る様に韓信は言う。


 その言葉にまた劉邦は怒った。


「韓信、貴様は俺を怒らせるために漢中まで来たのか」


 そう言うと劉邦は再び韓信に掴みかかった。


「漢王。おやめ下され。韓信の話を最後まで聞きましょう」


 韓信の襟を握り、怒りを露わにする劉邦を羽交い絞めにして蕭何と曹参が止めた。


 人の話を聞く事に損はない。


 張良が口癖の様に劉邦に言っていたのを、劉邦も思い出し、怒りを収めた。


「部屋で話を……」


 蕭何がそう言うと、それを陳平が諌めた。


「韓信の話を聞きたい者は他にもございましょう。そこの広場で話をしましょう」


 陳平はそう言うと、兵たちに数百本の松明を立てさせた。


 その松明の明かりは、昼間の様な光景をそこに作り上げた。


「話してみろ」


 劉邦は一段高いところに座り、イライラしながら、韓信にそう言い放った。


 韓信も劉邦の前に座り、劉邦を見ていた。


「どうした。何も言えんのか。お前は項羽の間者なのか……」


 劉邦はそう言うと自分の脇に置いた器で酒を飲んだ。


「お前が項羽の間者であれば、俺はこの場でお前を斬る」


 劉邦はその場を荒々しく立ち上がり、自分の剣を手に取った。


「どうした。何故何も言わないのだ」


「漢王が私を信じておられないからです」


 韓信はそう言うと自分の剣を抜いた。

 そしてその剣先を自らの喉元に向けた。


「このまま漢王が私を信じて下さらないのであれば、私はこの剣で喉をかき斬ります」


 手に剣を持った劉邦と自分の喉に剣をあてがう韓信。

 二人はお互いの目をじっと見つめあった。

 その間の沈黙は周囲にも飛び火し、辺りの音はそこに吹く風の音だけだった。


 どれくらいの時が経ったのだろうか。

 劉邦は声を出して笑った。


「忘れていたよ、韓信。以前、俺はお前に助けられた事を……」


 劉邦はそう言うと剣を床に叩きつける様に置いた。


「すまん。許せ。お前を疑った俺が間違っていた」


 劉邦はそう言うと韓信に頭を下げた。


 それを見て韓信もニコリと笑い、剣を自分の前に置いた。


「ありがとうございます。私の様な者を信じて頂いて……」


 そう言うと韓信も地面に頭を付けた。


「堅苦しい挨拶は抜きだ。まず、何故桟道を焼いたのか、教えてくれ」


 劉邦はそう言うと片膝を立てた。


「はい」


 韓信はゆっくりと頭を上げた。


「項羽は漢王を何故この巴蜀の地に追いやったのか……お解りですか……」


 劉邦は睨む様な目で韓信を見ていた。


「知らん。俺の事が嫌いなのだろう。こんな中国一辺鄙な土地。治めようにも人も住んでない……。クソみたいな土地だ……」


「項羽が考えたのであれば、それで正解かもしれません。しかしこの度の論功行賞、すべては項羽が亜父と慕う范増が考えた事でございます」


「ならば、范増も俺の事がさぞかし嫌いなんだろうな」


 劉邦がそう言うと劉邦の後ろで夏候嬰がクスクス笑い出した。


「何がおかしいんじゃ。夏候嬰」


 劉邦はそう言うと夏候嬰に器を投げた。

 その器を夏候嬰は見事に手で受け止めた。


「いや……漢王は相当な嫌われ者ですな」


 夏候嬰はそう言うと声を出して笑った。


「漢王。それは違います……」


 韓信はそう言うと少し前に出てきた。


「范増がこんな辺鄙な土地に漢王を追いやった理由はただ一つ……」


「なんだ……」


「漢王が怖いのですよ……」


 韓信は腹の底から絞り出す様にそう言った。


「范増は死ぬほど漢王の事が怖いのです。そうでなければ、こんな辺鄙なところに漢王を押し込んだりしませんよ」


 韓信はニコニコと微笑んだ。


「俺なんて、簡単に殺せるだろう……。范増ならば……」


 劉邦は唇を歪める様に笑う。


「無論、范増はそうしたかったのでしょう。しかし項羽がそうしなかった。あの項羽も漢王の事が好きなのでしょうね……」


「よせやい……。気持ち悪い……」


 劉邦と韓信はお互いの顔をじっと見たままだった。

 その二人を約二万の劉邦の軍が見守っている。


「それはわかった。それと桟道を焼いたのはどういう関係なのだ……。あの桟道はここにいる皆の希望の架け橋だ。いつかあの桟道を渡り、また故郷へ帰りたい。そんな希望をお前は焼き落してしまったのだ……。どう説明するのだ、韓信」


 劉邦はそう言ってまた酒を飲む。


 数百の松明はその二人を煌々と照らした。


「あの崖の上の軍勢を見られましたな」


 韓信は動じずに姿勢を正し、真っ直ぐに劉邦を見たままそう言った。


「ああ、あれは章邯の軍だな……」


「はい。関中の章邯の軍勢です。章邯の軍は漢王が漢中に入るのを見届けに来ていたのです。あわよくば、漢王を討てという命令を范増に受けて……」


 韓信は淡々と話を続ける。

 その韓信の声を劉邦は他人事を聞いているかの様に、黙って聞いていた。


「桟道を焼いたのは、もう二度と我々はこの漢中から出る事は無いという意思を彼らに見せつけるためです。もし桟道を焼かずにいたら、今夜にも彼らはここに攻め込んで来ていたでしょう」


 劉邦はその韓信の説明に唖然としていた。


「そこまで、そこまで考えてお前は桟道を焼いたのか……」


 劉邦は手に持った器を、自分の脇に置いた。


「はい。しかしご安心ください。険しい道ですが、この漢中を抜け出せる間道は既に見つけてあります。漢王の許可さえ頂けましたら、いつでもこの韓信、漢王を本当の関中王にしてご覧にいれます」


 韓信はそう言うと深々と頭を下げた。


「なんと言う事だ……。韓信。お主は一体……」


 韓信は頭を下げたまま、


「私はしがない武人でごさいます」


 そう言うと懐から数枚の木簡を取り出した。


「これが今回の作戦を書いた張良殿の書面にございます……」


「何……。張良の……」


 劉邦は夏候嬰に合図し、その木簡を取りに行かせた。


「間違いなく張良の文字だ。何故それを早く言わんのだ……」


 劉邦はその木簡を蕭何に渡した。


「申し訳ありませんでした」


 韓信は再び頭を下げた。


「今回の策は張良の策なのだな……」


 劉邦がそう言う。


「いえ……それは違うようです」


 横から蕭何が木簡を持って、劉邦に言う。


「読み上げます。この韓信の策、私張良が保証致します。この韓信に漢軍のすべてをお任せ下さい。必ずや、漢王がこの全中国を手中に収める日まで、この韓信は漢王の忠臣となりましょう……。張良子房。とあります」


