いいですか旦那様、白い結婚からの溺愛なんていうものはですね、恋愛小説の中だけのお話なのですよ?
『「結婚初夜、きみを愛することはない……と言ったな」
「はい」
「あれを撤回させてほしい。俺はきみを、心から愛してしまったんだ」
はわわ……!?
こ、公爵閣下のお顔が近い。近いですッ。
で、でも……嬉しい。嬉しいのです。
密かに想い続け、しかし決して彼のお心には手が届かないと諦めながらお傍にいられるだけで幸いと考えるようにしていたというのに、あの女嫌いである公爵閣下が自らわたしに近寄り、さらには愛を囁いてくださったことが。
「わたしも、お慕いしています」
そしてそのままわたしたちの鼻先が触れ合い、唇を重ね――』
「はぁぁ……」
私は大きなため息を吐き、パタンと本を閉じた。
以前までならそれなりに楽しめていた恋愛小説も、最近ではまるでのめり込めない。
それもこれもあの男のせいだ。そう思うとなんだかやるせない気持ちになって、またため息が漏れてしまう。
貧乏男爵レクレール家の娘として生まれ、社交界に安物のドレスを着ていく以外は実質平民と変わらない暮らしを送っていた私が伯爵夫人になったのは、三ヶ月ほど前のこと。
幼少の頃から婚約するのが当たり前の貴族社会の中で、十八歳での婚約からの即結婚というのは非常に珍しい事例だった。
伯爵と言っても旦那様はまだ若く、私より五歳年上の二十三歳。
彼は顔がいいせいで女に迫られまくって嫌気が差したようで、誰も娶ろうとしないまま伯爵位を継いだ。しかし妻がいないというのは体裁が悪いらしく大量の支度金と引き換えに、私は伯爵夫人となるべく嫁いだのだった。
そこまではよくある話だ。
政略結婚。お互いの利益のためで、そこに愛はない。
私は夢に夢見る女の子ではないので、それくらいはわかっている。だが――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ロシーヌ・レクレール。……いや、ロシーヌ・ガレタになるのか。
これは偽装結婚だ。お前を愛することはないから、そのつもりでいろ」
伯爵邸のホールで結婚式を済ませた後の、結婚初夜。
私の夫となるユーゴ・ガレタ伯爵は、初夜のための薄い布のような衣装を纏った私に向かってそう言った。
このような格好をすれば大体の男は食いつくものだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
確かに私は魅力的ではないかも知れない。あまりに貧乏でろくなものを食べていなかったせいで女性らしい凹凸の少ないとても地味な容姿をしている。
だからと言って、愛さないなんて告げるのはどうなのだろう。
それではまるで――。
「偽装結婚、ですか」
「ああそうだ。今日のみ寝室は同じだが、明日以降は別々だ。もちろん僕とお前は夫婦の営みもしない。わかったな?」
なんだろう、この既視感は。
ヒロインが嫁いだ先で、公爵だか侯爵だか伯爵だか、とにかく高位貴族の当主あるいは子息が結婚初夜に愛することはないと言い出す。ヒロインはそれに頷き、それから白い結婚生活が始まって……という展開。
近頃流行りの恋愛小説、そのままだった。
いくら貧乏男爵家の娘とはいえ社交場に出る以上、他の貴族令嬢と話題を共有する必要がある。
その話題として最も人気が高いのが恋愛小説。数年前までは『虐げられていた聖女が国外追放されて〜』や、『婚約破棄された令嬢が他国の王に求婚されて〜』なんていうパターンの話が王道だったが、ここ二、三年で偽装結婚から始まる溺愛ラブストーリーが急速に流行り出した。
私もそのような恋愛小説はいくつも読み、それなりに楽しんでいたのだけれど、まさか己の身に降りかかることになるとは思ってもみなかった。
こんなことが現実にあるわけがない。
だってこれは互いの利益のために結ばれた結婚。愛がないのは当然だが、仮にも妻となった私に不快な思いをさせるべきではないし、婚姻関係を保つためには夫婦の営みは必須だ。
離縁されないで済むのは、小説の世界だけ。
まさか私は今まで知らなかっただけで恋愛小説のヒロインなのだろうかと一瞬思ったが、馬鹿な考えはすぐにやめた。
「旦那様、本当によろしいのですね。私と偽装結婚などしても」
「……ああ」
「承知いたしました。旦那様のご意向により、この結婚は偽りのものといたしましょう。契約書があった方が良さそうです。ご用意いただけますか?」
私は呆れを押し隠し、淡々と言葉を紡いでいく。
旦那様に契約書を用意させ、そこにしっかりとサインをさせた。もちろん私もサインをし、偽装結婚の契約は成立。追加条件で私は欲しいだけ宝石などを買っていいことになった。
なんとも呆気ないものである。
その夜、私たちは同室で就寝し、翌朝を迎えると部屋から旦那様の姿は消えていた。
「そちらがその気なら、こちらも手を打ちませんとね」
