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第五章 曹参と韓信





 その日、項羽は楚軍本隊を率いて、咸陽に入城した。

 その軍勢はかつての秦の始皇帝の巡行を思わせるモノだった。


「亜父よ……」


 項羽は馬上で背筋を伸ばし、平伏す咸陽の人々を見ながら范増に声をかけた。


 范増は項羽の少し後ろにいたが、項羽のその声に馬の頭を並べた。


「はい」


 范増は項羽に頭を下げた。


「これで終わったな……」


 項羽はそう言うとゆっくりと范増を見る。


「項王。まだ終わってはござらぬ……」


 范増は視線を項羽から外した。


 まだ、終わりはせぬ……。

 項王の前に必ず劉邦は立ちはだかる。


 范増は咸陽の街を見渡した。


「項王。非礼を承知の上で、今一度進言致します。この度の論功行賞で劉邦を……」


「くどいぞ。亜父……」


 項羽は范増の言葉を遮った。


「しかし……」


「もう良い。劉邦など単なる泥臭い百姓に過ぎん。儂の敵ではない。そんな虫ケラを殺すなど何の意味も無い事だ……」


 項羽は前を見た。


「もうその話はするな……」


 そう静かに言った。


 范増は黙って目を閉じた。


 間違いなく近い将来、項羽は劉邦に煮え湯を飲まされる事になる……。


 范増はそう感じていた。


「申し訳ありませぬ……」


 范増は再び項羽に頭を下げた。


 この男にあの劉邦の脅威はわからんらしい……。


 范増は項羽の背中を馬上からじっと見つめた。






 咸陽城の前に百万近い楚軍が集結していた。

 従軍した者が中心なのだが、論功行賞を目当てに咸陽入城時に合流した軍勢も多数あった。

 その軍も合わせると約百万の楚軍が城の前に整列している。

 その中に劉邦の軍勢もいた。


 その百万の軍勢を、城門の上から項羽は眺めていた。

 そしてその項羽の前には秦の皇帝……、秦の最後の皇帝である子嬰が縄をかけられて立っていた。

 この子嬰は劉邦が咸陽に入城した際に劉邦に一度許された皇帝だった。

 しかし、項羽は劉邦とは違い、この子嬰を許す事はなかった。

 激情型の項羽はこの子嬰を斬り、秦の血を絶やしてこそ、秦を滅ぼしたという事になる。

 そう信じていた。


「子嬰よ……。何か言い残す事はないか」


 項羽は子嬰の背中にそう言う。


 その言葉に子嬰は静かに口を開く。


「私は、秦帝国の最後の皇帝……秦の幕引きのための皇帝。今更、命乞いは致しませぬ……」


 子嬰は項羽に背を向けたままそう言った。


「ほう……。命乞いもせぬか。胡亥ならば必死に命乞いもしたであろうな……」


 項羽は腕を組んでそう静かに言った。


「秦帝国は遅かれ早かれ、滅ぶ事はわかっておりました。しかし……」


 子嬰はそう言うとゆっくりと項羽を見た。

 その両目からは涙が溢れていた。


「しかし、項王……。秦が大罪を背負っている事は百も承知でございます。しかし……その罪は秦帝国の民にはございませぬ……。私の首級は差し上げます。ですから……許されるのであれば、秦の民の命、そして財産を救って頂けませぬか……」


 子嬰は膝を折り、頭を地面につけた。


 項羽は自分の前に平伏した秦の最後の皇帝、子嬰を見降ろしてニヤリと笑った。


「子嬰よ……。その秦帝国の皇帝としての最後の願い。それは見事である……」


 項羽はそう言うと剣をゆっくりと抜いた。


「項王……」


 子嬰は頭を上げた。

 そしてゆっくりと城門の下に整列する楚軍を見た。


「たとえ始皇帝が生きておられたとしても、楚軍……いや項王には勝つ事は出来なかったかもしれませぬ……。私は幕引きのための皇帝。この首級、喜んで差し出します……」


 子嬰はそう言うと城門の外に頭を出す様にして再び膝をついた。


 項羽は子嬰の後ろに立った。






 劉邦と蕭何は並んでその項羽の姿を見上げていた。

 百万の楚軍は物音一つ立てずにその項羽の光景を見守っていた。


「劉将軍……」


 蕭何は劉邦に小声で話しかける。


「項羽は、やはり子嬰を許さなかった様ですね……」


「そうだな……。項羽は俺とは違う。だが、ここで子嬰を許す事が正解か、許さない事が正解かは俺にもわからん……」


 劉邦は腕を組んで、じっと項羽を見ていた。


「子嬰を斬るという事は、項羽はこの咸陽を蹂躙するつもりでしょう。咸陽は火の海になりますな……」


 蕭何も項羽を見上げた。


「それを避ける事は出来ないだろうな……」


 劉邦は蕭何を一度見て、再び項羽を見た。


「俺の関中王など、夢のまた夢だ」


 劉邦はそう言うと苦笑した。


 その劉邦の後ろには張良と曹参、そして魏粛が立っていた。


 張良にも劉邦と蕭何の話しは聞こえていた。


 張良も蕭何と同意見だった。

 そして最後まで希望を持っていた。

 しかしその希望は見事に裏切られる。

 その最中にいたのだった。


 項羽が秦国を引継ぎ、治めるつもりがあるのであれば、子嬰が斬られる事はない。

 しかし、項羽は国を治める事になど微塵も興味を持っていない。

 ただ秦を滅ぼしたいだけの男である。

 張良にはそう見えたのだった。

 かつての張良も同じであった。

 韓の国を滅ぼし、自分の父を秦軍に殺された。

 故に張良は、自らの手で始皇帝を誅する事に命をかけていたのだ。

 韓の国を再興したいがためでは無かった。


 しかしその志も始皇帝の死をもって、消えて無くなったのだった。


「秦を憎んで、民を憎まず……」


 張良はそう呟いた。


 張良の横に立っていた魏粛は、その張良の言葉に微笑んだ。


「項羽にはそんな事はわかりますまい……」


 魏粛はそう言うと笑った。


「そうですね……項羽には逆立ちしても分からないでしょうね……」


 張良も魏粛も項羽から目を離せなかった。


「この後の論功行賞次第で、再びこの世は乱れる……。どうなるかは項羽……いや范増殿次第であろうと思われます。その結果次第で、我々が行く道は厳しいモノになりますね……」


 張良はそう言った。


「魏粛殿……。それでも天下を取るのは劉将軍だと思われますか……」


 張良はそう言うと腕を組んだ。


 魏粛は張良を横眼で見て微笑んだ。


「張良殿。今滅ぼうとしている秦、いや子嬰を生かそうとした劉将軍、逆にその子嬰を殺そうとしている項羽。どちらが人々の目に正しいと映るか、おわかりでしょう……。その質問は愚問ですよ……」