「張良がそう言うのであれば、間違いなかろう……。韓信……。やってみろ。俺に項羽を討たせてみろ」


 劉邦は微笑んでそう言う。


「漢王……。それは無理でございます……」


「何だと……。それでは俺が天下を取る事はあるまい……」


 韓信は劉邦をニコニコと笑いながら見つめている。


「漢王は、項羽の様な男には目もくれずに、ただ天下の事だけをお考え下さい。項羽はこの韓信が責任を持って討ち果たしますので……」


 韓信はそう言うと頭を下げた。


「お前なら項羽を討てると言うのか……」


 劉邦が座り直し、再び腕を組んだ。


「はい。漢王のご命令があれば、必ず……」


 劉邦はその言葉に黙った。

 この韓信、つい最近劉邦軍に合流したばかりの男だった。

 そんな日の浅い男が口先だけかもしれない忠誠心を見せつける。

 そんな男にどの様な策があり、こんな大ボラを口に出来るのか……。


 劉邦はそんな事を考えながら韓信をじっと見ていた。


「韓信よ……。気に入ったぞ。俺に天下を取らせる事の出来るというお前の策、詳しく話してみろ……。今から俺の屋敷に来い。話が終わるまでは解放せんぞ……」


 劉邦はそう言い、その場から立ち上がった。


「よし、今日は皆、解散じゃ。明日の昼、またこの場所に集合しろ……。これからの作戦を発表する。良いな……」


 劉邦は歩き出した。


「今日はここまでの旅の疲れもあるだろう。こんな僻地だ。誰も攻めては来ん。ゆっくり休め……」


 劉邦は皆を残し自分の屋敷へ帰って行った。






 その日、夜遅くまで劉邦の部屋の明かりは消えなかった。

 そしてこの日、劉邦の運命は大きく動き出した……。







「魏粛よ……」


 呂赫は薄明りの中、薬を調合していた。


「はい。何でございましょう」


 魏粛は、張良が秦から引き揚げてきた竹簡を見ていた。


「お主は、漢王劉邦が天下を取ると思っておるのか……」


 静かな部屋にゴリゴリと薬草を磨り潰す音だけが聞こえていた。


 劉邦は曹参が萬能丹で病を克服した後、魏粛に頭を下げて、従軍を乞うた。

 魏粛は快諾し、その魏粛の推挙で呂赫も一緒に従軍する事となった。

 呂赫の家も楚軍の蹂躙で焼かれた。


 破格の禄でこの二人は劉邦に特別扱いされていた。

 巴蜀に入ると、


 この二人の為の薬草作りの工房が真っ先に作られる程だったという。


「さあ、どうなのでしょうか……。ただ、私は漢王が天下を取ってくれる事を、多くの民草が望んでいる気がするのです。もちろん私もその一人ですが……」


 張良に頼まれ、魏粛は秦の竹簡の整理をしていた。

 その竹簡を積み上げる手を止める事なく呂赫と話をしている。


「漢王が天下を取り、第二の始皇帝や項羽となる可能性も無いではなかろう……」


 呂赫は手を止めてそう言った。


「そうですな……」


 魏粛は竹簡を一つ一つ棚に収めた。


「しかし、今のこの世には、絶対的な人徳を持った人間が必要です。それに一番近しい人物。それが漢王では無いでしょうか……」


 魏粛は呂赫に言う。

 その言葉に呂赫は答えず、少し微笑み、また薬草を磨り潰し始めた。


「すべてが終わり、この中国に平和が訪れたら、一度祭承に会ってみたいもんじゃな……。儂が生きておる間に漢王には天下を取ってもらわんとな……」


 呂赫はすり鉢に更に薬草を入れた。


「ここまで来たのです。もうそんなに時間はかかりますまい……。それに老師は長生きされますよ」


 魏粛は別の箱を開けて、また竹簡を並べ始めた。






 劉邦は、少し高くなった場所に立った。

 その左脇には蕭何、陳平、右には夏候嬰、曹参、そして韓信が立っていた。

 劉邦は自分の剣を地面に突き立てる様にして背筋を伸ばした。


「漢王の劉邦である」


 劉邦のその力強い声は約二万の兵に響いた。


 力なくこの蜀の地へ入って来た時の劉邦とはまったく違っていた。


「我々は先の戦において、楚の懐王が約束された、関中に一番乗りした者を関中王とするという約定を、項羽によって簡単に破られてしまった。更にこの様な僻地に追いやられ、二度と出て来るなと言わんばかりの仕打ちだ。おかげで俺について来てくれた皆に充分な恩賞も出す事が出来ず、更には故郷に帰る事も出来なくなってしまった。その項羽は西楚王を名乗り、楚国へ凱旋したという。この違いは何だ。同じ様に楚のために戦い血と汗を流してきた者に対する仕打ちなのか」


 劉邦はその演説の最中に何度も剣で地面を叩いた。

 その剣の音は兵たちの足元に響いた。


 劉邦は演説の上手い人物だったという。

 人の心を惹き付ける天性のモノを持っていた。


「そしてこの俺が一番項羽を許せないのは、咸陽での奴の殺戮と略奪だ。何の罪も無い咸陽の人々を項羽はことごとく犯し、そして殺した。その様な男にこれからの我々の国を、お前たちは任せる事が出来るのか……」


 約二万の劉邦の兵たちは静まり返っていた。

 誰もが胸の内で思っていた事だった。

 しかし項羽を恐れるがあまり、その言葉を呑み込んでいたのだった。


「俺はその項羽を討つ事に決めた。そのために天が俺の下に遣わせた男がいる」


 劉邦はそう言うと韓信に目配せした。


「韓信。お前の考えを存分に聞かせてやれ」


 劉邦はそう言うと椅子にドカッと座った。


 韓信は劉邦に一礼し、前に出た。


「私が漢軍の大将軍、韓信である。今より漢軍のすべてを預かる。そして皆を祖国へ必ず帰してやる……」


 その韓信の一言で、漢軍の兵はざわつき出した。

 項羽を討つ事と、それぞれの目的が一つに繋がった瞬間だった。






 前夜、劉邦と韓信は向かい合って座り、その周囲を蕭何を始めとして、陳平、曹参、夏候嬰などの劉邦の側近が囲んだ。


「言ってみろ。お前が俺に天下を取らせる策を……」


 韓信は背筋を伸ばし、劉邦に対峙した。

 韓信は身長も高く、劉邦のそれに匹敵した。

 その二人の存在感は周囲の者を圧倒させた。


「まず、漢王の軍。この軍の大半が楚の人間です。この様な僻地に追いやられ、何よりも今、望郷の念にかられております。その故郷へ帰りたいという想いは、たとえ二万の兵でも二十万、三十万の力に匹敵するでしょう」


 韓信は瞬きもせずに劉邦にそう話した。


「その軍で関中の章邯たちを攻める。今、章邯、司馬欣、董翳は先程桟道を焼いた事で安心し切っている事でしょう。そして咸陽の民は、この三人を秦から項羽の配下となり、秦軍二十万を見殺しにしたという理由で、恨んでおります。我々が関中へ進軍すると内側からの内通もありましょう。これは漢王が咸陽へ入城した際に一切の略奪を行わなかった徳でございます」


