第三章 始皇帝
街はざわめいていた。
いよいよ秦軍がこの街へやって来るのだ。
李門たちはその日の早朝から、県令に呼び出され、接待の準備を行っていた。
滞在は五日間だと始皇帝の早馬が知らせに来たらしい。
「準備は順調なのか」
県令は長老に聞いた。
長老は県令の前で跪き、手を隠して拝した。
「山海の幸や最高の酒を揃えております」
「そうか。何かあれば私の首が飛ぶのだ。しっかり頼むぞ……」
県令も不安を隠せなかった。
そうなのだ、李門たちだけではない。
粗相があれば秦の官である県令たちも分け隔てなく処されるのだ。
李門たちは腕の良い料理人を数十名揃えて、始皇帝が到着するのを待った。
「ところで噂に聞いたのだが……」
と県令は口を開く。
顔を伏せていた李門たちは一斉に顔を上げた。
「陛下は不老不死の妙薬を探しておられるという事なのだ……」
県令は豪華な椅子に座ったままだった。
「その様な妙薬の噂を近辺で聞いた事はないか」
長老たちは顔を見合わせ、皆、首を横に振る。
「その様な話は……」
その長老の言葉を、李門が遮った。
「お任せ下さい。既に見つけてあります」
長老以下数名が一斉に李門を見た。
「まことか。それは素晴らしい。その薬次第では私も中央に取り上げられるかもしれぬ。しかと任せたぞ……」
県令はおもむろに椅子から立ち上がった。
「お任せ下さい。県令閣下」
李門はそう静かに言うと一礼した。
「その様な話は聞いておらんぞ」
「始皇帝は不老不死の薬などを探して旅をしておるのか」
「馬鹿な話だ。そんな薬、ある訳がない……」
「李門。大丈夫なのか」
男たちは長老の家の広間で、口々に不安を吐き出していた。
「李門。お前は知っておったのか……」
長老も口を開いた。
「はい。例の儒家に聞いておりました」
「しかし、そんな薬が存在するのか。いくら李門さんが薬屋といってもそう簡単には……」
李門は黙っていた。
「大丈夫なのか……。李門」
長老は白い髭を撫で、李門を心配そうに見た。
「お任せ下さい。それに近しい薬を準備しております故」
李門はそう言って席を立った。
「明日には始皇帝が到着します。とりあえず力を合わせて乗り切りましょう」
李門は部屋を足早に出て行った。
「それに近しい薬か……。流石は江南一の薬商……祭承じゃの……」
長老は李門が去った後をずっと見つめていた。
李門は店への帰り道を歩きながら、南士との話を思い返していた。
「紅雀と青雀という仙人をご存知ですか」
李門は酒の入った器に口をつけた。
「紅雀と青雀か……会ったのか」
まどろむ様な目で南士は李門に聞いた。
「いえ……残念ながら私ではございませんが、その二人の仙人に会ったという人物の話を聞きまして……」
「スズメというヤツはな……人の周りを小賢しく飛び回る。それで人の打ち捨てた稗や粟を啄むだけの能力しかないのだ」
そう言って器を卓に置いた。
「スズメは人が穀物を作り、それを与えなければ生きていけぬ……。そうやって人に寄生する生き物だ。なのに人を嘲笑いながら生きている。紅雀も青雀も仙人といえども同じだろう」
その話を李門は黙って聞いていた。
「もちろん。俺も会った事はない。仙人に会えるヤツなんてホンの一握りだ。俗に言われる選ばれた人間と言うやつだな……」
南士は器に残った酒を飲み干した。
「祭承か……。あやつなら会ったかもしれんな。紅雀と青雀に……」
もう酒瓶に酒は無かった。
南士は酒瓶をひっくり返す様に最後の一滴まで器に落とした。
「酒も終わりか……。最後の一滴。これが一番美味い。もう終わりかと思うと最後の一滴に哀愁を感じる。そしてその哀愁の味は最高だ。わかるか……李門。この国ももうすぐ終わる。その哀愁がたまらなく愛おしくなる。悪法も法。秦も国だ。だったら今の秦で何をすれば良いか……。お前自身が考えろ……李門」
寝言の様に南士は呟いた。
「悪いが儂は寝るぞ……。適当にやってくれ……」
南士はそう言うとフラフラと立ち上がり、傍にある寝台に横になった。
李門は自分の器に残った酒を飲み干した。
そして何もない南士の部屋を見渡す。
山と積まれた竹簡。
壁に筆で書かれた中国の地図。
数本の竹竿。
壁に掛けられたボロボロの上着……。
卓には乾いた筆が一本転がる。
「紅雀も青雀も夢幻か……」
静かにそう言うと李門は立ち上がり、南士の小屋を出た。
横になった南士はしっかりと目を開け、背中越しに李門が出て行くのを感じていた。
「李門さん。これですが……」
李門が店に戻ると、すぐに使用人が近づいて来た。
「いつも通りの量でよろしいですか」
「いや……少し増やそう。それと……これと、これも一割増やしてくれ」
薬の名前が書かれた竹簡を指さして、李門は適切に指示をした。
「祭承様はどこだ」
「祭承様はお出かけになっておられます」
使用人はそう言うと頭を下げて仕事に戻った。
魏粛は数日前に店を出て行った。
祭承はもちろん引き留めたが、魏粛が言い出したら聞かない事を李門も祭承も知っていた。
小さな荷物と「萬能丹」を手に魏粛はその日旅立った。
李門は不思議と永遠の別れという気がしなかった。
また必ずどこかで会う気がしたのだ。
李門と祭承は、北へ向かう魏粛が見えなくなるまで見送っていた。
李門は気がつくと、祭承の部屋の前に立っていた。
そして祭承の部屋の戸を開け、ゆっくりと中に入り、後ろ手に戸を閉めた。
祭承の広い部屋は、昨夜炊いたであろうと思われる香の匂いが漂っていた。
いつも祭承が座る卓の前に静かに立つ。
李門にはそこに座る祭承が見える様だった。
「祭承様。これで良いのでしょうか……。私にはわかりません。しかし、これも一つの選択肢だと私は思うのです。ご理解下さい……」
李門は誰も座っていない卓に頭を下げた。
