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第一章 紅雀と青雀






「こら六承、何をしているのだ」


 祭傳は大きな声を出した。

 六承は引き出しから出した薬を桑折に詰めているところだったが父の祭傳の声で驚き身体を震わせた。


「はい。すみません。今準備をしているところです」


「お前はいつまで経っても仕事が遅いな。そんな事じゃ兄たちに追いつけんぞ」


 祭傳の大きな声は街中で有名だった。

 毎日罵声に似た声が祭傳の店から聞こえていた。

 この祭傳は特に、六男の六承には厳しかった。


 祭傳は咸陽の街にある薬商。

 夫人は四人。

 六承は第一夫人の息子で、祭傳は最も可愛がった。

 その愛の鞭とも言える罵声は止む事は無かった。


「早く出発しないか。今日中に帰れんぞ」


 そう言うと祭傳は奥の部屋へ入り、激しい音を立てて戸を閉めた。


「わかっていますよ……」


 六承は祭傳に聞こえない様に小さな声でそう言うと桑折に蓋をして紐を通して背負った。






 祭傳には子どもが八人いた。

 長男の祭石を始め、次男祭毛、三男祭伯、長女祭麗、次女祭華、四男祭嘉、五男祭越、そして六男の祭承、六番目の息子だから六承と呼ばれていた。


 長男の祭石と次男の祭毛は既に祭傳に店を任され、他の県で立派に薬商を営んでいた。


 三男の祭伯と四男の祭嘉は祭傳の店で行商を手伝い、五男の祭越は薬作りを勉強している。


 一番幼い六承は十五歳の誕生日を迎えた日から祭傳の店を手伝っている。

 これも一人前の薬商になるための修行だと祭傳は言う。


 六承は桑折を背負い、草鞋を履いた。


「行って参ります」


 店の入り口でそう言うと、颯爽と歩き出した。

 今日は咸陽の西にある町に行商へ行く予定になっていた。


 六承の頭には西の町の住人の情報がすべて詰まっている。

 姚ばあさんは先週から足が痛いと言っていたので、痛み止めの膏薬を。

 琳ばあさんは水あたりを起こしているので、下痢止めを。

 といった感じで一人一人に合う薬を桑折に詰めていたのだ。

 だから六承は毎日持って出た薬を完全に売り切って帰ってくる。


 それを祭傳は知っていた。

 六承の商いの才能を見抜いていたのだった。


 六承は足早に咸陽の街を抜けた。

 西の町まで六承の足で約三時間の距離。

 町で薬を売って帰ると夜になるだろう。

 それも六承は計算していた。

 西の町の住人も六承が薬を持ってやって来るのを待っている。

 六承は人に愛される商人として既に人々に認められていた。


 腰には店で雇っている飯炊きが作った弁当が下がっていた。

 このまま行くと、昼時にちょうど西の町に着く。

 昼飯時は畑仕事を休んでいる人々のところを回る。

 その後は商いを終えた商人の家を回る。

 その間に六承は昼飯を食うのだ。

 毎日行く町は違うが同じ様に計算して無駄なく行商していた。


「六承。今日は西の町かい」


 町外れで畑仕事をする男に声をかけられた。


「ええ。今日は西の町です」


 六承も大声で手を振りながらそう答える。


「うちのカミさんが腹の調子が悪いって言っているのだ。また薬を届けてくれ」


「わかりました。今晩にでも届けますよ」


 そう言って足早に過ぎて行った。

 六承は咸陽の街の人にも好かれていた。






 六承は街を出て歩くのが好きだった。

 そして人々と話すのが好きだった。

 六承に学問を教えてくれた恩師、慶呈の口癖は、


「自然はお前の恩師だ。人々はお前の恩師だ。川の流れや息吹く緑を、ただ綺麗だと感じる。それも良いだろう。しかし、それらは四季を教え、自然の摂理を教えてくれる無二のモノでもある。人に聞いた事と、自分の目で見た事……どちらが自分のためになるか。それは考えずともわかるだろう」