 韓信は微動だにせずそう言った。


「ここに天の時、地の利、人の和が揃うのです。一気に関中を手中にする事が出来ます」


 劉邦を始めとするその場にいた者全員が、韓信の言葉に唖然とした。


「関中を制圧し、そこで兵力を増強します。同時に先の論功行賞で不満を持つ各地の諸候に檄文を飛ばすのです。そして一気に項羽を討ち果たします」


 韓信はその間、じっと劉邦を見つめたままだった。

 そしてそれに応えるかの様に劉邦も韓信を見つめていた。


「韓信よ……。良くわかった。そなたの策、今度はそなたの手で形にするが良い」


 劉邦はそう言うと立ちあがった。


 韓信はその言葉を聞いて平伏した。


「良いか。今この時より、この韓信を我が漢軍の大将軍とする。我が軍はこれより韓信にすべてを任せる。意義のある者は今この場所で前に出ろ……」


 劉邦はそう言った。






 韓信は二万の漢軍の前で熱弁を奮った。

 その韓信の演説が終わった瞬間に、二万の兵は呼応した。

 皆が手を挙げて、大声で劉邦の名前を何度も何度も叫んだのであった。


 韓信はゆっくりと劉邦の顔を見た。


 劉邦もその韓信を見てゆっくりと頷いた。






 その年の秋、韓信の率いる漢軍は関中の三秦の王と言われる章邯、司馬欣、董翳を討ち果たした。

 章邯を水攻めで討ち果たした後、司馬欣と董翳は造作も無く漢軍の餌食となった。

 まさに油断した楚軍の大敗だった。


 ここから漢軍の快進撃が始まる。






 そして劉邦は再び、咸陽城の城壁に立つ事になる。

 楚軍としてこの咸陽を無血開城し、子嬰を許して、三法を敷いたあの時以来の事だ。


 その時、章邯たちの軍、そして咸陽の軍を吸収して漢軍は十数万の兵を数えていた。


「漢王……」


 蕭何は劉邦の前にゆっくりと跪いた。


「お願い致します」


 そう言うと頭を下げた。


 その時だった。


「漢王」


 そう叫ぶ様にして曹参が劉邦に駆け寄る。


「どうした……」


 蕭何は立ち上がり、曹参を抱きかかえる様に制した。


「申し上げます……。項羽は楚の懐王、成を弑逆。その上で自らが西楚王を名乗り、全中国の覇王である事と各地に文を……」


 そう言うと一枚の竹簡を差し出した。

 その竹簡を蕭何は受取り、劉邦に渡した。


「何と言う事だ……」


 劉邦はそう一言だけ呟く様に言った。


「漢王。もう楚に義理立てする必要はございませぬな……」


 韓信はそう言って微笑んだ。


 劉邦は一層険しい顔をして壇上へゆっくりと歩いた。

 目の前には兵と咸陽の民が並ぶ。

 人々は劉邦の第一声を待つかの様に静まり返っていた。

 劉邦には秋の乾いた風の音だけが聞こえていた。


「この咸陽の民は……」


 劉邦はそこに並ぶ者たちに優しく話しかける。


「この咸陽の民は、秦の時代、その悪法に苦しんだ。それから解放されたと思うと、楚の項羽の蹂躙に遭い、どんな言葉で詫びても詫び切れぬ歴史を背負った人民である。しかし、今、この時から、楚でも秦でもなく、この国の社稷を漢と定め、この漢王劉邦が統治する。もう二度と皆に辛い思いをさせないと約束しよう……。今、この時から皆は漢の民だ」