趙高は轀輬車の中で食事を取る始皇帝の傍にじっと立っていた。
「今日は気分が良いの……。そろそろ不老不死の薬が効き始めてきた頃かの……」
始皇帝は口から米粒を飛ばしながら言った。
「そうかもしれませんね」
そう言うと趙高は微笑んだ。
「陛下、今日の昼過ぎには次の街に到着します。今夜は県令、奉耳の屋敷を準備しております。久々にゆっくりお休み頂けます」
「そうか。今晩は美味いモンが食えるの……」
「左様にございます。次の街でも不老不死の妙薬を準備しておると、先程早馬から連絡がございました」
趙高は飯を食う始皇帝をじっと見ていた。
「ほう。まだあるのか……。朕は一体何歳まで生きる事が出来るのであろうな」
始皇帝はそう言うと大声で笑った。
「不老不死と言われるくらいですから……。永遠に……ではないでしょうか……」
そう言うと趙高は笑って頭を下げた。
李門たちは始皇帝の巡行を街から二十里のところまで、県令の奉耳らと共に迎えに出ていた。
しばらくすると、少し先にある丘の上に秦軍の先頭の旗が進軍するのが見えた。
「来たな……」
「ああ……」
李門はそう言って、道の脇に膝をついて平伏した。
「いよいよだな……」
県令の奉耳は道の中央に跪いて手を胸の前で組み、秦軍を待った。
徐々に近づいてくる秦軍。先頭の一団を率いる集団。
その馬上の男の顔がはっきりと見える位置まで一団はやってきた。
一団は少し前で止まり、一人の武将が県令奉耳の前にやって来た。
顔を伏せている李門たちには蹄の音だけが聞こえていた。
「そなたが県令の奉耳か」
その馬上の武将は見事な漆黒の鎧に身を固め、鋭い目つきで奉耳を見降ろした。
「左様にございます。恐れながら皇帝陛下をお迎えに参りました」
奉耳はそう言って頭を下げた。
「御苦労だった。趙高様の下へお連れ致す。ついて参れ」
そう言うとその武将の馬は反転した。
それを見て奉耳も馬に乗り、後ろをついて歩いた。
轀輬車の一台前の馬車に趙高は乗っていた。
「趙高様。県令の奉耳殿にございます」
馬上から下りてその武将は趙高の馬車の横に跪いてそう言った。
奉耳も一緒に馬を下りて、その武将の後ろに跪いた。
「出迎え大義であった。これより陛下は入城なされる。案内いたせ」
趙高は馬車の上から目だけを奉耳の方に向けてそう言った。
「はい。ではご案内させて頂きます」
奉耳は深々と一度頭を下げ、馬に乗り秦軍の先頭へ走って行った。
「出立するぞ。全員馬に乗れ」
奉耳はそう言って、道の脇に平伏している者たちに声をかけた。
李門たちはそれぞれ馬に乗り、列を作った。
そして再び一行は歩き出した。
街までは巡行の速度で一時間程の距離だった。
正直、李門は圧倒されていた。
自分たちの列の後ろに続く秦軍。
それは皆同じ漆黒の鎧に身を固め、今まで見た事もない壮大さであった。
列も乱れる事なく、しっかりとした足取りで李門たちの後をついて来ている。
これが秦か……。
李門は自分の背中に何とも言えぬ威圧感を痛い程に感じていた。
そう。
これがわずか十年で中国を統一した秦軍なのだ。
その数七十万。
それが今、自分たちの後ろを歩いている。
「すごいな……。これが秦軍か……」
一人の男が声に出してそう言った。
「静かにしろ……。無駄口を叩くな……」
李門はその男に言う。
「どんな理由でも奴らは私たちの首を刎ねる事が出来るのだ……。気をつけろよ……」
李門たちの一行は七十万の秦軍を引き連れて街までの道を歩いた。
その日の午後は目が痛い程の晴天だった。
「始皇帝が来たぞ」
「秦軍が来たぞ」
街の人々は遠くに見える秦軍を見て、口々にそう言っていた。
大半の人々は家に入り戸を固く閉ざす。
しかし家に戻れない者は、大路の両脇に平伏して秦軍が通り過ぎるのを待つ事になる。
七十万の秦軍すべてが城内に入る訳ではない。
大半は城外にて野営し、始皇帝を始めとする百二十人程の従事とそれを守る四十人程の近衛が城内に入城した。
その光景もまた壮大だった。
始皇帝の乗る轀輬車は四頭の馬に引かれ、カラカラと心地よい車輪の音を立てながら、街に入って来た。
趙高もその轀輬車の中にいた。
「陛下。街に入りました。民草は道に平伏し、陛下のご入城を歓迎しております」
趙高は椅子に座る始皇帝の前に立った。
「趙高……。朕が歓迎されぬ客である事はわかっておる。だがな、国を治めるとはそういう事なのだよ。無二の恐怖で人々を押さえつけ、本物の恐怖を植え付けるしかないのだ。それが国造りというモノだ」
そう声を響かせた。
「この五度目の巡行で朕の巡行は終わりにする。後は扶蘇に任せる」
そう言うと目を閉じた。
趙高は始皇帝に背を向けてニヤリと笑った。
ゆっくりと轀輬車は止まる。
趙高は轀輬車の窓を薄く開けて外を見た。
城の前に轀輬車は止まっていた。
「陛下……。到着した様子です」
趙高は始皇帝に手を掲げた。
始皇帝はゆっくり頷き、立ち上がった。
轀輬車から降り立った始皇帝の姿は、街の人々には大きく見えた。
これも始皇帝を取り巻く者の演出である。
中国を初めて統一した男。
自らを始皇帝と名乗る男。
その男は偉大で威厳のある人物でなければならなかった。
鼻は高く、目は切れ長で常に人を睨んでいる様に見えた。
そして大地を震わす様な声は人々を圧するにはお誂え向きだった。
当時の人々の平均身長は約百五十センチ程だったが、始皇帝はそれを遥かに上回っていた。
「のう。趙高」
始皇帝、政は背筋を伸ばし、平伏す民草たちを見渡した。
「はい」
趙高は顔を伏せてそう言った。
「ここも朕の国か……」
始皇帝は表情を変えずにゆっくりと街を見回していた。
「左様にございます。この街もこの民草もすべて陛下のモノにございます」
