第二章 李門と魏粛
「巡行はこの街にも来るのか」
李門はこの街の名家と言われる人たちが集まる集会に、主人の代わりに出ていた。
今、この街は最大の危機に陥っていた。
始皇帝と言われる中国を統一した男が、この街に巡行で立ち寄る事になったと言う。
「まったく。こんな田舎まで来て何をしようと言うのだ……」
「各地でかなりの数の殺戮が行われているらしい」
「町ごと殺されたところもあると言うぞ」
「そんな男が中国を統一したのだ。これですべて終わる……」
口々に始皇帝の巡行の噂を語っていた。
しかし、それが事実かどうかは李門にもわからなかった。
「とにかく、始皇帝がこの街に立ち寄るのは事実です。その間、粗相がなければこの街の評価は逆に上がります。今は良い方向に考えましょう」
李門はそう言うとお茶をすすった。
「李門さんの言う通りだ。今は上手く切り抜ける方法を考えよう。彼らは来るなと言っても来るのだ。そうだろ……」
長老はそう言って杖を突いたまま笑っていた。
李門はその長老を見て微笑んだ。
「李門、李門はどこだ」
祭承は木簡に記した帳簿を見ながら李門を呼んだ。
李門は祭承の部下の一人だった。
祭承は咸陽の生まれで、今は江南の地で薬商を営んでいた。
兄たちもそれぞれ中国の各地で薬商を営んでいる。
祭承は海が好きで兄弟の元を離れ、一人南へ移住した。
この地で薬商を始めたのが約三十年前。
その祭承も今年五十になる。
そろそろ自分の仕事を誰かに任せたいと考えていた。
「祭承様。李門さんは今、街の集まりに参加されています」
十五歳に満たない小僧は祭承に手を合わせた。
「そうだった。始皇帝巡行の話だったな。戻ったら私の部屋に来るように言ってくれ」
祭承はその小僧に手を上げて礼を言った。
ちょうどこの小僧の歳の頃だった。
祭承は咸陽の外れで、おかしな二人の老人と会った。
その老人たちにあと二週間の命と言われ、「萬能丹」と言われる仙人丹をもらった。
老人たちはその「萬能丹」を飲めば病をたちまち治す事が出来ると言う。
しかし病が治る過程で激痛を伴い、その激痛で命を落とす事があるとも……。
不思議な体験だった。
そして今も祭承は生きている。
祭承は自分の机に座り目を閉じた。
手には古びた革袋を持っていた。
百七粒の「萬能丹」がその袋に入っていた。
「魏粛さん。良い魚が入っているよ晩飯にどうだい。刺身でも美味いよ」
魚屋の老婆が枯れた声で言った。
「昨日も魚だったな……。今日は肉の日だ。悪いな。また明日、良いヤツ頼むよ」
魏粛はそう言うと手を振った。
薬商の祭承に雇われている魏粛は、この街では人気者だった頭の切れる李門と遊び人の様に日々フラフラと街を歩く魏粛。
この二人が今の祭承にとっては頼れる両腕だった。
李門も魏粛も人々に好かれ、信頼されていた。
魏粛はふと街角で立ち止まる。
一人の男がある家の軒下で座っているのを見つけた。
「王さん。こんなところでどうしたんだ」
魏粛はその王という男に声をかける。
「魏粛さん。どうも今朝から調子が悪くて」
王は力なく手を上げ、魏粛はその手を握った。
「少し熱があるな。よし」
懐から革の包みを出して王に渡した。
「これを飲め。今日は家に帰って休むんだ。大丈夫、明日には元気になるよ」
「いや……。薬代なんて持ってないよ。良いよ。心配ない。ここで少し休んだら元気になる」
「何を言ってるんだ。困った時はお互い様だ。早く飲め。祭承の薬だ。間違いないよ」
そう言うと包みを開けて無理矢理一粒、王の口に押し込んだ。
そして王の腰に下がった竹筒の水を流し込んだ。
「これで大丈夫だ。早く帰って寝てな」
「すまないね。お代は必ず払うよ」
王は力なく笑った。
「そんなもんは心配しなくて良いよ。治ったら美味い酒を一杯、御馳走してくれ」
そう言うと魏粛は立ち上がり王の手を引いた。
「ありがとう。魏粛さん」
王は礼を言うとフラフラと歩き出しだ。
魏粛はそれを見て王の前にしゃがんだ。
「ほれ。家まで送るよ。おぶさりな」
半ば無理矢理背負うと魏粛は歩き出した。
祭承は池の鯉に麪筋を放り込んだ。
水面に落ちた麪筋に何匹もの鯉が食らいつく。
あの日、祭承の父、祭傳も同じ様に池の鯉に餌をやっていた。
祭承は二十歳になった春に父の祭傳に願い出た。
今でもその日の事を思い出す事がある。
「父上お願いがあります」
その日の夜、祭承は夜酒を飲んでいた父の向かいに座り頭を下げた。
「おう六承か……いや……もう祭承と呼ばなきゃいかんな……」
父、祭傳は顔を赤らめてゆっくりと祭承を見た。
「何でも言ってみろ」
「はい」
祭承は椅子からおり、床に土下座した。
「私を江南へ行かせて下さい」
「江南へ……。何故その様な僻地へ行こうというのだ」
祭傳は盃を卓に置いて、身を乗り出す。
「その様な蛮族もまだ多いと言われている土地へ行き、何をしようとしているのだ」
祭承はゆっくりと顔を上げた。
「はい。江南の地は父上のおっしゃる様にまだまだ未開拓の地です。それ故に疫病も多く、医者も薬屋もまだ少ないと言われています。しかし、そんな土地だからこそ、私は人々の役に立てるのではないかと思うのです」
祭承の顔は真剣だった。
「そんなところに行かなくても、この咸陽の近辺でもまだ病に苦しむ人々はいるだろう」