 その劉邦の言葉で、城壁の前に並んだ者たちは大歓声を挙げた。


 いつまでも「漢」という国号を民たちは繰り返し叫んでいた。






 その後劉邦は、塞、翟、河南を制圧した。

 そして韓王を張良が説得し、吸収した。

 漢は飛ぶ鳥を落とす勢いでその勢力を広げて行ったのだった。

 更には趙、西魏も劉邦に合流。

 そして、各地で先の項羽の論功行賞を不服として反楚の風は中国全土に広がって行った。







「虞よ……。どうじゃ、天下を取った男の正室になった気分は……」


 項羽は寝台の上に全裸で横たわる虞美人の肌を撫でた。

 虞美人は項羽にその肌を撫でられる度に小さくよがった。


「はい……。虞は幸せに思います」


 虞美人は声にならない声でそう答えた。


「そうであろう……。男はな……天下を取ってこそ男なのだ……」


 項羽はそう言うと声を出して笑った。


 虞。

 虞美人と呼ばれ、絶世の美女であったという文献もある。

 項羽はこの虞美人を秦を滅ぼし、阿房宮を暴いた時に見つけ、そのまま楚まで連れ帰ったのだった。


 西楚の覇王を名乗った後、項羽は一日の大半をこの虞美人と過ごす事が多くなった。

 側近たちの間では、


「項王は色に染まってしまわれた」


「英雄は子孫を残す事も仕事の内じゃ」


「虞妃は楚を滅ぼす」


 などと口々に噂したという。


 虞美人。

 秦の始皇帝は、阿房宮に入れる美女を中国全土から探し出し、幼い頃から英才教育を施して、ある歳になると皇帝の子孫を残すために後室として阿房宮へ入れるのであった。

 そしてこの虞美人も始皇帝の最後の巡行が終わった後に召される予定であった。

 しかし、そのまま始皇帝が崩去したので、二世皇帝の胡亥に召されたと言われている。


「項王……」


 寝室の外から項羽を呼ぶ声がした。


 その声に虞美人は慌てて薄衣を身体に巻いた。


 その様子を項羽は見て、


「何だ……。この様な時間に無粋であろう」


 そう言った。


「申し訳ありません。しかし急を要すモノで……」


「何だ……」


 項羽も焦燥感を覚えながら服を羽織った。


「はい。漢王劉邦が咸陽を陥落させ、その後、相次ぎ、周囲の諸候を制圧しております」


 項羽は服を着る手を止めた。


「何だと……あの百姓め……。章邯はどうした」


「はい。咸陽郊外で劉邦の武将、韓信の水攻めに遭い、討ち死にでごさいます」


 項羽は卓の上にあった器を取り一気に飲み干した。

 そしてその器を壁に投げつけた。


「劉邦め……。今度はその首級、儂の手で叩き斬ってくれようぞ……」


 項羽の唇は切れていた。

 悔しさのあまり自分で噛み切ったのだった。

 その血を虞美人は布で拭った。

 その虞美人を項羽は抱き寄せた。


「話はわかった。諸候に伝えよ。劉邦を討てとな……」


「はい。かしこまりました……」


 項羽は血のついた布を虞美人より取り上げて、唇を重ねた。


「心配するな……虞よ……。お前は儂が必ず守ってやる……」


 そう言うと虞美人の薄衣を剥ぎ取った。

 虞美人の白い裸体が蝋燭の火に浮かび上がった。

 そして再び、二人はもつれ合うようにして、寝台に沈んだ。







「李門。李門はおるか……」


 祭承は久しぶりに街の薬商に戻った。


「祭承様……。いかがなされたのですか」


 突然の祭承の訪問に李門は驚いた。


「お久しぶりでございます」


 そう言うと深々と頭を下げた。


 祭承は挨拶もほどほどに、自分の部屋に向かった。

 祭承が海の近くの別宅に移った後も、祭承の部屋はそのままにしてあった。


「李門。張良子房殿を覚えておるか……」


 祭承は自分の椅子に座り、李門にそう聞いた。


「以前一度こちらへ参られた方ですね……」


「そうだ。その彼から文が届いてな」


 当時の文は木簡や竹簡ではなく、鹿の皮をなめしたモノに書かれていたという。


 祭承は丸めた文を卓の上に置いた。


「読んでみなさい」


 祭承はそう言うと椅子から立ち上がり、庭を見た。


「はい。失礼致します」


 李門はそう言うとその文を広げた。






 祭承様

 始皇帝の死以降、生きる目的を失い各地を彷徨う様に旅をしておりました。

 そして生涯の主を見つけました。

 沛県出身の劉邦殿でございます。

 その劉邦殿と合流し、楚軍として関中を無血開城させました。

 それは劉邦殿の徳の致すところです。

 劉邦殿は咸陽の民と秦の三代皇帝子嬰を許されました。

 しかしその事が項王の逆鱗に触れ、劉邦殿が関中王になる事はありませんでした。

 そんな時に一人の男と出会いました。

 その男は魏粛。

 そうです。

 祭承殿の下におられた魏粛殿です。

 私は魏粛殿にお願いし、従軍して頂く事に致しました。


 李門殿が秦へ献上された「萬能丹」、それも大量の文献と共に私が秦より回収しました。

 その萬能丹で劉邦殿の臣下である曹参を救いました。

 薬を飲んだ曹参の様子を、魏粛殿と一晩中見ておりましたが、それは壮絶なモノでした。


 ただ、重い肺病にかかっていた曹参は今も元気に生きております。


 劉邦殿はその後、漢中へ追いやられ、再起の時を待っております。


 私は元々韓の宰相の子である事を理由に、韓の国の再興のために劉邦殿と引き離されました。

 しかし私は韓王を説得し、韓の国を劉邦殿に献上する事に致しました。


 劉邦殿に出会えた事、そして魏粛殿に会えた事、これも運命ではないかと思っております。


 さらに萬能丹。


 確かに素晴らしい薬だと思います。

 しかし、まさに諸刃の剣だという事がわかりました。


 戦火が収まったら一度ご挨拶に伺います。


 次は劉邦殿の治める国がやって参ります。

 血の流れない平和な国になるでしょう。


 その日まで、お元気で。


 張良子房 拝






 李門は文を元の様に丸め、革の紐で巻いた。


「魏粛も元気でやっておる様だな……」


 祭承はそう言いお茶を飲んだ。


「その様ですね」


 李門は文を祭承の卓の上に置いた。


「魏粛が羨ましいです」


「どうしてだ……」


「歴史の表舞台を目の当たりにしておりますので……」


 李門もお茶を飲んだ。


「お主が献上した「萬能丹」。それが歴史を変えたのかもしれぬな……」


 祭承は器を卓の上に置いた。


「萬能丹という薬はこの時代を大きく動かしてしまっているのかもしれん」


「そうですね……」


 李門はゆっくりと椅子に座った。


「多くの人々を助ける事が出来れば良いですが……」


 そう言う李門を振り返り、祭承は微笑んだ。


「今日死ぬ人間と同じ数だけ、今日生まれる人間がいるのだ。人には寿命というモノがある。その寿命を人の判断で左右するなどおこがましい事だとは思わんか……。なあ、李門よ……」


 祭承が李門に伝えたかった事が李門には痛い程よくわかった。


「祭承様……」


 祭承も椅子に座り、李門を見た。


「私は、お主も魏粛もあの萬能丹を使う事は無いと思っていた。だからお主たちにあの薬を託したのだ。結果はその通りで、二人とも自分の判断で使う事は無かったのだが……。それでも萬能丹は世に出てしまった。これも運命なのかもしれぬ。そしてその二つに別れた薬が再び、劉邦殿の下で揃っているのだ。これも不思議な事よの……」


 李門は祭承の言葉を、微笑みながら聞いた。

 李門にもわかっていたのだった。

 祭承がどんな思いで自分と魏粛に「萬能丹」を託したのかを……。






 その頃、劉邦は東へ進軍を進めていた。

 洛陽を陥落させ、更に東へ。

 しかしそこで劉邦の進軍はピタリと止まってしまったのだった。


 新城にとどまる事数十日。

 投降して来る者も多いが、漢軍はそこから一向に東に進もうとしなかった。


 韓信はその日、城外の小高い丘に登り、周囲の地形を記録していた。


「韓信将軍」


 単独行動をする韓信を追ってやって来たのは曹参だった。

 曹参は韓信が将軍となってからは韓信の右腕として良く働いた。

 智勇に長ける韓信と曹参は馬も合った。


「単独行動は危ないですよ……」


「曹参殿か……。私は大丈夫ですよ。あなたは漢王の護衛をしている筈ですが……」


「漢王に命じられてやって参りました。韓信殿が一人で城外に出られたのを見ておられた様で……」


 曹参は韓信の横に立ち、同じ様に地形を見ていた。


「漢王はどこまでもお優しいお方だ。私の事まで気にかけて下さるとは……」


 韓信は記録した竹簡を束ねて紐で巻いた。


「だからですよ……」


 曹参はそう言って微笑んだ。


「ん……」


「だから、漢王の周りにはいくらでも人が集まるのです」


 韓信は曹参を見て笑った。

 そして丘を下って行った。


「そうかもしれんな。しかし……」


「しかし……何でしょうか……」


 曹参も韓信について丘を下る。


「烏合の衆です」


 韓信は立ち止って曹参を振り返った。


 曹参は少し足早に歩き、韓信に追いついた。


「烏合の衆ですか……」


「そうです。これまでの漢軍は私で無くても勝てた戦しか、しておりません。その上簡単に諸侯は投降してしまいます。これでは兵の数だけはどんどん増えますが、実力が伴いません。このまま進軍し、項羽と対峙したなら、大敗を期すでしょう」


「今のままでは項羽には勝てないと申されるのですか」


 曹参は韓信を見上げる様に言った。


「はい。まず勝てないでしょうな……」


 韓信は丘を下り終え、新城への道を歩き出した。


「多分それに漢王も気づいておられる。そのために新城より先へ進軍を命じられないのですよ……」


 韓信と曹参は新城へ向かって歩いて行く。


「曹参殿……」


 韓信は腰に下げた竹筒の水を飲み、曹参に渡した。

 曹参もその水筒を受取り、水を飲んだ。


「あなたは、どうしても漢王に天下を取らせたいですか」


 曹参は一瞬固まった。

 何故、韓信がそんな事を聞くのかわからなかった。


「もちろんですよ……」


 曹参は韓信に水筒を返し、そう答えた。


 その曹参から目を逸らし、韓信は空を見た。


「漢王は優しすぎる。項羽の非情さが戦には必要な時もあるのです。そう言う意味では、あの項羽には漢王は絶対に勝てません」


 曹参も空を見た。


「では漢王に天下は取れぬと……」


「いえ……そうではない。漢王に項羽の非情さを身につけてもらえれば勝てます」


 韓信はそう言うと笑った。


「しかし、それが漢王に出来るのでしょうか……」


 曹参は心配そうな目をしていた。


「出来る出来ないではない……やるのですよ」


 韓信はそう言うと、道の脇に咲いた花を手にした。


「投降して来た諸候の中には、今どちらに付くのが優位か、それだけを考えている者も多くおります。そういう輩を漢王の命で一掃しなければなりません。士気を上げ、目的を一つにまとめるためです。それが漢軍を強くする一番の近道なのです。それにより漢軍に勢いも付くでしょう……」