 魏粛は劉邦の後ろ姿をじっと見つめた。






 項羽は剣を握り直した。


「子嬰よ……。そなたが始皇帝の跡を継いでいたのであれば、秦はまだ滅ばずに済んだかもしれぬな……」


「ありがとうございます……」


 子嬰は覚悟したかの様に目を閉じた。


 子嬰は胡亥を毒殺した趙高を斬り、劉邦が咸陽に入城する直前に秦の皇帝に即位した。

 そして子嬰は即位した時から、秦国の幕引きのための皇帝だった。

 覚悟は出来ていたのだ。

 一度は劉邦に許された子嬰だったが、後に入城した楚軍本隊の項羽には許される事は無かった。

 項羽にとっては楚を滅ぼした憎き秦の血を継ぐ者であった。


「子嬰よ……。そなたの意志見事だ。この項羽、その意志に敬意を表そう。そしてそのお前の最後の願い……」


 そう言うと項羽は剣を振り上げた。


 とうとう項羽が秦を滅ぼす瞬間であった。


「そんなモノは聞けぬわ」


 項羽はそう言うと剣を振り下ろした。


 項羽の剣は子嬰の胴と首を斬り離した。

 秦帝国の滅亡の瞬間であった。


 子嬰の命をかけた願いは、項羽には聞き入れられる事は無かった。


「今、ここに秦帝国は滅んだ。この項羽の手で、皇帝、子嬰の首級を取った」


 項羽はそう言うと石畳の上に転がった子嬰の首を城門の下に蹴り落とした。


「皆の者……。この項羽が許す……。蹂躙せい……」


 そう言って血の付いた剣を振り上げた。


 その項羽の言葉に楚軍は歓声を挙げた。


 そして一気に百万の軍勢は咸陽の城内へなだれ込んだのであった。






 咸陽は百万の楚軍に蹂躙された。

 咸陽の街が燃える火は三カ月間消える事も無く燃え盛ったと言われる。

 刃向かう者はことごとく殺され、女は犯され、金銀財宝は略奪された。


 始皇帝が建てた阿房宮には、始皇帝のために中国全土から集められた美女が約五千人いたと言われている。

 その阿房宮にも火は放たれ、その火は遥か彼方からも咸陽の場所を記す目印になったという。


 その略奪に加担しなかった軍は劉邦の軍だけだった。






 楚軍が咸陽を蹂躙している中で、劉邦軍には少し変化が起きていた。

 曹参が病に伏したのだった。

 覇上の陣で曹参は床に伏し、自分の幕舎から出て来なかった。

 劉邦軍の兵士たちはその曹参を曹無傷の祟りだと噂した。


 劉邦もその噂を収拾出来ず、困り果てていた。


「陳平……」


 劉邦は苛立ち、卓をコツコツと指で叩きながら張良に並ぶ軍師である陳平に声をかけた。


 劉邦にとっては攻略の張良、守備の陳平として両翼を担っていたのだった。


「はい」


「本当に曹参の病は曹無傷の祟りなのか」


 劉邦は自分の前に跪いた陳平にそう聞いた。


「いえ……曹参殿の病は肺病だと思われます。決して祟りなどではありません」


 陳平はそう言うと顔を挙げた。


「肺病……。重いのか」


 劉邦はイラついていた手を止めた。


「軍医が申しますには、持って後、数か月の命かと……」


 陳平はそう言うと再び顔を伏せた。


 劉邦にとっては旧知の曹参。

 その曹参との思い出が劉邦の頭の中で駆け巡った。


「ならぬ。曹参を死なせてはならぬ。何としてでも助けるのだ……。奴は……曹参は俺の大事な仲間だ。沛にいた頃からの仲間なのだ。絶対に死なせてはならん。誰でも良い。幾ら金がかかっても、どれだけ人を使っても良い、曹参を助ける事が出来る者を探すのだ」


 劉邦は立ち上がりそう言った。


 陳平とその配下の者は、一斉に劉邦の幕舎から、蜘蛛の子を散らす様に出て行った。






 張良と魏粛は劉邦の幕舎へ向かっていた。


 そこに陳平が劉邦の幕舎から飛び出して来た。


「陳平殿……」


 張良は慌てる陳平に声をかけた。


「張良殿……」


「どうなされたのですか。何か慌てておられる様ですが……」


 張良は陳平の肩に手を置いて、諌める様に言った。


「今将軍より申し渡された……。何としても曹参殿を助けよと……」


 陳平は額に汗をかいていた。


 張良も魏粛も、曹参が病に伏しているという話は聞いていた。

 曹無傷の祟りだという噂が広まっている事も知っている。

 そしてもちろん二人ともそれが祟りなどではない事も……。


「私にもお話願えませんか……」


 張良は、自分の幕舎へ陳平を招いた。


 張良と魏粛は陳平から曹参の肺病の話しを聞いた。

 そして劉邦に何としても助けよと命じられた事も。


「何か手は無いモノか……」


 陳平はそう言うと卓の上の茶を飲んだ。


 張良と魏粛は顔を見合わせていた。

 この張良の幕舎の中には秦の書庫にあった木簡、竹簡が山と積まれていた。


 その木簡の山に陳平は気がついた。


「張良殿……。これは一体……」


「秦の作った資料です。測量の記録、法の記録、莫大な量です。今後、この中国を治めようと思うのであれば、この資料は役に立ちます。項羽の軍はこの資料には目も繰れませんでしたけどね……」


 張良は手を広げて陳平にそう言った。


「流石は張良殿……。恐れ入ります」


 陳平は張良に頭を下げ、敬意を表した。


「ありがとうございます。落ち着いたら一緒に研究しましょう」


 張良は嬉しそうにそう言って茶を飲んだ。


「陳平殿……曹参殿は、肺病と申されましたな……」


 魏粛が口を開く。


「はい。そなたは……」


 陳平は魏粛とは初対面であった。


「あ、陳平殿にはまだ紹介してなかったですね……。落ち着いたら劉邦軍の軍医補佐をして頂く事になっております魏粛殿でございます。今は私の客人ですが……」


 張良はそう陳平に魏粛を紹介した。


「魏粛と申します……」


 魏粛は頭を下げた。


「陳平殿の噂は聞き及んでおります」


「いえいえ。私などそんな……」


 陳平も少し冷静さを取り戻した様子だった。


「魏粛殿はどちらのご出身で……」


「はい。私自身は江東の生まれです」


「ほう。では魏無知殿とは御一族で」


 陳平は顔を上げてそう言った。


「いかにも。魏無知は我が遠縁にあたりますが……。ご存知なのですか……」


 魏粛は陳平の方を向いた。


「魏無知殿は劉邦殿に早くから従軍されております。人材を見出す目はこの劉邦軍随一だと思われます……」


 張良はそう言った。


「魏無知殿のご親戚でしたか……。この世も狭い……」


 張良は立ち上がり手を叩いた。

 張良の配下の者が幕舎に入り、膝をつく。


「お呼びでございますか……」


「魏無知殿をお招きしたいのだが、魏無知殿は今どこに……」


 張良は配下の者に言った。


「はい。西の陣におられると思います。お招き致しますか」


「頼む……」


 張良がそう言うとすぐに配下の者は出て行った。


「やはり魏粛殿は劉邦軍とは切っても切れない縁があるのですね……」


 張良は笑っていた。


「私も何度か魏無知とは会った事があるくらいで……」


 魏粛は張良と陳平に頭を下げた。


「そうでしたか……魏無知は劉将軍の下にいたのですね。いや……魏無知は一族でも変わりモノでして……。まあ、そういう意味では私も変わりモノなのかもしれませんが……」


 そう言うと魏粛は笑った。


「劉将軍と私を引き合わせて下さったのは、魏無知殿なのですよ。魏無知殿との縁が無ければ今の私はありませぬ」


 陳平はそう言って、手を隠し魏粛に拝した。


「私も劉将軍と会う前に、偶然、魏粛殿のご主人にお会いしました。魏粛殿と同胞の李門殿にも……。その後、行軍されている劉将軍と偶然お会いしたのです」


 張良はそう言うと椅子に座った。


「ここには運命を背負った人々が集まっている。それが項羽の軍と劉邦軍の大きな違いです。劉将軍の下には何かしらの運命を背負った人が集まっています……そうは思いませんか……」