「洛陽には兄が参りました。これから中国は咸陽と洛陽を中心に発展していくのだと考えます。しかし私は未開の地、江南から人々を救いたいのです」
祭承は幼い頃からの夢、海が見たい。
その想いを捨てる事が出来なかったのである。
いつか夢で見た海は真っ赤だった。
しかし海は青いと言う。
そのどんな湖や川よりも広い海をその目で見たかったのだ。
もちろん今、祭傳に話した気持ちも嘘ではない。
その海と共に暮らす人々を助け、海の見える土地で暮らしてみたいといつも考えていた。
「そうか……。お前こそは儂の跡を継いでくれると考えていたのだがな……」
祭傳の目はいつになく寂しげだった。
祭傳はこの六男の祭承に、跡を継いで欲しいと考えていた。
しかし男はいつか旅立って行くものだった。
祭傳は顔を上げて祭承を見た。
「良いだろう。行ってこい。江南へ。ただし、南では手に入る薬草も違う。苦労するぞ……」
祭承は力強い目で父、祭傳を見た。
「はい。覚悟しております」
そう言って今一度、頭を床につけた。
「祭承様。遅くなりました」
鯉に餌をやる祭承の後ろに立ち、手を隠して李門が一礼した。
「李門か……。接待は上手くいきそうか」
祭承はちらと振り返り李門を見ると、再び鯉に餌をやりながらそう言う。
「皆、始皇帝に恐れ戦いております。我々は今出来る事を精一杯するまでです」
そう言うと李門も微笑んだ。
「今出来る事か……。いつの時代もそうだ。自分が今出来る事しか出来んのだ。それ以上の事はする必要はない」
祭承は手についた麪筋の粉を払った。
「ところで魏粛はどうした」
「私は会っていません。街ではないかと……」
李門は祭承の足元を気にしながら手を取った。
「すまない」
祭承は李門に礼を言い、庭の玉石を踏んだ。
「後で魏粛と一緒に私の部屋に来てくれ」
祭承は振り返り李門を見た。
「なに……畏まる事はない。たまには三人でゆっくり話がしたいと思っているだけだ……」
そう言うと祭承は歩き出した。
「承知致しました……」
李門は祭承の背中に一礼した。
「この薬でございます」
趙高は始皇帝の政が、その器を受け取るのを見て侍女に顎で引けと命令した。
侍女は音も立てずに出て行った。
「これが不老不死の薬なのか趙高……」
始皇帝は腹に響く野太い声で趙高に聞いた。
「はい。これが蛮族に伝わる不老不死の妙薬と言われております」
趙高は手を隠した両腕を掲げ始皇帝に拝した。
「大変貴重なモノだと、蛮族の長からの献上品でございます。多く飲むと毒になるが、少量を飲むと不老不死の薬になるそうです」
始皇帝はその器を切れ長の目で睨む様に見た。
「多く飲むと毒に……。酒と一緒じゃな」
始皇帝はそう言って笑った。
「その通りでございます」
趙高がそう言うと始皇帝の前に控える者が一斉に声を出して笑った。
始皇帝は生きる事に固執していたと言われている。
そのために水銀まで飲んだという記録が残っている。
宦官の趙高は巡行の途中、その土地の不老不死と言われている薬や食べ物、飲み物を探し出し、始皇帝へ献上した。
そのために始皇帝は死期を早めたのかもしれない。
笑い声が治まると同時に、始皇帝の政はその器に入る液体を一気に飲んだ。
そして顔を歪めて器を椅子の横にあった卓の上に置いた。
「いかがでございますか」
趙高は始皇帝を覗き込み尋ねる。
「酒の様な味じゃ……。この前の苦い草よりはマシじゃのう」
そう言うとニヤリと笑った。
「おう。これで後百年は生きれそうじゃわい」
始皇帝の笑い声がまた響く。
その横で趙高は顔を袂で隠し笑っていた。
「趙高。お主も飲め。朕だけが生きておっても秦帝国は成り立たん。お前も一緒に生きてもらわんとな……」
「ありがとうございます……頂きます」
趙高にも侍女が器を渡した。
それに並々と注がれたタダの酒を趙高は一気に飲み干した。
「これで私も百年生きる事が出来そうです」
そう言うと器を持ち、始皇帝を拝した。
「これで秦帝国は不滅じゃ……」
始皇帝の声がまた響く。
それに続いて控えている者たちが笑った。
始皇帝は十年で中国を統一し、秦帝国を築いた。
そしてその権力を示すために自分が統一した土地を巡行した。
その五度目の巡行は七十万の軍を率いての巡行だった。
その巡行が始まりしばらくした後、始皇帝の政は体調を壊した。
以前は巡行の途中、轀輬車と言われる始皇帝の乗る車から降り、馬に乗る事もしばしあったのだが、
今回の巡行はその数も減り、その旅の三分の一を過ぎた頃からは一切顔を見せない様になってしまった。
「入りなさい」
中から祭承の声がした。
李門と魏粛は顔を見合わせて戸を開けた。
祭承の部屋には香の煙と香りが漂っていた。
「魏粛と一緒に参りました」
李門はそう言うと手を隠し、祭承に礼をした。
「待っていたよ。すまんな、わざわざ……」
祭承は立ち上がり、二人を自分の座る卓の向かい側へ促した。
李門と魏粛はゆっくりと祭承の向かいに立った。
「まあ、座ってくれ」
そう言って祭承は座った。
それを見て二人も座る。
祭承の部屋からは綺麗な満月が見えていた。
祭承は二人の顔を見ると、身体を外に向け、月を見た。
「綺麗な月だな……」
李門と魏粛は祭承と同じ様に月を見た。