趙高は頭を上げた。
「悪くない」
始皇帝、政の顔がほころんだのを見たのは趙高だけだった。
その時、始皇帝と趙高の前に県令の奉耳が駆け寄り平伏した。
「陛下。お待ち申し上げておりました。この様な街に、お立ち寄り頂き、光栄にございます」
始皇帝、政はそう言う奉耳を見降ろし、ゆっくりと趙高を見た。
趙高はそれを察した。
「出迎え大義であった。陛下はお喜びあそばせておられる」
「そのようなお言葉。もったいのうございます」
奉耳はそう言って頭を地面に付けた。
「陛下は疲れておられる、お休みあそばされる部屋を用意しろ」
趙高も始皇帝同様に奉耳を見降ろして言った。
「はい。お気に召して頂けますかどうかわかりませんが、こちらに準備してございます」
奉耳はそう言うと少し頭を上げて、後ろを見た。
奉耳の後ろに控える男が駆け寄る。
「陛下はお疲れあそばされておられる。部屋へご案内しなさい」
男は黙ったまま頭を下げた。
「奉耳」
その時だった。
始皇帝、政は奉耳に声をかけたのだった。
奉耳も口から心臓が飛び出る程に驚いていた。
趙高はその声にピクリと動いて始皇帝を見た。
そして、
「陛下がお声をかけておられる。奉耳よ。面を上げい……」
今度は奉耳を見てそう言った。
「はい」
奉耳はゆっくりと顔を上げて始皇帝を見た。
始皇帝は奉耳を威圧するかの様に見降ろし、その鋭い切れ長の目は奉耳の呼吸を止めた。
「大義であった。朕は大いに満足しておる」
その言葉に安堵し、奉耳は再び頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
「うむ。宴も大いに期待しておるぞ」
始皇帝は低い声でそう言って、奉耳が準備した車に乗り換えた。
その横をぴったりとついて趙高は歩き、準備された部屋へ向かった。
奉耳は始皇帝の去りゆく方向へ向きを変えて更に頭を下げた。
「始皇帝様は県令様に直に声をおかけになったらしいぞ」
「ああ、聞いたぞ。今までお立ち寄りになった街でそんな事は無かったという話だ」
「このままだと何事も無くいけそうだな」
街の酒場ではそんな話で持ち切りだった。
「あんたたちも始皇帝様の滞在中は一人二合までしか酒は出さないからね。酔っ払って失敗でもされたら大事だからね」
酒場の女将はそう言い、酒瓶を卓から引いた。
「それじゃ、俺たちが酒癖悪いみたいじゃないか」
「だよな。俺たちは賓の良い客だよな」
程良く酔った客たちは口々に言って笑った。
「何を言ってるんだいこの間、酔って他所者殴ったのはどこのどいつだい」
女将はそう言うと奥に入って行った。
「違いない。お前は酒癖悪いよ。俺が保証してやる」
とりあえず始皇帝を迎えるのに、粗相がなかった事を街の人々は喜んでいた。
この街の人々はもちろん始皇帝を見るのは初めてだった。
噂だけが先走り、始皇帝は恐ろしい人物で、見ただけで気に食わない人間を斬ってしまうなどという噂話を、街の人々は信じ切っていたのだ。
強ちその話も嘘では無い。大きな中国を統治し、それまでなかった法治国家を作った始皇帝。
その法に従わない人間や、その国の統治を害する人間には厳しかった。
街の人々が噂する始皇帝像はその部分だけを切り取った話だったのだろう。
一人の男がその店に入ってきた。その男は店の隅に座る男の下へ足早に歩み寄った。
「子房様」
男は小さな声でそう言い、向かいに座った。
子房と言われた男は顔を上げ、男の顔を見た。
「やはり城内には側近を含めて二百名程が入った様子です。城外には情報通り、約七十万の軍勢が控えております」
子房と呼ばれた男は酒を飲みながらニヤリと笑った。
「ここでは手出しは難しいかと……」
子房と呼ばれる男。
張良子房。
後の諸葛孔明と並ぶ名軍師として称される男である。
張良は秦に滅ぼされた韓の宰相、張平の息子であり、秦を討つ事だけに生涯をかけ、始皇帝を追っていたのだった。
始皇帝の三度目の巡行の時に暗殺を計画し実行した。
しかしその暗殺は失敗に終わり、その結果、始皇帝に追われる羽目になったのだった。
その暗殺の失敗から八年が経つ。
張良は髭を伸ばし、薄汚れた服を着て身分を隠し、始皇帝の後を追っていた。
「まだ機は熟してない……。必ず機会はある」
張良はそう言うと卓に金を置いて店を出た。
始皇帝の巡行にはもちろん秦の軍事力を見せつけ、秦に対し反乱を起こさせないという目的もあった。
だがこの巡行がもたらしたモノは大きい。
始皇帝の巡行に合わせて、中国各地の道路は整備され、主要都市間の交通の便は飛躍的に良くなった。
この街も例外ではない。
周囲の主要都市へ向かう道は整備され、今まで手に入らなかった物が容易に手に入る様になっていた。
この街も比較的、海に近い街ではあるが、今までよりも新鮮な魚介類が手に入る様になった。
その夜、始皇帝を歓迎する宴が、城では行われた。
その宴の席には山海の珍味が並ぶ。
始皇帝を始め、幕僚と側近、合わせて百五十名程がその席についていた。
その末席には県令の奉耳、街の主要な人物より選ばれた世話役なども座っており、この宴のために若い娘を接待役に百人も準備した。
趙高は始皇帝の脇に立った。
「この度は御苦労であった。県令の奉耳の計らいにより陛下の旅の疲れを癒す宴が準備された。陛下も大変お喜びである。今日は皆も大いに楽しみ、旅の疲れを癒して頂きたい」
趙高はそう言うと宰相の李斯に合図した。
李斯は頷き立ち上がった。
「では、陛下に代わり私、李斯が乾杯を務めさせて頂く」
そう言うと、奉耳がこのために準備した銀の盃を大きく持ちあげて、乾杯の発声をした。
その場にいた百五十人を超える者たちが一斉に盃を掲げた。
「李門殿のおかげで良い宴が出来た」
