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第四章 項羽と劉邦





 秦の世は完全に崩壊し、中国の各地で戦乱の世が再び訪れた。

 楚の項燕将軍の血縁である項梁と項羽が江南の地で旗を挙げると、その勢力は一本化された。

 その上で楚王を擁立したため、野に埋もれた優れた人材が楚王の下に集まり始めた。

 時代はこの後、戦乱を極める事になる……。






 魏粛は咸陽の酒場で酒を飲んでいた。

 魏粛が祭承の下を離れて数年が経過した。

 彼は各地を旅し、戦乱で傷ついた人々を見てきた。 

 そして咸陽に流れ着いた。


「魏粛さん」


 その男は魏粛の隣に座った。


「松石さん。珍しいですね、こんな時間に」


 松石という男は咸陽の外れに住んでいる。

 魏粛もこの男が何をやっているのか知らない。


 大方、儒者の類だろうという事は、その語り口でわかるのだが、今はただこの店でよく会うだけの男だった。

 そして不思議と気が合ったのだ。


「魏粛さんがいるのではないかと思って覗いてみたのですよ」


 そう言うと酒を注文した。

 魏粛は卓の上に伏せて置かれた器を取り、松石の前に置き、その器に自分の酒を注いだ。

 松石は器を取り、溢れ出す手前でこぼれない様に持ち上げた。


「明日の世に」


 魏粛はそう言って器を掲げた。


 松石も、笑って、


「明日の世に……」


 そう言った。


 そして二人は一気に酒を飲み干した。


「ところで魏粛さん。今、この咸陽に楚の劉邦将軍という人物が迫っているというのを聞いたのですが……。この劉邦という人物をご存知ですか」


 松石は小声で魏粛に聞く。


「あー沛県の劉邦さんですね。知っていますよ。なかなかの人物です……。しかしあの人は搦め手として軍を率いていると聞いていますが、そんな劉邦さんが項羽より先にこの咸陽に入るという噂なのですか」