月明かりと、部屋に煙る香が異様な空気を醸し出していた。
「魏粛。お前は幾つになった……」
祭承は月を見たまま、呟く様に言った。
「はい。今年二十二歳になります」
魏粛も月を見たまま答えた。
「李門。お前は」
「はい。私は二十六歳になります」
李門も月に見とれていた。
「そうか」
祭承は月から目を下ろして、李門と魏粛に言う。
「私がこの街に来てこの薬商を開いたのが二十二歳だ。あれから三十年。この街も大きくなった。人も増え、病も減った。私の望んだ事だ」
妙に神妙な話に李門と魏粛は緊張していた。
「私は昔、一度死んだ。いや……死ぬ筈だった。私は十五歳の時に重い病で、死ぬ筈だった」
李門と魏粛が初めて聞く話だった。
「しかし、それを紅雀と青雀という仙人に助けられた。ある薬をもらってな……。その薬はどんな病もただの一粒飲めば治してしまうという仙人丹だった。私はそれを飲んだ。だから私の今はある……」
祭承はそう言うと立ち上がって庭の池に映る月を見た。
「そんな薬があるのですか……」
「すごい。そんな薬があれば……」
李門と魏粛は口々にそう言う。
「そんな薬があれば……何だ」
祭承は振り返った。
「そんな薬があれば重い病の人を救えるか。そんな薬があれば大金持ちになれるか……」
「自分に出来る事が増えるのでは……」
李門はそう言った。
「そうか。それはそうかもしれんな……」
祭承は二人に微笑んだ。
そして、自分の後ろにある木箱を取り二人の前に置いた。
二人はじっとその箱を見つめていた。
「その仙人丹、「萬能丹」だ。百七粒ある」
祭承はそう言うと箱を開けた。
中から革の袋が出てきた。
「萬能丹……ですか」
「そうだ。萬能丹だ」
祭承は袋を開けて手を入れ、手の平に数粒の萬能丹を取り出し、二人に見せた。
「どんな病も治してしまう万能薬って事で萬能丹なのですかね……」
魏粛は祭承の顔を見た。
「仙人様も安直な名前を……」
そして笑った。
李門も祭承も笑っていた。
「それがそうでもないのだ」
祭承はその笑いを遮る様に言う。
「しかし、どんな病でも治してしまうのであれば、それは万能薬ですよ……」
「私もそう思いますが……」
祭承は袋に萬能丹を戻し、箱に入れた。
三人は祭承の部屋から庭に出た。
月明かりで祭承の庭は明るく、池に浮かぶ丸い月は緩やかに波をうっていた。
「この世に万能なモノなど無いのだよ……」
祭承の後ろを李門と魏粛は歩いていた。
「万能なモノなど無いのだ……」
二人は黙ったまま、ただ祭承の話を聞いていた。
祭承は十五歳のあの日、あの激痛に耐えた夜を断片的に思い出していた。
いや、断片的にしか思い出せない程の激痛だった。
「私はあの薬を飲んだ。死にたくないという一心であの薬を飲んだ。だが飲んだ後、後悔した。あの薬はどんな病でも治す。お前たちの言う万能薬かもしれん」
祭承は二人を振り返った。
そして目を見て続けた。
「しかしな、飲んでからその病が治るまでの間、病で罹っている患部が激痛に襲われる。私の場合はどうも肝臓が原因だったらしい。その激痛がどれだけ続いたかは覚えていない。途中で気を失ったからな……」
李門と魏粛の顔色は無かった。
祭承の顔を見るとその時の痛みが伝わって来る様だった。
「私は紅雀と青雀から百八粒の萬能丹をもらった。しかし今もあの萬能丹は百七粒ある。その意味……お前たちならわかるだろう」
祭承の額には汗が浮き出ていた。
「それだけ危険な薬だと……」
魏粛は眉間に皺を寄せていた。
李門も両手を固く握っている。
「その激痛に耐えうる者だけが、病を治し生き残れる。そんな薬なのだ。紅雀と青雀が言うにはその病の度合いで痛みの度合いも痛みの続く時間も違うらしい。そんな薬を他人に飲ませる事は私には出来なかった」
李門と魏粛は月を仰いでいた。
祭承の抱えていた葛藤が痛い程にわかった。
「それがいまだに百七粒残っている理由だ」
祭承は二人の肩を叩いた。
「祭承様。お気持ちはお察しします」
李門は祭承の顔をしっかりと見ていた。
「私も同じです」
魏粛も同じ様に祭承を見ていた。
祭承は二人を交互に見て、
「ありがとう」
とだけ言った。
「しかし何故、そんな話を私たちに」
「そうだな。これからが今日の本題だ」
そう言うと祭承は微笑んだ。
「部屋に戻ろう。酒の準備が出来ている筈だ」
三人は月明かりの庭を歩いて行った。
翌日、李門の目覚めは良かった。
昨夜遅くまで祭承と魏粛と共に飲んでいた。
不思議な話を聞いた。
どんな病でも治してしまう仙人丹の話。
それを実際に飲み、今も生きているという祭承の話。
すべてが李門には別世界の話に聞こえた。
「私は引退する事にした」
祭承はそう言って酒を飲んだ。
「何故ですか。突然そんな話」
李門は驚きを隠せなかった。
その街で唯一の薬商である祭承の店はどんどん大きくなっていたのだ。
「いや……突然ではないのだ。前から決めていた事なのだ」
祭承は二人に微笑んだ。
「私は海が好きだ。だから、海の近くに家を建てた。そこで暮らそうと思っている」
そしてまた酒を飲む。
「しかし……」
魏粛も不安そうに声を震わせていた。
「今日の話の本題はこれだ。お前たちに店を任せようと思う……やってくれないか……」