長老は李門の横でそう言った。
「いえ。これは街を思う皆が、力を合わせた結果でございます」
李門は長老に頭を下げた。
「献上品の準備は出来ておるのか」
そこに割り込む様に奉耳が言う。
「はい。ご心配なく……」
長老はそう言うと奉耳に頭を下げた。
県令は配下の者を呼び、声をかけ、何かを伝えると立ち上がった。
「お恐れながら、この街から陛下へ贈り物がございます」
奉耳はそう言って手を叩いた。
その音にざわめいていた者たちも話すのを止めた。
その部屋の戸が開き、献上品を持った女官たちが次々と入って来た。
その女官の列はいつまでも止まなかった。
献上品は山と積まれ、その目録の竹簡を奉耳が読み上げて行く。
その目録を読み上げる度に女官はその献上品を始皇帝の前に持って行き、頭を下げる。
その度に席に座る側近たちから拍手が湧き上がる。
その献上品の数は数百を数え、いつまでも続いた。
「最後の品でございます」
奉耳は一度咳払いをしてそう言った。
「陛下がいつまでも健康で有らせられます様にと、不老不死の妙薬を献上致します」
奉耳はそう言うと頭を下げた。
奉耳の言葉に周囲はざわめき立った。
「待ちなさい」
そう言って立ち上がったのは趙高だった。
女官が持った盆の上にその薬の入った袋が乗っていた。
趙高はゆっくりとその女官の前に行き、盆に乗った革の袋を取った。
「この様なモノを今までにも、陛下に献上した者がおる。しかし、紛い物が多く、陛下のお届けしたモノはごく一部である」
始皇帝と違い、趙高の細い声がその場に響いた。
「陛下に献上する薬である。この薬がどんな物なのか説明出来る者はおるのか」
その宴は静まり返った。
「誰かおらんのか」
趙高は鋭い目つきで周囲を見回した。
李門はその場でゆっくりと立ち上がった。
「そなたは」
趙高は遠くに立つ李門にそう聞いた。
「はい。この度、世話役を仰せつかっております、李門と申します」
李門は深く頭を下げた。
趙高は宰相の李斯と始皇帝を見た。
李斯は立ち上がった。
始皇帝は踏ん反り返る様に座ったままだった。
「李門。そなたには後で話しがある。遣いを向かわせるので後で参れ」
趙高はそう言うと席に戻った。
奉耳はその様子を見て、慌てた様に、
「献上品は以上でございます。陛下に置かれましては益々のご発展とご健康をお祈り申し上げます」
そう言って席に座った。
その後も夜が更けるまで宴は続いた。
その夜、李門たちは城内に残っていた。
この宴は数日続く事になる。
李門たちには、ようやく一日目が終わったに過ぎなかった。
「李門殿はおられるか」
漆黒の鎧を着た一人の武将が入ってきた。
ひと目で始皇帝、いや趙高の遣いだとわかった。
「私でございます」
李門は立ち上がり、その武将の前まで行き、頭を下げた。
「趙高様がお待ちだ。一緒に来るがよい」
李門は再び頭を下げ、その武将と一緒に部屋を出て行った。
「李門殿をお連れ致しました」
趙高の部屋の外でその武将は言った。
「入れ」
趙高のか細い声が聞こえる。
李門はその武将に促されるままに部屋に入った。
広い部屋だった。
李門は部屋の中のもう一つの戸を開けた。
部屋の中には趙高だけではなく、宰相の李斯、そして始皇帝の末子である胡亥がいた。
「こちらへ参れ」
趙高は李門を三人が座る卓へ呼び寄せた。
李門はゆっくりと歩き、三人の前で礼をした。
「まあ、座りたまえ」
李斯が椅子を引いた。
李門は黙ったまま椅子に座った。
「この度はわざわざすまぬな」
趙高はそう言うと、目を細めて李門を見た。
その目は李門を蔑む様にも見えた。
「いえ……」
李門は深々と頭を下げた。
「お前が作ったのか」
座るなりいきなりそう言ったのは胡亥だった。
「アレはお前が作ったのかと聞いている」
胡亥は少し荒々しい口調だった。
李門は威圧する様な言葉づかいにたじろいだ。
「いえ、とんでもございません」
「陛下がお口にされるモノだ。変なモノを口にして頂く訳にはいかんのだ」
李斯は静かにそう言った。
「陛下の命を狙っている者も多いのでな……」
「私が陛下のお命を……。滅相もございません。私はただ……」
そこまで言って李門は口を閉ざした。
そうなのだ。
李斯が言う様な事も考えない訳ではなかった。
しかし、街のためを思えばこそ、李門は「萬能丹」を献上したのだった。
「李門よ。そなたが献上したあの薬。どの様な薬なのだ。説明して頂こうか」
趙高は小さな細い声で言った。
李門は自分をじっと見ている三人を震えながら見渡した。
向かいに趙高、右手に胡亥、そして左に李斯が座っている。
この三人が何故一緒にいるのか、李門は疑いもしなかった。
李門を睨む様に見る三人の目は、身体中に突き刺さる様だった。
三人を見ながら、小さな声で話し始めた。
「先程献上した薬は「萬能丹」と言われる薬でございます。どんな病も一粒で治してしまうという薬です。そしてあの薬は仙人丹と言われる薬の一つで、仙人が作った薬でございます」
「仙人だと。その様な者がどこにおるというのだ」
胡亥は呆れたという様に手を振った。
「じゃあ、お前は仙人に会ったとでも言うのか」
「いえ。私ではございません。私の主人が仙人から受け取ったモノでございます」
李門は胡亥の方に身体を向けてそう言った。
「私の主人は咸陽の出身でございます。その主人が幼い頃に咸陽の外れの大きな楠の下で、紅雀と青雀という仙人に会い、その仙人から貰ったそうです」
「紅雀と青雀……」
李斯はその名前を呟く様に言った。
「宰相はご存知なのか」
趙高は表情を変えずに李斯を見た。
「はい。蓬莱に派遣しております徐福から聞いた事がございます。紅雀と青雀という仙人が不老不死の妙薬を持っていると……。そしてその仙人は数百年に一度、人の前に現れ仙人丹を託すと……」