 曹参は答えなかった。

 韓信は自分が考えるより数手先を見て動いている。

 そう感じた。


 この男を敵に回すと漢にとっては最大の敵になるかもしれぬ……。


 曹参はそう思った。


「さあ、漢王の下へ急ぎましょう。今夜は軍議ですから……」


 二人は足早に新城へ向かった。







「何だと……斉が反旗を翻したと申すのか」


 項羽は烈火の如く怒り狂っていた。

 劉邦を討とうと軍備をしている矢先の事だった。


「項王。慌てなさるな……」


 范増はそう言いながら、項羽の部屋に入って来た。


「西に劉邦、北に斉だぞ……。兵力を分けるには敵が大きすぎる」


 項羽は焦燥感を隠せずにいた。


「これは始めからわかっていた事です」


「何だと……」


 范増は項羽の前に立ち、ゆっくりと語り始めた。


「先の論功行賞は不満を生ませ、この国から出る膿をすべて出し切るためのモノ。これからの戦いが本当に天下を治めるための戦いです。慌てる事はありません」


 范増はそう言って椅子に座った。


「まず斉を討ちなされ……。劉邦には万全の体制で臨むのです……」


「ふん……。あの様な百姓風情に何を恐れておるのだ……」


 項羽はそう言うと自分の座る椅子を蹴った。


「私は何度も進言致しました。劉邦はあの時、斬っておくべきだったのですよ……」


 項羽は范増に何度も劉邦を斬れと言われた事を思い出した。

 そして今まさに劉邦を斬らなかった事を後悔していた……。


 しかし項羽は、范増にそう言われた事が面白くなかった。


「たかが劉邦。劉邦の首級など儂が造作も無く取ってくれるわ……」


 項羽はそう言うと袖を翻す様に部屋を出て行った。


「項王……。劉邦を侮る事なかれ……」


 一人残された范増はそう呟いた。






 情勢は大きく動き出した。


 劉邦は楚の懐王を弑逆した項羽に義戦と称して軍を興す。

 いよいよ新城より項羽のいる彭城へと軍を進めた。


 それに呼応する様に斉の田栄が斉王田都を殺し、反楚の旗を挙げたのだった。







「漢王。五里先に数万の軍勢が……」


 馬上の劉邦は、その伝令を聞いて背筋を伝う冷たい汗を感じた。


「何だと……」


 関中を落として以来、戦らしい戦をせずにここまでやって来たのだった。

 劉邦だけじゃない、漢軍全体に緊張が走った。


「曹参、調べて参れ……。韓信、この辺りに陣を張れ」


 劉邦も一国の王らしさが身に付いてきた。

 的確に指示し、自らも馬を下りた。


「漢王。多分味方でございましょう……」


 韓信はそう言った。


「なぜわかるのだ……」


「この場所に項羽の本隊が到着するには早すぎます。そして項羽に加担する者はこの周囲にはおりませぬ。魏、もしくは……」


 その時、曹参ともう一人、見覚えのある男が馬を走らせてやって来るのが見えた。


「張良……」


 劉邦は遠くから張良を見極めた。


 韓信はその劉邦を見て微笑んだ。


 張良が約定通り、韓の国の兵をまとめ上げて劉邦の下へ合流したのである。

 劉邦は声を挙げて張良の帰還を喜んだという。


 この時点で彭城へ向かう漢軍は十万を数えた。


 その後、魏、燕、趙などの諸候が合流し、その数は六十万近くまで膨れ上がった。






 項羽はその頃、斉へ出兵していた。

 しかし斉は戦慣れしており、項羽も手を焼いていた。

 本拠地である彭城は、もぬけの殻と言って良い程手薄だった。

 兵力をどんどん失い、項羽は九江の英布に救援を求めたのだった。

 九江の兵のすべてを出兵させ、半分を斉へ、残りの半分に彭城を守備させよという命令であった。

 しかし英布は自らの城の守備も出来ない様な救援要請は受ける事が出来ない。

 項羽の軍使に病で動けないという返事を持たせ追い返した。


 これにより、九江の英布も項羽に反旗を翻す事となる。






 そして、その数日後。


 劉邦の漢軍は六十万の軍勢を持って一気に彭城を落とした。


 咸陽を落とした時と違い、同盟軍もいた。

 彭城は略奪され蹂躙された。

 漢軍にそれを阻止する事は出来なかった。


 その光景を見て曹参は慌てて劉邦の下へ走った。


「漢王。如何致しましょうか」


 曹参は劉邦の前に跪いた。


「構わん……。やらせておけ。これも戦の内だ……」


 劉邦はその光景を見ながら、静かにそう言った。


「項羽がやった事と同じ事をしているだけよ……」


 そう言うと寝台に横になり、朱に塗られた天井を見つめた。


 曹参は目を閉じた。

 その光景が劉邦の望む光景で無い事が痛い程良くわかったのだ。


「漢王……」


 曹参は俯いた。


「漢王」


 そこに夏候嬰が入って来た。


「この女が厳重に守られ、裏から逃げようとしているのを見つけたのですが……」


「ほら、さっさと入れ……」


 女を部屋に押し込む様に連れて来たのは樊噲だった。


「いい女ですよ……漢王」


 劉邦は横になったまま、その女を見た。


 まさに絶世の美女だった……。

 劉邦は言葉を失い、その女に見とれていた。


「……」


「いい女でしょう。漢王に献上しようと思い連れて参りました」


 樊噲は誇らしげにそう言った。


 劉邦はまだ黙ったままだった。

 そしてゆっくりと立ち上がり、その女にフラフラと近づいた。


「そなた……。名は……」


 劉邦は女に聞いた。

 しかし女は俯いたまま答えない。


 劉邦はその女に手を伸ばす。

 そして女の肩に劉邦の手が触れようとしたその時だった。


「漢王、なりません」


 そう言いながら張良が入って来た。


「張良……」


「この女人は虞美人。項羽の正室でございます」


 張良は劉邦の前に立ちはだかった。


 劉邦も虞美人の名前は聞いた事があった。

 始皇帝のために幼い頃から英才教育を施され、始皇帝に寵愛されるために育てられた女。

 言わば男に抱かれるためだけに育てられた女だった。


「そうか……そなたが虞美人か……」


 劉邦は力なく寝台に座った。


「男に抱かれる為に育てられた……虞美人か……」


 劉邦は項羽を初めて羨ましいと思った。

 天下を取るとはそういう事だと考えた。

 天下に号令出来る男は絶世の美女を抱く事も出来るのだ。


 その女、虞美人はその劉邦の言葉を聞いても顔色一つ変えずに劉邦を睨む様に見ていた。


「張良。俺がこの女を抱くとどうなるのだ」


 劉邦は少し険しい口調で言う。


「項羽は烈火の如く怒り狂うでしょう。そして漢王が檄を飛ばされた義戦にも泥を塗る事になりかねません」


 張良は跪き、そう言った。


「そうか……。そう言われると抱く訳にはいかんな……」


 劉邦はそう言って大声で笑った。


「夏候嬰、樊噲。この虞美人を丁重に守れ。項羽にとっては何モノにも替え難い人質だ。いいか、皆にもそう伝えろ」


 劉邦はそう言うと、また外を見た。


「はい。承知致しました」


 夏候嬰と樊噲は、虞美人を連れて部屋を出て行った。


「漢王。ありがとうございます」


 張良は頭を下げた。


「お前に礼を言われる事はない。項羽の匂いのする女を抱きたくなかっただけだ……」


 劉邦は腕を組んで、占領軍の横暴で荒れ狂う彭城の街をじっと見つめていた。







「何だと。もう一度言ってみろ」


 項羽は顔を真っ赤にして怒り狂っていた。


「はい……。約六十万の劉邦軍により、彭城陥落……。我が軍は全滅致しました」


 伝令は息を切らしながらそう言った。


「我が妻、我が妻の虞はどうした」


 項羽は歯をギシギシと鳴らしながらそう言う。


「はい。劉邦軍の捕虜になったモノと……」


 伝令は震えながら、顔を上げる事も出来なかった。

 それ程に項羽は殺気立っていたのだ。


「項王」


 范増は項羽を諌めようとしたが、その時の項羽の耳には范増の声は届かなかった。


「彭城を奪い返す」


 項羽はそう言うと幕舎を出て行った。