こうして旦那様のお飾りの妻となった私の結婚生活が始まったわけだった。
思い返すだけでひどい初夜だ。
その後、旦那様と私は日に三度ほど、主に食事の時に顔を合わすだけの関係になり、家庭内別居とでも呼ぶ状態のまま三ヶ月ほど経った。
私はその間、本を読んだり、買った宝石を換金して、国外向けや国内向けにかかわらず成功しそうだと思った事業への投資に手を出したりして過ごした。
この国では貴族は三年以内に子作りできなければ離縁することが義務とされている。当然閨を共にしなければ子は生まれない。つまり旦那様との離縁は確定であり、離縁後のために今から動いておくに越したことはないのだ。
恋愛小説のようなご都合主義の甘々ハッピーエンドになるわけがないのだし。
……しかしそう思っていたのはどうやら私だけだったらしい。
三ヶ月を超えたあたりから旦那様は、なぜか私に積極的に接するようになっていった。
「ロシーヌ、庭いじりはしないのか」
「――あぁ、旦那様、おはようございます。ところで庭いじりとは?」
私が庭でまったりお茶を飲んでいると、旦那様がどこからともなくやって来て、突然そんなことを言い出した。
庭いじりなんて私はしないし、いくら仮初とはいえ伯爵夫人ともあろう者がすべきことではない。
「その……知人から、その、貧乏令嬢というものは皆庭いじりをするものだと聞いてな。お前にそのそぶりがないから」
私は呆れ、「まあっ」と言うしかなかった。
陰でこそこそ言われたことは数あれど、真正面から貧乏令嬢と貶されたのは初めてだ。しかも、仮にも旦那様であるこの男に言われるだなんて。
「庭いじりなどいたしません。せっかくゆっくりできるというのに、どうしてわざわざ汚れる必要がありましょう?」
男爵令嬢時代は、他の平民と同じように他の領地へ出稼ぎに行ったりしていた。いつかどこかへ嫁げるようにと腕は細くなければならなかったから、農耕具を握ることは認められなかった。
だからと言ってわざわざ伯爵邸で庭仕事をしたいだなんて思わない。私は庭師でも何でもないのだから。
そんなことをするのは恋愛小説にありがちな天然ヒロインくらいなものである。
「……失礼した。そ、そうだ。詫びに花をやろう。何がいい?」
「欲しいのであれば私自身で購入するので、お気遣いいただかなくても結構なのですけど」
しかし旦那様が「いいから言え」と迫るので、私は渋々答えた。
「スイセンの花をお願いします。庭園に咲く花々も美しいですが、故郷に咲いていたのが懐かしいので」
「わかった。では明日までには持ってくる」
――私が本当はスイセンなんて特に好きではないことも、スイセンの花言葉が『偽りの愛』と『うぬぼれ』であることも、きっと旦那様は知らないのだろう。
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
数日後にスイセンの花束を贈られたが、それは誰も使わない夫婦の部屋に飾られ、ひっそり枯れていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
愛することはないと言っておきながら、一方的な溺愛を始め、一方的に宣言を撤回するなんて、ご都合主義の塊だ。
もっとも、恋愛小説というのは非現実であるからこそ乙女心をくすぐるのであるということは私とてわかっている。たとえばこれが小説であれば、私と旦那様は想いを通わせていくのだろう。
しかし、現実というのはそう甘くはない。
私を膝に乗せようとしたり、手を繋いで出かけたがったり、公の場で口付けようとしたり……。
ただただ、迷惑だ。「やめてください」と私が強く言うのも聞かず、ひたすらに甘やかしてくる旦那様に、私は辟易した。
そういう時はいつも、普段は二人とも使っていない夫婦の寝室へ行き、そこにしまってある契約書を見せつける。
「契約は契約です。きちんと守ってください」
そうして一年、二年と経過していく。
私の離縁後の準備は着々と進み、商売に強いとある子爵家と懇意になったりした。
手元にある持ち金は徐々に膨れ上がっていったが、旦那様がそのことに気づくことはついぞなかった。
そうするうち、何事もなく三年が過ぎた。
子ができぬまま結婚三年目に終えたということは、いよいよその日が来たということだ。
私は夫婦の部屋へ旦那様を呼び出し、言った。
「旦那様、本日をもって、離縁いたしましょう」
「……へ? ど、どういうことだ」
理解できないと言いたげに眉間に皺を寄せる旦那様。
そこから説明しなければならないのか、と私はうんざりしたが、説明しないわけにはいかない。
「この国の法において三年以内に子をなさなかった貴族夫婦は離縁することが定められています。それが体質的な問題等であった場合などは養子を取ることで回避できますが、旦那様はそれをなさらなかった」
「なっ……!」
「若くして伯爵位を継いで、さぞ大変だったでしょう。ですが私のような貧乏男爵家の小娘ですら知っていたことを理解していなかったとは、不勉強ですね」