胡亥と趙高、李門もその李斯の話を真剣に聞いていた。
「その宰相のいう仙人丹があの薬であると」
趙高はゆっくりと李門を見た。
「はい。恐らくは……」
李門は頷いた。
「そんな都合の良い薬があってたまるか……」
胡亥は卓に肘をついた。
「胡亥様。この李門の話しを最後まで聞こうではないですか……」
趙高は手に持った扇子で自分を扇いだ。
「続けて下さい」
その趙高の言葉で、李門はまた話し始める。
「主人はその時、あと少ししか生きられないと言われていたそうです。しかしその「萬能丹」を紅雀と青雀より貰い受け、一粒飲み……主人は今も生きております」
「お主の主人の名は何と申すのだ」
今度は李斯が聞いた。
「はい……。咸陽の祭傳の末子にて、祭承と申します」
李門はそう言うと頭を下げた。
「何……咸陽の祭傳だと……。あの薬商の祭傳であるか」
李斯は椅子を動かし、肘を卓について李門を見た。
「はい。左様でございます。その私の主人であります祭承も、この街で三十年程、薬商を営んでおります」
李門は目を伏せて頭を軽く下げた。
「知っておるのか」
趙高は李斯に訊ねた。
「はい。現在の陛下のお薬も祭家の薬でございます。いえ、陛下だけではございません。宮中の薬はすべて祭家のモノです」
李斯は李門を見たままそう言った。
「趙高殿、この話。嘘では無いのかもしれませんな……」
趙高は李斯から李門に視線をゆっくり移した。
「続けなさい」
「はい。祭承は紅雀と青雀から受け取った「萬能丹」百八粒の内、自分で飲んだ分を差し引き、百七粒を何十年も隠し持っておりました。その薬の半分を私は受け継ぎました。この街の祭承の店と一緒に」
李門は顔を伏せたままだった。
「何故、祭承は薬を使わずに隠し持っていたのだ。そんな薬を持っておるのであれば、いくらでも金に出来たであろうに……」
李斯はそう言う。
「はい。私もそう思いました。しかし、祭承は紅雀と青雀より薬を貰う時にこう言われたそうです。「萬能丹」はどんな病も治してしまう薬である事は間違いない。しかし、一粒飲むとその病の原因となっている内臓に激痛が走る。病の度合いにより、その激痛と痛む時間に差があると。そして、その激痛に耐え切れず命を落とす者もいると……」
李門はそう言う。
胡亥はこめかみに脂汗を流し、李斯も眉間に皺を寄せていた。
趙高だけが表情一つ変えずに、冷たい目で李門を見ていたが、扇ぐ扇子は止まっていた。
「だからお主の主人は、薬を使えなかったという事なのだな……」
趙高はそう言った。
李門は無言で首を縦に振った。
「重い病程その痛みは強く、長いと言うのだな……。そしてそれで命を落とす事もあると」
李斯は呟いた。
李門はまた無言で首を縦に振る。
胡亥は黙ったまま趙高と李斯を見ていた。
「趙高殿。この薬は危険過ぎます。若くて体力のある身体ならその激痛に耐えうるかもしれません。しかし、弱った老体がこの薬を飲むと激痛に耐え切れず……という事も……」
李斯は身を乗り出してそう言った。
「陛下には危険過ぎるかと……」
趙高は李斯を見てニヤリと笑った。
「李門。御苦労だった。話しは良くわかった。薬はありがたく陛下に飲んで頂く事にする」
趙高はそう言うと立ち上がった。
そして自分の後ろにある卓の上に置いた袋を手に取った。
「今日の話しの駄賃じゃ。受け取るがよい」
そう言うと李門の前に袋を置いた。
「いえ、そんなつもりでは……」
李門は遠慮して手を開いた。
「良いのじゃ。私がこれをお主に渡す意味。わかるじゃろ」
趙高は立ったまま李門を見降ろして睨んだ。
李門はその視線に背筋が凍る思いだった。
趙高は「萬能丹」を始皇帝に飲ませると言った。
しかし宰相の李斯は始皇帝には危険過ぎると言っていた。
趙高は間違いなく始皇帝を殺そうとしている。
その話が今、目の前でなされていたのだ。
その場にいる三人は始皇帝を亡き者にしようとしている共犯者なのか……。
そして、李門自身もその共犯者となる……と言う事なのだ。
自分は殺されるかもしれない……。
李門はそう思った。
すべてを悟り李門はゆっくりと卓の上の袋に手を伸ばした。
「ありがとうございます」
小さな声でそう言うと立ち上がった。
そしてその場から逃げる様に歩き出し、立ち止まって一礼した。
「李門殿」
李斯は李門を呼び止める。
「はい」
李門は振り返り李斯を見た。
「先程、半分を引き継いだと申されたな」
「はい」
「残りの半分は」
「私の友人が受け継ぎました」
李門は李斯にそう言った。
「その友人は先日、その薬を持ってこの街を出ました」
「……」
しばらくの静寂の後、
「ご苦労だった。お帰り下され」
李斯はそう言った。
李門は今一度、頭を下げて部屋を出た。
始皇帝を歓迎する宴は翌日も、その翌日も続いた。
そして四日目の夜、その日は始皇帝の方から宴会の辞退の申し出があり、ささやかに行われるだけだった。
李門たちはその申し出に緊急招集されていた。
県令の奉耳が始皇帝に対して、何か粗相でもあったのかと心配したのである。
「昨夜、何かお出しした料理に粗相があったのだろうか」
奉耳は長老にそう言った。
「いえ、陛下から申し出があった様です。趙高殿の遣いによれば、連日の宴会に少々疲れが出たという事で、本日はゆっくり休みたいとの事の様ですが……」
李門はそう説明した。
「ならば良いが、なにか粗相があったのであれば、早急に謝罪に参らなければならん」
奉耳はそう言うと立ち上がり部屋の中を落着き無く歩き始めた。
「李門殿。なにか胃腸に良い薬を陛下に献上出来ないだろうか」
長老は李門を見た。
「胃腸薬でございますね。承知致しました。すぐに準備いたします」
そう言うと李門は立ち上がった。