 魏粛は二人の空になった器に酒を注ぎながら、そう言った。


「楚の精鋭部隊は、章邯の率いる秦軍に阻まれた様ですな……」


 松石はそう言うとニヤリと笑った。


「咸陽もいずれ蹂躙される。魏粛さんも早く逃げた方が良いのではないですか……」


 魏粛は松石の顔を見て、声を出して笑った。


「松石さんも面白い事を言う。私は各地で戦乱を見てきた。そしてその最後が、この咸陽である事は間違いない。それをこの目で見ないで逃げるなんて、私には出来ません」


「魏粛さん。しかし……」


 魏粛は器を力強く卓の上に置いた。


「私はこの目で見たいのです。殺戮や破壊が、決して天下を取るという事に繋がらない事を。そして、太平の世を作る男が誰なのか……。それをこの目で……」


 魏粛はそう言うと、松石に微笑んだ。






 その日、夜遅くに魏粛は宿に帰った。

 そして自分の部屋で、多数の竹簡を広げた。

 そこには各地の勢力図が書かれてあった。


 松石の口から出た劉邦をいう男。

 魏粛は以前、碭城で劉邦に会った事がある。


 魏粛が碭城に到着した日、それは劉邦が碭城を攻め落とした数日後だった。

 碭城を守る秦兵は三万。

 それを劉邦とその軍師の張良はわずか五百の兵で、そしてそれも三日で攻め落としたという。

 攻め落とした直後の碭城は厳戒態勢で、魏粛も色々と調べられ、城の中に入るのに数時間かかった。 

 その城門の脇に劉邦は腕を組んで立っていたのだ。

 勝利した軍の大将が城門の脇に立ち、住民と世間話をしているなど、そんな事は他ではまず考えられない事だ。

 魏粛にはそんな劉邦という男がとても頼もしい男に映った。


 その傍らで竹簡を並べて、記録を取っていたのはその劉邦の軍師、張良子房だった。


「旅の方。名前と年齢、職業、出生地をここに書いて下さい」


 張良は竹簡を魏粛の前に出した。

 魏粛は張良に頭を下げて、竹簡に書き込んだ。

 今で言う入国手続きの様なモノで、それまでの中国では考えられない事だった。

 しかし、この劉邦はそんな事までやろうとしていたのだ。


「この城は秦から解放されたんですね」


 魏粛は張良の顔をちらと見てそう言った。


「そうだ。沛公……劉邦将軍が数日前に秦軍からこの碭城を奪取した。まだ秦軍の残党が残っている可能性もある。気を付けられよ……」


 張良は魏粛から竹簡を受け取った。


「わかりました」


 魏粛がそう礼を言ったその時、魏粛の肩を誰かが叩いた。


「心配はいらん。秦軍の残党は我が軍が責任を持って排除する」


 魏粛がその声に振り返ると、背の高い男が立っていた。

 それが劉邦だった。


「あなたは……」


 魏粛はその男、劉邦と変わらぬ背丈だったが、自分より大きく感じた。


「この方が、沛公、劉邦将軍である」


 張良がそう言った。


「そうでしたか。これは失礼致しました」


 魏粛は劉邦に頭を下げた。


「沛公とは存ぜず無礼をお許し下さい」


「なに。旅の方にまで頭を下げてもらおうとは思わん。俺は無能な将軍。尊敬すべきは、そこの太公望呂尚殿だ」


 劉邦は張良を指さし、大声で笑った。


「呂尚殿……」


 魏粛は劉邦の指さす張良を見た。


「太公望には大きく及びません。私は張良子房と申します。沛公、劉邦将軍の軍師でございます」


 張良は魏粛に頭を下げた。


「旅の方。まだ街は修復されておらぬが、ゆっくりとしていかれよ……」


 張良はそう言って魏粛に微笑んだ。


 魏粛も張良の名前は聞いた事があった。

 韓の宰相の末裔で張良子房。

 数年前に始皇帝の暗殺を目論んで失敗したという噂もあった。


「あなたが張良殿でしたか……」


 魏粛は再び頭を下げた。


「重ね重ね失礼致しました」


「いえいえ……。劉邦殿は民の事を一番に考えられるお方だ。困った時は我が軍の者に声をかけて下さい……」


 張良はそう言うと微笑み、魏粛の後ろに並んでいた者の竹簡を手に取っていた。


 素晴らしい。


 魏粛は劉邦軍を見てそう思った。


 この劉邦が天下を取れば、世は大きく変わる。


 そう強く感じたのだった。


 秦の始皇帝が、中国一帯に敷いた法は恐怖政治そのものだった。

 しかし、この劉邦が天下を取り中国を治める事になった時は、人民に慕われる国家を築く事が出来るだろう。


 魏粛は確信した。

 同時にそれは魏粛の中で大きな希望になった。


 魏粛は城門を振り返り、劉邦を見て微笑んだ。


「あの劉邦が咸陽に入るのか……」


 竹簡を並べた部屋で魏粛はそう呟いた。






 その翌日だった。


 咸陽は騒然としていた。


 二世皇帝の胡亥が病死したという。

 しかし、その胡亥の死は、側近による毒殺との噂もあった。

 胡亥の死に伴い三世皇帝に始皇帝の長子、扶蘇の息子である子嬰が即位した。

 さらに、その三世皇帝、子嬰により宦官の趙高が殺された。


 その噂と同時に、武関を楚軍が占領したという噂も流れ出した。

 秦軍が敗退しているといった噂は、今まで趙高がすべてもみ消していた。

 その趙高が死亡した今、その噂は激流のごとく一気に街中に流れ出したのだ。


 そして咸陽の街は、楚軍に蹂躙されるという噂話で持ち切りだった。


「金銀財宝はすべて奪われ、男は殺され、女は犯される。楚軍は老人や子供にも容赦しない鬼の様な軍勢らしい」


 そんな話が街中で当たり前に行われていた。


 魏粛はそんな人々の話を、腕を組んで黙って聞いていた。

 その魏粛の横に松石が立った。


「いよいよ来る様ですな……。楚軍」


 松石はそう魏粛に声をかけた。


「ですね……。しかし、民草が噂している様な軍勢ではありませんよ。劉邦軍は」


「ほう。お詳しいですね」


「はい。以前会いました故……」


 魏粛は松石に微笑んだ。


「あの劉邦軍は武関を無血開城させたそうですよ」


「ほう。それは素晴らしい。楚にもその様な人物がおったか……」


「ええ。しかもあの韓の宰相の末裔に当たる張良子房殿が軍師として従軍しております」


「張平殿の息子、張良殿か……。ほう、その様な軍が楚にあるとは……。それは素晴らしい話を聞いた」


 松石はそう言うと、魏粛を見上げて笑った。


「その話で、咸陽は救われる。私は早速、その話を広める事としよう」


 松石はそう言い魏粛に頭を下げて歩き出した。


「私が保証しますよ」


 松石の後ろ姿に魏粛は声をかけた。

 松石は後ろ手に手を振りながら歩いて行った。






 劉邦の軍は搦め手の軍勢。

 咸陽の東にある函谷関を攻めようとする楚軍本隊より先に、咸陽の西側にある武関を無血開城させて、関中に入った。

 秦の三代皇帝、子嬰との協議の上で、咸陽から少し離れた覇水の上流、覇上に陣を張り、子嬰を待った。

 秦の三代皇帝、子嬰は楚の劉邦の前に白装束で現れ、


「自らの命と引き換えに咸陽の人民の安全を保証して欲しい」


 と嘆願した。


 劉邦はその子嬰の覚悟を見て、すべてを許して咸陽にも一滴の血も流さずに入城した。


 咸陽入城後、一切の略奪等を禁止した。


 そして咸陽の人民を集めて、即座に三法を敷いた。


 盗みを働いた者は労働を課す。

 人を殺した者は死罪。

 人を傷つけた者は、その傷が癒えるまで投獄する。


 このわかりやすい法は、厳しい法に縛られていた秦の人民も受け入れやすかった。 


 そして、その上で劉邦は楚軍の本隊が到着するのを待った。


 楚軍の本隊は、咸陽の東にある函谷関を目指していた。

 しかしここで劉邦軍は大きな失敗をした。

 項羽率いる楚軍本隊が函谷関に差し掛かった時、その門を堅く閉ざしていたのだった。

 その事で項羽は怒り、函谷関を武力で破り、劉邦に二心有りとして咸陽に攻め込む準備を始めた。


 劉邦軍の軍師張良の機転で、項羽の叔父に当たる項伯に接触し、怒り狂う項羽の誤解を解くために鴻門にて両軍の会見を行う事となる。

 この会見が後に「鴻門の会」と言われる。






 魏粛は咸陽の外れにある大きな楠の下で昼寝をしていた。

 

 ここで祭承様は紅雀と青雀にあったのか……。


 魏粛は楠の枝葉の隙間からこぼれる太陽の光を見ていた。


 そこにいると自分も紅雀と青雀に会える気がしたのだった。


「雀でも待っているのかな……」


 木陰で横になる魏粛に、老人が声をかけた。


 魏粛は上半身を起こし、その老人を見た。


「老師はご存知なのですか……。ここの雀を」


 魏粛はその老人を見てそう言った。

 その老人は不思議な目をしており、魏粛のすべてを見通す様だった。


「そんなところに来るのは雀くらいだろう」


 その老人は、魏粛の隣で横になった。


「しかし、お前の会いたい雀は朝にしか現れんよ」


 老人はそう言うと声を出して笑った。


「はあ……。そうですか……」


 魏粛は再びぼんやりと空を見た。


「しかも赤と青の雀は、誰の前にでも現れる訳ではないのじゃよ。若いの、お主の前には現れる事はあるまい……」


 老人は魏粛と同じ様に空を見た。


「そんな事はわかっております。どんな気持ちで我が主人はここで眠ったのかを知りたかったのですよ」


 魏粛はそう言って微笑んだ。


「ほう。お主は祭承の家の者か……」


 老人はそう言った。


「我が主人をご存知なのですか」


 魏粛は飛び起きて、老人を見た。


「祭承は確かに死ぬ運命だった。しかしここで紅雀と青雀に巡り会ったおかげで、今も生きておる……」


 老人も身体を起こし、魏粛に微笑んだ。


「あの日、祭承は儂の家を訪ね、提灯の火をくれと言ってきた。儂は祭承にもう遅いので泊まれと言ったのだが、あいつは自分を待っている人のために、夜道を行くと言って聞かなかったのだ。それも運命じゃの……。だからこそ、祭承は今も生きておるだが……」


 老人はニコニコと微笑み、空を見た。


「そうですか……。老師、我が主人がお世話になりました」


 魏粛はそう言うとその老人に頭を下げた。


「いやいや。彼が今生きているのは、彼自身の運命だ。生きなければならない、この先の歴史に必要な人物だったからだ」


 二人は黙って楠の木漏れ日を見ていた。


「どうやら、始皇帝、政もあの薬を飲んだ様じゃが、耐え切れなかったのだろうな……」


 老人は魏粛にそう言う。


「始皇帝は飲んだのですね……。萬能丹を……」


「どうやら、江南で手に入れた様だ。もちろん祭承の元から出た事は明らかなのだが……」


 李門は始皇帝に萬能丹を渡したのだ。

 その萬能丹を飲んだ始皇帝は命を落とした。

 それも運命なのだ。


 生きるも運命、死ぬも運命……。


「どうやら、すべて知っておる様じゃの」


 老人はそう言うと再び魏粛を見た。


「ええ。あの萬能丹を祭承様より、私と李門という男で、半分ずつ受け継ぎました。私も五十三粒の萬能丹を持っております。そして李門という男は、同じ様に受け継いだ萬能丹を始皇帝に献上した筈です。ですから、私が持っている以外の萬能丹は、今は秦が持っているという事になります」


 老人はニコニコしながら魏粛を見ていた。


「半分は歴史の表舞台に出て行ったか……」


 老人はそう言うと立ち上がった。


「もう少しで、秦は滅ぶ。その時に一緒に、その萬能丹は滅ぶのかもしれんな……。惜しいのう」


 老人はゆっくりと歩き出した。


「まあ、それも運命じゃて……」


 魏粛も立ち上がり、老人の後をついて歩いた。


 二人は咸陽までの道を歩きながら、話をしていた。


 その老人は呂赫といった。


 呂赫は、近くの山で薬草を採り、その薬草で薬を作っているらしい。

 その薬を咸陽の祭の薬商に古くから納めていると言う。


「それで祭承様をご存知なのですね……」


 魏粛は呂赫の歩幅に合わせて歩いている。


「儂が知っておるのは祭承の父、祭傳じゃ。祭傳とは長く付き合っていた。五年前に奴が死ぬまでな。今は祭傳の跡を継いだ、祭伯に薬を納めておる」


 呂赫はそう言うと立ち止まった。


「儂は祭傳の店は、祭承に継いで欲しかったのだが……」


 呂赫は笑っていた。


「江南の地で、咸陽の祭家に負けない薬商をやっておられます」


 魏粛はそう言うと、微笑んだ。


「その桑折、私が持ちましょう」


 呂赫が背負う桑折を、魏粛は半ば強引に剥ぎ取り、背負った。


「すまんの……。歳を取ると色々とガタがくるモノだ。儂も萬能丹を飲んでみるかの……」


 呂赫は声を出して笑い、再び歩き出した。






 張良と蕭何、曹参は秦の書物庫で、秦が作った法の資料を見ていた。


「すごい。よくここまで作り上げたものだ」


 蕭何は木簡を一枚一枚見て、そう呟いた。


「流石は秦ですな……。いずれ、この木簡が必要になる時が来ます。いざという時に運び出せるようにしておきましょう」


 張良はそう言って木簡を木の箱に詰め始めた。


「これをすべてですか……。運び出すには車が必要になりますな……。手配しておきます」


 曹参はそう言って書物庫から出て行った。


「蕭何殿はどう思われますか。この木簡……。項羽の軍が目を付けると思われますか」


 張良は蕭何を見た。


「目を付ける人物がいるとすれば、范増殿ただ一人。しかし、今の范増殿では、そこまで気も回りますまい」


 蕭何は静かにそう言う。


「私も同意見ですね……」


 張良はそう言うとまた、木簡を箱に詰めた。


「明日の鴻門……。沛公は大丈夫ですかね……」


 蕭何は心配そうに張良を見た。


「わかりません。今は沛公にすべてを託すしかございません。ただ、考えられる手はすべて打ってあります」


 張良は微笑んだ。


「多分、私は同席出来るはずですので、いざという時は私の命に代えてでも、沛公をお守り致します」


「それを聞いて安心しました」


 蕭何も笑った。







「項王。一つだけ、ご進言を」


 范増はイライラと酒を飲む項羽の前に跪いた。


「亜父か……。何だ」


 項羽は盃を卓に置いた。

 項羽は范増の事を父に次ぐ者の意味を込めて亜父と呼んでいた。


「明日の劉邦との会見の折、その場で劉邦を斬りなされ」


 范増は顔を伏せたままそう言った。


「劉邦を斬る。何故だ。お主はどうしてそこまであの男に拘るのだ」


 項羽は平伏す范増を見降ろした。


「あの男には天下を狙う二心がございます。咸陽を蹂躙せず、即座に法を敷き、民心を掌握しました。それは関中王として君臨し、天下を狙おうとする者の振る舞いでございます。劉邦は間違いなく関中王として君臨しようと考えておる。そうに違いありません故」