 張良は二人に微笑んだ。


「この中国は狭い。それを感じますな……」


 陳平は立ち上がり、張良と魏粛の前を歩いた。


「もちろん、そんなに狭いとは思いませんが、優秀な人材を辿って行くと、この世界はやけに狭く感じます……。それだけ優秀な人材は少ないという事なのでしょうか……」


 陳平は二人に背中を向けてそう言った。






 天下の名軍師二人。

 この劉邦の下に揃っている。

 それは後に、この劉邦が中国を統一したからこそ名軍師と呼ばれたのかもしれない。 


 しかし、この時代の人々の功績が、後の中国の覇権争いの元になった事は言うまでもない。


 魏粛もその劉邦の軍に合流した。

 そしてその劉邦軍には魏粛の縁者である魏無知もいた。


「おお……。魏粛ではないか……」


 魏無知は幕舎を潜るとすぐに魏粛に気づいた。


「お久しぶりでございます。魏無知殿」


 魏粛は目上の魏無知に拝した。


「いつ以来かの……」


 魏無知は魏粛の手を取り微笑んだ。


「魏這叔父の葬儀以来かと……」


 魏粛もそう言うと魏無知の手を握り返した。


「おぉ、そうか……。では六年になるかの……」


「はい。それ位かと……」


 魏粛は魏無知の両手を握ったまま何度も頭を下げた。


「いや……こんなところで親戚縁者に出会うとは思わなんだ……」


 そう言うと魏無知は上機嫌だった。


「魏無知殿、魏粛殿はこれから劉邦軍の軍医補佐官として従軍して頂くつもりなのです」


 張良はそう説明した。


「なんと、劉将軍について頂けるのか。それは有難い。拙者も心強いというモノだ」


 魏無知は喜び、声を出して笑った。


「軍医補佐官とおっしゃられたが……医者の心得をお持ちなのか」


 陳平は魏粛を見上げてお茶を飲んだ。


「いえ。私は薬の方が専門でして……」


 魏粛は頭を下げ、


「咸陽の祭家の六男、祭承殿に江南の地で学びました」


「ほう。先代が祭傳とか申したな……。始皇帝も、祭家の薬を飲んでいたという話だったが……」


 陳平は少し考えていた。


「はい。その様です。しかし今回の咸陽陥落で跡形も無く祭家も蹂躙されてしまった様子です……」


 魏粛は祭家だけは守ろうと、張良に頼み、祭家の前に兵を待機させていた。

 しかし名家である祭家。

 屋敷も大きく目立つ。

 貴族の屋敷同様に標的とされ、二百の兵で守っているところに四千の楚軍が殺到し、防ぎ様が無かった。

 祭家の住人は避難させてあったので問題は無かったが、屋敷や薬などには火を放たれ全焼した。


「ひどい事をしよる……。項羽め……」


 魏無知は眉間に皺を寄せ、陳平の向かいに座った。


 陳平は、その話が聞こえていない様子で、考え事をしていた。

 それに魏無知は気づく。


「どうした。陳平殿」


 陳平は我に返り顔を上げた。


「魏粛殿。曹参殿の肺病の話なのだが……」


 陳平は魏粛を見た。


「なに……。曹参殿は肺病なのか」


 魏無知が驚き、そう言った。


「その様ですな……」


 張良は棚から酒を持って来た。


「皆さん一杯いかがですか……」


 そう言うと、盃を四つ並べて酒を注いだ


「曹参殿はもう助からんのか……。劉将軍が沛におられた頃からのお仲間じゃ……さぞかし嘆かわしかろう……」


 魏無知はそう言うと、張良の注いだ盃を取り、飲んだ。


 この魏無知は大の酒好きである。

 そしてこの陳平も……。


「助かる可能性はあります。あくまで可能性ですが……」


 そう言ったのは張良であった。


「まことか……」


 陳平は盃を置いて張良を見た。


「はい」


 張良はそう言うと棚に置かれた木箱を取り出し、卓の上で開けた。

 その中には鹿革で出来た袋が入っていた。


「張良殿……」


 笑みの消えた魏粛は、張良を制しようとしたが、それに気付いた張良は逆に魏粛を制した。


「魏粛殿……おっしゃりたい事は分かっております。しかし方法はこれしかないでしょう。多分、曹参殿の肺病を治せる医者は見つかりますまい……」


 張良は袋を下げて、陳平と魏無知の座る卓に戻った。

 魏粛はその張良の後ろに立った。


 張良は魏粛の顔を伺った。

 魏粛は不安そうに眼を細めて眉間にしわを寄せていた。


「ここに萬能丹という薬があります」


 張良はそう言うと革の袋を掲げた……。






 陳平と魏無知は夏でもないのに、こめかみに汗を浮かべていた。


 卓の上に置かれた革の袋の口は閉じられたままだった。


「この薬……。これで始皇帝は殺されたのか……だとすれば……」


 陳平は吐き出す様に言う。


「そうとも言えます。しかし、この薬で助かった人もいるのです……」


 張良は二人を諭す様に言った。


「しかし……」


 陳平は不安を拭う事が出来なかった。


「確かにこの薬「萬能丹」は諸刃の剣です。その患者に体力があれば病は完治し、体力が無ければ、そこで死ぬ事となるでしょう」


 張良は立ち上がった。


「始皇帝はこの薬を飲んだ時、既に病が進行し体力も無かったのではないかと思われます。曹参殿はどうでしょうか……。まだ若く、百戦錬磨の武将です。人一倍の体力の持ち主。私は必ず助かる気がするのですが……そうは思われませんか」


 張良は幕舎の中を歩き回った。


「しかし、もしもの事があれば、劉将軍はお嘆きになるだろう……。なにせ、曹参殿は沛におられた頃からのお仲間ですからな……」


 魏無知は張良を目で追いながらそう言った。


 一人黙っていたのは魏粛だった。

 目の前に置かれた「萬能丹」は魏粛のモノではない。

 これは同胞の李門が持っていたモノだ。

 李門は始皇帝の巡行の時にこの薬を献上し、実際に始皇帝はその薬を飲んだ。

 そして死んだ。

 その薬は始皇帝から宦官の趙高へ渡り、秦の宝物庫に眠っていた。

 それを張良はいち早く見つけ、保管していたのだ。


 魏粛は張良という人物をよく理解していた。

 私利私欲のためにその薬、「萬能丹」を持ち出したのでは無い事はわかっていた。

 使おうと思って持ち出したのか、封印しようとして保ち出したのかはわからなかったが……。


 魏粛も五十三粒の萬能丹を持っている。

 もちろん一粒も使っていない。

 自分が生きている間は使う事もないだろうと思っていた。


「魏粛殿は、どう思われる」


 陳平は魏粛に話しかけた。


 その声に魏粛は我に返った。


「はい……。私は……私は……」


 魏粛は言葉に詰まった。

 張良、陳平、魏無知の視線が刺さっていた。

 そして、張良はすべてを魏粛に委ねた様に頷いた。


 魏粛は張良をしっかりと見て、口を開いた。


「劉将軍にこの萬能丹を正式に献上致しませんか。すべてを劉将軍に委ねましょう」


「なるほど……。劉将軍に……。それは良いかもしれぬな……」


 陳平はそう言うと手を叩いた。

 魏無知も手を叩いて頷いていた。


「ではそう致しましょう」


 張良はそう言うと卓の上の袋を手に取った。


「良いのですね……。魏粛殿」


 張良は念を押した。


 魏粛は張良の目を見て強く頷き、


「劉将軍であれば誤った使い方はなさらぬでしょう。私は劉将軍を信じます」


 そう言った。







「なに……。曹参が助かるのか……」


 劉邦は勢いよく立ち上がった。


「はい。あくまで可能性の問題ですが……」


 劉邦の前には張良、魏粛、陳平、魏無知が並んでいた。


「何でも良い。曹参が助かるのであれば、俺は何でもする」


 劉邦はそう言うとその四人の前に胡坐をかいて座った。

 少しイラついている様子は魏粛にも伝わって来た。


「どの様な方法だ。説明してみろ……」


 劉邦はそう言うと腕を組んだ。


 張良は魏粛の顔を見て、一度ゆっくり頷いた。


「私が説明します」


 張良はそう言うと、自分の後ろに置いていた革の袋を劉邦の前に差し出した。


「これは何だ……」


 劉邦はその袋を手に取った。


「萬能丹という薬でございます」


 張良は劉邦をしっかりと見ていた。


「萬能丹……。聞かぬ名前の薬だな……。この薬で、曹参の病は治るのか……」


 劉邦は顔をほころばせた。


「はい。その可能性がございます」


「可能性だと……。治らん事もあるという事か……」


「はい……」


 張良は頭を静かに下げた。


「それでも良い。可能性のある事はすべて試してみようではないか……」


 劉邦はその袋を手に、早速曹参に飲ませようと立ち上がった。


「お待ちください……。劉将軍」


 張良は片膝を立てて劉邦を制した。


「まだお話が残っております」


「何だ。一刻も早く曹参の身体を治したいのだ……」


 劉邦は張良を見た。

 そこにいる張良の目は真剣で劉邦に突き刺さる様だった。

 劉邦は、仕方なくその場に再び胡坐をかいた。


「劉将軍……。その薬は始皇帝も飲んだモノと思われます。秦の宝物庫で見つけました」


 張良は静かに座り直した。


「そんな事は良い。この薬で曹参の肺病は治るのだな……。治る可能性があるのだな……」


 劉邦はすぐにでも曹参のところへ行こうとしている様子だった。


「はい。確かにその薬で曹参殿の病は治る可能性があります。しかし……」


「しかし。何だ……」


 劉邦は動きを止めて、張良たちを見た。


「はい。しかし、その薬で曹参殿が命を落とされる可能性もあります」


 張良のその声は幕舎の中に響いた。


 劉邦は袋を見つめて、少し考えていた。


「毒にも薬にもなる……というヤツか……」


 劉邦は袋を自分の前に投げ出す様に置いた。


「はい」


 張良は劉邦の方を向き直した。


「この薬は普通の薬ではございません。いわゆる仙人丹と言われる薬です」


 劉邦は張良を見た。


「仙人丹だと……。仙人が作ったと言うのか」


「左様でございます」


「ならば、曹参の病も治るのでは……。早く飲ませてやろうではないか……」


 せっかちな劉邦は再び立ち上がろうとした。


「お待ちください。この薬は確かにどんな病でも一粒で治す事が出来ます。しかしそれと同時に病が治るまでの間、激痛を伴うのです。その激痛に耐え切れない場合……。命を落とす事もあるのです……」


 張良は捲し立てる様にそう言った。


「何だと……」


 劉邦の顔色が変わったのを四人は見た。


「その薬で曹参殿が病んでおられる肺は必ず治ります。しかし治るまでの間、曹参殿の肺には激痛が走り、苦しむ事でしょう。その激痛に曹参殿が耐え切れない場合、絶命する事もあるのです……」


「何という……。何という薬なのだ……」


 劉邦のこめかみから一筋の汗が流れた。


「俺は俺の手で曹参を殺してしまうところだったかもしれぬ……」


 そう言った。


「曹参殿にその激痛に耐えうる力があれば、確実に病は治ります」


 幕舎にはしばらくの沈黙が走った……。


「お前たちはどう思う……。これを曹参に飲ませるべきか……」


 劉邦がその沈黙を破った。


「なりません……。その様な薬を曹参に飲ませる事は反対でございます」


 幕舎の入口でそう言ったのは蕭何だった。


「蕭何……」


 劉邦は蕭何に気づき、立ち上がった。


「劉将軍……。古来薬とは、じわじわと人の体に効き、ゆっくりと病を治していくモノです。今の話を聞きますと、その薬は急激に人の身体に変化を及ぼすモノであると思われます。もしや……始皇帝はその薬を飲み、それが原因で死んだのではないでしょうか……」


