プロローグ
やけに静かな部屋に感じた。
壁にかかった時計の針の音だけが響いている。
黒い革のソファは高級品だった。
健一もインターネットで見た事があった。
一脚二十万は下らない代物。
健一の向かいに座る男は足を組んで、そのソファに深々と座り、胸の前で両手を合わせていた。
「どうしますか。飲まないのですか」
その男はそう言うと組んでいた足を解き、身を健一の前に乗り出した。
健一の額には汗が滲んでいた。
健一の前には水の入ったグラスと小さな紙の包みが置いてある。
男はそのグラスを取り、わざと音を立てるように健一の前に置き直した。
健一は目を閉じて深呼吸した。
「飲まれないのでしたら、次の患者さんに権利をお譲りしますがよろしいですか」
男は再びソファに深く座った。
「萬能丹は数が限られていますからね。飲みたい患者さんは沢山おられます。飲まれないのでしたら、次の患者さんに権利をお譲りしますので……」
この男からその話を何度聞いたかわからない。
健一は長い時間、目を閉じたまま時計の音とその男の声だけを聞いていた。
「あなた、この萬能丹を飲まないと死んでしまうのですよ。考えている暇は無いと思うのですがね……」
良くしゃべる男だ。
健一はそう思った。
この部屋に入って二十分程だろうか。
その間、健一は一言も発していないのだが、この男は三十秒と黙っている事が出来ない。
男がしゃべればしゃべるほど胡散臭く感じるのだった。
「確かにこの薬は高額です。しかし、これを飲むとあなたの病気はたちまち治ります。言わば命の値段です。どうしますか……。大石さん」
そう。
時間がないのはこの男にではない。
健一に時間はないのだ。
「進行性の胃癌です」
会社の健康診断で「要再検査」の通知を見て、会社を休んで何度か検査を行った。
その検査を受けた大学病院の若い医者は健一に躊躇いも無くそう伝えた。
「え……」
健一は一瞬、耳を疑い、そう聞き返した。
「お気持ちはお察しします」
若い医者はパソコンのモニターを健一の方に向け、レントゲンの映像を健一に見せた。
そして机の上にあったペンを持ち、健一の胃が映ったレントゲン写真を指して説明を始める。
しかし、健一にはそんな話は耳に入らない。
「あ、あの……」
若い医者の説明を遮る様に健一は聞いた。
「後、どのくらい生きられるのですか……」
その声は小さく、力の無い声だった。
「皆さんそうおっしゃいます……」
そう言うと若い医師は座り直した。
「そうですね。持って半年、早ければ三カ月といったところです」
医者は手に持ったペンを机の上に置いて、身体ごと健一の方を向いた。
「もちろん延命治療は行えます。それで半年を十か月、十か月を一年にする事は可能です」
人ごとなのだ……。
健一の命の残量をこの医者は人ごとの様に話しているのだ。
医者という職業はそんなモノなのだろう。
その後、健一はフラフラと病院を出た。
病院に来た時よりも足取りは重く、病院のエントランスの床が粘着質の様なモノで出来ているかと思うほど、足を取られていた。
病院を出ようとした時に健一は肩を叩かれた。
「すみません。あなたのレントゲンと他の人の写真が入れ替わっておりまして……。申し訳ありません。あなたは大丈夫です。癌ではありません」
そう白衣の医者が言うのではないか。
健一はそう思った。
しかし振り向いたそこには黒いスーツを着た男が立っていた。
どう見ても病院関係者では無い事は健一にもわかった。
「大石健一さんですね……」
健一は力なく頷いた。
「あなた、余命宣告されましたね」
健一は顔を上げてその男を見た。
「いえいえ。臓器提供とか保険会社の者ではありませんよ」
そう言うと男は名刺入れを出し、一枚の名刺を健一に渡した。
健一はゆっくりとその名刺を受取り、その男の顔を見た。
「少しお話があるのですが……」
「はぁ……」
「よろしければ少し……お時間を頂けませんでしょうか」
男は腕時計見ながら健一にそう言う。
「はぁ……」
健一はその男の顔を見たまま、短く返事をした。
男は健一に微笑んで、その場で手を挙げた。
すると高級車が健一とその男の前に滑りこむ様にやってきた。
健一が一度も乗った事のない様な高級車だった。
男は後部座席のドアを開ける。
「さぁ、どうぞ。すぐそこですので……」
健一は躊躇いながらその車に乗り込んだ。
そして車はゆっくりと走り出した。
「あの」
健一は自分の横に座る男に聞いた。
「何ですか」
「話がまったくわからないのですが」
健一は目を見開いて男を見た。
「ごもっともです。もうすぐ私のオフィスに着きます。そこで詳しくお話しします」
男はそう言うと健一に微笑んだ。
「ほら、そこですから」
車はあるビルの前で止まった。
「どうぞ……。中で話しましょう」
そう言うと男は車を下りた。
健一は男と一緒にビルへ入った。
「あの……」
「大丈夫ですよ。何も怖がる事はありません。お話をするだけです。その上で決めるのはあなたなのですから」