 范増は顔を上げ、項羽を見てそう言った。


「あの百姓風情に、何が出来ると言うのだ。亜父よ。お前は気を回し過ぎるところがある。疲れておるのだ。咸陽に入ったら少し休め……」


「しかし項王」


 そう言った范増の言葉を項羽が遮った。


「くどいぞ。范増」


 項羽は立ち上がり、卓に置いた盃を范増の前に投げつけた。


「劉邦の処分は儂が決める。お前にどうこう言われる筋合いはない。明日、あの百姓がどう出るか、その出方で儂が決める事にする……。良いな、范増」


「項王」


 范増は膝を立てて、項羽に縋る様に前に出た。


「その話はもう終わりだ……。亜父よ。伯父亡き後、儂を支えここまで一緒にやって来てくれた事には感謝しておる。しかし、その恐るるに足らん男に拘るお前の小心さ……。儂は好かんな……」


 そう言うと、項羽は振り返りもせず、幕舎を足早に出て行った。


 一人幕舎に残された范増は、項羽の背中を見ながら、拳を握っていた。


「項王。劉邦を甘く見ては、いつか煮え湯を飲まされる事になりますぞ……」


 范増はそう呟いた。






 張良は一人、行燈を片手に夜の咸陽城の宝物庫に立っていた。


 劉邦は一切の略奪を禁止していたため、咸陽城の宝物庫も秦国家の時のまま、すべてが整然と並んでいた。


 その豪華絢爛な宝物庫。

 始皇帝の巡行で各地より献上されたモノ、外国より献上されたモノなど数千を数える程並んでいた。


 一切の略奪を禁ず。


 その劉邦の言葉は、張良にも例外ではない。


 張良は行燈を左右に振りながら、薄暗い部屋を照らし何かを探していた。

 金銀財宝には目も繰れず、必死に何かを探していた。


 薄暗い部屋の奥にある棚の中に、一つの革の袋を見つけた。

 張良はその袋を手に取る。

 その袋に下げてある小さな竹簡には「萬能丹」と書かれてあった。


「あった……」


 張良は少年の様に顔をほころばせて喜んだ。


 そしてその袋を持って、宝物庫を出た。


「萬能丹」


 江南の街で、始皇帝に献上された不老不死の妙薬である。

 張良はその薬を探していたのだ。


 咸陽城の廊下を歩き、書物庫へ向かった。


 張良は書物庫の中に置いた木簡を詰め込んだ箱の中に、その「萬能丹」の袋を入れた。


「これだけは……。この萬能丹だけは、絶対に項羽に渡してはならない……」


 張良はそう呟いて書物庫の扉を閉じた。






 次の日の早朝、劉邦は覇上の陣の目前に広がる覇水の流れを眺めていた。


「将軍」


 河の畔に立つ、劉邦に声をかけたのは蕭何だった。

 蕭何の後ろには張良と曹参がいた。


「おう」


 劉邦は腕を組んだまま返事をして、更に堂々と河の畔に立った。


「どうだ張良。俺の運命は今日終わるのか……」


 蕭何、張良、曹参は劉邦の横に並んで立ち、同じ様に覇水を眺めた。


「いえ。劉将軍の運命は、こんなところでは終わりません。今日、項王が劉将軍を斬る事は無いでしょう」


 そう言って微笑んでいた。


「あの項羽だぞ。俺を斬らない保証はどこにも無いであろう」


 劉邦は真っ直ぐに河を見つめたまま淡々と言った。

 その劉邦の口調は、今から項羽に斬られるかもしれない男の口調ではなかった。


「劉将軍。今日はすべて項王のためにやったという事を主張して下さい」


 張良は劉邦の横に来た。


「すべては項王のためにやった事だという事を主張するのです。項王は判断力に欠ける武人です。必ず劉将軍を斬る事を躊躇うでしょう」


「そうか。項羽はそれで良い。しかし、俺が気になるのは項羽が亜父と慕っている軍師、范増だ。奴の目は、常に俺の命を狙っている気がするのだ……」


 張良と蕭何、曹参は顔を見合わせた。

 三人が懸念していた事を劉邦も口にしたのだった。


「范増殿は冷酷な人物です。必ず劉将軍を廃しようとしてくる筈です」


「やっぱりそうか……」


 劉邦は顔だけを張良たちの方へ向けた。


「范増殿を制する事が出来るのは項王だけです。どうか項王のみに訴えて下さい」


 張良はそう言うと頭を下げた。


「劉将軍。もし将軍の身に何かあれば、全員討ち死にの覚悟で控えております。その時は必ず項王の首級……、取らせて頂きます」


 曹参は頭を下げてそう言った。


「そんな事をする必要はない。お前らが無駄死にする事はないのだ。もちろん、俺もここで死ぬつもりはないがな……」


 そう言うと声を出して笑った。


「さて、そろそろ行くか。地獄の番人がお待ちかねだ」


 劉邦は自分の幕舎の方へ颯爽と歩き出した。






 劉邦は百騎程の手勢を率いて、項羽軍が布陣する鴻門へと向かった。

 そこに布陣する項羽軍は四十万とも五十万とも言われた。

 劉邦はその軍勢の中を堂々と進んで行った。


 劉邦のすぐ後ろには張良と蕭何が並び馬を進めていた。

 その後ろに曹参、そして樊噲、夏候嬰が続く。


「劉将軍は斬られるのか……」


 樊噲は夏候嬰にそう聞いた。


「わからん。斬られたら俺たちが、命に代えても項王の首級を取るだけよ」


 夏候嬰は樊噲に微笑みかけた。


「それに見ろ、劉将軍があれだけ堂々としているのだ。俺たちがビビってどうする」


「違ぇねぇ……」


 樊噲も声を出して笑った。


「誰一人、臆してない様ですな……」


 蕭何は張良を見た。


「その様ですね。これもひとえに劉将軍の人徳でしょうな……」


 張良は微笑んだ。


「劉将軍には何の計算もないのだよ。彼は自分の、思うがままに動いているだけだ。元々、小細工など出来る人では無いですし……。すべては劉将軍にお任せするしかないでしょう」