少し酔った祭承はニコニコと笑いながら話していた。
李門と魏粛。
祭承が信頼できる二人の若者だった。
その二人に店を譲り自分は海の近くで隠居生活をしようと以前から決めていた。
祭承はこの街に来て何度も海を見に行った。
祭承が実際に見た海は青く、どこまでも続いていた。
河や湖とは違う、果てしない大海原が祭承を魅了した。
人は海から生まれたのだろう。
祭承は初めて海を見た日にそう思った。
「頼む。二人でこの店を続けてくれないか」
祭承は盃を卓に置いて二人に頭を下げた。
李門と魏粛も盃を卓に置いた。
「祭承様、頭を上げて下さい」
「そうです。我々にはもったいない話です」
二人は口々に言うと自分たちも頭を下げた。
魏粛の目覚めはいつもより悪かった。
祭承の話を理解しようとすればするほど、魏粛の頭は機能しなくなっていった。
そのために昨夜は飲み過ぎた様だった。
自分と李門に店を譲ると言う祭承。
それはまだ良い。
魏粛は今も手に「萬能丹」入った革の袋を握っていた。
「この薬。百七粒ある。私はこの薬もお前たち二人に均等に分けようと思う。お前たちなら使い方を誤る事は無いだろう。百七粒……一粒は私がお守り代わりに持っておこう。残りの百六粒を五十三粒ずつ二人で分けるのだ。そして自分で判断し、使うべき時に使うがよい。この先の歴史を作るのだと思ってな……」
祭承はそう言うと萬能丹の入った袋を木箱に開けた。
そして一粒手に取ると自分の懐にあった小さな袋に入れた。
そして新しい袋を二つ持って来て李門と魏粛へ渡した。
李門と魏粛は箱の中にぶちまけられた萬能丹をきっちり五十三粒ずつ分けて袋に入れた。
「その薬は仙人丹だ。何千年も保存できるらしい。お前たちは自分が信頼できる者を探し出し、その者に薬を受け継いで欲しい。もしその様な人物が現れない場合は……」
李門と魏粛は袋を手にしたまま唾を飲んだ。
「焼き捨てて欲しい……」
祭承はそう言うと酒を飲んだ。
それ程に危険な薬である事は魏粛と李門にも理解出来た。
「あの激痛に耐えうる人がどれだけいるか、私にもわからん。もしかすると皆耐える事が出来るのかもしれぬ。それでも私は、あの苦しみを誰にも味合わせたくないのだよ」
祭承は肴に手を付けず、酒だけを飲んでいた。
「人は寿命をまっとうし、苦しまずに死んでいく。これが一番幸せだとは思わんか……」
祭承は笑ってそう言っていた。
魏粛にも李門にも、祭承の言わんとする意味が痛い程良くわかった。
魏粛は今すぐにでも萬能丹を焼き捨てようかと思った。
しかし、今も手に薬の入った袋を握っている。
李門も同じ思いだった。
二人は同じ様に祭承の話を聞き、同じ様に萬能丹を握っていた。
その日の昼、李門と魏粛は食堂で会った。
しかしそこでいつもの様に二人が、言葉を交わす事は無かった。
趙高が手配した石賛は、名医と噂される医者だった。
朝早くに轀輬車の中に呼び込まれ、密かに始皇帝、政の診察が行われていた。
巡行途中で始皇帝の容体が急激に悪化した。
石賛は寝台で寝ている始皇帝の身体を触診した。
その触診はわずかな時間で終わった。
「皇帝の容体は如何ですか」
洗った手を拭きながら、趙高の傍に来た石賛はゆっくりと首を横に振った。
「幾つもの内臓が病に侵されております。おそらく、もう助からないでしょう」
石賛のその言葉を聞いた趙高は、
「そうですか……」
と、青白い顔で言う。
「仕方ないですね」
「残念ながら……」
石賛は顔を伏せた。
「私が言ったのは、飛んでもない藪医者をここに呼んだ事を言っているのです」
趙高は石賛にそう言った。
「な、何を……」
石賛の言葉と趙高の傍にいた男が石賛に剣を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。
轀輬車の中は石賛の血で赤く染まった。
「捨ててしまえ……」
趙高の命令で名医石賛の亡骸は轀輬車の外にゴミの様に投げ捨てられた。
李門は、連日繰り返される始皇帝の巡行対策の寄り合いに飽き飽きしていた。
「秦軍の早馬が今朝やって来た。とうとうこの街にやって来るぞ」
男たちはその街の長老の家に集まって、毎日暗い部屋で対策を練っていた。
「前の街では百人近い人が殺されたらしい。それでも少ない方だという事だ」
「どんな接待をすれば、みんな無事で済むのだ。県令には話しは出来ているのか」
「どんな物を献上すればいいのだ。下手な物では皆殺しにされるぞ」
口々に不安を吐く男たちだったが、長老以下数名は黙ったままだった。
李門もその一人で静かに目を伏せていた。
「騒ごうが喚こうが、もう少しで始皇帝はこの街にやって来る」
長老が静かにそう言うと、その部屋の中は静まり返った。
「今、何が出来るかを皆で考えようじゃないか。それでも殺されるなら仕方あるまいて……」
長老のその言葉に李門は目を開いた。
それは敬愛する祭承の口癖と同じだった。
そして自分もそう生きようとしている。
それに反応せずにはいれなかった。
李門はゆっくりと立ち上がる。
そしてその場にいる皆を見回した。
「私の知っている儒家の先生がいます。その先生に教えを乞うてみたいのですが」
李門は静かにそう言った。
「秦帝国は儒家の存在を許してないのだぞ。そんな奴の意見を今更聞いてどうするのだ」