男はそう言って健一をエレベーターに誘い入れた。
健一はゆっくりとエレベーターに乗り込む。
男は行き先階のボタンを押してドアが閉まるのを待った。
エレベーターは小さな機械音を立てて動き出す。
行き先の表示はどんどん上層階へ移っていった。
健一はただその表示をじっと見つめている。
その表示は自分の寿命を表しているようだった。
どんどん最上階に近付いていく。
最上階へ着くと自分の寿命が終わる。
そんな気がしたのだ。
エレベーターは六階で止まり、ドアがゆっくりと開いた。
「さあ、どうぞ」
その声は健一を現実の世界へ引き戻した。
そしてそのフロアに下りた。
妙に静かなビルだった。
そのフロアには誰もいなかった。
健一は男の後について歩いた。
男の靴の音だけがやけに響く。
そして男は突き当たりの部屋のドアを開けた。
「どうぞ。こちらです」
健一はそのドアをゆっくりとくぐった。
その部屋はビルの形相とは違い、踝まで埋まってしまいそうなカーペットが敷きつめてあり、高級そうなインテリアが並んでいた。
「どうぞ。お座り下さい」
健一は勧められるがまま、ソファに座った。
男はゆっくりと向かいに座り、膝に肘をついて手を合わせた。
男はただ微笑んで健一を見ている。
健一はその男の顔を見上げる様に見て愛想笑いをした。
その顔は自分でも引き攣っているのがわかった。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
男がそう言うと、赤いスーツ姿の女性がお茶を持って入ってきた。
その女性は無言のまま、健一と男の前に湯飲みを置いた。
健一は軽く会釈して、また男を見た。
「どうぞ。中国のお茶です。身体には良いですよ……」
男が先にお茶を飲んだ。
良い香りのするお茶だった。
健一も緊張からか喉がカラカラでお茶を口にした。
しかし今更、健一には身体に良いお茶は関係ない。
健一はそう思ったが口には出さなかった。
「あの」
健一は湯飲みをテーブルに置いた。
「はい。美味しいでしょ」
「ええ、とっても」
「そうでしょう。自慢のお茶なのですよ」
男は健一に微笑み、自分も湯飲みをテーブルに置いた。
「いえ、そうでは無くて」
「はい。わかっていますよ。ここに連れてこられた理由ですよね」
「……ええ」
健一は男を見て小さな声で答えた。
男は立ち上がり、部屋の隅にあったクローゼットから古い木箱を出した。
そしてその箱をテーブルの上に置いた。
「私があなたをここに連れてきた理由はこれです」
男は手を広げた。
「これは何ですか」
当然の疑問だった。
余命宣告された直後に見知らぬ男に連れられて、知らない場所にやって来た。
そしてその理由が古い木箱だと男は言う。
「悪い冗談ならやめて下さい」
健一は声を荒げて立ち上がった。
「まあまあ、落ち着いて下さい。私は冗談が上手くないので」
男は慌てる様子もなく冷静に座ったままだった。
「とりあえず座って下さい」
健一は取り乱した事が恥ずかしくなった。
そしてそのまま落ちるように座った。
「大石健一さん。あなたは今日、進行性胃癌で余命宣告をされました。そうですね」
男は立ち上がり、部屋を歩き出した。
「……」
健一は答えず、テーブルに肘を突いて頭の前で手を組んだ。
「その余命は三カ月から半年。残された道は延命治療しかない。そう言われましたね」
「……」
健一は目を閉じた。
確かに医者にそう言われた。
しかしなぜ、この男はそんな事まで知っているのだろうか……。
病院と密に繋がっているホスピスの斡旋業者なのだろうか。
今の健一には男を疑う事しか出来なかった。
「私の名刺、お渡ししましたね」
男は窓の傍に立って健一を振り返った。
健一は男にもらった名刺をポケットから取り出した。
パーフェクトライフコンサルティングオフィス 倉田遼平
名刺にはそうあった。
「何の会社なのですか」
健一はその男、倉田に聞いた。
「はい。今からその説明をさせて頂きます」
倉田はそう言いながら、健一に近づいてきた。
「今日あなたをここに連れてきた理由はそこにありますからね」
健一はテーブルの上に皺の寄った名刺を置いた。
倉田は健一の向かいに座った。
「大石健一さん。あなたもっと生きたくありませんか」
健一はその言葉に躊躇した。
今日、余命宣告された人間に聞くには愚問過ぎた。
だがその質問に答える事は出来なかった。
それはあきらめに似たモノだったのだろう。
倉田はソファに深く腰掛け脚を組んだ。
「この箱の中には、あなたの可能性が入っています」
そう言うとテーブルの上に置いた木箱を見た。
「可能性」
「そうです。可能性です」
倉田は身体を起こした。
「あの……意味がわからないのですが……」
健一はテーブルの上の箱と倉田の顔を交互に見た。
倉田は微笑んで木箱を手に取った。
そしてゆっくりとその箱を開けた。
「これがあなたの可能性です」
倉田は箱の中から小さな紙包みを取り出し、健一の前に置いた薬の様なモノだと言う事は健一にもわかった。