 蕭何は劉邦が沛県で、ゴロツキの様に過ごしていた頃から彼を知っている。


 劉邦は昔から、思う様に行動してきた。

 その行動が多くの人々を惹きつけ、劉邦の名を広めてきた事は間違いない。

 それを蕭何は一番理解していた。

 前を歩く劉邦の背中を見ながら蕭何は微笑んだ。


 あの頃と何一つ変わらないお方だ……。


 鴻門の楚の軍勢は壮大だった。

 項羽は各地の反対勢力を壊滅させ、吸収していった。

 その軍勢がこの鴻門に集結しているのだ。

 そしてその五十万の軍勢のすべてが、今日の劉邦次第で敵に回る。

 劉邦はその軍勢に身震いした。


「こんな軍相手に勝てる訳ないじゃないか……。なぁ、張良。そうは思わんか……」


 劉邦は周囲をゆっくり見渡した。


 劉邦は項羽を心から恐れていた。

 劉邦にとってこの世で一番恐ろしいモノだと言っても過言ではないだろう……。

 その項羽に今から会い、弁明する。

 劉邦は手の震えを隠す様に手綱を強く握り直した。


 項羽軍が準備した幕舎が見えてきた。

 劉邦は手を挙げて自分の軍を停めた。

 劉邦が馬から下りると、夏候嬰も急いで自分の馬を下り、劉邦の馬の手綱を取った。


「とうとう、地獄に着いちまったな……」


 劉邦はそう言うと、項羽の幕舎の周囲にいる人々を見た。

 そこには項羽が旗揚げした時に自分と一緒に並んでいた顔ぶれがあった。 


 その目は劉邦を敵の様に睨んでいる。

 項羽も劉邦も同じ楚軍なのだ。

 しかし劉邦を睨むその目は、かつての秦軍を睨む目と同じだった。


 劉邦の前に、項羽の叔父である項伯がやって来て一礼した。

 前もって張良に項羽軍の情報を流した張本人だった。

 この項伯の働きで、この鴻門での会見が実現したのだった。


「劉邦将軍ですな……」


「いかにも。楚軍の劉邦でござる」


 劉邦は自分が楚軍の一員である事を強調し、項伯に頭を下げた。


「あの幕舎の中で待たれよ。項王も間もなく参られる……」


 そう言うと歩き出した。

 項伯の後を劉邦、そして張良、蕭何が続いて歩く。


 項伯は幕舎の手前で立ち止まり振り返った。


「申し訳ない。劉将軍の従事の方は……」


 劉邦に付き添う者を見渡し、


「張良殿だけでお願いしたい」


 従事の者たちはざわついた。


「承知致しました……」


 そのざわめきを止めたのは張良の声だった。


「蕭何殿。後を頼みます。くれぐれも騒ぎを起こさない様に……」


 張良はそう言うと、劉邦の後ろを歩き出した。


 二人は幕舎の入口を潜り、中に入る。


 中には項羽が座るであろう椅子だけが一つ置かれていた。

 会見の場所としては大変失礼なモノだった。

 あくまで劉邦は項羽の配下。

 これも項羽の軍師、范増の演出なのだろう。


 しかし劉邦は躊躇せずに、幕舎の中心部に置かれた椅子の前に平伏した。


「劉将軍……」


「子房……静かにせい。俺に任せておけ……」


 劉邦はそう言うと床に頭を付けた。

 そしてそのまま劉邦は動かなかった。


 張良はその劉邦の後ろに同じ様に座った。


 しばらくすると、幕舎の入口から項羽と范増が入ってきた。

 その時間は、劉邦と張良には途轍もなく長い時間に感じられた……。


 范増は項羽に耳打ちした。


「項王。わかっておられますな……。この劉邦だけは誅しておかねば……」


「くどいぞ、亜父。この男がどれだけの男か、それは儂が儂の目で見極める……」


 そう言うと項羽は歩き出し、劉邦の横で立ち止まった。

 范増もその項羽と一緒に立ち止まる。

 劉邦は生きた心地がしなかった。

 その威圧感に身体は硬直し震えていた。


 項羽はそれを見て、細い目でニヤリと笑った。


 そして劉邦の前に立った。


「劉邦。貴様の函谷関での所業、どういう事か説明してみろ」


 項羽は椅子に座り、腕を組んで劉邦を睨んだ。


 劉邦は頭を床に擦りつけたまま、


「私は、今回の作戦、搦め手として南より武関へ回り、たまたま大将軍より先に関中へ入りました。そしてその関中にて大将軍の到着を待っておりました。函谷関を固く閉ざしたのは、流族などから関中を守るためで、他意はございません」


 劉邦はそう言った。


「そなたの軍の曹無傷という者から進言があった……。劉邦は関中王を名乗り、自らが王となるつもりであるとな……。そなたはその曹無傷の言葉は讒言であると申すか……」


 劉邦は曹無傷が項羽軍に、その様な讒言を流した事を初めて知った。


「それは曹無傷の思い違いかもしれません。ただ私は大将軍の前で嘘を申す気は塵芥程もございません」


 項羽は劉邦の言葉を、微動だにせず聞いていた


「ならば、何故三代皇帝の子嬰を誅する事なく許したのだ。奴は我が楚にとっては、絶対に許す事の出来ぬ秦の皇帝であろう。お主は我が楚、いや……楚ばかりではない。その同盟国も子嬰の治める秦に、ことごとく蹂躙されたのだ。その皇帝、子嬰を許すとは重罪に値するとは思わぬか」


 項羽の声は、かつての始皇帝の声の様に腹に響く様な声だった。

 平伏す劉邦。

 その後ろに控える張良も、その威圧感に恐れ戦いていた。


「子嬰を誅殺する事など、いつでも出来る事です。私はまず、大将軍が到着するまでの咸陽の治安維持を第一に考え、子嬰を許しました。しかしこれも……、大将軍が咸陽に到着されるまでの、とりあえずの処置であります」


 劉邦の声は震えていた。

 声ばかりではない。

 全身を震わせ、頭を下げて弁明したのだ。


「儂が一番許せぬのは、この三つ目だ。何故儂の命を待たずに咸陽に三法を敷いたのだ」


 劉邦は頭を下げたまま、項羽の声にその存在の大きさを感じていた。

 少しでも項羽の逆鱗に触れると、その場で斬り殺されるという不安に押し潰されそうになりながら……。


「はい。それも大将軍の入城を待つまでの、とりあえずの処置、咸陽の民を動揺させないためのモノです。あくまで楚軍とは大将軍の率いる本隊の事。その本隊が咸陽に入城してこその咸陽陥落にございますので……」


 劉邦のその言葉に、幕舎の中は静まり返った。


「項王……この劉邦。軍律を犯し、この様な事態を招いてしまった事。これは許す事の出来ぬ事実にございます。ご判断を」


 控えていた范増の声がその静寂を破った。


 劉邦も張良も、その范増の声に焦った。


「大将軍……。すべては大将軍のため、楚のために良かれと思い行った事。それがすべて裏目に出てしまい、この様な誤解を招く結果となりました事、大いに恥ずかしく思います。このままでは武信君項梁様が憎き秦により討ち死にされ、共に涙を流し、敗走した同志として、死ぬに死に切れませぬ……」