 いつも六承にそう言っていた。


 いつか六承はその慶呈に聞いた事があった。


「人は生きるために食い、眠り、そしてそのために働きます。しかし、どの様な人にも、最後には死が待っています。結局人は死ぬために生きているのでしょうか」


 慶呈は十に満たない子どもの六承がそう聞いた事を驚いたと言う。

 そして慶呈は、


「人は無から生まれ、無に帰るのだ」


 ただそれだけを答えたそうだ。

 六承はその言葉に礼を一言言っただけだった。






 六承は初夏の道をただひたすら歩いた。

 その道はただ真っ直ぐと伸びていて、咸陽へ行商に行く人々と度々六承はすれ違う。

 この数年、南の地域で続く不作のせいで、行商人は咸陽のある北の地域に流れていた。

 そのために咸陽周辺の地域は比較的経済状態は良かった。


 人口はどんどん増え、周囲にある小さな村々にも人がどんどん移り住んでいた。

 その恩恵で、祭傳の様な薬屋は裕福になっていった。


 六承はこの仕事を始めたばかりだったが……。






 干物を積んだ馬車の行商人とすれ違う。


 六承はいつか海が見たいと思っていた。

 中国は広く、六承の住む咸陽から海まではかなりある。

 もちろん、大半の人が一生海など見る事はない。

 六承は子どもの頃、祭傳の弟、祭拗から海の話を聞いた。

 その叔父に聞いた海をいつか見てみたいと心に決めていたのだ。






 何時間歩いただろうか……。


 西の町まで半分程の距離に来たところに一人の老婆がうずくまっていた。

 六承はその老婆を見つけ、慌てて駆け寄った。


「どうかされましたか」


 老婆は脂汗を流し力なく六承に微笑んだ。


「心臓が悪いと言われております。ただどうしても咸陽の息子に早く会いたいのです」


 そう言うと胸を押さえて倒れ込んだ。


「しっかりして下さい」


 六承は桑折を開けて、一つの薬を取り出して、老婆に飲ませた。

 竹筒の水を老婆の口に流し込む。

 老婆はそれを呑み込むと気を失った。


「おばあさん。おばあさん。しっかりして下さい」


 六承は老婆を抱きかかえ、大きな木の陰に運んだ。

 そして手際よく懐から手ぬぐいを出して、竹筒の水で湿らせ老婆の額に乗せた。


 初夏とはいえ、日陰の無い道を歩くのは老婆の体力ではキツイだろう。


 木陰は風が抜け心地よい。

 六承はその老婆の顔を見ながら微笑んだ。


 六承も幼い頃、祭傳の母に育てられた記憶があった。

 数年前に他界したが、六承はその祖母が好きだった。

 父の祭傳とは喧嘩ばかりしていたが、六承には優しい祖母だった。


 老婆はまだ目覚めない。


 六承は腰に下げた昼飯を出した。

 時間はいつもより遅くなったが仕方ない。

 少し早いが昼飯を食べる事にした。

 弁当の包みを開けて、米と麦と粟を混ぜた飯を食べようとした時、老婆が目を覚ました。


「おばあさん。大丈夫ですか」


 六承は弁当の包みを脇に置いた。


「どなたか存じませんが、ありがとうございます」


 そう言うと老婆は身体を起こした。


「もう少し寝ていた方が……」


 六承は老婆の背中に手を添えた。


「いえ……。早く咸陽に行きたいので……」


 老婆は辛そうに顔を歪めながら言った。


「息子が……、息子が待っていますので……」


「どうぞ。これを飲んで下さい」


 そう言うと竹筒を老婆に渡した。


「今日は暑いですから、沢山飲んで下さい」


 六承は桑折からまたさっきの薬を出して、老婆に渡した。


「これも一緒に」


 老婆は頭を下げ、竹筒と薬を受け取り飲んだ。


「何から何までありがとうございます」


 すると老婆の腹が大きな音を発した。

 老婆もそれに気づき、


「すみません。お恥ずかしい。途中で路賃が尽きてしまい、何も食べていなくて……」


 そう言うと恥ずかしそうに顔を伏せた。


 六承は自分の脇に置いた弁当の包みを取り、老婆に渡した。


「良かったらこれ、食べませんか」


 老婆はその弁当を見て戸惑い、


「いえ。それはあなた様の弁当。私みたいな者が頂く訳には参りません」


 そう言うと弁当の包みを六承に返した。


「いえいえ。私はこれから行く町で何か食べる事が出来ますから」

 