一人の男がそう言った。
「ですが、私たちだけでは何も解決しない。こんな問答を何カ月続けているのですか」
李門は卓を叩く。
騒がしい部屋は静まった。
しばらく静寂が広がる。
そこにいた皆が顔を伏せ、溜息だけが聞こえていた。
その静寂を長老の声が打ち破った。
「その儒家はどこに……」
李門は長老を見た。
「はい。ここから四十里程行った海辺の村に住んでおります」
長老は再び目を伏せて考えていた。
そして決意したかの様に目を開けた。
「ここはどうじゃろうか……。この李門さんに任せてみては。もう時間も無い事じゃし、藁にもすがりたい気持ちは、皆一緒じゃ……」
長老は静かにそう言った。
「長老がおっしゃるのなら……」
「それが一番早いかもしれんな」
「人の意見を聞くのも良いかもしれんな……」
と皆、口々にそう言い出した。
「決まりじゃな……。李門さん。すぐにその儒家に会ってもらえるか」
傍にいた男が李門の顔を覗きそう言う。
「わかりました。早速行ってみます」
李門は立ち上がると一礼し部屋を出て行った。
李門は店に帰り、祭承の部屋を訪ねた。
「祭承様」
李門は部屋の外から声をかける。
「李門か。入りなさい」
祭承は部屋の中から返事をする。
李門は部屋の戸を開け、一礼して中に入る。
「どうしたのだ。結論は出たのか」
祭承は顔を上げて李門を見た。
「いえ……」
「そうだろうな……。皆、慎重なのだろう。話もそれくらい慎重に進めた方が良い」
そう言うと筆を硯に置いた。
「その件ですが……」
「どうした」
「焦の村に住む儒家に相談しようという事になりまして、今から向かいたいと思います」
李門は手を隠して、腕を掲げた。
祭承は再び筆を取った。筆先を硯で揃えた。
「儒家か……。それも良いだろう。そこまで話は切羽詰まっているという事だな」
「はい。二カ月も、何も進んでいませんので」
李門は頭を下げたままだった。
「よろしいでしょうか……」
「気を付けて行きなさい。私の馬を使うが良い。あの馬なら脚も早いし気性も良い」
祭承は李門を見て微笑んだ。
「ありがとうございます。お借りします」
李門は今一度、礼をして立ち去ろうとした。
「李門」
立ち去ろうとする李門を祭承は呼び止める。
「はい」
「焦の村なら、帰りに海苔を頼む」
そう言って祭承は笑った。
魏粛は街外れの茶店にいた。
「魏粛さん。こんなところで油売ってて良いのかい。クビになるよ」
そう言うのはこの茶店の老婆だった。
七十歳を越えても一人でその店を切り盛りしていた。
「何言ってるんだい、人がせっかく膏薬届けてやったのに。それに、ばあさんの鶏団子が美味くってな。どうしても腰が重くなってしまうんだよ」
魏粛は鶏団子の串で遊びながら笑った。
「今日も調子いいねぇ。もう一杯食うかい」
老婆は魏粛にそう言って奥に入って行った。
魏粛はこの老婆の腰を心配して定期的に膏薬を届けていた。
腰だけじゃなくその老婆の健康を心配していたのだろう。
月に何度か訪ねると何時間もこの老婆と話をしていた。
「そんなにココの鶏団子は美味いのかい」
近くに座っていた旅姿の男が声をかけてきた。
魏粛はその男二人組の男に微笑む。
「そりゃあ、ばあさんの鶏団子食ったら他では食えなくなる程だよ」
「ほう、そりゃ是非とも食わなきゃな」
二人組の男は顔を見合わせて、
「ばあさん。ばあさん。こっちにも鶏団子二つ頼むよ」
そう大声で言った。
奥から老婆の威勢の良い返事が聞こえた。
「兄さん。この先の街に行くのだが、どこか良い宿があったら教えてくれないか」
その旅の男が身を乗り出した。
「ああ、良い宿があるよ。飯もすこぶる美味いし、広い風呂もある」
「そいつはいいねぇ。是非頼むよ」
男たちは笑顔で言った。
「任せとけ。どうせ帰るから連れてってやるよ」
魏粛はお茶をすすった。
「ところで何処から来たんだい」
「宛の近くの町からだ」
「はい。鶏団子だよ」
老婆が魏粛とその旅の男たちの鶏団子の器を持ってきた。
三人は鶏団子の入った汁をすすり出した。
旅の男は熱々の鶏団子を頬張って、
「そういや、この辺りはそろそろ巡行が回って来るんじゃないのかい」
熱い鶏団子のせいか、ちゃんと聞き取るのはかなり困難だった。
「ああ、始皇帝かい。そうだな。もうそろそろ来るんじゃないかな」
魏粛は箸を止めてそう答えた。
「そのせいで街は大騒ぎしているところだよ」
「どこも一緒だな」
男たちは声を出して笑っていた。
「だろうなぁ。こんな巡行なんかして、威厳を見せつけなくても良いと思うんだがな……」
魏粛はそう言うと鶏団子を頬張った。
「あれ、兄ちゃん知らないのか」
「何……」
魏粛は箸を止めて旅の男を見た。
男も器を卓に置いて、魏粛に近付いて来た。
「この巡行の目的はそれだけじゃないんだ」
魏粛の耳元に小声で言った。
「他に目的があるって言うのかい」
魏粛も器を置き身体を男の方に向けた。
「ああ。実はな、始皇帝が巡行している目的ってのは他にあるって噂だ……」
そこまで言うと更に身を乗り出した。
「どうやら不老不死の妙薬を探す旅をしているって話しだぜ。驪山陵なんてでっかい墓まで作らせてるのに、始皇帝本人は不老不死を願ってるってんだから、笑っちまうよな」