 劉邦はそう言って顔を上げた。

 その劉邦の目からは大粒の涙が溢れていた。


 項羽はその劉邦を見て驚いた。


「劉邦……」


 項羽はその劉邦をじっと見つめた。


「項王」


 范増は今一度そこで項羽に劉邦を誅する様に進言しようとした。

 項羽は手を広げて、その范増を制した。


「劉邦。いや……劉将軍。この度は大義であった。楚の再興を願う者たち全員の働きにより、秦は滅んだ。そなたも楚人、同郷の士だ」


 項羽はゆっくりと立ち上がり劉邦にそう言った。

 それを幕舎の入口で聞いていた項伯は、劉邦に駆け寄った。


「さあ、劉将軍。お手を上げて下され。項王はそなたの思い、しかと受け入れられた」


 項伯は劉邦を立たせた。


 それに続いて張良も立ち上がった。


「有難き幸せにございます……」


 劉邦は今一度、項羽に頭を下げた。


 項羽はその劉邦を見て、声を出して笑った。


「共に戦った同郷の士じゃ。戦友でこそあれ、何を遠慮する事があろうか……。あちらに宴の準備が出来てござる。今日は大いに飲もう」


 項羽は笑いながら幕舎を出て行った。


 何という事だ……。

 とうとう項羽は劉邦を誅する事が出来なかった。

 いずれ、この劉邦が、項王にとって最大の敵となり、劉邦に平伏す日が参ろう……。


 范増は幕舎を出て行く劉邦の後ろ姿を見てそう思った。


 隣の幕舎へどんどん料理や酒が運ばれていた。


「どうやら劉将軍は上手く切り抜けた様ですな……」


 蕭何は曹参にそう言った。


「その様ですね……。しかし、この宴の席も危険な事には変わりありません」


「そうだな……。この後は張良殿に任せるしかない……」


 蕭何はそう言って曹参に微笑みかけた。


「范増殿は、どうしても劉将軍を誅したいと思っている筈だからな……」






 酒席は盛大だった。

 上座に項羽、そして劉邦。

 そのすぐ脇には張良、その向かいに范増が座っていた。


「さあ、劉将軍よ。飲んで下され」


 項羽はそう言って、劉邦の盃に酒を注いだ。


「ありがとうございます」


 劉邦も返杯として、項羽の盃に酒を注ぐ。


 二人は静かに盃を合わせて酒を飲んだ。

 周囲の者のそれを見て酒に口を付けた。


 劉邦も、正直食事が喉を通らない数日間だった。

 安堵した事もあり、劉邦は目の前に並べられた料理を貪る様に食べ始めた。


 項羽は料理を食らう劉邦を横眼で見た。


 この男に天下を取れる器など無い。

 亜父は何を恐れておるのだ……。

 ただの泥臭い飢えた百姓ではないか……。


 項羽はそう思った。


 しかし、その脇に座る范増は、違う目つきで劉邦を睨みつけていた。


 今、殺しておかなければ、後に絶対の災いになる男だ。

 項王の本当の敵はこの男である。

 それに気が付かぬ項王も天下を取る器など無いのかもしれぬな……。


 范増は盃を卓に置いた。


 ちょうど范増の向かいに座る張良は、その范増の目を見ていた。

 范増の目は憎悪にも似た険しさで劉邦を睨んでいた。


 やはり、范増は劉邦を殺そうとしている。


 張良は確信した。


 張良は食事や酒にもほとんど手を付けず、じっと項羽と范増を見ていた。


 名目は秦を打ち破った祝宴という事だった。


 将たちは大いに飲み、大いに楽しんでいた。


 しかし、項羽、劉邦を始め、范増、張良、項伯などは、その祝宴を心から楽しむ事は出来ず、互いの細かい動きまで目で追っていた。


 范増は何杯目かの酒を飲んだ。

 酒の味などわかる筈もない。

 どうやってこの場で劉邦を殺すか、それだけを考えていた。

 そして、変わらず劉邦を睨み付ける様に見ている。


 もし、劉邦が項羽の前に、関中王として現れていたのであれば、間違いなく項羽の剣は劉邦を捕えていたであろう。

 しかし劉邦はすべてを捨てて、楚のため、項羽のためと言い、項羽の前に平伏したのだった。


 同じ事が項羽に出来るだろうか。


 范増は並んで座る劉邦と項羽を見た。


 項羽には劉邦程の器はない。


 范増はそう思い、そして、不気味に微笑んだ。


 項王。

 この劉邦、今殺さなければ、この先、大いなる災いとなりましょう。


 范増は心の中でそう呟いた。


 そして、腰に下げた玉玦を手に取り、チリンチリンと数回鳴らした。

 金で出来たその玉玦は澄んだ高い音を奏でた。項羽、張良にもその音色は聞こえた。


 玦の音。


 張良はその音に気がつき、焦った。


「玦」は「決」に通じ、この時代、密かに決断を迫る時に使われていたのだ。


 范増は項羽に劉邦を殺す決断を迫っている……。


 張良は焦り、劉邦と項羽を見た。


 そして項羽もその音色を聞き、范増をちらと見た。

 しかしそれだけで項羽は動かない。


「劉将軍……」


 項羽は静かに、そして響く声でそう言った。


 劉邦は手に持つ盃を置いて、項羽を見た。


 張良は、思わず席から立ち上がった。


 まずい……。

 斬られる……。


 そう思ったのだった。


 立ち上がった張良を項羽は細い目で見た。


 その目の威圧感はただ者ではない。

 その目に睨まれると動けない事を、張良は実感した。


 しかし、その項羽の目の威圧感は次の瞬間に溶けて無くなった様だった。


「先程、お主が見せた涙。我が叔父項梁のために流してくれた涙と同じであった。儂はお主の涙を信じる。これからも我らの楚のために共に尽してくれ……」


 項羽はそう言うと劉邦の手を握った。


 張良はその様子を見て胸を撫で下ろした。


 しかし、范増は違った。

 その項羽と劉邦を見て自分の卓を蹴り、幕舎を出て行った。


 項羽……。

 とんでもない餓鬼だ。

 このままでは天下を取るどころかこちらが危ういわ……。


 范増は幕舎の外に出た。


「項荘を呼べ」


 近くにいた武将に声をかけ命令した。

 すぐに項荘はやって来た。


「お呼びでございますか范増殿」


 項荘は范増の前で片膝をついた。

 范増は微笑んで、項荘の肩に手をやる。


「お主の出番じゃ。剣舞を振舞うが良い」


 項荘は項羽の従兄弟にあたる男で、そう地位は高くないが、従兄弟であるという事から、何かと目を掛けられていた。

 その上この項荘、項羽の軍では剣舞を舞わせると右に出る者はいなかった。


「はい。承知致しました」


 項荘はそう言うと立ち上がった。

 手を合わせ范増に一礼したその時、范増は項荘を抱き寄せる様にして、耳元で呟く。


「剣舞を舞う振りをして、劉邦を斬れ」


「しかし……」


「誰も咎めはせん。お主は項王の従兄弟じゃ。項王を危機から救うのも、儂たちの仕事じゃからの……。頼んだぞ……」


 范増はそう言うと、足早に幕舎に戻った。


 項荘は周囲を見て、今の話を誰にも聞かれていない事を確認した。

 そしてひとつ大きく溜息をついて、幕舎の中に駆け込んで行った。


「項王の従兄弟。項荘でござる。今より、楚国の繁栄のために、そして憎き秦を討った祝いとして剣舞を舞わせて頂きます」


 項荘は幕舎の入口に立ち、大声で挨拶をした。


「おお、項荘。そなたの剣舞は天下逸品じゃからの。是非頼む」


 項羽は手を叩いて喜んだ。


 その剣舞は素晴らしく、その場にいたすべての者たちが、項荘の剣捌きに見とれていた。


 項荘はどんどん項羽と劉邦の席へ近づき、劉邦の鼻先に剣を振り下ろした。


 劉邦は生きた心地がしなかった。


 しかし、項荘は再び劉邦の前から離れ、幕舎の中央で再び舞い始める。


 張良は、その項荘と腕を組んで剣舞を見ている范増をじっと見つめていた。


 確実に劉邦を狙っている。


 張良は項荘の剣先を目で追った。


 再び、項荘は劉邦の前に立ち、剣を振り下ろそうとした時、その項荘の剣を、張良の剣が受け止めた。


 剣と剣が触れ合う音が響き、火花が散った。


 その剣を受け止めていなければ、劉邦の頭はその剣に砕かれていただろう。


「おのれ……」


 項荘は張良にだけ聞こえる程の小さな声で、そう言う。

 張良はその剣で、項荘を弾き飛ばした。


「不躾ではございますが、私が剣舞のお相手をさせて頂きます。剣を取り、前線で戦う事は不慣れなれど、剣舞は少々心得がございます故……」


 張良はそう言うと剣を項荘に向けて構えた。


 そして、項荘と上手く絡み合う様に剣舞を舞った。

 その舞いは遥かに項荘のそれを越えて見事だった。

 周囲からその張良の剣舞に感嘆の声が漏れる。


「素晴らしい……」


 項羽も呆気に取られ、その剣舞を見ている。


 その剣舞に焦躁感を抱き、周囲と違う目でそれを見つめていたのは范増ただ一人だった。

 その苛立ちは頂点に達し、


「ええい、項荘」


 とうとう范増は立ち上がり、劉邦を指さした。


 項荘もそれを察し、張良の脇を抜け、劉邦の前へと立った。


「劉邦。項王のためにお命頂戴する」


 項荘はそう言うと剣を振り上げた。


「やめんか」


 その時、そう叫ぶ声が幕舎の入口から響いた。


 そこには劉邦の武将、樊噲が立っていた。


 その樊噲の大きな声に驚き、項荘も剣を止める。

 その剣を張良は空かさず、自分の剣ではじき飛ばした。


「何奴じゃ」


「下がれ下郎」


 席に座っていた武将たちは剣を抜き、その樊噲に口々に言った。


「うるさい。俺はお前らみたいなカスには用は無い」


 そう言って、樊噲は無人の野のごとく幕舎の中を項羽の前まで歩いて行った。


 項荘は床に落ちた剣を拾い、樊噲に斬りかかった。

 樊噲はその項荘を素手で、振り払う様に押しのけた。

 項荘は見事に弾き飛ばされ、范増の卓にぶつかった。

 樊噲は勢いよく項羽の前に平伏した。


「項王に申し上げます」


 項羽はその一部始終を、盃を持ったまま黙って見ていた。

 盃に並々と注がれた酒を微塵も揺らす事も無く……。


「俺は、劉将軍の家臣で樊噲と申します。沛にて劉将軍が沛公となられる以前から将軍の傍におります。劉将軍には項王の様に武に長けたところも無く、范増殿の様に智に長けたところもございません。ただ俺は、この劉将軍が好きで傍にいるのです。そして私は、武に長けた項王を尊敬し、項王の様に強くなりたいと思って、今まで楚のために働いて参りました。しかし、項王は楚のために働いてきた我らにこの様な仕打ちを成されるのですか。これでは始皇帝と同じではありませぬか。このままでは死んでも死に切れませぬ……」