 蕭何は、劉邦たちの傍まで歩きながら言った。


「そうなのか……」


 劉邦は張良を見た。


「その可能性は大いにございます」


 張良はそう言うとゆっくりと頭を下げた。


「この薬で病を治した者はおるのか……」


 張良はその言葉に魏粛を見た。

 魏粛もそれに気付いた。

 魏粛は、ゆっくりと息を吐く。


「私の主人、祭承がその薬を飲み、病を克服致しました」


 魏粛はゆっくりと頭を下げながらそう言った。


「魏粛……。それはまことか……」


 劉邦は魏粛を見た。


「はい。間違いございません」


「ならば……」


 劉邦は呟く様な声で、


「ならばこの薬で生きるか死ぬかは五分五分という事か……」


「しかしその薬を飲んだ事のある者が二人だけとは……、少々危険ではないかと……」


 陳平は続けた。


「将軍……いかがでございましょうか……。兵卒の中から病んでいる者を選り出し、その薬を飲ませてみては……」


「陳平殿……」


 張良はその言葉を遮った。


「それは余りに安直過ぎます。その様に乱用すべき薬ではございませぬ」


「しかし、このまま曹参殿にこの薬を飲ませるには……」


 陳平は立ち上がり張良を見た。


「いや……俺が飲む……」


 とその二人を制して劉邦は立ち上がった。


「将軍……それはなりません。兵卒は多くございますが、将軍は無二の存在。もしもの事がございましたら、この軍を如何なされるおつもりですか……」


 その劉邦を蕭何が止めた。


「ならば、どうすれば良いのだ……」


 劉邦は苛立っていた。


「あの……」


 その時だった。幕舎の外から声が聞こえた。


「あ、忘れておりました……。将軍……。紹介したい人材があります」


 蕭何はそう言うと、その声の主を招き入れた。


 劉邦の前に跪き、その男は頭を垂れた。


「韓信と申します」


 蕭何はその韓信の横に回り、肩を叩いた。


「この韓信。先日まで項羽の軍におりましたが、その項羽軍を抜け、我が軍に参入したいと先程やって参りました」


 蕭何はそう言うと劉邦に頭を下げた。


「韓信とやら……」


 劉邦は座り直し、韓信にそう声をかけた。


「はい……」


「顔を上げろ」


 劉邦は韓信の顔をじっと見ていた。


「お主……どうして項羽の軍を辞めたのだ……」


 韓信は今一度、頭を下げて、


「項羽の匹夫の勇、婦人の仁にはことごとく愛想が尽きました。それに加えて今回の咸陽での暴虐ぶり……。項羽に天下は取れないと考えました……」


 韓信は震えていた。

 この何でもない男、劉邦の前で小さく震えていたのだ。

 それは韓信自身も不思議だった。

 劉邦がとても大きく見えたのだ。


「ほう……ならば、俺は天下を取れる男か……。韓信よ。答えろ……。俺は天下が取れる男なのか……どうなのだ」


 韓信は顔を上げてニコリと笑った。


「将軍が将軍の下に集まる人材を、誤る事なく使えるのであれば……間違いなく天下は取れましょう……」


 韓信は再び頭を下げた。


 劉邦は、韓信の前に腕を組んで立ち上がった。


「面白い男だ……。しかし俺は次の論功行賞でどうなるかわからんぞ……。我が軍に滞在するのは良いが、そなたに充分な禄を渡せんかもしれん……。それまでで良ければ、取り敢えず我が軍に滞在しろ」


「ありがとうございます……」


 韓信も深々と頭を下げた。


「あの……」


「なんだ……まだ何かあるのか……」


 劉邦は頭を下げたままの韓信を見た。


「その薬……私めが飲ませて頂きます」


 韓信はそう言った。


「何と……。韓信とやら……そなた……」


 陳平は韓信を見た。


「失礼ながら、外で待たせて頂いておる時に皆様の話が聞こえて参りまして……。力になれるモノであればその薬……私が飲ませて頂きます……」


「韓信……お主、わかっておるのか……」


 蕭何は韓信を心配してそう言った。


「はい」


 韓信は顔を上げて、息をついた。


「私であれば、新参者でございます。その薬で命を落としたとしても将軍の軍にとっても問題はございますまい。それに、私は大志を抱く者でございます。その程度で死ぬのであれば、その大志も叶う筈もないモノ……。もちろん……そんな薬如きで死ぬ気は、毛頭ございませんが……」