 斉の反乱を治めるために城を囲んでいた項羽の軍は、戦上手な田栄と彭越連合軍に手を焼いていた。

 その間に空き家同然の彭城を劉邦は落としたのだった。


 項羽は馬に飛び乗り、彭城へと走った。

 項羽の本営にいた三万の精鋭部隊を引き連れて。


 その走り去る項羽の精鋭部隊を、范増は黙って見ていた。

 范増は項羽がまず虞美人の事を聞いた事が気にくわなかった。


「匹夫の勇じゃの……。あの男に天下は取れんわ……。流れは劉邦へと向かっておる……」


 范増は小さくなっていく項羽の軍の土煙を見ながらそう呟いた。






 項羽は一気に彭城まで走った。

 その勢いで、戦勝気分に浸っていた漢軍を蹴散らした。


 突然現れた項羽の軍に、劉邦も慌てふためいた。


「張良はどこだ。韓信はどこへ行った。曹参、樊噲はどこだ」


 劉邦は裸足のまま走り回っていた。


「漢王」


 夏候嬰は慌てふためく劉邦を見つけ、


「早く馬車に、逃げるのです」


「何を言ってるんだ。俺の軍は六十万もいるんだぞ。逃げずに戦え。項羽の首級を取るのだ」


 劉邦は夏候嬰の襟首を掴み、揺さ振りながらそう言った。


「漢王。逃げて下され」


 そう叫びながら韓信がやって来た。


「逃げて下さい。今の漢軍は、項羽には勝てません。逃げ伸びてもう一度軍を立て直すのです。早く」


 韓信はそう言って、城に火を放った。


「今、全滅したら項羽を討つなど夢幻となってしまいます。早くお逃げ下され」


 韓信はそう言うと、自らが放った火の中に飛び込んで行った。


 その韓信を劉邦は唖然としながら見ていた。


「韓信……。死ぬなよ……」


 劉邦はそう呟いた。


「夏候嬰、俺を逃がせ。俺の命を守るのだ。そしていつの日かあの項羽を必ず討つ」


 劉邦は城の前で暴れ狂う項羽を見ていた。

 彭城は阿鼻叫喚の海と化していた。

 項羽の周囲には血の池が出来ており、数え切れない漢軍の亡骸が築かれていた。


「劉邦はどこだ。劉邦出てこい、出てきて儂と剣を交えよ」


 項羽はひたすらそう叫びながら、漢軍の兵を斬り倒していた。


「化け物だ……。あんな奴、まともに相手出来るか……」


 劉邦は顔を引き攣らせ、


「夏候嬰。行くぞ。裏門だ……」


 そう言って走り出した。


 劉邦と夏候嬰は裏門より彭城を抜け出した。

 劉邦は生きた心地がしなかった。

 夏候嬰の代わりに馬の尻を鞭で叩き続けていたという。






 この日、漢軍は散り散りになった。

 劉邦も命カラガラ、何とか逃げ伸びたのだった。


 そして、項羽の三万の精鋭部隊は半日で六十万近い兵を壊滅させたのだった。







「良いか。劉邦だ。劉邦の首級を取れ。劉邦の首級を取った者は王とする。そして、我が正室である虞美人を探し出せ」


 項羽は彭城で精鋭三万と漢軍より降伏した約二十万の軍にそう言った。

 後に合流した軍を合わせて、項羽軍三十万は早速劉邦を追った。


 散り散りになった漢軍は、もう誰にもどうなっているかわからなかった。


 裸同然の漢王、劉邦は夏候嬰と数人の従者と共に敗走しているだけだった。


「夏候嬰。そろそろ潮時だな……。馬を止めろ……。この辺りで華々しく散ってやろうじゃないか」


 劉邦はそう言うと剣を腰に差した。


「なにを馬鹿な事を言っているのですか。こんなところで死んでどうするのですか」


 夏候嬰は馬の手綱を握ったまま、怒鳴っていた。

 もう二昼夜手綱を握りっぱなしで、夏候嬰の手には肉刺が出来ていた。

 途中で馬を何度も替えて、劉邦と夏候嬰はひたすら西へと走っていた。

 蕭何の待つ、関中を目指して。


「漢王は天下を取る男です。張良殿も陳平殿もそう言ってたでしょう。漢王が死んだら、漢王を信じてついて来た奴らが路頭に迷いますよ……」


 しかし、その劉邦たちのすぐ後ろに項羽の軍は迫っていた。


「知った事か……」


 劉邦は馬車の屋根を剣で叩き壊し、後方を確認した。

 先日まで漢軍にいた顔が必死の形相で劉邦を追っていた。


「ちっ、あいつら……。夏候嬰、心配するな。俺が死んでも悲しむ奴ばかりじゃ無さそうだぞ……」


 そう言うと剣を構えた。


「え。何ですって。もう黙って座っていて下さいよ」


 夏候嬰は後ろを気にしながら、馬に鞭を打った。

 後方からは項羽軍が雨の様に矢を射って来ている。

 その矢で劉邦の乗る馬車の後ろは針鼠の様になっていた。


「くそ……。皆はどこに行ってしまったんだ」


 劉邦は苛立っていた。

 そう言っている間にも劉邦に従事している仲間が後方からの矢に射られ倒れていく。


「どいつもこいつも……。俺を守るんじゃないのか……」


 劉邦はその光景を見ながら叫んでいた。


「漢王。少し揺れますんで、どこかに掴っていて下さいね……」


 夏候嬰はそう言うと道から逸れて、川の方へと走った。

 足場が悪く、大きく馬車は揺れる。


 そしてとうとう、馬車の車輪は外れ、劉邦と夏候嬰は草むらの中に弾き飛ばされた。


 もう既に従事の者は夏候嬰の他には誰一人いなかった。


「夏候嬰」


「漢王……」


 二人は無事を確認するかの様に声を掛け合う。


 しかし、その二人が弾き飛ばされた場所は既に項羽軍に囲まれつつあった。


「ちっ……。夏候嬰……どうやらここで終わりらしいな……」


 劉邦と夏候嬰は背中を合わせ、周囲の敵に備えた。


「なんか……ロクな人生じゃ無かったな……。それもこれもあの項羽のせいだ……」


 劉邦はそう言って、手に持った剣を構えた。


「漢王。俺は……また生まれ変わっても、王の馬車の手綱、握らせてもらいますよ」


 夏候嬰も剣を抜いた。


「生まれ変わったら、その汚ねえツラだけは、少し男前にして貰えよ……」


 劉邦はそう言うと微笑んだ。


「劉邦……。その首級、貰い受ける」


 項羽軍の一人がそう言ったその時だった。


 その男の胸に一本の矢が刺さった。

 男は短い呻き声を上げて馬から落ちた。


 劉邦と夏候嬰はその光景に驚いた。

 いや、二人だけじゃない。

 その場にいた項羽軍の全員が、驚きながら何処から矢が飛んで来たのかを目で追っていた。


「夏候嬰……。走れ」


 そう言うと劉邦は、剣を一番近くにいた項羽の兵に投げつけた。


 その剣は見事にその兵の胸に突き刺さった。


 そして二人は一気に走り出す。

 林を抜けるとそこには大河が広がっていた。


「夏候嬰、飛び込め」


 劉邦はそう言って、夏候嬰を川に付き飛ばして、自分もその大河に飛び込んだ。


 流れの緩やかな大河に、劉邦と夏候嬰は浮いていた。

 崖の上には項羽軍の騎馬が数十騎、ただ川に浮く劉邦を見ていた。


 そして再び、その騎馬に矢の雨が降り注いだ。


「なんだ……。どうなっているのだ」


 劉邦は泳ぎながら周囲を見渡した。


 その時だった、岩陰から数隻の船が現れた。


 その船の舳先には張良が立っていた。


「射よ」


 張良の声は大河に響いた。

 その声と同時に数隻の船からは無数の矢が発射される。


「漢王、軍師殿です……。助かりましたよ……」


 その光景にあっけに取られた二人は、ただ川に流されていただけだった。







「漢王。遅くなり申し訳ありません」


 張良は劉邦の前に跪き、拝した。


 劉邦も先程までとは打って変わって、堂々と椅子に座っていた。


「今回ばかりはもう駄目かと思ったわ」


 そう言って微笑んだ。


「ご無事で何よりです……」


 張良はそう言って顔を上げた。


「現状をお伝えしますと、関中に残して来た蕭何殿より兵、三万と救援物資が滎陽城まで届いております。私の兵も韓の精鋭が二千。韓信殿も二千の兵を引き連れて善戦しております。ここの南には曹参殿がやはり数千の兵を連れて、滎陽城に向かっております。逃げ伸びた兵も徐々にではありますが、滎陽城へ集まって来ております。樊噲殿が漢王の婦人と王子を沛より救出してこちらへ向かっているという情報も入っています」