 樊噲はそう言った。


「ええい下郎。誰かこ奴を斬れ」


 范増は大声で樊噲を斬るように命令した。


「うるさい。俺は斬られるのを覚悟して項王にお願いに来たのだ。話が終わればいつでも斬られてやる。それまで黙って見ていろ」


 樊噲はそう言うと脚を崩し、胡坐をかいた。


「俺の首で良ければいつでもくれてやるわ」


 そう言うと腕を組んで目を閉じた。


 劉邦はその樊噲をただ茫然と見ていた。

 張良も樊噲の後ろで立ったまま、動かなかった。


 周囲は静まり返る。


「素晴らしい。素晴らしい家臣をお持ちですな……劉邦殿」


 静まり返る中で、項羽は盃を卓に置き、音を立てて手を叩いた。


「はあ……」


 劉邦も斬られるのを覚悟していた。

 しかしその項羽の言葉で全身から一気に力が抜けた。


「まさに壮士。素晴らしい家臣だ。この樊噲とやら、お主のためなら命も投げ出すと言う。素晴らしい。実に素晴らしい。儂はお主を羨ましく思う」


 項羽はそう何度も繰り返した。


 劉邦は椅子を脇に避け、床に平伏した。


「項王。本日は誠に申し訳ありませんでした。非礼の数々お許し下さい」


 劉邦は項羽に頭を下げた。

 その様子を見て、張良も同じ様に床に平伏した。


「いや、良い。儂は今日は実に愉快だ。そなたの涙、張良殿の舞い、そしてこの壮士。それに免じて、今回の事は一切咎めはせん」


 項羽は自分も席を立ち、劉邦の肩を叩いた。


「早く覇上の陣へ戻り、家臣の者を安心させてやれ……。劉将軍よ」


 項羽は高笑いした。






 宴は終わり、劉邦たちは無事に覇上の陣へ帰ってきた。


 劉邦は陣に着くなり、曹無傷を呼び出すが、既に陣にはいなかった。

 劉邦は即座に、多くの家臣を走らせ曹無傷を探した。


 曹無傷は古くから劉邦に従ってきた曹参の縁者にあたる。

 劉邦は曹参にはそれを命じす、密かに自分の幕舎に呼んだ。


「すまん、曹参。曹無傷を斬らねばならん」


 劉邦は曹参に頭を下げた。


 曹参は黙っていた。


 その沈黙は長かった。

 曹参と劉邦、そして蕭何、張良がその場にいた。


「いえ……将軍。この場合、私も同罪。一緒に斬首されても文句を言えぬ立場でございます。劉将軍がこの先、天下を望むのであれば、その様に軍律を定め、曹無傷をお斬り下さい。もし、劉将軍の命がございましたら、私が自ら、曹無傷を斬りましょう」


 曹参は劉邦を真っ直ぐに見ていた。

 その目は一種の決意に満ちた目だった。


「そんな事が出来る訳ないじゃないか……」


 劉邦は歩み寄り曹参に言った。


「いえ。劉将軍。ここは軍です。昔の様なゴロツキの集まりではありません。決まりを定め、配下の者を治めなければならないのです。是非、曹無傷を斬る役目、私に命じて下さい。それで将軍の面目が保てるのであれば……」


 曹参は再び頭を下げた。


「曹参殿……」


 張良も歩み寄り曹参に声をかけた。


「わかった……ではこうしよう。曹無傷を見つけ次第、誰がその役目を担うか申しつける」


 劉邦はそう言い放つと、曹参に背を向けた。


 その場にいた張良も蕭何も目を伏せ、何も言わなかった。






 魏粛と松石は、咸陽の酒場を出て、二人で城門へ向かって歩いていた。


「どうやら項羽は、劉邦を咎める事は無かった様ですな……」


 松石はほろ酔いで、少しフラフラと歩く。


「ああ。しかし、どちらにしても近日中に項羽の軍勢はこの咸陽になだれ込む。これから本当の占領が行われる事になります……。松石殿も早々に咸陽を離れられるが良かろう」


 魏粛は松石に微笑んだ。


「魏粛殿は如何なされるおつもりで……」


「項羽が天下を取れる器なのか、それを私はこの目で見たいのです。先に入城した劉邦は見事でした。本当に項羽が劉邦以上の男なのか。自分のこの目で見てみたいのです」


 魏粛は澄んだ星空を眺めた。


「危険ですよ……。今度は本当にこの咸陽は蹂躙されるでしょう……」


 松石も空を見た。


「私には守るモノなどありません。自分の身だけ守れば良いのであればなんて事はない。大丈夫ですよ」


 魏粛は松石を見て微笑んだ。


「そうですか……。では又、その話を魏粛殿と出来る日を楽しみにしております」


 松石もそう言うと微笑んだ。


 普段夜は閉ざされている咸陽の城門も、今は夜も開かれていた。

 占領軍がいつでも出入り出来る様にという事だった。


 魏粛と松石は城門のところまでやって来た。


「それでは松石殿。気を付けて下さい」


 魏粛はそう言うと松石に小さく頭を下げた。


「はい、魏粛殿も……。小生も落ち着いた頃に戻ろうと思っておりますので……」


 松石は頭を下げて歩き出した。


 その時だった。


「どけどけ。下がれ下郎」


 そう言う声が魏粛の後ろから聞こえた。

 魏粛は振り返り、その声の方を見た。

 一頭の馬がものすごい速さで城門へ向けて走って来る。

 道行く人々は疎らだったが、それでもその人々をも跳ね飛ばす様な勢いで馬は走って来た。


 魏粛は道の中央に佇む松石を見た。

 酔いが回った松石には、その馬を避ける事が出来ないと思い、魏粛は咄嗟に傍に有った桶にささった柄杓を取り、走って来る馬の脚元に投げた。

 柄杓は馬の脚に絡まり、馬は転倒し、その馬に乗っていた男は道に投げ出された。


 魏粛は馬から投げ出された男のところへ走る。


「大丈夫かい」


 見た目に異常は無かったが、気を失っていた。


 魏粛はその男を抱きかかえ、道の脇に運んだ。


「魏粛殿」


 すっかり酔いの醒めた松石は魏粛の元へ足早に戻り、男の顔を覗き込む。


「この男……」


 松石はその男を知っている様だった。


「この方が、どなたかご存知なのですか」


 魏粛は松石に聞いた。


「ええ。私と同郷ですので……。この方は劉邦殿の軍の武将で、曹無傷殿です」


「そうですか……。では早速私が、覇上の陣までお連れ致しましょう」


 魏粛は曹無傷の馬を起こし、その馬の背に乗せた。

 そして魏粛は自分も馬に跨った。


「松石殿はお帰り下さい。明日にでも項羽軍はやって参ります。お気を付けて」


 そう言うとゆっくりと馬を歩かせ始めた。







「止まれ。止まれ」


 魏粛は覇上の陣で、劉邦の兵に止められた。


「そなたは何者じゃ」


 槍と松明を向けられ、魏粛は一瞬たじろいだ。


「はい。旅の薬商で魏粛と申します。貴軍の武将、曹無傷殿をお連れ致しました」


 そう言うと魏粛は馬を下り、頭を下げた


「何。曹無傷だと……」


 一人の兵が松明を持って、馬に乗せられた曹無傷の顔を照らした。


「間違いない。曹無傷だ。劉将軍にお知らせしろ……」


 そう言うともう一人の兵が陣の奥へ走った。


「ご苦労だった。我々も曹無傷を探していたのだ……」


 そう言うと、二人がかりで気を失ったままの曹無傷を、馬から下ろした。


 すると向こうから数人の男がやってきた。

 魏粛はその中の二人に見覚えがあった。

 一人はこの軍の大将の劉邦、そしてもう一人は軍師の張良である。

 男たちは魏粛の横を足早に通り過ぎた。

 魏粛はその男たちに軽く会釈した。

 張良がその魏粛を通りすがりに見た。


「間違いない曹無傷だ。おい、水をかけろ」


 劉邦はそう兵に命じる。


 一人の男に番兵が説明していた。

 その男はゆっくりと魏粛の方へ歩いて来た。


「旅の方。ありがとうございます。曹無傷を我々も探していたのです」


「はあ、そう伺いました」


 魏粛は頭を下げた。


「物凄い勢いで、咸陽城から城外へ出ようとしておられまして、あまりに危険でしたので、馬の脚を止めましたところ、転倒し曹無傷殿が意識を失われまして、こちらまでお連れした次第にございます」