そう言うと男は声を出して笑った。
魏粛は不老不死という言葉がやけに耳に残った。
その後のその男の言葉は耳に入らなかった。
無意識に器を取り、鶏団子を食べ始めた。
「聞いてんのかい、兄ちゃん」
「ああ……。聞いてるよ」
魏粛は嘘をついた。
そしてその日、魏粛はその老婆の店で五杯の鶏団子をたいらげた。
李門は馬上にいた。
そう遠い距離ではない。
夜までに焦という小さな漁師町にたどり着けばと思い走っていた。
李門の知っている儒家、名前を南士といった。
陰陽家である公孫発の孫弟子に当たるという南士。
数年前に南士がその焦の町に住みついた頃からの交流だった。
秦帝国は過剰な学問や思想は国を乱す源として弾圧していた。
後に言われる焚書坑儒というものだ。
だからこの様な儒家は身分を隠し、隠れて暮らすしかなかったのだった。
南士が風呂敷一つで焦にたどり着いた時、たまたま李門は焦の町に薬を届けに来ていた。
李門が馬を繋ぐところに南士はやって来た。
そして、南士は李門に、
「お主、お主は馬に走れと言う。ではお主は誰に走れと言われておるのじゃ」
突然そう言ってきた。
李門はその言葉に、
「私は誰にも走れとは言われておらぬ。何故私が走るかと言うならば、それは私の運ぶ薬を待つ人がいるからだ」
そう答えた。
「お主の薬を待つ人々はお主を走らせる程の力を持っておるのじゃな。ではお前の馬を走らせるのも薬を待つ人という事になるな」
南士はそう言った。
「やはり民草は一番力を持っているのだな……」
そう言いながら去って行った。
そんな出会いだった。
南士。
李門にも怪しい人物に見えた。
しかし、何度か町で顔を合わせ、話をする度に、徐々に南士がわかってきた
そして、この南士という男にこの世の中は自分とは違う様に映っているのだと興味を持った。
祭承に借りた馬は早く、いつもより早く焦の町へたどり着いた。
町の入り口で李門は馬を下りた。
手綱を引いて町に入った。
焦の町は小さな漁師町で、その外れは海岸に面している。
その海岸に面したところの小さな家に南士は住んでいた。
「俺は太公望呂尚の生まれ変わりだ……」
などと南士は嘯いて、日がな一日釣り糸を垂れている事が多かった。
李門は手綱を引いたまま町を歩く。
「あら、李門さん。久しぶりだね」
八百屋のおかみが声をかける。
李門が自分で薬を運ばなくなって随分と経つ。
李門は笑顔で挨拶をして南士の家に急いだ。
途中酒屋の前を通り、その前に李門は馬を繋いで店の中へ入った。
「オヤジさん、酒を一升くれないか」
李門はのれんを潜りすぐにそう言った。
「おお、李門さんじゃないか。どうしたんだい。久しぶりだね」
酒屋のオヤジは酒を瓶に詰める手を止めずに李門を見た。
「酒かい。あの変わりモンのところかい。アンタも好きだねぇ……。ちょっと待ってな」
そう言うと新しい瓶を持って来て漏斗を口に挿し、酒を柄杓で掬い流し込んだ。
「相変わらずみたいだね。オヤジさんもあの人も」
李門はそう言うと一番近い椅子に座り、一升瓶の準備を待った。
すぐに酒瓶が出来上がり、オヤジが李門のところへ持ってきた。
「はいよ。あんなヤツと付き合ってるヤツ、聞いた事ないぞ」
オヤジはそう言って李門の前に縄のかかった瓶を置いた。
李門は金を卓の上に置く。
「儒家なんて使い方次第なんだよ。それを秦は使いこなせないから弾圧したりするんだ」
そう言うと立ち上がった。
「また来るよ。ありがとう」
李門はのれんを潜り、店を出た。
南士は家の前の小さな桟橋で糸を垂らし、その釣り糸に付けた木を削って作った浮をじっと見つめていた。
浮が小さく沈む。
それでも表情一つ変えずに南士は竹の竿を握っている。
徐々に浮は激しく浮き沈みを繰り返し、完璧に水中に沈んだ。
南士はまだ動かない。
李門は南士の家の前に馬を繋いだ。
そして足元を確認する様にゆっくりと桟橋を歩いた。
李門は静かに南士の横に座る。
「引いてるんじゃないですか……」
李門は南士にそう声をかけた。
南士はその声に、李門の顔を見る事もなく、
「ああ、引いてるね」
と静かに言った。
「竿……。上げないんですか」
「今上げると釣れてしまうじゃないか」
南士はそう言って微笑んだ。
「浮が浮いて来て、それでもまだ針に魚が掛かっていれば、それはその魚の天命だという事だ。それなら儂も美味しく頂くよ。逃げる余裕を与えておるんだよ……。儂の勝手な都合で魚の運命を変えてしまうのはかわいそうだ……」
南士の浮はゆっくりと浮いてきた。
「浮いてきましたね」
「ああ、浮いてきたな……」
南士はゆっくりと竿を上げた。
南士の釣り糸の先にはぐったりとした魚が下がっていた。
「釣れましたね」
「ああ、釣れたな。これはこの魚の運命だという事だな……。儂が美味しく頂いてやろう」
そう言うと南士は針から魚を外し、魚の口を持って立ち上がった。
「魚には魚の運命がある。人には人の運命がある。国には国の運命がある……。それもまた一興よの……」
「何か話しが有って来たのじゃろ……入れ。お前の持って来た酒で一杯やろう」
南士は桟橋を揺らしながら歩いて行った。
南士は自分で釣った魚を焼き、皿に乗せた。