 そう言うと再び老婆に弁当を渡した。

 そして、桑折の中から、もう一つの竹筒を取り出した。


「これはお茶です。お口に合うかどうか……」


「まあ……。そんな高価なモノまで頂く訳には……」


 当時お茶はまだ高価で、一般庶民はなかなか口に出来なかった。


「良いですよ。私は家に帰ればいくらでも飲めますから。もっとも息子さんのところへ行けばおばあさんもいくらでも飲めるのでしょうが……」


 老婆は何度も礼を言って、早速弁当を食べ始めた。

 相当お腹が空いていたのだろう。

 あっと言う間に六承の弁当をたいらげた。







「この薬を飲んで下さい。もし必要ならば、咸陽の祭という薬商をお尋ね下さい。私はそこの六承と言います」

 

 六承は老婆に薬を渡した。


「何から何までありがとうございます。本当に何とお礼を申し上げたら良いか……」


 老婆は六承に何度も頭を下げた。


「必ずお礼に参りますので」


「いえいえ。そんなのは結構ですよ」


 そう言うと老婆に微笑んだ。


「早く息子さんに会えると良いですね……」


「ありがとうございます」


 老婆はまた深々と頭を下げた。


「では、私は先を急ぎます」


 六承はそう言うと桑折を背負った。


「あの……」


 老婆は六承の顔を見つめていた。


「はい」


 六承は老婆を覗き込む様に見た。


「あなた様もお身体には気を付け下さいね」


 老婆は今一度頭を下げて、咸陽へ続く道をゆっくりと歩き出した。

 六承もその背中を見送り、歩き出した。


 歩きながら、老婆が最後に六承に言った言葉が気になった。

 その老婆が六承を見る顔がやけに寂しげだったのだ。


 そんな事を考えていても仕方ない。

 先を急ごう。

 かなり遅くなってしまったし、帰りは真夜中になるかもしれない……。


 六承は再び足早に歩き出した。






 その日、六承は予定通り幾つかの町や村を回った。

 六承が持って来る薬を待っている人は大勢いるのだ。

 六承は自分の持って行く薬を待つ人のために毎日歩く。

 一軒一軒家を回り、そして町の薬屋を回り、薬を置いて行くのだ。

 六承は、自分の薬を待つ人の笑顔を見るのがたまらなく好きだった。


 その日、すべての家を回った頃、日は西の空に落ちかけていた。


「こりゃ、帰ったら朝方になるな……」


 六承はその最後の村を出て、咸陽への道を急ぐ事にした。


 桑折は軽くなっていたので、楽に歩ける。

 しかし幾つかの山を越えなければ咸陽へは帰れない。

 夜の山道は楽ではないのだ。


 六承は村外れの家で、油壺に火をもらう事にした。

 帰りは必ず提灯が必要になる。


 六承はその家の戸を叩いた。


「すみません。火を分けて頂けないでしょうか」


 六承は少し大きな声で言った。


 その家の戸がゆっくりと開いた。


「入れ。こんな時間から何処へ行くのだ」


 その家の中から出てきた男は、ぶっきらぼうに六承にそう言った。


「咸陽まで帰らないといけないのです。火を分けて下さい」


「今から咸陽だと。馬鹿言うな。こんな夜道を咸陽まで歩いたところで咸陽の開門まで街には入れないだろう。悪い事は言わん。朝になってから行くがいい。良ければ泊まっていけ……。何も、もてなしは出来んけどな……」