 魏粛はその男に説明した。


「蕭何殿」


 その男を張良が呼んだ。

 蕭何と呼ばれた男は魏粛に一礼し、張良の元へ戻って行った。

 二人で少し話をした後、今度は張良が、魏粛の元へ歩いてきた。


「ありがとうございました」


 張良は丁寧に魏粛に頭を下げた。


「この曹無傷は項羽と内通し、劉将軍に二心有りという讒言状を送ったのです」


 魏粛は目を見開いた。


「それでは……」


「ええ。この曹無傷を斬首するために我々は探しておったのです」


 魏粛はその瞬間から手が震え始めた。


 曹無傷を殺す……。

 殺すために探していたのか……。

 自分が曹無傷を劉邦の元へ運んだばかりに、曹無傷は斬首されてしまうのだ……。


 魏粛は後味の悪さを感じた……。


「あなたは確か以前に……」


 張良は魏粛の顔を覗き込む様に見た。


「はい。碭城にてお会いいたしました。江南の薬商、祭承の使用人で魏粛と申します」


 魏粛は頭を下げた。


「何……。祭承殿の使用人。もしや……」


 張良は魏粛の腕を掴んだ。


「魏粛殿……。もしやそなたは李門殿と共に祭承殿から……」


 魏粛の耳元に口を近づけ、小声で聞いた。


「李門をご存知なのですか」


「ええ。江南で一度、お会いしました故」


 張良は、頭を下げていた。


「ではあの薬の話も……」


「はい。伺いました」


 魏粛は張良と話しながら、横眼で曹無傷を見ていた。

 水を掛けられて意識を戻され、縄に繋がれ引き摺られて行った。


 この曹無傷……明日には、斬首されるのであろう……。

 自分の行動が人の運命を変えた。

 たとえその曹無傷が罪を背負っていたとしても。


「いかがですか……」


 張良の声が再び耳に入ってきた。


「ええ……」


 魏粛は張良にいい加減な返事をした。


「それでは私の幕舎へおいで下さい」


 張良は魏粛を自分の幕舎へ招いた。






 その日、張良と魏粛は遅くまで話をしていた。

 始皇帝の話、李門や祭承の話。

 そして劉邦の話。

 項羽の話。

 不思議とこの張良とは馬が合った。

 話が弾みそのまま朝を迎えた。


「魏粛殿。如何ですか。我が劉邦将軍の軍に軍医補佐として、加わって頂けませんか」


 張良は魏粛に言う。


「私がですか……。しかし……」


「劉邦殿への進言は私がさせて頂きます」


 張良は魏粛の手を強く握った。


「この先……、いや、近々行われる論功行賞によっては、まだこの戦乱は終わらない。それどころか、激化します。我が軍も多数の負傷者を出すでしょう。我が劉将軍のために怪我をした兵を、一人でも多く救いたいのです……」


 張良が真剣にそう言っているのは、その目を見ればわかった。

 魏粛は軍人になる事に抵抗があった。

 昨夜の曹無傷の一件も、その原因の一つだと言えよう。

 魏粛は目を伏せて、その場で返事をする事が出来なかった。


「ならばこうしましょう。夜が明けて、私が劉将軍に話をします。その後、劉将軍にお会い下さい。その上で決めて下さい」


 張良の言葉に魏粛は小さく数回頷いた。


「しかし、あの萬能丹ですが……」


「はい」


 魏粛は張良の方を見た。


「宦官の趙高は始皇帝に本当に飲ませたのでしょうか……」


「私には真偽の程はわかりませんが……恐らくは……。それはそうと、李門が始皇帝に献上した萬能丹はこの咸陽にあるのでしょうか……」


 魏粛は懐にある自分の持っている萬能丹の袋を無意識に確認した。


「ご心配なく。それに関しては私が保管しております」


 張良はそう言って微笑んだ。


「なるほど、その残りの数を数えると、趙高が使ったかどうかわかるのですね」


「そうですね。無闇に使用出来る薬ではありませんので、それで使われたかどうかはわかります。誰に使ったかはまでは、わかりませんが……」


「そうですね。しかし趙高の性格からいけば、まず始皇帝に飲ませて、薬の効果を確かめる。そのくらいの事はするでしょうね」


「なるほど……。やはり趙高とはそういう男だったのですね……」


「秦帝国を滅亡するまで堕落させたのは、ある意味、趙高かもしれません」


 張良はそう言うと目を伏せた。






 劉邦は腕を組んで、朝の穏やかな覇水を眺めていた。

 劉邦は朝早くに覇水を眺める事が日課の様になっていた。

 今日は劉邦の後ろに蕭何と曹参が立っていた。


「蕭何……、曹無傷の処刑の準備は出来たか」


「はい。準備は整っております」


 蕭何はそう答え、曹参の方を見た。

 曹参は下を向いたまま黙っていた。


「曹参」


 劉邦は振り向き、今度は曹参を呼んだ。


「はい」


 曹参も顔を上げて劉邦を見た。


「曹無傷の最後の話を聞いてやれ……。奴の家族は咎めない事にする。そして、今後もこの劉邦が面倒を見る」


「劉将軍……。曹無傷の特別扱いはやめて下さい」


 曹参は前に出る様にしてそう言った。


「確かに曹無傷は私と同族です。しかし、私と同族であると言う事で特別扱いなどされますと、この軍の軍律は守られません」


「曹参。劉将軍には劉将軍のお考えがあっての事だ……」


 蕭何は曹参を見てそう言った。


「もちろん劉将軍のお心遣いは良くわかっております。しかし私は同族の曹無傷が犯した罪の重大さを理解した上で申し上げております。私が同族であるという事は除外してお考え下さい」


 曹参は頭を下げた。


「曹参……」


 曹参は劉邦が沛にいた頃から蕭何の部下として劉邦を見守っていた。

 それだけに劉邦も曹参の同族である曹無傷への処罰を、曹無傷本人だけで収め、一族にはその罪を課さないと決めたのだった。


「お願いします……」


 曹参は劉邦の前に片膝をついて懇願した。


 蕭何は何も言わず、ただ黙って劉邦に嘆願する曹参を見ていた。


 劉邦は組んだ腕を解き、


「立て、曹参」


 と、少し大きな声で言う。


「はい」


 曹参はゆっくりと立ち上がる。


 劉邦はその曹参の前で大きく息をついた。


「沙汰を申しつける」


 劉邦はしっかりと曹参の目を見た。


「曹参。正式に、お前に曹無傷の処刑を申しつける」


 劉邦はそう言って、再び覇水を見た。


「劉将軍……」


 蕭何は思わず劉邦に声をかけた。


「それはあまりに……」


「蕭何。秦の章邯は項羽に命じられ、秦軍二十万を助けるために自らの叔父と二人の息子を斬ったという。項羽ほど冷酷な事は俺には出来ん。しかし、この項羽の命じた事は、その後の軍の士気にも影響しただろう。そうは思わないか……」