少し薬草の様な匂いもしている。
「薬ですか……」
「はい。薬です。しかし、ただの薬ではありません」
倉田は再びソファに深く座った。
「民間療法というモノですか。この薬を私に飲めと言う事ですね」
健一は少し笑ってそう言った。
「平たく言えばおっしゃる通りです。しかし、私どもは単なる民間療法をお勧めしている訳では無いのです。この薬を一つ飲めばあなたの病気は完全に治る可能性があるのです」
健一は更に笑った。
「要は新薬の実験に私を選んだと言う事ですか」
その健一の言葉を遮る様に強い口調で倉田は、
「それは違います。これは新薬ではありません。どちらかと言うとこの薬はかなり古くからあるモノです。そしてもうこの薬は何人もの人が飲んだ実績のある薬です」
「あなたの説明を聞けば聞く程わからなくなるのですが」
健一は眉間に皺を寄せ、少し顔を険しくしてそう聞いた。
「わかりました。信じて頂けるかどうか分かりませんが……」
倉田はそう言うとテーブルの上のお茶を飲んだ。
「この薬は、古代中国のモノです。世の中に出回るにはあまりにも危険な薬ですので、この時代まで密かに使用されてきました」
「……」
健一は更に眉間に皺を寄せて倉田を見た。
倉田はその健一から目を逸らす事も無く続ける。
「この薬は「萬能丹」と呼ばれています。その名の通りどんな病気でも治してしまう薬なのです。過去にも様々な病気を一粒で治した実績が多数あります」
倉田は再びテーブルに湯飲みを置いた。
「しかし、この薬を使用するにあたり一つ問題があるのです」
「問題……ですか……」
「はい。この薬を飲むと一粒で病気が治る。これも事実です。しかしその代償ですが……」
「副作用ですか」
「副作用とは少し違うかもしれませんが」
倉田の両手は大きく動いていた。
それだけ熱く語っているのだろう。
「飲むと数時間で病気は完治します。しかし、その間その患者の患部に激痛が走るのです。その痛みに耐え切れず命を落とす者もいたと言います」
倉田はお茶を一気に飲み干した。
「激痛に耐えれば病気は治り、生きる事が出来るという事ですね」
健一はとテーブルの上にある紙包みを見た。
「そうです。その痛みは病気の種類や度合いにより違うと言われています」
倉田は身振り手振りで健一に説明した。
健一は紙包みを見つめたまま動かなかった。
確かに、夢の様な薬である。
しかも、余命宣告されたばかりの人間にとっては、すぐにでも飛びつきたくなる薬だろう。
健一の頭の中では、倉田の言葉や余命宣告をした若い医者の言葉がランダムに蘇っていた。
そして、ふと我に返った。
どのくらい時間が経ったのか、わからなかった。
「その薬を私に飲んでみないか……と言う事ですか」
健一は沈黙を打ち破った。
「はい。その通りです。私どもも誰にでもお勧めしている訳ではありません。その激痛に耐えうるであろうと思う人にだけこの様にお勧めしています。私どもも、ビジネスですからね」
「ビジネス……ですか……」
健一は倉田を見て静かに言った。
「ええ。貴重な薬ですので……」
倉田はそう言うと満面の笑みを浮かべた。
健一はその倉田の顔を見て、一気に緊張が解けた。
「話はわかりました」
そう言うとソファに深く座り直した。
「正直、余命宣告された私には良いお話です。藁にも縋りたい気持ちでいっぱいです。たとえこの薬を飲んで激痛に耐え切れず命を落とそうとも死ぬのを待つよりはマシです」
倉田はそれを聞いて肩の力を抜いた。
ゆっくりとソファに沈んだ。
「では商談成立と言ったところですか……」
「そうですね。しかし……」
「はい」
「この薬……萬能丹のお値段は……」
「はい。それをお伝えしておりませんでしたね……。少し高いですが、命の値段だと思えば……」
倉田はそう言って指を二本出した。
「如何ですか」
「二百万ですか……。やはり高いですね……」
その指を見て健一は驚いてそう言った。
「いえ。二千万です」
倉田はそう言うとまた微笑んだ。
「に、二千万ですか……。命の値段」
健一は茫然としてそう呟いた。
「薬を飲んで激痛に耐え切れず死亡された際には代金は頂きません。もちろんそのための保険には加入して頂きますが。もし、激痛に耐え生き残った場合のみ二千万円をお支払い頂きます。そんなに高い買い物ではないと思いますが……」
倉田は淡々と説明していた。
しかし既に健一の耳には入って無かっただろう……。
「いかがですか……決心はつきましたか」
倉田はそう言うとタバコを咥え、火をつけた。
既に日が陰り始めていた。
このパーフェクトライフコンサルティングオフィスに来て六時間が過ぎていた。
健一は激痛に耐えうる事が出来るかという不安と、二千万という高額な値段の問題を抱えていた。
静かな部屋には壁にかかる高級そうな時計の秒針の音だけが響く。
倉田の前にある灰皿は既に吸い殻でいっぱいだった。
「わかりました。ではこの薬にまつわる話をしましょう」
倉田は何杯目かわからないコーヒーを一口飲んだ。