 男はそう言うと家の中に入っていった。


 六承も男に続いて家に入った。


 暗い部屋だった。

 男は部屋の隅にある古い椅子に座る。


「ここに座れや。あんた薬屋だろ。結構良い評判だぜ」


 そう言うと酒をついで飲んだ。


「酒はあるけどやらんぞ。これは俺のだ」


「あ、はい。結構です。飲めないので」


 六承はそう言って、男の前に立った。


「何だ、飲めねえのか。そりゃ残念だな」


 そう言うと卓の上に火の灯る油皿を置いた。


「まあ座れよ。夜は長い」


 手酌で酒を飲む男は、そう酔っている様子ではなかった。

 六承はゆっくりと男の向かいに座った。

 男は薄暗い明り越しに六承の顔を見ていた。


「良い面構えだ。名は何と言う」


「はい。咸陽の祭承と言います。六男ですので皆には六承と呼ばれております」


「祭承か。良い名前だ。祭傳の息子だな」


「父をご存知なのですか」


 男は答えなかった。

 ただ薄明かりの中で酒を飲んでいた。


「そんな事より、お前」


 男はそう言って明りを六承の顔の前に近付けた。

 そしてじっと六承の顔を見た。


「お前、どこも痛くねえか」


 六承は顔の前の明かり越しに男を見た。


「え……。いえ別に」


 昼間、老婆に言われた事を思い出した。


「何故ですか」


「いや……だったら良いんだ」


 男はそう言って明りを卓の上に荒々しく置いた。


「それなら良い」


 そしてまた酒を飲む。


 六承は不安になった。

 昼間の老婆、そして目の前の男。

 同じ様に身体の事を言った。

 帰ったら薬でも飲もう……。

 六承はそう考えた。


「あの」


 六承は小さな声で言う。


「何だ」


 男はしばらくの間をおいた。

 その間に何の意味があるのかは六承にはわからない。


「この明りを頂いてよろしいでしょうか」


 六承は目の前の油皿を指さしてそう言った。


「本当に行くのか。こんな夜中に」


「はい。朝までに帰らないと、明日も私が行くのを待っている人がおられますので」


 六承は微笑んだ。


「そうか。自分の事より人の事か……。お前も祭傳に良く似ているな……。そっくりだ」


 男もニヤリと薄明かりの中で笑った。


「持って行け。しかし、夜道は盗賊もいりゃ、野犬もいる。気を付けろよ。限りある命だ。無理に短くする事もない」


 また男は酒を飲む。


「ありがとうございます。危なければ途中で松明を作りますので」


 六承は目の前の明かりの火をそっと自分の油壺に移した。


「これで咸陽まで帰れます」


 そう言うと立ち上がり頭を下げた。


「モノ好きだなお前も。気を付けて帰れよ」


 男は横を向き、膝を立てて酒を飲んだ。

 部屋中は酒の匂いでいっぱいだった。

 六承は正直その部屋を早く出たくて仕方がなかった。


 戸の前に立つ六承に男は声をかけた。


「機会があったらまた訪ねてくれ。俺は呂赫と言うものだ」


 六承は振り返り、今一度、その男、呂赫に深々と頭を下げ、礼を言って部屋を出た。


「おい」


 部屋を出た時に呂赫は六承に再び声をかけた。

 六承は部屋の中に頭だけを入れて薄暗い部屋の中にいる呂赫を見た。


「はい」


 呂赫は酒の入った盃を卓の上に置いて、六承のところへ歩み寄った。

 そして六承を見てニヤリと笑う。


「あのな……」


 酒臭い息でそう言うと、六承の頭を自分の顔の横まで引き寄せて、小声で言った。







「急ごう。野犬も多いからな……」


 六承は村から少し離れた丘の上で村の疎らな明かりを振り返る。

 呂赫の家が小さく見えた。


 六承は呂赫から貰った火で灯した提灯で、足元を照らしながらゆっくりと歩いた。

 多分、普段の倍は時間がかかるだろう。

 朝に辿り着けなくても良い。

 ただ、明日中に自分の事を待っている人々のところへ薬を届けたい。

 六承はそう思いながら歩を進めた。


 歩きながら、呂赫が言った言葉が気にかかっていた。







「良いか、出来ればここから三十里ほど行ったところに大きな楠がある。その下で休め。そこで朝まで眠るのだ。それでお前の未来は開ける。良いか必ず休むのだ。そこでゆっくり眠ってから咸陽へ帰れ」