 韓信はそう言って微笑んだ。


 その韓信を劉邦は黙って見ていた。


 そして大声で笑った。


「韓信。面白いのぉ……。実に面白い」


 劉邦は韓信の前に膝をついた。


「よし。お主……飲んでみよ。万が一お主に何かあった時は俺に後の事はすべて任せよ」


 劉邦のその言葉に韓信は頭を下げた。


「あいにく私には妻も子供も、両親もおりません故……ご心配なく……」


 韓信はそう言った。






 魏粛の提案で樫の木を削って、舌を噛まない様に口に咥えるモノを準備した。

 今で言うマウスピースである。


 魏粛はそれを韓信に渡した。


「これを口に咥えて下さい。舌を噛まない様に……」


 韓信は素直に受け取り口に入れた。


「そんなに苦しいのですか」


 張良は魏粛に聞いた。


「私も見た事は無いのですが……。祭承が言うには本当に死ぬ思いだと……」


「そうですか……。本当に恐ろしい薬なのですね……。しかし不老不死の薬でもある」


 そう言うと張良は魏粛に笑いかけた。


 韓信は樫の木のマウスピースを手に持ってじっと見つめていた。


「あの……」


 韓信は魏粛に声をかけた。


「はい。何でしょう。韓信さん」


「もし、私にどこも悪いところがない場合は、どうなるのですか……」


 魏粛と張良は顔を見合わせた。


「なるほど……。韓信殿ならどこも悪くないという事もありえますね……」


 そう言うと笑った。

 それにつられる様に魏粛も笑い出した。


「何がおかしいのですか」


 韓信はニコニコと微笑みながら寝台に横になった。


「ごめんなさい。いや……考えてもみませんでしたが……初めて、韓信さんならそれがあり得ると思いまして……」


 魏粛は笑いながらそう言った。


「しかし人はそれなりにどこか悪いのではないかと思います。腹が痛くなる事などありませんか」


「無い……ですな……」


「頭が痛くなる事は……」


「無いです」


「疲れやすい事などは……」


「いえ……ありません」


 魏粛は張良を見た。

 韓信はもしかするとまったくの健康体なのかもしれない。

 そして再び二人で声を出して笑った。


「では、さっさとその薬を飲んでしまいましょうか……」


 韓信は寝台の上でそう言った。


「馬式。すまぬが劉将軍たちを呼んで来てくれないか……」


 張良は部下の馬式に命じた。


「承知致しました……」


 馬式はすぐに幕舎を出て行った。


 韓信が萬能丹を飲んだ夜は、劉邦をはじめ、蕭何、張良、魏粛、陳平、魏無知が一晩付き添う事になった。

 寝台は韓信の手足を縛りつけて固定出来る様になっている。

 苦しさの余り韓信が暴れて傷つかない様にという配慮である。

 しかし、それを韓信は、


「必要ないですよ。私には……」


 それだけ言ってその縄を解いた。


「韓信。本当に良いのか」


 劉邦は腕を組んで立っていた。


「はい。男に二言はありません。薬で死ぬのも、雑兵に槍で刺されて死ぬのも、そう変わりはありません。そんな事で死ぬのならば、私もそこまでの男だという事です」


 韓信はそう言うと声を出して笑った。


「劉将軍」


 その時、幕舎に夏候嬰が入って来た。


「曹参殿の容態が……」


 劉邦の傍に歩み寄りそう言った。


「何だと……」


 劉邦は腕を組んだまま、目を閉じた。


「私が様子を見て参ります」


 蕭何は、夏候嬰と一緒に出て行った。


「劉将軍。早く薬を……。曹参殿を早く救わなければ……」


 韓信は天井を見たままそう言った。


「韓信殿……」


 張良と魏粛、陳平、魏無知は韓信の寝台を囲む様に立っていた。


「よろしいですか……」


 張良は劉邦を見た。


 劉邦は目を開いた。


「張良……」


 張良は劉邦を見て頷いた。


「では……」


 張良は手に持った袋から萬能丹を一粒手の平に取り出した。

 そして、寝台の横に置いた器を取り、韓信へ渡した。


「韓信殿……。この薬を飲むとどうなるのか。ここにいる誰もが知らないのです。どんな事があっても私たちはあなたを助けます」


「ありがとうございます。しかし、私の体の中で、なにか起こっても助けてもらえるはずはない。覚悟は出来ております」


 韓信は上半身を起こし、薬を受け取った。


 劉邦は韓信に歩み寄った。


「韓信。頼む……。お前しか曹参を助ける事は出来ん……。頼むぞ。必ず生きて帰って来てくれ……」


 劉邦は韓信に微笑んだ。


「わかりました。では行って参ります」


 韓信も微笑み、萬能丹を口に放り込んだ。

 そして器に入った水を、口の端からダラダラとこぼしながら、一気に飲み干した。

 その場にいた者たちはその韓信の行動を瞬きもせず、じっと見つめていた。

 一瞬の韓信の行動、それはその場では長い時間に感じられた。


 韓信はゆっくりと寝台の横の卓に器を置いて、寝台に再び大の字になった。


「大丈夫ですよ、私は……。皆さんも休んで下さい」


 韓信はそう一言だけ言うと目を閉じた。






 萬能丹は韓信の喉を通り胃へ入る。

 その胃で弾ける様に万能丹は溶け、韓信の体はそれを吸収していった。

 そしてその成分は韓信の体の隅々まで広がるのだ。

 韓信の血管を流れる血液と共にその成分は広がっていく。

 皮膚、臓器、脳にまで……。


「何も起きませんな……」


 魏無知は陳平に小声で言った。


「うむ……。薬だからな……もう少し時間がかかるのかもしれんな……」


 陳平は微笑みながら魏無知を見た。


 張良と魏粛は壁際に立ち、じっと韓信を見つめていた。


「韓信殿はまったくの健康体かもしれませんね……」


 張良は魏粛に微笑んだ。


「そうかもしれません……」


 魏粛も微笑んだ。


 萬能丹。

 どんな病でも治してしまう薬。

 しかしその薬が効き始め、治るまでにその患部に激痛が走る。

 その激痛に耐え切れずに命を落とす者もいるという。


 今、その場にいた者たちはその瞬間を見る事となるのだ……。


 その時、韓信は目を開けた。


「どうした……」


 劉邦は急いで韓信に歩み寄った。


「韓信」


「いえ……何でもありません」


 韓信は目を見開いてそう言った。

 しかし次の瞬間、韓信は顔を歪め、口の端から血を流したのだった。


「韓信」


 劉邦は韓信の手を握った。


「いかん……。陳平殿、魏無知殿、韓信殿の足を押さえて下さい」


 張良は韓信の左腕を握った。


「騒がないで下さい。私は死にませんよ。曹参殿を助けるのです……」


 韓信はそう言って力なく微笑んだ。


 次の瞬間、韓信の体は大きく震え、すごい力で両手両足を持ち上げる。


「うぅっ……」


 韓信は声にならない短い呻き声を上げた。


 四人は韓信の両手両足を、必死に押さえ続けた。

 次の瞬間、韓信の体から力が抜け、崩れる様に気を失った。


 魏粛は素早く韓信の脈を取った。


「大丈夫です。韓信さんは生きています」


「ここまで危険だとは……」


 陳平はそう言うと額の汗を拭い、膝をついた。


 張良は韓信の服を開いた。

 韓信の肝臓の辺りが青く腫れ上がっていた。


「多分、ここですね……。韓信殿が病んでいた部分は……」


「なるほど……。肝の臓だな……。酒の匂いがする。韓信殿も酒に身を滅ぼしていたのであろう……」


 魏無知は韓信の体を覗き込んでそう言った。


「どうなんだ……。張良……。韓信は戻って来るのか……」


 劉邦は張良の後ろに立った。


「魏粛殿……」


 張良は魏粛の顔を見た。

 魏粛の額には汗が浮いていた。


「韓信さんの病は、死ぬ程のモノではない。だからこの程度で済んだのだと思います。恐らくもう大丈夫です」


 魏粛はそう言うと桶で手を洗った。


「しかしこれで、恐ろしい薬だというのはわかりました……。いかが致しますか……曹参殿に飲んで頂くのですか」


 劉邦は再び黙って目を閉じた。

 劉邦の記憶が走馬灯の様に蘇る。


 曹参は劉邦たちが沛にいた頃からの仲間だった。

 曹参は蕭何が役人をしている時に、蕭何と共に何度も劉邦を助けた事があった。

 劉邦に命の危険が及ぶと、その都度色々と劉邦に罪を着せ、一番安全な牢獄に収監し、命を救ったのだった。

 そして劉邦を沛公にさせたのも、蕭何と曹参だった。


「とりあえず、今は韓信が帰って来るのを待とう……」


 劉邦はそう言うと幕舎の隅に置いてあった椅子に腰かけた。


「お前たちも少し休め……。もう韓信にも暴れる力は無かろう……」


 四人は劉邦に頭を下げた。






 韓信は夢を見ていた。


 若い頃から韓信は貧しい家で生まれ、育ちが良くないと蔑まれて生きてきた。

 そのために志は高くても、仕事は無かった。

 剣の腕は右に出る者はいない程立つと噂されていたが、韓信が剣を抜いたのを誰も見た事が無かった。


 ある日、街を歩く韓信はその街で有名なゴロツキたちに囲まれた。


「おい。木偶の棒」


 韓信はそのゴロツキの首領らしき男に呼び止められた。


「私は韓信という名前を持っている」


 韓信はニコニコしながらそう答えた。


「お前は名前も剣も持っているだけで使う事がねぇじゃねぇか」


 男がそう言うと周囲のゴロツキも一緒に声を出して笑った。

 そして、韓信も一緒に笑ったのだった。


「面白い事を言うね。本当にその通りだ」


 韓信は更に大声で笑った。


「剣は錆びない様に磨いているが、名前も磨いておかないといけませんね」


 韓信の言葉にゴロツキたちの笑いは止まった。


「貴様……。俺たちを舐めてるのか」


 ゴロツキの首領は背の高い韓信を見上げる様にそう言う。


「お前のその剣。本当に錆びてないかどうか見てやろう。今すぐその剣を抜いて、俺を斬ってみろ。その剣で人を斬れるのかどうか俺で試させてやる」


 韓信は変わらずニコニコしながら、その男を見ていた。


「どうした。抜けないのか。その立派な剣は見かけ倒しか。ほら、その剣を抜いて俺を斬ってみろ。韓信よ。俺も斬れない、仲間にもなれないじゃ……この街でどうやって生きて行くんだよ」