「そんなに一遍に言われても俺には理解出来ん……」


 劉邦はそう言うと、腕を組んで笑った。


「とにかく、まだまだ戦えるという事だな」


「はい。左様でございます」


 張良は再び頭を下げた。


「そうか……。今回は煮え湯を飲まされたな……。項羽の恐ろしさを実感した」


 劉邦はそう言うと流れる大河を見た。

 張良の船はゆっくりと滎陽城に向かっていた。


「張良……。俺はあの項羽に勝てるのか……」


「はい。必ず勝てます」


 間髪置かずに張良は答えた。


「今回の件で、諸候も動き出すでしょう。今一度、諸候に檄を飛ばすのです。それで敵と味方がはっきりと致します。今度は烏合の衆ではなく、精鋭部隊を作り、項羽を討ちます」


 劉邦は背中越しに張良の声を聞いていた。


「それから……」


 張良は立ち上がり、劉邦の横に立った。


「項羽の正室、虞美人をこちらで確保しております」


 劉邦はその声に反応する様に張良を見た。


「何だと……」


「先に滎陽城に送り届けましたが、虞美人はこちらで擁しております故、そう簡単に項羽も手は出せぬでしょう」


「そうか……」


 劉邦は振り返り歩き出した。


「虞美人は丁重に扱え。大切な人質だからな……」


 そう言うと椅子に座り、卓に置かれた酒を飲んだ。


「承知しております」


 張良は頭を下げた。


「では、滎陽城まで急げ。早急に体制を立て直そう……」


 劉邦は椅子に座りゆっくりと目を閉じた。







「滎陽だと……。そこに虞がおるのか」


 項羽はそう言った。


「いえ……虞妃の話ではございません。劉邦の事でございます」


 范増は項羽に呆れていた。

 彭城を占領して数日、虞美人の事しか口にしないのである。


「項王。あまり言いたくはございませんが……」


「何だ」


 項羽は確かに苛立っていた。

 爪を噛みながら范増を睨みつける様に見た。


「項王、虞妃の安否も確かに心配ですが、今は天下国家の事をお考え下さい」


 范増は目を伏せ、そう言った。


「貴様……亜父よ。虞は儂の正室だぞ……」


 項羽は拳を強く握っていた。


「誰も虞妃の事を項王の正室とは認めておりませぬ……」


「貴様……」


 項羽は剣を抜いて、范増の鼻先に剣先を構えた。


「二度と言うな……。二度目にその言葉を聞いた時、お前のその首、儂が落としてやろう……」


「失礼致しました……」


 范増も項羽の剣先を見て恐怖を覚えた。

 そのまま下がり項羽の部屋を出た。


「よし。滎陽城へ全軍を向ける。虞を救い出し、今度こそ劉邦を討つ」


 項羽はそう言うと酒を一気に飲んだ。


「あの百姓め。必ずこの手で首級を取ってやる……」


 項羽は手に持った剣を床に突き立てて、椅子に座った。


 項羽はこの数日、寝ずに彭城中を、虞美人を探して歩き回っていた。

 疲れていたのだろうか。

 項羽は椅子に座ったまま、まどろみ始めた。






 項羽は夢を見た。


 濃い霧の中で、一人、黄金色に光る剣を握って立っていた。


 その霧にぼんやりと浮かび上がる姿を見つけた。

 劉邦だった。

 劉邦が虞美人を抱いて立っていたのだ。


「項羽よ。お前に虞は渡せん」


「何だと、この百姓め……。ならば貴様を殺して奪うまでよ」


 項羽は剣を構えた。


「お前も剣を抜け」


 そう言うとジリジリと劉邦に近付いた。


「こんな、男に抱かれるために育てられた女の何が良いのだ……。この女はお前になど惚れていない。権力に惚れているのだ。わかっているのだろう……項羽よ」


 劉邦も剣を抜き、その剣先を虞美人の方へ向けた。


「俺を斬って見ろ項羽。その時は俺がこの女を切り刻んでくれるわ」


「おのれ……劉邦」


「項羽よ……。この女をくれてやる代わりに、天下を俺に渡せ。お前にとってはそれ程に価値のある女なのだろう……」


 項羽は奥歯が磨り減る程に悔しがっていた。

 最愛の虞美人を人質に取られて、手も足も出ない。

 百姓と罵っていた劉邦にここまで馬鹿にされている。

 それが項羽には最大の辱めに感じたのだ。


 すると突然項羽は頭に激痛を覚えた。


「くっ……」


 項羽は呻き、剣を投げ出して頭を押さえた。


「あ、頭が割れる……。虞よ……助けてくれ……」


 項羽はそう言ってのた打ち回った。


 その痛みはしばらくすると落ち着いた。

 しかしその時には、劉邦と虞美人の姿は消えていた。

 周囲を探して歩く。

 霧の中をどれだけ歩いただろうか……。

 すると突然霧が晴れ、静かな湖が目の前に広がった。


 項羽は渇いた喉を潤すために、湖の水面を覗き込み、手で水を掬って飲んだ。

 その時だった。

 項羽は自分の姿の異変を感じた。


 項羽の頭には二本の角があったのである。


「何だこれは……」


 項羽の顔は血で真っ赤に染まっていた。

 そして頭から生えた二本の角。

 まさに鬼の様な形相だった。


「儂は鬼になってしまったのか……」


 項羽は自分の顔が映った水面を叩き、その鬼の様な顔を壊した。


 そこで項羽は目を覚ました。

 汗だくになり、椅子に座ったまま、息を荒くしていた。


「なんという夢だ……」


 項羽はそのまま朝まで眠れなかった。







「漢王」


 滎陽城の劉邦の部屋に、曹参は走り込んだ。


「どうした」


 劉邦は窓から外を見ていた。

 走り込んで来た曹参の様子が普通でない事はすぐにわかった。


「虞美人の様子がおかしいのです」


 虞美人。

 項羽の正室である。

 彭城を占領した際に捕虜として劉邦に囚われたのだった。


「どうしたのだ」


「はい。高熱が続いております」


 曹参は劉邦の傍に膝をついてそう言った。


「ならん、ならんぞ。虞美人を死なせてはならんぞ……」


 そう言うと劉邦は部屋を飛び出して行った。


 虞美人の部屋に着くと、軍医と先日、関中から合流した魏粛が立っていた。


「漢王」


 魏粛は劉邦に気づき、拝した。


「魏粛。どうなのだ、虞美人は……」


 魏粛は劉邦に貝殻を見せた。


「何だこれは……」


「多分、何かの毒かと思われます」


 そう言うと魏粛はその貝殻を開いた。

 中に白い粉が少し残っていた。


「やはり、毒を飲んだのでしょうな……」


 軍医もそう言った。


「いかん、いかんぞ……。大切な人質だ。ここで死なれると項羽は怒り狂い、この滎陽城を攻めてくる。それだけは阻止しなきゃいけない……」


 この時代は毒を吐かせるのに、人糞を水に溶き飲ませ、無理矢理吐かせていた。

 酷い臭いのする液体を軍医は手に持っていた。


「ちょっと待って下さい」


 魏粛は軍医を止めた。


「もう毒を吐かせても手遅れでしょう」


 劉邦も傍に来た。


「助からんのか……」


「おそらくはもう……」


 魏粛は劉邦にそう言った。


「項羽の正室だぞ……。大切な人質だ。何とか助からんのか……」


 劉邦はそう言うとフラフラと歩き、部屋の隅にあった椅子に倒れ込む様に座った。


「残念ですが……」


 魏粛は目を閉じた。


 目の前の寝台には、白い絹の着物を着た虞美人が横たわっていた。


 その顔には顔色も無く、胸の呼吸も小さかった。

 劉邦と魏粛はその虞美人の様子を見つめた。


「そうだ……、魏粛。あの薬はどうだ。萬能丹という薬だ。あれを虞美人に飲ませるのだ」


 劉邦はそう言うと立ち上がった。


「漢王……。虞美人は自ら命を断とうとしたのです。虞美人に生きたいという意志があるかどうか……。それでも助けられるのですか」