「ほら、食ってくれ。さっきまで海を元気に泳いでいて、今日天命が尽きた魚たちじゃ。その天命は、儂とお前の血となり肉となる。この魚たちの天命を受け継ぐのだ」
いつもの事だった。
この南士の長い話を李門は何度も聞いていた。
儒家というのはそういうものなのだろうか……。
李門はいつもの様に南士に微笑んだ。
「酒は……」
と手を擦り合わせて南士はニヤリと笑った。
「はいはい。どうぞ」
李門は卓の上に酒瓶を置いた。
南士は縁の欠けた器を二つ持って来た。
「で、今日は何か話が有って来た様子だな」
李門は酒を注ぐ南士をじっと見つめていた。
「はい。実は急を要しておりまして……」
自分の前の器にも酒が注がれるのを見ながら李門は頭を下げた。
「始皇帝の巡行の事か……」
「はい」
「儂に何が聞きたいんじゃ……」
南士は自分の酒を掲げて一気に飲んだ。
「くわぁ……やっぱり酒は美味いのお」
李門も器を取って半分ほど飲んだ。
「始皇帝が巡行した街では、色々と難癖をつけられ殺された人々がいると聞きます。街の人をそんな目に合わせたくないのです……」
南士は自分の器に酒を注いだ。
「しかしそれも天命じゃて……。始皇帝もむやみに人を殺す男じゃない。ヤツは孤独なんじゃよ。ヤツは誰も信じられんから、自分を否定する者をすべて殺そうとするんじゃよ……」
そう言うと酒をまた一気に飲んだ。
李門は無言のままだった。
「街の人たちと毎日、始皇帝巡行の対策を練っています。しかし話せば話すほど不安になって、今ではどうすれば良いかまったく……」
李門は顔を伏せた。
「それで教えを乞いに来た次第です……」
「なるほどな……。しかし儂の様な者に聞いたところで答えは出んぞ」
南士は魚を食べながらそう答えた。
「李門。始皇帝が何故、五度もこの広い中国を巡行しているのかわかるか……」
「強大な秦の力を人民に見せつけ、反乱など起させないためだと聞いています」
「もちろん、それもある。しかしそれは始皇帝の意思というより、始皇帝を取り巻く人間の思惑だろう」
「始皇帝自身には他に目的があると……」
南士は李門に微笑んでまた酒を呷る。
「始皇帝は中国全土を回りながら不老不死の妙薬を探しているという話だ」
「不老不死……」
李門は言葉に詰まった。
「そんなモンが存在する訳は無い。ヤツはそれでも必死に探している」
南士は既に顔を赤らめていた。
「まあ、仙人にでも会えれば見つかるのだろうが……」
李門には、既にそんな言葉は耳に入っていなかった。
萬能丹。
あれを始皇帝に献上すればそれで上手く切り抜ける事は出来るのかもしれない。
李門はそう考えていた。
その日、李門は遅くに南士の小屋を出て、焦の町の宿に泊まった。
そして翌朝早くに焦を発った。
南士の話は、李門にはかなりの収穫だった。
「これで街は救われる……」
李門は馬上でそう呟いた。
「胡亥様。まだ起きておられますか……」
始皇帝の末子、胡亥の幕舎を趙高は訪ねた。
「誰だ」
胡亥は不機嫌そうにそう言った。
「趙高にございます。少しお時間を……」
「構わん。入れ……」
趙高は幕舎の入口を開け、ゆっくりと中に入った。
始皇帝の幕舎よりは狭い幕舎だが、流石に始皇帝の政に一番寵愛されている末子の胡亥の幕舎だった。
見事な宝飾品が飾り付けてあった。
始皇帝には長子に扶蘇がおり、誰もが政の跡は扶蘇が継ぐモノだと思っていた。
だがこの五度目の巡行にその扶蘇は同行しておらず、末子の胡亥だけが同行していた。
幕舎の中では裸の女が胡亥と一緒に寝台に寝ていた。
その様子を見て、
「よろしいのでしょうか」
そう言うと、趙高は跪いて顔を伏せた。
「男でも女でもないヤツがいたところでなんて事はない」
胡亥はそう言うとニヤリと笑って女の乳房を、いやらしく音を立てて吸った。
「何の用だ」
宦官の趙高。
始皇帝に絶大な信頼を得ている。
それでこの胡亥の教育役にも抜擢されており、胡亥が幼い頃から趙高は傍にいた。
しかし、胡亥に女を覚えさせた頃から胡亥は趙高を蔑む様になった。
たかが宦官……。
などと宮中でもよく口にしていた。
「はい。少し重大なお話がございまして……」
趙高は顔を伏せたままそう言う。
「構わん。言ってみろ」
胡亥は女を揺さぶりながらそう言った。
「何だ、女に聞かれてもまずいのか……」
「申し訳ありませんが……」
「ふん。だったら少しそこで待っておれ」
そう言うと胡亥は激しく女を揺さぶり始めた。
幕舎の中には女のよがる声だけが響いている。
その声を聞きながら趙高は顔を伏せたままじっと待った。
宦官である。
その様な行為に興味はない。
しかし不愉快である事には違いなかった。
胡亥が果てる。
するとすぐに女は薄衣を羽織りそそくさと幕舎を出て行った。
胡亥は寝台で全裸のまま大の字になっていた。
息遣いがまだ戻らない。
「どうした。こんな遅くに……」
胡亥はそう言うと寝台の横の卓に置いてあった器の酒を一気に飲んだ。
「少々、ご相談がございまして……」
胡亥は腰に布を巻いた。
「こっちへ来い」
趙高はその言葉でようやく顔を上げて、胡亥の寝台の前で再び膝をついた。
「そんなに重大な話なのか」
胡亥は酒を注ぎ、また一気に飲み干した。
「胡亥様のお命に関わる話でございます」
趙高は顔を伏せたまま言った。