「おお、それは良い。李門、すぐに頼む」
奉耳は手を叩いて喜んだ。
その後、李門は店に帰り、胃腸薬を準備し、再び城に帰った。
「趙高殿が直に受け取って下さるそうだ。李門殿、早速届けてくれないか」
「かしこまりました」
そうは言ったモノの李門は気が進まなかった。
先日の話、その後、趙高と話はしていない。
趙高の部屋に入るといきなり斬られるなどといった事も考えられるのだ。
気が進まないまま、李門は胃腸薬を届ける準備をして、趙高を訪ねた。
「李門か。入れ……」
数日前に訪ねた趙高の部屋だった。
しかしその部屋に入る時、李門は手に汗を握っていた。
これが権力というモノか……。
李門はそう思った。
戸を開けて中に入る。
先日とは違い趙高だけが窓辺で外を見ていた。
「この様な夜半に申し訳ございません」
李門は趙高に頭を下げた。
「良い。そなたたちには世話になっておる」
趙高はそう言うと李門を見た。
「薬を献上されたいと聞いたが……」
「はい。連日の宴で、胃腸に負担をかけてしまっておるのではないかと思いまして……」
李門は薬の乗った盆を卓の上に置いた。
趙高はその盆を睨む様に見た。
「その薬も仙人丹か……」
趙高の高い声は李門を威圧する様だった。
李門はその言葉に青ざめた。
「いえ……。この薬は、違います。咸陽で陛下に献上させて頂いております薬と同じモノだと聞いております」
そうなのだ。
李門はその時実感した。
この趙高たちに近づけば近づくほど、李門自身にも危険が及ぶ可能性は高くなる。
趙高たちは始皇帝に生きていてもらっては困るのだろう。
「承知した。ありがたく頂く事にしよう……」
趙高はいやらしく笑った。
「はい。ありがたき幸せにございます」
李門はそう言うと立ち上がり、頭を下げた。
李門は趙高に背を向けて部屋を出ようとした。
「李門」
趙高の甲高い声が部屋中に響く。
李門は足を止めて、
「はい」
李門は振り返り、返事をして頭を下げた。
「そなたの事を胡亥様は殺せとおっしゃった。しかし、私がその胡亥様を説得し、そなたを生かしてもらう様、お願いした。心配するな……。そなたを秦が滅する事はない」
趙高はそう言って表情の無い顔で微笑んだ。
「安心するがよい。だたし、他言は無用ぞ」
趙高の言葉に、李門は無言で頭を深く下げた。
李門が部屋を出て行き、戸が閉まるのを確認すると、趙高は李門が持って来た薬を火鉢の中に投げ込んだ。
「治ってもらっては困るのだ……。それを理解して頂きたいモノだ。李門よ……」
趙高は、そう静かに呟いた……。
張良は城壁から七十万の秦軍を見ていた。
「やはり壮大だな。しかし烏合の衆だ」
「そうなのですか……」
馬式という張良の配下の男は張良の横に立って同じ様に七十万の秦軍を見降ろしていた。
「所詮、秦が滅ぼした国々の兵たちだ。針の一刺しで弾け飛ぶ。ここにいるのは秦軍ではない。人なのだ。人には心がある。その心根には自国を滅ぼされたという記憶がある。家族を殺された者も多いだろう。そんな人の心が一番の武器なのだ。私はそれを動かす」
張良は先日と違い、髭を綺麗に剃り、髪の毛を束ねてスッキリとしていた。
張良は太公望呂尚の兵法書を学んだ。
そこに書かれているのは、頭の中での兵法では無かった。
すべて人が中心となる兵法だった。
張良は人を動かす事の大切さを認識し、それを日夜、学んできたのだった。
「馬式よ……。この後始皇帝は北上し、洛陽を回り咸陽へ戻る。すまんが、秦軍を監視してくれないか……。私は先回りして咸陽へ行く」
「わかりました。では呉方面へ向かいます」
馬式は張良に頭を下げた。
張良は目を閉じて頷いた。
「天文を見るところ、始皇帝はそう長くはない。不老不死の薬でも手に入れん限りは咸陽に着く頃、あるいはそれまでに始皇帝は死ぬ。そうなる前に、私は自らの手で始皇帝を殺したいのだ」
張良は腕を組んで、再び秦軍を見降ろした。
「正直、烏合の衆といえども七十万の兵を見ると勝てるとは思わん。だが、それを出来る出来ないではないのだ……。やらなければならんのだ。私も兵が欲しい。強い兵が……」
そう張良は言った。
馬式は瞬きもせずに張良の決意を見ていた。
「あの男だけは、始皇帝だけは私がこの手で殺す……」
いよいよ秦軍の出立の日が来た。
李門たちは城の外に並んだ秦軍の前に立っていた。
轀輬車に乗る趙高は窓を開き、奉耳たちに声をかけた。
「大義であった。陛下も大いにお喜びだ」
「ありがたき幸せにございます」
奉耳は深々と頭を下げた。
「この礼は咸陽に戻った後、必ず致す」
「ありがとうございます」
奉耳がそう言うと趙高は手で出立の合図を出した。
「行けい……」
趙高のその声に秦軍は動き出した。
その長く続く七十万の軍はゆっくりと城の前を去って行った。
李門たちは軍勢が去るまで、頭を下げていた。
「上手くいったな……」
李門の横に立つ男は小さな声で言った。
「そうだな……」
李門は頭を下げたまま、動く秦軍の気配だけを感じていた。
その七十万の秦軍がすべていなくなるまでにかなりの時間があった。
すべての秦軍がいなくなった後、ようやく見送りに出ていた者たちは頭を上げた。
そして安堵した。
「皆の者、ご苦労であった」
奉耳はそう言うと李門たちに頭を下げた。
李門たちも頭を下げる。
「皆を慰労する宴を行う。後で城へ参れ」
奉耳はそう言うと馬車に乗り込み帰って行った。
「李門よ。本当に貴殿のおかげで助かった。ありがとう」
長老は李門に言った。
「いえ……私は主人の祭承から受け継いだモノを献上したまでです」
李門は長老に軽く頭を下げる。
「礼なら主人の祭承に言って下さい」
「もちろんだ。祭承殿には改めて礼に参る」
長老はそう言うと微笑んだ。