 そう言うとまた男は笑った。


「どうした韓信よ。泣きそうになったか」


 周囲に街の人々が集まって来た。

 そのゴロツキ共には街の人々も手を焼いていた。

 その場で韓信がそのゴロツキの首領を斬ってくれればと微かな希望も持っていた。


「韓信……」


 韓信の近くにいた老婆が小さな声で韓信の名前を呼んだ。

 韓信が幼い頃から飯を食わせてもらっている老婆だった。


 韓信はその老婆に飯を食わせてもらう度に、


「いつかこの恩に報いるからな」


 と言っていた。


 しかしその老婆は、


「アンタには何にも望んじゃいないよ。何か出来るとも思ってない。ただ、哀れだから飯を恵んでやってるだけさ。ほら、食ったらさっさと帰れ」


 そう笑いながらいつも言っていた。


 その様に、韓信に気をかける人々は多くあった。

 皆、口ではそう言いながらも、韓信に希望を持っていたのだった。


 韓信は剣に手をかけた。

 その行動に一瞬、周囲は息を飲んだ。

 ゴロツキたちも剣に手を添えて構えた。


 しかし、次の瞬間、韓信は腰に差した剣を地面に置き、膝をついた。


「すみません。私はあなたを斬る事が出来ません」


 韓信は手を地面についてそう言った。


 ゴロツキたちは顔を見合わせ、緊張を解き、大声で笑った。

 その笑いと共に韓信を蔑み罵る。

 それでも韓信は頭を下げたままだった。


「よぉ韓信。じゃあ今日は許してやるから、俺の股を潜れ」


 ゴロツキの首領はそう言った。


 韓信はピクリと動いた。

 股の間を潜れとは屈辱である。

 周囲の人間も流石にそれには韓信も怒り狂うだろうと思った。


「韓信が剣を抜くぞ……」


「まずいぞ……」


 などと口々に言っていた。


「どうした韓信……。剣も抜けない、股も潜れないか……。泣いて謝るか」


 首領の男はそう言うとまた笑った。

 その笑いに続く様にゴロツキたちは韓信を罵った。

 韓信はゆっくりと顔を上げ、ゴロツキたちを見まわし、ゆっくりと息を吐いた。


「仕方ありませんね……」


 韓信はそう言うと、自分の前に置いた剣を取った。


 ゴロツキたちも街の人々も再び構えた。


「なんだ。やるのか、この野郎」


「てめえ、一人でこの人数相手に、勝てると思っているのか」


「来いよ。叩き斬ってやるよ」


 ゴロツキたちは剣を抜いて、韓信に剣先を向けていた。


「韓信が剣を抜くぞ……」


「血の海になるぞ……」


 街の人々にも、韓信の強さは伝説の様に囁さやかれていた。

 何事にも動じない様子は、まさに達人の様にも見えたのである。

 当時は秦の悪政の最中である。

 そういう若い者に希望を持つのも、その当時の楽しみだった。


「韓信。斬ってやれ。お前の強さ思い知らせてやれ」


 韓信のすぐ傍に立っていた老婆は、杖を振り上げてそう叫んだ。

 その老婆の言葉で堰を切ったかの様に街の人々は叫び出した。


「やれ韓信」


「そうだ。そんな奴ら叩き斬ってやれ」


「俺はお前に賭けたぞ。負けるな」


 などと声が飛び交う。


 韓信はその声を背負いながら、剣を杖代わりにゆっくりと立ち上がった。


 韓信は身長も高く、ゴロツキたちを見降ろす様に立った。


「ごめんなさいよ……」


 韓信はそう言うとゴロツキの首領の股の間を這い蹲って潜った。


 周囲はその光景に唖然とした。


「韓信……」


 街の人々は、そのゴロツキの首領の股を潜る韓信に、失望の声を漏らした……。


「心底見損なったぜ……」


「あーあ。馬鹿らしい」


「本当に根性無いんだな……」


 などと街の人々もその場を散って行った。


「情けないな。韓信」


 ゴロツキの首領はそう言うと、韓信に唾を吐きかけた。


「てめえなんてうちの下っ端にもいらねえや。ほら行くぞ」


 そう言うとゴロツキたちは、口々に韓信を罵りながらその場を去って行った。


 その間、韓信は四つん這いのまま黙って下を向いていた。

 ゴロツキたちがいなくなると韓信はゆっくりと立ち上がり、膝の土を払った。


 街の人々もほとんどいなくなっていた。

 韓信はそれを見て肩で息をつき、その場を立ち去ろうとした。


「情けないね。韓信」


 老婆はそう言うと持っていた杖で韓信の脛を力任せに思いっきり叩いた。

 韓信は痛がって脛を押さえた。


「痛てぇな……婆さん。何をするんだよ」


 韓信は脛を擦りながら老婆にそう言った。


「何でアンタは、あんなゴロツキくらい簡単に斬れる腕を持っておきながら……何を股潜ってるんだい。情け無いったらありゃしないよ……。私が今までどれだけアンタにタダ飯食わせたと思ってるんだい」


 老婆は、何度も何度も杖で韓信を叩きながらそう言った。


「痛い。婆さん痛いよ」


 韓信は、その場に蹲る様に身を庇った。


「私の胸の痛みはこんなもんじゃないよ」


 老婆が杖を振り上げた時に、韓信は後ずさりして、近くの軒下の水桶に背を付けた。


「もう勘弁してくれ。痛いから……」


 老婆も諦めて、ゆっくりと韓信の傍に歩み寄った。


「お前のハッタリにはみんな騙されたよ。それだけじゃない、夢も希望も打ち拉がれた気分だよ……」


 老婆はそう言うと、蹲る韓信の前にしゃがみ込んだ。


「いつかアンタが、秦からこの街を救ってくれると思ってたんだけどね」


 韓信はゆっくりと顔を上げた。

 そして老婆の顔を見てニッコリと笑った。


「本当に私たちは何を見ていたんだろうね。情けないよ……まったく」


 老婆の目には涙が滲んでいた。

 自分の子を見る様な目だった。

 韓信はその涙を見逃さなかった。


「婆さん。いつかその夢叶えてやるよ」


 韓信は静かに言った。


「ふん。腕もない奴が何を言ってるんだい。情けない男だよ。口だけの木偶が……」


 老婆はそう言うと杖をついて立ち上がった。


「木偶か……そうかもしれんな」


 韓信もそう言って立ち上がった。


「でもな、婆さん。俺の恥なんて一時のモンだ。俺の持っている志は一生モンだ。こんなところであんな奴らを斬り殺しても何の得もない……。それどころか、アイツら全員殺すまでその憎しみ合いは終わらない。それは誰が得するんだろうな……」


 韓信は老婆に背を向けて歩き出した。


「それでも男を立てる必要のある時があるんじゃないのかい。アンタにはその意地はないのかい」


 老婆は韓信の背中に言った。


「婆さん。今日はすまなかった。けどな、意地じゃ飯は食えんのよ」


 そう言うと、夕陽を背に、振り返り韓信は笑った。


「今も食えて無いじゃないか……」


 老婆は韓信の笑顔に微笑み返した。


「意地で飯が食えないなら、私が食わしてやる。いつでもおいで。股潜りの韓信」


 韓信は、後ろ手に手を振って歩いて行った。






 韓信は目を開けた。


 強い朝の光が幕舎の入口から差し込んでいた。


 その韓信に張良と魏粛が気付いた。


「韓信殿……」


 張良はゆっくりと立ち上がり、韓信が横たわる寝台の傍へと歩く。

 魏粛も後に続いた。


「私は生きているのですね……」


 韓信は呟いた。


「はい。もちろんです」


 張良は韓信に微笑みかける。


 劉邦、陳平、魏無知、そして途中で曹参の容態を見に行った蕭何、夏候嬰、みんな韓信の周囲で眠っていた。


「夢を見ました。昔の夢を……」


 韓信はゆっくりと起き上がり、寝台の横に会った器の水を飲んだ。


「私の今があるのは、私を支えてくれた人々がいたからです。それを思い出しました」


 韓信は、はだけた服を剥ぐ様に取った。

 汗でビショビショになっていた様だった。


「どこも痛いところはありませんか」


 魏粛はそう韓信に聞いた。


「ええ、大丈夫です。ありがとうございます。起きていて下さったんですね……」


 韓信は張良と魏粛に頭を下げた。


「いえ……。韓信殿が命をかけて、劉将軍の仲間を救おうという気持ちに、私たちは打たれました」


 張良は韓信の手を取った。


「朝食を準備します。そのまま少し休んで下さい」


 張良は馬式を呼びつけ、朝食を持って来させるように命令した。


 韓信は再び寝台に横になった。


「劉将軍、劉将軍……」


 魏粛は劉邦の耳元で囁き、劉邦を起こした。


 その声に劉邦は慌てて起き上がった。


「どうした。韓信は無事か」


「はい。先程目覚められました。もちろん、無事に……」


 魏粛がそう言うと劉邦の顔から笑みがこぼれた。


「そうか……」


 劉邦は立ち上がり、韓信の傍に歩いた。


「韓信。よくやってくれた。礼を言う」


 劉邦は韓信に深々と頭を下げる。


 韓信も劉邦の顔を見て、


「いえ……。家臣としては当然の事です。こうやって皆さんが私に付き添って頂いただけでも嬉しい事です」


 韓信は起き上がり、劉邦に頭を下げた。


 劉邦は無言で頷いた。


「おい。皆、起きろ。韓信が目覚めたぞ」


 劉邦のその声に、陳平、魏無知、蕭何、夏候嬰が次々と起き上がった。

 そして皆が口々に韓信に声をかける。

 韓信は笑っていた。







「曹参にも萬能丹を飲ませよう」


 劉邦は腕を組んで座っていた。


「しかし……」


 蕭何は伏せていた顔を上げた。


「しかし、韓信と曹参では体力が違い過ぎるのではないでしょうか……それに病も……」


 劉邦は蕭何を見た。そして、


「陳平はどう思う」


 そう聞いた。


「はい。私はこのまま曹参殿が苦しんだ上で助からぬというのであれば、萬能丹を飲んで頂く方が良いと考えております」


 陳平は深々と頭を下げて言った。


「魏無知は……」


「私も同意見でございます。魏粛の話では、魏粛の主人、祭承と韓信殿の二名が、この萬能丹で助かったという事になります。始皇帝の話は定かではありませぬが、試す価値はあるのではないかと……」