呂赫はまたニヤリと笑い、戸を閉めた。


 その楠の下に何があるのだろうか……。


 六承はそう考えながら山道を歩いていた。


 初夏といえども夜は冷え込む。

 途中、冷える身体に麻の布を一枚羽織った。


 その日は幸い月が出ていた。

 雲も出ていたので、その月は出たり隠れたりを繰り返すのだが、六承の足元を照らすには十分だった。


 暗い山道を一人歩き続ける六承。

 しかしその足取りは不思議と軽かった。






 六承は大きな楠を見上げていた。


「これか……呂赫さんの言っていた楠は」


 呂赫の言葉を思い出しながら六承は楠の前に立っていた。

 確かに葉が生い茂り、夜露もしのげる。

 呂赫はこの下で休んで帰れと言った。

 しかし六承にはまだ体力も残っている。

 何故ここで呂赫が休めと言ったのか、その理由はわからない。


 このまま咸陽へ急ごう。


 そう思い六承は楠の下から、再び夜道を歩き出した。

 夜明けまではまだ時間がある。

 充分に朝には咸陽に辿り着ける。


 しかし、六承は少し歩いたところで立ち止まり、楠を振り返った。


 六承は、今来た道を早足で戻った。

 そして再び楠の下に立ち、肩で息をついた。


 手に持った提灯を脇に置いて、麻の布に包まる様にして楠の下で横になった。


 呂赫の言葉が何を意味しているのかはわからない。

 しかしそれで自分の未来が開けると言うのならば、そうしてみよう。

 それが自分に今出来る事ならば……。


 六承は小さく自分を照らす炎を見ながらそう思った。


 長い一日だった。

 六承は今日一日の事を考えていた。

 そしていつの間にか眠ってしまった。






 その夜六承は夢を見た。


 その夢はとても不思議な夢だった。


 六承は祭傳の弟の祭拗と一緒にまだ見ぬ海を見ていた。

 その海は赤く渦を巻いていた。


「六承よ。人はこの青い海から生まれたのだよ」


 祭拗は六承の肩を掴む様にしてそう言った。


「慶呈先生は土から生まれて土に帰るって……。それに海は青くないよ。真っ赤だよ……」


「何を言っているのだ。お前にはこの空の様に青い海が見えないのか」


「見えないよ。僕には真っ赤に見える。血の様に真っ赤に見えるよ……」


 六承は泣きわめく様にそう言う。

 祭拗はそんな六承を笑った。


「赤い海なんてある訳ないじゃないか。太古の昔から海は青いのだよ。その海は何よりも深い青なのだよ……」


 そう言って腕を組んで海を見ていた。

 しかし何度見ても六承にはその海は赤かった。


 六承と祭拗の前にある、石の上に二羽の雀が止まった。

 一羽は青く、もう一羽は赤い雀だった。

 その雀たちはじっと六承を見ていた。


「赤い雀と青い雀だ……」


「六承、雀が赤かったり青かったりする訳ないだろう……」


 どんどん祭拗の声は遠ざかり六承から一切の音が無くなっていった。







「良い少年なんだがの……」


「そうか……。もう命が尽きるか……。不憫じゃの」


 命が尽きる……。

 誰の事だ。

 何だ、人が寝ている横で不吉な事を。


 六承の耳に再び音が戻ってきた。

 それは遠く小さな声だった。


「何とかしてやれんモンかの……」


「それは無理じゃろう」


 自分の事を話している。

 六承は確信した。


 六承は思い切って目を開けた。


 小さな老人が二人、眠っている六承の顔を覗き込んでいた。


「あら、起きたぞ」


「おお、起きたな」


 二人の老人たちは同じ様に右手に杖を持ち、一人は赤い羽織、そしてもう一人は青い羽織を着ていた。


「何ですか。人が寝ている傍で……」


 そう言って六承は身体を起こした。

 すると老人たちは飛ぶ様にして後退った。


「ほら、聞かれてしまった様だぞ」


「そうだな、聞かれてしまったみたいだな」


 老人たちは口々にそう言った。


 六承はその老人たちの姿を見て、ただの老人では無い事はわかった。


「どうする。逃げるか」


「そうだな。逃げよう」


 老人たちは歩かずに飛び跳ねながら六承から逃げる様に遠ざかった。


「待って下さい。老師」


 六承はその場に土下座し、頭を地面に擦り付けた。


 二人の老人は立ち止まり、ゆっくりと六承を振り返った。


「申し訳ありません。私は不覚にもお二人のお話を聞いてしまいました。その話は私の寿命がもうすぐ尽きると言う話で。その話を聞いてしまった私はどうすれば良いのでしょうか。海に帰るにせよ、土に帰るにせよ、それなりの覚悟が必要です。私は今、十五歳を少し過ぎたところです。そんな私にその覚悟は出来ません。何か私に知恵をお授け下さい」