長老の満面の笑顔など始皇帝がこの街に来ると決まった時以来、見た事がなかった。
それだけ緊迫した空気にこの街は包まれていた。
その緊張もようやく今無くなり、その場にいた全員に笑顔が戻っていた。
「では、後程……」
城門を入ったところで別れ、皆帰って行った。
李門も同様に店に戻った。
店に戻ると、店の中庭で祭承と見知らぬ男が向かい合って座っているのが見えた。
祭承は李門に気付き手を挙げた。
祭承よりも若い髪を束ねた凛々しい男だった。
「李門。済まぬがこちらへ来てくれるか」
祭承は李門を呼んだ。
李門も返事をして祭承の下へ歩み寄る。
「この者が李門でございます」
祭承が頭を下げて、その男に李門を紹介した。
「李門でございます」
李門もその男に頭を下げた。
「始皇帝巡行の接待役をされた様で……」
その男は李門にそう言う。
そしてじっと李門を見つめていた。
ふと我に帰る様に、
「あ、失礼。私は張良子房と申します」
張良は立ち上がり李門に頭を下げた。
「張良様は韓の宰相、張平様のご子息だ。世が世なら韓の宰相であったであろうお方だ」
祭承も立ち上がり、李門へそう紹介した。
「左様でございましたか……。これは失礼致しました」
李門はそう言うと膝をつき、平伏した。
「やめて下さい。私は宰相でも何でもありません。皆様と同じ、ただの平民です」
張良はそう言うと、李門の腕を取り立ち上がらせた。
そして自ら李門の服の汚れを払った。
「ありがとうございます」
李門はそう言って頭を下げた。
「張良殿は、始皇帝の接待役を仰せつかったお前の話を聞きたいと訪ねて来られたのだ」
祭承はそう言うと自分の隣の椅子を引いて、李門に座る様に合図をした。
李門はそれを察して椅子に座った。
「実は李門殿に始皇帝の様子を伺いたいと思い、こちらへ参りました」
張良はじっと李門を見た。
李門はすべてを見透かされている気になった。
この張良という男がただ者ではない事は、一見してわかった。
「萬能丹を始皇帝に献上されたのですね」
その張良の言葉に李門は硬直した。
「祭承殿に伺いました」
李門も無言のまま張良を見ていた。
祭承は目を閉じて腕を組んだ。
その後、しばらくの間、三人は無言のままだった。
「張良殿は萬能丹の事をご存知だった。私が幼き頃に萬能丹を受け継いだ事、そして今この街にいる事を知り、訪ねて来られたのだ……。もちろん始皇帝が、不老不死の妙薬を探している事もご存知の上でな……」
祭承は目を開けてそう言った。
李門は祭承に小さく頭を下げた。
「張良殿は韓の宰相の末裔。韓の国の再興を考えておられるのですか」
張良はその言葉に声を出して笑った。
「韓は滅ぶべくして滅んだ国です。今更その国をどうこうしようという気はありません。それ程に秦軍は強い。しかし、私は韓の民である前に秦軍に殺された張平の子であります。私は父、張平の仇をこの手で討ちたい。それだけの為に今は生きております」
そう言うと立ち上がり、ゆっくりと池の方へ歩いた。
祭承と李門も示し合わせる様に、一緒に池の方へ歩き出した。
「私が天文を見るところによりますと、始皇帝、政の命は、あとわずかです。この巡行が最後の巡行になりましょう。しかし政に病で死なれては困るのです。私はどうしてもこの手で奴を討ちたい。そう考えています」
張良はそう言うと振り返った。
「李門殿、教えて下さい。始皇帝はどの様な様子でしたか。もう萬能丹を飲んだのでしょうか……。お願いします」
張良はそう言うと李門の手を取った。
李門は目を閉じる。
宦官の趙高たちの顔が脳裏を過った。
始皇帝を廃しようと考えている人間は内にも外にもいるのだ。
「張良殿。恐らく始皇帝は萬能丹をまだ飲んでおりません。いや……それどころか、始皇帝が萬能丹を飲む事は無いと思われます」
李門は目を開けて、しっかりと張良を見た。
「私は萬能丹を献上した夜に、宦官の趙高に呼ばれ、萬能丹の説明を致しました。趙高の部屋を訪ねると、そこには始皇帝の末子である胡亥、そして宰相の李斯がおりました。その三人は何か良からぬ事を画策している様でした。宦官の趙高の口ぶりは、これ以上始皇帝に生き存えられては困るといった様子でした」
李門は小さな声で、しかし力強くそう言った。
張良はその李門の言葉に沈黙し、また歩き出し、祭承と李門も黙って付いて歩いた。
「李門殿。その話は……」
張良は立ち止まった。
「誰も知りません。今、初めて話しました」
李門は軽く目を伏せた。
張良は二人に近付き、頭を寄せた。
「始皇帝の病はかなり重いのでしょう。そして天文が示す様にもう長くない。この巡行の途中で恐らく始皇帝は死にます。趙高は始皇帝亡き後、扶蘇を廃し、自分が幼き頃から教育した胡亥を二世皇帝に擁立しようと企てているのでしょう。そうなれば皇帝は趙高自身であると言っても過言ではありません。そして、その企てに宰相の李斯も同調したのではないでしょうか……」
祭承と李門の顔は青ざめていた。
「趙高なら、それくらいは考えるでしょう」
張良はそう言って空を仰いだ。
「李門殿、万が一、始皇帝が萬能丹を飲むと、激痛に耐える体力はあるでしょうか……」
張良の言葉に李門も空を見た。そして、
「いえ……。恐らくそれは難しいかと……」
そう静かに言った。
再び三人は黙っていた。
「そうですか……。私がこの手で始皇帝、政を討つ夢は消えたという事ですね……」
張良はそう言うと俯いた。
「秦の世は終わる。この国は再び乱れる……」
張良はそう言って腕を組み、ゆっくりと空を見た。
その目はまるで再び訪れる乱世を見る様な目だった。
「趙高よ」
始皇帝は轀輬車の中で横になっていた。
長い巡行の疲れは頂点に達していたのだ。
「はい陛下……。何でございましょうか……」