 魏粛は立ち上がった劉邦を見た。


「漢王。虞美人の脈が弱って来ております。体温も下がっております……」


 軍医は虞美人の首を触りながらそう言った。


「魏粛……。頼む。虞美人に薬を……」


 劉邦は魏粛の手を取った。


「しかし……」


 魏粛は今一度、虞美人を見た。


「以前にも申し上げましたが、あの薬で命を落とす事もございます」


「虞美人を救え。命令だ」


 劉邦はそう言うと服を脱いで、虞美人の寝台に潜り込んだ。


「早くしろ……。体温が下がっている……」


 劉邦は虞妃の服を脱がし始めた。

 虞美人の白い肌が魏粛にも見えた。

 虞美人の身体を劉邦は自分の体温で温めようとしているのだった。


「承知致しました」


 魏粛は一礼すると、懐から革の袋を取り出し、中から萬能丹を取り出した。


 張良は数粒の萬能丹をこの滎陽城に持って来ていたのだ。


 魏粛は萬能丹と水を持って、虞美人の寝台の横に立った。


「貸せ」


 劉邦は魏粛から萬能丹をひったくる様に取り上げると、虞美人の口に押し込んだ。

 そして水を流し込む。


 劉邦は水の器を床に落とした。

 そして自分の身体で虞美人の身体を包み込む様に抱いた。


「虞美人よ……。戻ってこい。そなたは俺の妻になるのだ……」


 劉邦は虞美人に魅かれていた。

 項羽の正室である虞美人に。

 項羽を討った後に自分の下へ迎え妻にしようとしていたのだろう。


 虞美人は小さく呻き出した。


「ああ……」


 劉邦の腕の中で、苦しそうに虞美人は顔を歪め始めた……。


「くっ……うぅ……。項羽様……」


 虞美人は項羽の名前を呼んだ。


 それでも劉邦は、虞美人を力強く抱きしめていた。


「死なせはせん。俺はお前を死なせない……」


「漢王……」


 虞美人を抱きしめる劉邦。

 しかしその虞美人は、敵である項羽の名前を何度も何度も繰り返し呼んでいた。


 劉邦は虞美人を抱きしめたまま動かない。

 その劉邦の胸の痛みが魏粛にも痛い程伝わって来た。


 魏粛は軍医の肩を叩いた。


「後は漢王にお任せ致しましょう」


 そう言うと部屋を出て行った。






 魏粛は夜空を眺めていた。


 劉邦の虞美人への想いの強さを知った。

 宿敵である項羽の正室である虞美人。

 その虞美人を助けようと身体を張っているのだ。


 魏粛は切なかった。


「魏粛殿……」


 魏粛に声をかけたのは張良だった。


「張良殿……」


「やはり漢王は虞美人に萬能丹を……」


 張良は横に並び、同じ様に空を見上げた。


 魏粛もそれを見て再び空を見上げた。

 空一面に星が輝く。

 張良はその星をじっと睨んだ。


「はい……。先程、虞美人に薬を……」


 魏粛はそう言うと視線を張良に移した。


「今は漢王ご自身で虞美人の身体を温めておられます」


「そうですか……。漢王は虞美人が欲しいのですね……」


「……」


 魏粛は答えなかった。

 張良もそれに気づいていたのだ。


「大丈夫です。虞美人の命はここでは終わりませんよ。漢王の想いが報われるかどうかまでは、天文ではわかりませんが」


 張良は微笑みながらそう言った。


「今まで漢王が何かを欲しがったところを見た事がありません。その漢王が初めて欲しがったのです。出来れば叶えてあげたいですな……」


 魏粛は静かに言った。


「そうですね……。しかし……」


 張良はそう言いかけて、


「いや……やめましょう。今は漢王を見守りましょうか……」


「はい……」


 二人は顔を見合わせて微笑んでいた。







「虞は滎陽城内にいるのだな……」


 項羽は目の前に跪く間者にそう聞いた。


「はい。間違いございません。劉邦は虞妃を手厚く扱っております」


「ふん……。あの百姓にも人の心はあったか」


 項羽は焦燥感を隠せない様子で、部屋の中を歩き出した。


「よし、明朝、滎陽城に向けて全軍を出陣させる。項伯、今ここにいる我が軍の数は」


 部屋の隅に控えていた項伯は、


「はい。現在、この彭城にいる我が軍は五十万。滎陽城の劉邦軍は多く見積もっても三万程度と思われます」


 静かにそう言った。


「よし。五十万すべて滎陽城へ向ける。滎陽城を囲んで、劉邦を討つ。その後、その足で関中を取り戻す」


 項羽は剣を抜いてそう言った。


「お待ち下され……」


 范増は項羽の前に歩み寄り大声で言った。


「亜父。またお主は反対か」


 范増は頭を下げて、


「先の戦で思い知ったでしょう。彭城を空にしますと第二の劉邦、第三の劉邦にここを狙われますぞ……」


 范増は鋭い目で項羽を見ていた。


「亜父よ……。この儂に逆らう者など、もう誰もおらんだろう……。何を恐れておるのだ」


 項羽もまた范増を睨む様に見降ろした。


「項王……。本当の戦はこれからですぞ……。今は劉邦よりも斉の田王を討つのが先でございます。劉邦などいつでも討てます。今回は北へご出陣下さい……」


 范増は再び頭を下げた。


「それはならん。滎陽城が先じゃ」


 項羽は范増の言葉を遮った。


「何故です。今度は斉に彭城を狙われますぞ……」


「儂は一刻も早く、虞を救い出す必要があるのだ……」


 項羽はそう言うとまた部屋の中をイライラしながら歩き出した。


「また虞妃でござるか……」


 范増は項羽の背中を目で追った。


「虞は儂の正室である。その虞を救い出そうとして何が悪いのだ……」


 項羽は声を荒げて言った。


「先にも申し上げましたが……。今は天下国家の事を第一にお考えあれ……」


 范増は声を絞り出す様に言い、項羽を睨んだ。


「儂の正室を見殺しにせよと言うのか……。今も劉邦に良い様に弄ばれておるかも知れぬのだぞ……」


「項王。ここにいる誰もが、虞妃を項王の正室とは認めてござらん」


 范増も声を荒げた。


「目をお覚まし下され」


「范増……。貴様」


 項羽は范増に怒りを露わにしていた。


 項伯は、項羽が今にも范増に斬りかかりそうな空気に気づいた。


「范増殿……。項王がお決めになった事です。我々は明朝、滎陽城へ出立致しましょう」


 項伯は范増と項羽の間に立った。


「項王のご命令とあれば……。しかし滎陽城を攻める知恵は私にはござらん」


 范増はそう言うと、足早に部屋を出て行った。


 項羽はその范増を見て苛立った。

 范増の出て行ったその扉に自らの剣を投げつけた。


 分厚いその扉に項羽の剣は突き刺さった。


「おのれ……范増」


 項羽は身体を震わせながら吐き捨てた。






 劉邦はその扉を開けて、フラフラと出て来た。

 部屋の外には張良と魏粛が座っていた。


「漢王……」


 倒れかかる劉邦を魏粛は支えた。


「大丈夫ですか……」


 劉邦は精根尽きた様子だった。

 力なく魏粛と張良に微笑んだ。


「また萬能丹が人を救いましたね……」


 張良は小声で魏粛に言った。


「その様ですね……」


 魏粛は劉邦を長椅子に寝かせた。


 魏粛と張良は虞美人の眠る部屋へ入った。


 虞美人の白い肌には、赤い血の色が戻り、白い胸は虞妃の呼吸に合わせて動いていた。


「もう大丈夫ですね……」


 張良はそう呟いた。


「ええ。漢王が虞美人を救われました」


 魏粛は笑顔でそう言って、部屋の外で寝ている劉邦を見た。








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