 六承は頭を下げたまま二人の老人にそう言った。


「面白い男じゃの」


「ああ、面白い男だ」


 二人の老人はまた跳ねながら六承の前にやって来た。


「これ、少年、顔を上げてみろ」


「顔を上げてみろ」


 六承はゆっくりと顔を上げた。


「聞かれたのでは仕方ないな」


「そうじゃの仕方ないの」


 二人の老人はじっと六承の顔を見つめたままそう言う。


「儂らには残念ながら、人の寿命をどうこうする力は無い」


「そうじゃ、そんな力は無い」


 二人の老人はそう言うと六承の前にしゃがみこんだ。

 身体が柔らかく、しゃがみこむと小さく丸い塊の様に見えた。


 六承は目を潤ませ、二人の老人を交互に見た。


「でもな、儂らはお前を待っている人々に薬を運ぶのをいつも見ておった」


「そうじゃ、見ておった、見ておった」


 ニコニコと笑っている様な顔をしている、その二人の老人の顔は双子の様に生き写しだった。


「でもな、儂らはお前に授ける様な知恵も無いしの……」


「そうじゃな、知恵もない。じゃが、アレがあるのう」


 青い羽織を着た老人が思い出したかの様にそう言った。


「アレか。しかしアレは博打の様なモンじゃろう」


「博打でも死ぬよりはマシじゃろうて」


 二人で顔を見合わせてそんな話を始めた。


「そうじゃの。この少年はまだ生きなきゃならん。多分アレにも耐えられるじゃろ」


「儂もそう思う」


 そう言うと、赤い羽織を着た老人が懐から革の袋を取り出した。


「これ六承。お前にこれをやろう」


「そうじゃ、これをやろう」


 六承は赤い羽織の老人から革袋を受け取った。


「これは何ですか」


 六承は両手でしっかりとその袋を持ち、そう聞いた。


「これは「萬能丹」と言うモノじゃ」


「そうじゃ、萬能丹じゃ」


「萬能丹……ですか」


 六承は袋を見た。


「お前薬屋のくせに萬能丹を知らんのか」


「知らんのか」


 六承は無意識に座り直した。


 萬能丹……。

 聞いた事が無い。


「老師様、申し訳ありません。私の勉強不足です。よろしければどの様な薬なのか教えて頂けますか」


 六承は再び頭を下げた。


「ほほほ。知らんで当然じゃ」


「ほほほ。当然じゃ」


 二人の老人は顔を皺苦茶にして笑っていた。


「そこまで言うなら教えてやろう」


「そうじゃ、教えてやろう」


 老人たちは同時に杖を突いて立ち上がった。

 そして二人は六承の周りを飛び跳ね出した。


「萬能丹はの、仙人が作った薬なのじゃ。いわゆる仙人丹じゃ。人が知っている訳は無いんじゃよ。だから恥ずかしがる事は無い」


「そうそう。恥ずかしがる事は無い」


「仙人様の薬……」


 六承は驚き、再び袋を見た。


「そうじゃ、仙人の薬じゃ。その薬はどんな病も飲めばたちまち治してしまうのじゃ」


「そうじゃ、何でも治る薬じゃ」


 老人たちは六承の周りを止まる事もなく飛び跳ねている。


「それはすごいですね……。そんな薬は今まで見た事も聞いた事も無いです」


「そりゃそうじゃ。仙人の薬じゃからの」


「そうじゃ、仙人の薬じゃからの」


「では、私もこれを飲めば病が治り、まだ生きられるのですね」


 六承は少し微笑んで自分の周りを飛び跳ねる二人の老人を見た。


「そうじゃの……。見るところお前はこの辺りが悪い様だ」


「そうじゃの、その辺りが悪かろう……」


 赤い羽織を着た老人は六承の腹の辺りを杖で指した。

 その後に続いて青い羽織を着た老人も同じ様にした。


「そしてもってあと二週間と言ったところじゃろ」


「そうじゃな、二週間じゃな」


「二週間……。私はそんなに悪いのですか」


 六承は自分の腹を押さえた。


「ああ、悪いの」


「うん。悪い」


「だがの、それを飲めば治る」


「そうじゃ、治る」


 六承は手にした薬の入った革袋をじっと見つめた。


「これを飲めば治る。そして生きられる……」