趙高は始皇帝の横たわる寝台の脇に跪いた。
「この先の巡行の予定はどうなっておる」
始皇帝の口は渇き、声は掠れ聞き取りにくかった。
趙高は始皇帝の口元に耳を近づけた。
「はい。この後、沙丘を抜けまして洛陽に参ります。洛陽にて五日滞在の後、咸陽へのご帰還となります」
趙高はそう言うと頭を下げた。
「沙丘には鬼神が住むという。一度その鬼神が朕にとって仇を成す者か、或いは加勢する者か。見てみたいモノだ……」
始皇帝はそう呟いた。
趙高はその言葉に微笑み、
「陛下に仇を成す者など、この世にはおりませぬ。預言書にあった「秦を滅ぼすのは胡なり」という言葉も最早、陛下の軍の前には戯言。鬼神も陛下に平伏す事でしょう」
そう言った。
その言葉を聞いて始皇帝はニヤリと笑った。
趙高は始皇帝の寝台の前から立ち上がり、一礼した。そして、
「沙丘に入る前に、献上品にあります「萬能丹」をお飲みあそばされますか……」
趙高はそう言うと始皇帝に微笑んだ。
「アレはまだだったのう。よし、飲む事にいたそう……」
始皇帝はそう言うとまどろみ、ゆっくりと目を閉じた。
その始皇帝を見て、趙高は背筋を正した。
「陛下はお休みあそばされた。皆の者は下がるが良い」
そう言うと趙高は、始皇帝の寝台の横ある椅子に腰かけた。
趙高の命令で轀輬車の中にいた従事者たちは続々と部屋を出て行った。
寝台に横たわり、寝息を立てている始皇帝を趙高は黙って見ていた。
趙高は服の袂から小さな木箱を取り出した。
その箱を開けると、そこには「萬能丹」が一粒入っていた。
それを確認して趙高は蓋を閉めて寝台の横の卓の上に置いた。
「危険過ぎる。危険過ぎるとはお思いになられないのですか」
李斯はそう言って趙高を諌めた。
「やもしれぬ。この妙薬で陛下はお命を落とされる……やもしれぬ。しかし、歴史がそれを望んでおるのならば、それに従う。それが秦帝国を守る方法なのじゃ……」
趙高は小箱の蓋を閉めた。
その小箱に趙高は「萬能丹」を一粒入れたのだった。
胡亥は、そのやり取りを黙って見ていた。
「胡亥様を守るには、これしか無いのだ」
趙高は数枚の木簡を卓の上に並べた。
「これは……」
李斯はその木簡を見て驚いた。
卓の上に並べられたのは勅書だった。
朕亡き後、秦帝国の二世を胡亥と定める。
木簡にはそう書いてあった。
「趙高殿……」
李斯は手に持った木簡を力無く落とした。
「まさか……」
「明日、陛下にこの妙薬を飲んで頂く」
趙高はそう言うと、卓の上に散らばった木簡を集めて、布に包んだ。
「後は運を天に任せる事に致しまする……。良いですな……胡亥様」
胡亥はゆっくりと頷き、
「ああ……。良きに計らえ……」
力無く言った。
始皇帝はゆっくりと目を開けた。
「趙高。茶を持てい」
掠れた声で政はそう言った。
「かしこまりました」
趙高はそう言うと手を鳴らした。
すぐに戸が開き従事の女官が跪いていた。
「陛下のお目覚めである。茶を持て」
「かしこまりました」
女官はそう言うと戸を閉めた。
「陛下、ご気分は如何でございますか」
趙高はそう言うと、始皇帝、政の身体に手を添えて起した。
「悪くない。不老不死の薬が効いてきたのかの……」
始皇帝はそう言うと、自分の寝台の傍の小窓を開けた。
窓からは青く晴れた空が見えた。
「お茶をお持ち致しました」
女官はそう言うと、寝台の横の卓の上に器を置いて茶を注いだ。
注ぎ終わると女官は頭を下げて部屋を出て行った。
「趙高よ」
始皇帝、政は小窓の外を見ていた。
趙高は背筋を正し、寝台の傍に立った。
「良い眺めじゃの……」
「はい、もうすぐ沙丘でございます」
「そうではない。天下を取り、この場所から見る世界の事じゃ……。朕はこの中国を統一した。今やその天下も揺るぐ事は無いかの様に見える。しかしな、朕はその天下が未来永劫続くモノとは到底思えんのじゃ。いつかまた世が乱れれば、戦乱の下に多くの人々が死ぬ。ならば、戦乱の無い世。それが一番良い眺めだとは思わんか……。たとえそれが力や恐怖で治める世であったとしてもな……」
政はそう言うと卓の上の器を手に取り、すする様に飲んだ。
「血の匂いのせぬ世こそが朕の望む世なのだよ……」
始皇帝、政は笑っていた。その顔は中国を治め、人々に恐れられた始皇帝、政の顔では無く、太平の世を望む一人の男の顔だった。
その日、始皇帝は轀輬車の中で死んだ。
その顔は苦痛に歪み、噛みしめた唇は千切れ、爪は手の平に食い込み、切れ長の目は大きく見開いていたと言う。
その臨終に立ち会った趙高の顔も、暴れる始皇帝の投げた器で切れ、血が流れていた。
そして、その始皇帝、政の死は隠され、轀輬車の中でその亡骸は日を追うごとに腐乱していった。
その腐乱臭を隠すために、趙高は轀輬車の周りに大量の魚の干物を積んだ車を準備させ、予定していた巡行先である洛陽を通過し、咸陽への道を急いだ。
宦官の趙高は、咸陽に近付くと始皇帝の勅書を持って各地へ使者を走らせた。
趙高は咸陽に着くまで、始皇帝の轀輬車の中から出る事も無く、ずっと腐っていく始皇帝の亡骸を見ていた。
歴史は始皇帝を受け入れなかった……。
趙高はその轀輬車の中で言ったという。
「天下を極めし人でも、同じ様に死に、同じ様に肉は腐る……」
趙高が咸陽に戻った後、始皇帝の第一子扶蘇を、二世皇帝胡亥の命にて誅殺し、その家族も含め数万の人々の命を奪った。
その中に宰相である李斯の姿もあった。
李斯は趙高の口車に乗って、扶蘇を廃し胡亥を擁立した事を後悔したという。
李斯の家族も今後の憂いを排除するために誅殺された……。
その数年後に起こる、世界初の農民による一揆、「陳勝・呉広の乱」をきっかけに糸を抜いた様に秦帝国は崩壊していく事となる。