 蕭何は目を伏せて黙っていた。


 曹参はゆっくりと劉邦を見て、そして……、


「その役目、謹んでお受け致します」


 そう静かに言い、劉邦を拝した。


「曹参。曹無傷の家族を罰する事は今後もない。しかし、その家族の面倒はお前が見るのだ。いいな……」


 劉邦はそう言うと、自分の幕舎へゆっくりと歩いて行った。

 その後ろ姿に曹参は、


「承知致しました……」


 そう小さな声で呟く様に言った。


 その日、曹無傷の処刑は、同族の曹参の手で夜が明けると同時に、執り行われた。

 しかしその曹無傷の首は晒される事も無く、丁重に扱われたという。






 張良と魏粛は幕舎の中で、劉邦が来るのを待っていた。


「魏粛殿。碭城で劉将軍に会われましたね」


 張良は横に並んだ魏粛に聞いた。


「はい。声をかけて頂きました」


 魏粛は張良の顔を見る事も無く、真っ直ぐに正面を見据えていた。


 魏粛は碭城で劉邦に会った時、この様な機会がやってくる事を感じていた。


「あなたには劉将軍はどう映りますか」


「どう……と、おっしゃいますと……」


 魏粛は張良の横顔を見た。


「将軍に天下を取る事が出来るでしょうか」


 張良はそう言うと強い視線で魏粛を見た。


「それはどういう事なのでしょう……」


 張良は微笑んで顔を伏せた。


「私は、秦が滅んだ後に、楚が再び建つとは思っておりません。その再び訪れる乱世を治めた者が新しい国家を作る。そう考えているのです。もちろん今は、楚の懐王の元にという大義名分は出来ております。しかし、そんなモノは脆いモノです。秦が滅んだ瞬間に……懐王も廃されるでしょう。項羽はそういう男です……」


 張良の言葉を、魏粛は瞬きもせず聞いた。


「私は江南の街を出て、色々な人物を見てきました。項羽、英布、彭越、そして劉将軍。それぞれに長けているモノを持っておられます。そして私は思うのです……。秦帝国が滅んだ後、必要な力とは何なのか……。それを考えると、次の時代が必要とするモノを持っている王。そう……王としての器、私はそれが劉将軍にはあると思います」


 魏粛は目を閉じて言った。


 張良は魏粛を見て微笑んだ。


 その時、幕舎の入口で声がした。


「魏粛と言ったな……」


 その声に二人は顔を上げた。

 幕舎の入口には劉邦が立っていたのだ。

 劉邦は足早に入って来て魏粛の前に立った。

 そして腕を組んだ。


 張良と魏粛は頭を下げた。


「顔を上げよ」


 劉邦のその声に、魏粛はゆっくりと頭を上げた。

 そして劉邦の目を見た。


「魏粛と申します……」


 魏粛は声を小さく震わせながら言った。


 劉邦に項羽の様な恐怖に似た威圧感はない。

 しかし、この男は一回りも二回りも大きく見える何かを持っている。

 魏粛は劉邦に改めてそう感じた。


「俺には王の器があるのか」


 劉邦は魏粛の前で胡坐をかき、地面にそのまま座りこんだ。


 それを見て、魏粛は自分の椅子を横にずらし、自らも地面に平伏した。


「よい。お主は客人だ。椅子に座られよ」


 劉邦はそう言うと、魏粛が横にずらした椅子を、魏粛の前に置いた。


「俺は元々百姓だ。土にまみれて生きてきた。今でも土の匂いが好きでたまらんのだ」


 そう言うと、魏粛を覗き込む様に見て笑った。


「俺は、俺の下に集まる人物をすべて受け入れる。俺が正しいと思ってくれる奴は皆、味方だ。お主はどうだ」


 劉邦は魏粛の肩を叩いた。


「先程申しておった様に、俺に王の器があるのならば、俺が治める世を見たいと思うか……」


 劉邦の声は優しく幕舎に響く。


 魏粛はじっと劉邦の顔を見つめ、そしてゆっくりと口を開く。


「民草は……。この数年、戦乱に巻き込まれ、生きる事にのみ必死で、とても幸せと言える様な生活を送っておりません。そして、その前の秦の悪政の時代にも、とても苦しい思いをしてきました……。今、民草が望むのは、血の流れぬ太平の世です。討秦に明け暮れている将軍たちの中に、太平の世を心から望み、そのために戦っている方がどれだけおられますでしょうか……。民草の気持ちは民草にしかわからないモノです……」


「俺も少し前まで、そこにいたからな……。民草の気持ちは良くわかる。俺は民草の血が流れる事が……、一番我慢出来んのだ」


 劉邦はそう言うと突然立ち上がった。


「魏粛、張良、ついて来参れ」


 劉邦は足早に幕舎を出て行った。

 その後を魏粛と張良も追う様に出て行く。






 覇上とは、覇水の畔、その上流にある平原の事をそう呼んだ。

 何も無い広い平原で、軍の野営のために、この時代にはよく使われていた。

 そこに今、劉邦軍は陣を構えている。


 劉邦はその陣の中を颯爽と歩いて行った。


 覇水の畔に一人座っている曹参が見えた。


「曹参」


 劉邦は歩きながら曹参を大声で呼んだ。

 曹参も気づき、座っていた石から立ち上がった。


「将軍……」


 劉邦は曹参の前で止まり、曹参の肩を叩いた。


 この曹参は今朝早くに、項羽に讒言状を送った曹無傷を斬首したばかりだった。

 同族の処刑を曹参にさせた劉邦。

 これは曹参のために命じた事だった。


「嫌な思いをさせたな……。すまなかった」


 劉邦は曹参に頭を下げた。


「そんな……。将軍。やめて下さい。本来ならば私も罰せられてもおかしくない立場です。それを私のために……」


 曹参も察していたのだ。


「お前は沛にいた頃、この俺を何度も助けてくれた。しかし、俺はまだ、そのお前の恩に報いていない」


 劉邦は流れる覇水を見て腕を組んだ。


「曹参……。頼む。俺と一緒に生きてくれ……。そして俺が創る太平の世を一緒に見届けてくれ……」


 曹参に背中越しにそう言った。


「劉将軍……」


 その言葉に、曹参は崩れる様に膝をついた。


「ありがとうございます。この曹参、命に代えても劉将軍をお守りします……」


 曹参はそう言うと顔を伏せた。


 魏粛はその光景を黙って見ていた。


 劉邦とその家臣は、強い絆で繋がっている。


 それを確信した。


「張良」


 劉邦は振り返り、張良を呼んだ。


「はい」


 張良はゆっくりと頭を下げた。


「魏粛と酒を飲む。支度をさせろ。お前も同席するのだ」


 そう言うと劉邦は再び歩き出した。


「曹参。お前も一緒に飲もう」


 曹参の前で立ち止まり、劉邦は微笑んだ。


 劉邦はそのまま振り返り幕舎へ歩き出した。


「魏粛よ……」


 魏粛は少し足早に劉邦の横に並んだ。


「はい」


 劉邦は魏粛の顔を見て、


「俺は冷酷な男か」


 そう聞いた。


 魏粛は正面を力強く睨む様に見た。


「いえ……。正しいご判断だと思います。これで曹参殿は一族の罪の意識を背負わずに、これからも将軍に忠誠を誓う事でしょう……」


 魏粛のその言葉に劉邦も正面を向いた。


「そうか……。俺は正しいのだな……」


「はい……」


 魏粛はそう答えて頭を下げた。


「それならいい。俺はいつも考えてしまう。俺のやる事で、色々なモノが大きく変化する。その度に思うのだ……。俺は間違ってないのか……と。俺のやる事がもし間違っていると、それで苦しむ奴、悲しむ奴が生まれる。それが俺はたまらなく嫌なのだ……」


 そう言うと歩を止め、そして振り返り覇水を今一度見た。


「戦場で嫌という程、人を斬る事よりもそれが嫌のだ……。俺の間違いを傍にいて正してくれる人材が欲しい。俺は弱い人間だからな……」


 劉邦はそう言うと魏粛と張良に微笑みかけた。


「張良、魏粛。今日は飲むぞ……。皆にも声をかけろ。飲みたい奴は一兵卒でも構わん。皆集まる様に伝えるのだ……」


 劉邦はそう言うと幕舎に一人で入って行った。








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