「その袋には百八粒の萬能丹が入っておる。それを全部お前にやる」


「くれてやるぞ」


 二人の老人は六承の前に胡坐をかいた。


「あーそうじゃ、萬能丹を飲む前に一つ話をしておかんといかんな」


「そうじゃな」


「なんですか……」


 六承は座り直し、老人の前に前のめりに這い出した。


「知りたいか」


「知りたいか」


 二人の老人は少し神妙な顔になった。


「教えて下さい」


 六承も静かに答えた。


「うん。話そう」


「話せ、話せ」


「お願いします……」


 六承は頭を下げた。


「うむ……萬能丹はの、どんな病でも一粒で治してしまう。じゃがのぉ……萬能丹を飲むとな、病にかかっている臓器が治るまで激痛が走るんじゃ。その病の度合いによって痛みの続く時間も強さも違う。その激痛に耐え切った者だけが病を克服して生きる事が出来る。つまりその激痛に耐え切れず死ぬ者もいると言う事じゃ……」


「そう言う事じゃ……」


 六承は言葉を失った。

 萬能丹を飲めば苦も無く病を治し生きていけると思っていた。

 しかし、その前に試練があった。

 その試練は死ぬかもしれない程の……。


「つまり死ぬ程の痛みに耐えて初めて病を克服出来るって事なのですか……」


 六承はゆっくりと頭を上げた。


「そう言う事じゃ」


「言う事じゃ」


「運が良ければ生きる事が出来るって事かの……」


「事かの……」


「運があるヤツだけが生きる価値があるって事じゃろうな……」


「じゃろうな……」


 二人の老人は口々に六承にそう言った。

 六承は無言のまま二人の老人を見た。

 老人も六承の顔を見て微笑んだ。


「病を治すには一粒で十分じゃ。残りの百七粒はお前が人を助けるのじゃ……。大丈夫。この薬は仙人が作った仙人丹じゃ。何千年ももつ。この人物を助けたい、後世の役に立つと思う人物に使うのじゃ。お前が受け継げ。それも儂らがお前に与える試練じゃ。お前次第で後の世が良くも悪くもなる。頼んだぞ……」


 どんどん老人の声は小さくなっていく。

 そして六承の目の前は真っ白になった。

 それは朝日だったのかもしれない。


 六承は目が眩みその場に倒れた。

 その六承の傍から赤い雀と青い雀が飛び立った。


 





「おい。おい。生きてるか……」


 六承がその声を聞いたのが、気を失ってからどれくらい時間が経った頃だろうか……。

 六承はゆっくりと目を開けた。

 既に周囲は明るく、太陽は真上に近かった。

 六承を覗き込む二人の男は、六承の事を行き倒れだと思っていた様子だった。


「おい。生きてたぞ……」


「大丈夫か、兄ちゃん」


 六承は身体を起こした。


「はい。大丈夫です。もう朝ですか……」


 六承は、やけに鮮明に覚えている夢を思い出しながら、周囲を見た。

 呂赫に言われた大きな楠が六承の近くにあった。


「まったく、死んでいるのかと思ったぜ」


「そうだよ。よくこんなところで寝ていたな……」


 二人の男が六承に色々と語りかけていた。


 夢だったのか……。

 そうだよな……。そんな                                                       

 不思議な話ある訳がない……。


 六承は周囲の眩いばかりの光を、目を細めて見ていた。

 そして、六承は手に握った革の袋を見た。


 夢……じゃない。


 六承は急いで袋を開けた。

 中には黒い小指の先程の薬が入っていた。


「萬能丹……」


 六承は思わず呟いた。


「兄ちゃん……。大丈夫か」


「夜風に当たり過ぎておかしくなっちまったんじゃないか」


「違ぇねぇ……」


 二人の男はそう言いながら六承の前を去って行った。


 六承は萬能丹の入った袋を見て笑っていた。


 その声は道を行く人の足を止める程だった。








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