 魏無知もそう言うと頭を下げた。


 張良は部屋の端で、その様子を見ていた。


「張良……。お前はどうだ……」


 張良はゆっくりと立ち上がった。


「曹参殿の生命力に賭けましょう。私もそう考えます」


 そう言った。


「劉将軍……」


 蕭何は前に出た。


「何だ……。蕭何。お前は反対なのか」


 劉邦は蕭何を見た。


「今、我が軍には病が流行っております。その原因は曹参が斬った曹無傷の祟りであるという噂も……。その噂の収拾はどうなされるおつもりですか……」


「蕭何。お前はその人柱に曹参を使えと言っているのか……」


 劉邦は蕭何を睨む様に見た。


「いえ……。そうではありませんが……」


「蕭何……。お前が一番曹参と長く付き合って来ただろう……。その曹参をお前は助けたいと思わんのか……」


 劉邦はそう言うとドカッと椅子に座った。


「もちろん助けたいと考えております。しかし軍内の噂の収拾も必要なのです。劉将軍……その辺りをご理解の上で……」


 その蕭何の言葉を劉邦は遮った。


「くどいぞ、蕭何。俺は何を置いても曹参を助ける。それがこの軍の決定だ。いいな……」


 劉邦は声を荒げてそう言った。


 その場にいた全員が言葉を失った。

 劉邦が声を荒げる事など滅多に無いのだ。


「劉将軍……」


 張良は劉邦の顔を見た。

 いつになく真剣な眼差しで蕭何を見ていた。


「良いな……。蕭何」


 劉邦はそう言うと幕舎の出口へ歩き出した。


「将軍の決定であれば……」


 蕭何は静かに言い、頭を下げた。


 劉邦はその蕭何の声を聞いて、振り返った。


「よし。張良、夏候嬰。二人に任せる。必ず曹参を俺の傍に呼び戻せ。命に変えてもな。早速かかるのだ……」


 劉邦の声は朝の覇上に響いた。


「承知致しました……」


 張良と夏候嬰は膝をついて頭を下げた。


「蕭何。お前は俺と一緒に来い。今から論功行賞に出かける。陳平、お前もだ。樊噲と百人の兵を準備しろ……。いいな」


 そう言うと劉邦は幕舎を出て行った。






 通常、項羽の軍との交渉は張良が行っていた。


 しかし、劉邦はその張良を曹参に付けて、蕭何を同行させた。

 劉邦という人物は瞬時に人を見抜く力を持っていた。

 蕭何が曹参に萬能丹を飲ませるのを反対する事、これも分かっていたのかもしれない。

 蕭何も曹参同様に沛の街にいる頃からの仲間で、この二人はお互いを認め合っている事も知っている。


 蕭何の中では、この度の戦は終わっており、既に次の段階を考えている事、劉邦はそれも理解していた。


 劉邦は蕭何と馬を並べて歩いていた。


「蕭何……」


「はい」


「俺は関中王になれるのだろうか……」


 劉邦は微笑んだ。


「……」


 蕭何は俯き答えなかった。


「そうか。そうだよな……。命と引き換えに関中王の称号は捨てた様なモンだよな……」


 劉邦はそう言うと声を出して笑った。


「将軍。今日も范増殿は将軍の命を狙っているかもしれません。今日は欠席されても良いのではないかと……」


 蕭何はそう言う。


「いや……。今日の論功行賞を休むのは、俺に天下を取ろうとする二心があるという事を認める様なモンだ。そうなれば范増は一気に俺を潰しにかかるだろう。そんな事をすると俺の軍、数万が皆殺しにされる。そういうヤツだよ……項羽ってヤツは……」


 蕭何は嬉しかった。

 いつの間にか劉邦に将の器が備わっていた事。

 これがたまらなく嬉しかった。


「俺は何にもいらねえ。こんな血生臭い論功行賞も性に合わない。だけどな、今日項羽の前に並ぶヤツで、いつか俺の仲間になるヤツと項羽の為に命を張るヤツを見極めておきたいのだ……。蕭何……お前はただそれだけを見ていろ……いいな……」


 劉邦はそう言った。


「はい。承知致しました」


 蕭何は馬上で頭を下げた。


 そのやり取りを陳平も聞いていた。

 そして確信した。


 天下はこの劉邦のモノになる。

 それも近い内に……。

 民の心を掴む者が天下を取る時代になったのだ……。

 それは決して項羽ではない。


 今から行われるのは戦争では無い。

 政治だ。

 張良よりも私を選んだのはそういう意味があっての事なのだろう。


 陳平も劉邦に備わったその将の器に大きな安堵感を覚えた。







「では、曹参殿。よろしいですか……」


 張良と夏候嬰は曹参の上半身を支えていた。


 曹参は肩で息をついている。

 軍医と魏粛は曹参の足を縄で縛りつけていた。


「ああ……。その薬で命が助かるのであれば、どんな苦痛にでも耐えてみせるよ。張良殿、ありがとう……」


 曹参は息絶え絶えにそう言って力なく微笑んでいた。


「では、魏粛殿……」


 魏粛は萬能丹と水を張良に渡した。


「行きますよ……」


 張良は、曹参の口に萬能丹を押し込む様に入れ、水を流し込んだ。


 素早く曹参を寝台に寝かせ、樫の木で作った歯型を曹参の口に入れた。

 曹参の両手も寝台に縛られ、張良、夏候嬰、魏粛、軍医はその曹参を見降ろした。


 曹参は覚悟した様に、ゆっくりと目を閉じた。


 その時、


「失礼しますよ……」


 という声が幕舎の入口から聞こえた。


 杖をついた老人がゆっくりと入って来た。


「呂赫殿……」


 魏粛はその老人をそう呼んだ。


 咸陽の外れの町に住む老人、呂赫だった。


 この呂赫は、魏粛の主人である祭承を幼き頃に助けた人物である。

 呂赫の助言で祭承は紅雀と青雀に会い、萬能丹を受け取った。


「もう、飲ませたのか……」


 呂赫は魏粛に聞く。


「はい」


「そうか……。では……」


 呂赫は袖から小さな袋を取り出した。


「この薬も飲ませるのだ。痛みが少しマシになる。早く、早く飲ませるのだ……」


 そう言って袋を魏粛に渡した。


「はい。かしこまりました」


 魏粛は袋から薬を取り出し、曹参の口に放り込んだ。


「うむ……。それで良い」


 呂赫はそう言うとゆっくりと歩き、幕舎の隅にあった椅子に座った。


「曹参殿は肺病だったな……。相当厳しい道のりだろう。皆も覚悟しておかれよ……」


 自分の前に杖を突き、その杖に両手を乗せ、皆に向かってそう言った。


 曹参はその様子を見ながら、再び眠る様に、ゆっくりと目を閉じた。






 項羽の傍に范増は離れずに立っている。


 その范増の目は常に劉邦を睨んでいた。


 次々に竹簡を范増は項羽に渡す。

 その竹簡を項羽は読み上げる。

 第一功は英布だった。

 関中に一番乗りした劉邦では無かった。


 それは劉邦にも予測された事だった。


 咸陽は項羽により蹂躙され焼き尽くされた。

 その咸陽を再興する事になると数十年かかるだろう。

 その咸陽に項羽が楚の都を置くとは思えなかった。

 そうなると咸陽など只の僻地に過ぎないのだ。

 その僻地となってしまった関中を劉邦に任せるのかどうか……。

 これは劉邦だけではなく、その場にいる、共に戦ってきた者すべてが注目していたのだ。

 楚の懐王が命じた通りに関中に一番乗りした者が関中王となるのか……。


「次に沛公、劉邦殿」


 項羽の声で辺りは静まり返った。


 范増は、一層鋭い目つきで劉邦を睨みつけた。


「劉邦殿には益州に入って頂き、漢中を漢中王として治めて頂く」


 項羽は淡々とそう言った。


「待たれい……項王」


 そう言ったのは斉から合流した武将だった。


「何だ」


 項羽は、竹簡を范増に返して椅子に座った。


「楚の懐王は関中に一番乗りした者に関中王の位を授けると約束された筈だが……。この劉邦殿は、その約定通りに関中へ一番乗りされたと記憶している。それなのに何故その様な僻地……、しかも益州というと秦が罪人を流刑にした土地、なぜその様な仕打ちをなされるのか。お答え頂こう」