胡亥もその言葉に眉間に皺を寄せた。
「なに。俺の命に関わるだと……」
「はい」
胡亥は趙高の方へ身体を向けて座った。
「話してみろ」
父、始皇帝とは似付かぬ細く甲高い声だった。
母の血が濃いのだろう。
「陛下はもう長くございません」
趙高はゆっくりと顔を上げてそう言った。
「なに……父上が……。それはまことか……」
胡亥の顔色が変わった。
「後どのくらい持つのだ」
趙高は首を横に振った。
「ええい。父上の探しておる不老不死の薬はまだ見つからんのか」
胡亥はそう叫び立ち上がった。
胡亥も父である始皇帝、政が好きだった。
「色々と試してみたのですが、どれもホンモノの不老不死の妙薬では無かった様です」
趙高はそう言うと再び顔を伏せる。
「不老不死の妙薬など存在しないのかもしれません」
「そうかもしれんな……」
胡亥は力なく腰を落とした。
「しかし、父上が死ぬと兄が父上の跡を継ぐ事になる。兄には早く知らせた方が良いのではないか」
「そこでございます……」
趙高は立ち上がり胡亥の前に歩み寄り、再び膝をつく。
「私は陛下の跡目は胡亥様がお継ぎになられるのが良いと考えておりまする」
胡亥は目を見開き趙高を睨む様に見た。
「馬鹿な事を申すでない。父上の跡目は兄の扶蘇が継ぐモノだと誰もが思っておる。それが自然の摂理じゃ。そんな事をすると国が乱れるぞ……。趙高……貴様というヤツは……」
胡亥はそう言うと手に持った器を趙高の前に叩きつけた。
「冷静にお聞き下さい。古来より国を継いだ長子はことごとく兄弟を粛清しております。胡亥様は扶蘇様に必ず殺されます。それが後々の憂いを無くす唯一の方法だからです。ご理解下さい」
趙高は胡亥の手を掴み訴える様にそう言った。
「兄に限りそれ事はない。俺は兄を信じる」
胡亥は趙高の手を振り切った。
「趙高。貴様というヤツは……」
「胡亥様。良く考えて下さい。この巡行に同行しておられるのは胡亥様だけなのですよ。そして陛下の遺言状の代筆も以前より私が行っております。もちろん文字もすべて私のモノです。それを書き替える事など造作もない事。もう一度お考え下さい。皇帝になられる方が良いのか、それとも粛清を恐れながら生きる方が良いのか……。どちらが胡亥様のためになると思われますか」
趙高は青白い顔で胡亥を見て、涙を流した。
「私は胡亥様のためだけを思って進言しているのです……」
「趙高……」
胡亥は呟く様に小さな声でそう言った。
「後の事はこの趙高めにお任せ下さい。悪い様には致しませんので……」
趙高は袂で涙を拭い、胡亥の耳元でそう言う。
長い沈黙が続いた。
胡亥をじっと見つめる趙高。
どこを見るでもなく焦点の定まらない目で座っている胡亥。
その静かな時間は一瞬だったのかもしれない。
しかし二人には途轍もなく長い時間に感じられた。
「わかった……。良きに計らえ……」
胡亥はすべてを諦めた様に静かにそう言った。
趙高は一礼して胡亥の幕舎を出て行った。
趙高は入口で、今一度胡亥にゆっくりと頭を下げ、胡亥に背を向けるとニヤリと笑った。
胡亥はその後、何時間もじっと寝台の上から動かなかった。
李門と魏粛は河の畔で並んで座っていた。
河は日々形相が違う事を魏粛は知っていた。
河は安らぎ静かに流れ水面の乱れも無かった。
「決めたのか……」
李門はそう言うと魏粛を見た。
「ああ。祭承様の店はお前に任せる」
魏粛の顔は晴れやかだった。
「なに……。嫌でも今回の始皇帝巡行を成功させれば、誰もがそう認めるさ……」
魏粛は李門の肩を叩いた。
「俺も祭承様の様に知らない街でやってみたいんだよ。今の自分に出来る事を全部な……」
「そうか……」
李門も笑顔だった。
「祭承様にはもう言ったのか」
「いや……。今晩話すつもりだ」
「そうか……」
魏粛と李門は祭承に店を継いで欲しいと言われ、そして魏粛は店を出る事に決めた。
自分より李門の方が祭承の店を継ぐのに相応しいと思ったのだ。
魏粛は若き日の祭承と同じ様に薬を必要とする人々が暮らす土地へ行き、その土地の人々を救いたい。
そう考えていた。
「再び世は乱れる。戦乱に次ぐ戦乱でまた人が大勢死ぬ。その人々を俺は助けたい」
魏粛は空を見上げていた。
「世が乱れる。どうしてだ」
「始皇帝はもうすぐ死ぬ。それで一気にまた戦乱が起こる。秦への不満はもう限界まで来ている筈だ」
魏粛は李門を見た。
「百姓たちの租税は七割になったそうだ。彼らの我慢も限界だろう」
「私はあの薬を始皇帝に献上するつもりだ」
李門は立ち上がってそう言った。
「始皇帝は死なないかもしれない」
「お前……。あの薬ってまさか……」
魏粛は立ち上がった李門を見た。
「しかし、それは……」
「わかっている。わかっているよ……。だけど私が持っているよりその方が良いのかもしれない……。そう思ったんだ」
魏粛も立ち上がり尻の汚れを払った。
そのまま二人で再び河を見た。
二人は河の流れる音だけに包まれていた。
「わかった。それも面白いのかもしれない……。始皇帝の天命があの薬で長らえる様であれば、それも受け入れなければなるまい」
魏粛は満面の笑みで笑った。
「秦の世か……。夢か幻か……。この目で最後まで見てみたいものだ……」
魏粛はそう言うと歩き出した。