 その武将はそう言うと項羽の前に出た。


「益州は国外からの侵入を防ぐ要所である。その場所を優れた人物に治めてもらいたいと考えておるだけだが……なにか不満かな」


 項羽は顔色一つ変えずにそう言った。


「ならば聞こう。項王はどこをどう治められるのだ」


「儂は楚へ戻り、楚王の傍でお仕えするつもりである。国号を西楚とし、楚王には帝を名乗ってもらおう。そして儂は西楚王としてこの中国全土を治める」


 その場にいた者すべてがざわめいた。


「何という破廉恥な……。こんな論功行賞は見た事がない。やはり項羽。お主は餓鬼だ。中国は愚か、その辺の村ひとつ満足に治める事は出来まい」


 その武将はそう言って大声で笑った。


 その様子を項羽は、顔色ひとつ変えずに黙って見ていた。


「英布」


 范増が項羽の代わりにそう声を発した。

 最前列にいた英布はその范増の声で、前に出て瞬時にその武将を斬り殺した。


 その返り血が項羽にも降り掛かった。


 周囲は言葉を失い、物音一つ聞こえなくなった。

 斬り殺された武将から溢れ出す血飛沫の音だけが聞こえていた。


「劉邦。そなたも同じ意見か……」


 項羽は次の瞬間立ち上がり、大声で言った。


 劉邦はゆっくりと歩き出し、項羽の前に出た。


 そして、その場に跪き、


「滅相もございません。謹んで漢中王、お受け致します」


 そう言うと頭を下げた。


 項羽は、返り血で赤く染まった顔で、劉邦を見降ろしニヤリと笑った。


 そして、項羽は腰に差した剣をゆっくりと抜いた。


「良いか……。この論功行賞に不満のある者は前に出ろ。不満の無き者はこの劉邦の如く、跪くがよい」


 その項羽の声に一同はその場に跪いた。


 項羽はその瞬間に中国を手にしたと考えたであろう。

 その光景こそが天下統一に見えていたのだ。

 項羽だけには……。


 范増はこれから始まる戦こそが、天下に号令する者を決める本当の戦いである事を確信していた。

 その場に跪いている者の多くもそう感じていた。


 しかしこの瞬間に項羽に対する反骨の芽が范増にははっきりと見えていた。


 今まで以上にこの国は乱れる……。

 そして本当の天下を手にする人間は項羽ではない……。


 范増は血にまみれた項羽を見てそう思った。


 劉邦もその項羽の顔をじっと見ていた。


 劉邦は項羽と対峙するといつも思う。


 俺はこの男に勝てるのだろうか……と。


 劉邦が天下を取るという事は、この項羽に勝つしか方法は無いのだった。

 そしてそう考える度に、劉邦は恐怖で身を震わせていた。


「今宵は大いに勝利の美酒に酔おうではないか……。なぁ、劉邦よ」


 項羽は剣を腰に戻しながらそう言った。


「はい……」


 劉邦はその項羽に再び頭を下げた。






 その日は朝まで宴席が続いた。


 しかしその場は表面だけの祝いの席で、拭い去る事の出来ない苦々しい思いをその場にいた全員が噛みしめていた。






 翌日の早朝、劉邦たちは項羽の陣を去った。

 その場で劉邦は命を狙われる事は無かった。


 覇上へと帰る劉邦の軍を遠くから見ている男がいた。

 范増だった。


 劉邦を誅さなかった項羽。

 いつしか項羽を脅かす存在となるのであれば、あの男ただ一人であろう……。


 范増はこの度の論功行賞で、張良を韓の国へ戻した。

 韓王を補佐するようにと命じられると、韓の宰相の子である張良はそれを断る訳にはいかない。

 その場にいなかった張良にも早馬が飛んでいた。


「曹参は戻って来たのだろうか……」


 劉邦は並んで馬に乗る蕭何に聞いた。


「いえ……。今はまだ、その連絡は入っておりません」


 蕭何は頭を下げた。


「そうか……。曹参が戻って来ても、恩賞も渡せず、しかも巴蜀へ飛ばされたなんて言えないな……」


 劉邦は苦笑いした。


「いえ……。劉将軍には、数年前まで何にも無かったのですよ……。それから考えれば凄い事です……。たとえ巴蜀といえど、一国の王になったのですから……。曹参も、そして将軍についてきた仲間も皆、わかってくれますよ……」


 蕭何は劉邦を慰めた。


「そうかもしれん。皆、馬鹿だからな……。俺ならこんな情けない大将には付いていけねぇや……」


 劉邦は蕭何から目を逸らした。


「さあ、急いで帰るぞ」


 劉邦は大きな声でそう言った。


「曹参が待っている……」


 劉邦はしっかりと前を見た。






 張良は覇水を眺めていた。

 朝の覇水は穏やかに流れ、今朝は流れの音さえしなかった。


「張良殿」


 魏粛は張良の背中に声をかけた。


「少し休まれませんか……」


「魏粛殿……」


 張良はゆっくりと振り返った。

 その張良の横に魏粛は並んで立った。

 そして二人で覇水の緩やかな流れを眺めた。


「魏粛殿……。この覇水の流れは、私たちが生まれる前からずっと続いているのです……。凄いと思いませんか」


 張良の目は覇水の沖を眺めていた。


「その自然をも変えてしまおうとする人間は愚かです……。自然は味方にして生きて行く。それが人のあるべき姿です。それさえ出来ずに人が平和に生き存えるなんておかしな話です。太公望呂尚は、そんな事を考えて大河に糸を垂らしていたのではないかと、私は思うのです」


「そうかもしれませんね……。ましてや人の命をどうこうしようなんて、本当に愚劣な事です……」


 魏粛はそう言うと張良の視線の先を見た。


 水鳥は水面に潜り、小魚を咥えて空高く飛び立つ。

 しばらく空を舞うとまた再び、水面に嘴から飛び込む。


「人も鳥も、自然から丁度良い量の糧を分けてもらう。その糧は多くても少なくてもいけない」


 張良は目で水鳥を追っていた。


「項羽はそれに気づかない人間で……劉将軍はそれを理解出来る人間です。天下を取れるか、そうでないか……。それは本当にその程度の違いなのかもしれません」


「そうですね……。本当の天下取りはこれからです。一緒に劉将軍の号令する世を築き上げましょう」


 魏粛は張良の顔を見た。


 張良は視線を覇水から魏粛に移した。


「それが……」


 張良は一枚の竹簡を魏粛に渡した。


「それがどうやらそれも許されなかった様です。これも范増殿の入れ知恵でしょう……」


 魏粛は張良に手渡された竹簡を読んだ。


 張良子房殿は韓に戻り韓王成に助力し韓を盛り立てよ。


 そう書いてあった。


「これは……」


「こうなる事もあるだろうとは思っていたのですが……。韓の宰相の子である事が、今は少し忌々しいです」


 張良はそう言うと俯いた。


「しかし、必ずこの国は再び乱れ、そして統一されます。私は韓に戻り、期を待ちます。必ず劉将軍の下に馳せ参じますので、それまで劉将軍をお願いします……魏粛殿」


 魏粛は竹簡を持ったまま、首を横に振った。


「張良殿……。劉将軍が貴方を本当に必要とするのはこれからですよ。これからなのに……」


 張良は再び顔を上げて覇水を見た。


「魏粛殿……。これも流れです。この覇水と同じ……流れなのです。その流れを無理に変えようとすると、どこかに歪が生じます。今はその歪の方が怖い……」


 魏粛は何も答えず、ただ張良を見ているだけだった。


 そこに馬式がやって来た。


「子房様」


 馬式は張良の後ろで膝をついた。


「どうしましたか……」


 張良は振り向いて馬式にそう言った。


「劉将軍がお戻りになりました」


「そうですか……。では出迎えなければなりませんね……」


 張良は馬式に微笑んだ。


「いえ……その必要は……。もうこちらに向かっておられますので……」


 馬式のその言葉に張良と魏粛は陣を見た。


 劉邦と蕭何、そして陳平の姿が見えた。


「魏粛殿。しばらく流されてみませんか……。天下を取ろうとする男たちとこの時代に……」


「……」


 魏粛はやはり答えなかった。


「張良。曹参は……。曹参は戻って来たか」


 劉邦は張良を見つけると大声で叫んだ。


 その声に張良と魏粛は同時に劉邦を見た。

 劉邦は張良に駆け寄り、張良の肩を掴んで揺さぶった。


「どうなんだ。張良」


「将軍……」


 張良は曹参の横たわる幕舎を見た。

 そして魏粛も同じ様に。

 劉邦も二人のその視線の先を追った。

 その幕舎の入口に、フラフラと立つ男が見えた。


「将軍……」


 力の無い声で男はそう言った。


「曹参……」


 劉邦はその男を見て呼んだ。


「曹参」


 劉邦は幕舎の方へ駆け寄った。


 曹参は助かった。

 萬能丹を飲んだ曹参を襲った痛みは壮絶なモノだった。

 荒れ狂った覇水の様に曹参を呑み込んだ激痛の波は百をゆうに超えていた。

 その度に張良たちは曹参を押さえつけ、体を傷つけない様にした。

 その痛みも明け方になると和らぎ、朝早くに曹参は意識を取り戻したのだった。


「よく戻ってくれた。ありがとう……」


 劉邦は何度も何度も、曹参にそう言った。


「良かったですな……」


 張良にそう声をかけたのは韓信だった。


「韓信殿」


 張良は韓信に頭を下げた。


「これもあなたのおかげですよ……」


「いえいえ。曹参殿の生命力ですよ。生きたいと思う力はどんな力よりも強いモノです」


 韓信はそう言うといつもの様にニコニコと笑っていた。


「壮絶じゃったの……。曹参は」


 韓信の陰から呂赫が現れた。


「呂赫殿……」


「多分、魏粛の主人の祭承はもっと壮絶だったに違いあるまい。しかし、生きようとする意志があれば耐える事が出来るのじゃよ……」


 呂赫はそう言って劉邦たちを見ていた。






 曹参は病を克服し、劉邦の下に戻った。


 しかしその劉邦は楚軍、項羽により遠く巴蜀の地へ追いやられ、しかも軍師である張良は韓の国へ戻るようにと、分離させられた。


 楚軍は項羽が楚へ帰ると、赴任を命じられた各々の国へ散って行った。


 劉邦も例外ではなく、張良と別れ、武関を越え、漢中から巴蜀へ入って行った。






 そして、また世は乱れる事となる……。








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