偽装結婚ではあったが、私は伯爵夫人として旦那様と共にパーティーに出たり、女性のみのお茶会などに参加することもあった。
その中で話を聞くなどして知ったのは、旦那様がかなりのおバカであることだ。
社交場で求めてくる女性たち――それには隣国の王女なども含まれていたという――をことごとく断り、伯爵家の評判を悪くしていたり。
その一方であまり素行の良くない貴族令息などと連み、遊んでいたという過去もあるらしい。
こんな人が当主ではいずれガレタ伯爵家は没落すると思うが、もはやその頃は私は全くの無関係なので構わない。
「ば、馬鹿にするな。
離縁だと? 認めない。絶対に認めないぞっ。あんなにも溺愛したんだ。お前は僕に惚れてもいいはずだろう。アントンがそれなら間違いないって言ってたぞ!」
「はぁぁぁぁ……。やはり誰かに唆されてのことですか」
アントンというのは旦那様の悪友の一人、とある侯爵家の三男坊で貴族界で有名らしい問題児。とろけるような甘言で騙し、あらゆる女性を取っ替え引っ替えして遊んでいるのだとか。絶対に関わりたくない相手である。
「そのアントン様という方が、今恋愛小説で流行りの白い結婚をすれば女がときめくかも知れない、とおっしゃったわけですね?」
「ああ、そうだ。令嬢ならば誰でも好きで憧れるのだろう、恋愛小説は。僕はそういうものに疎いが、アントンが教えてくれた。彼に間違いはない。その手さえ使えばお前を惚れさせることができると思ったんだ。愛することはないなんて嘘だ。僕は本当は、誰もが恋焦がれる僕の姿をろくに見ようともしなかったお前に一目惚れして――」
一目惚れ? 今更何を、と私は思う。
そういえば婚姻する少し前、その時はまだ旦那様ではなかった彼と顔を合わせたことがあった。彼は顔がいいがそれだけというのが私の第一印象で、特に興味を惹かれなかったのだった。
けれど結婚の話が来た時は家の利になると思って嫁いだし、夫婦になればきちんと子作りをする気ではいた。初夜に告げられた愛さない宣言でその可能性は残念ながら全くなくなってしまったわけだが。
――ともかく。
一目惚れだの白い結婚からの溺愛だの、旦那様はフィクションと現実の区別がついてなさ過ぎだ。
最後にしっかり言い聞かせておかなくてはと、私は旦那様の瞳をじっと見つめながら言った。
「いいですか旦那様、白い結婚からの溺愛なんていうものはですね、恋愛小説の中だけのお話なのですよ? それを現実に持ち込むとは愚の骨頂です」
「だが……!」
「アントン様はきっと冗談でおっしゃったのでしょう。それに気付けず、まさか実行するなど思っていなかったのか、はたまたわかっていた上だったのか。後者の場合は悪質ですね。
どちらにせよ、彼の言葉を信じた旦那様が悪いのです。愛さないなどと不愉快で失礼極まりないことを言われ、その相手を好きになる女などどこにいますか」
私はすでに自分の名を書き込んである離婚届を旦那様に突きつけた。
「どうぞご記入ください。どうしてもお嫌なら国王陛下に裁いていただきますが……」
旦那様――ユーゴ・ガレタ伯爵は離婚届にサインをし、三年間偽装結婚した私たちは別れることとなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「恋愛小説の真似事をするなんて、とんだお馬鹿さんもいたものだね。おかげでこうしてロシーヌを迎えられたわけだけど」
「ふふっ、そうですね」
離縁してまもなく、私は子爵家の令息フェルナンド様と婚約し、数ヶ月後に結婚して子爵夫人となった。
フェルナンド様は私より三歳年下の十八歳。容姿は平凡だがなかなかの好青年だ。
彼に出会ったのは、離縁後の備えのために色々なところへ投資しまくっていた最中、例の商売に強い子爵家と取引をしていた時のこと。金回りも良い上、なかなかに誠実そうな彼と知り合った私は惹かれ、ガレタ伯爵と離縁した暁は結婚させてほしいと頼み込んでいたのだ。
それをフェルナンド様は快く受け入れてくれて、私の新しい旦那様となったのだった。
恋愛小説のようなロマンティックなことはなく、こちらも政略的な意味が多い。
フェルナンド様は過去にとある伯爵令嬢を婚約者としていたが諸事情により解消となって婚約相手を探していたところだったらしい。バツイチで元貧乏令嬢とはいえ、私が稼いだおかげで実家はかなり裕福になった。家格差も男爵家と子爵家ならそれほどないし、ぴったりの相手だったというだけの話。
とはいえ偽装結婚ではなく、私と彼はきちんとした夫婦として生きていく。
そのうちじっくりゆっくりと良い関係を築き、平穏に暮らし、愛し合えればいいなと思っている。彼とならきっとできる、そんな気がした。
一方、私と離縁し、独身に逆戻りしてしまった元旦那様のガレタ伯爵は私への愛さない宣言が公にされて大恥をかいていた。
社交界の笑い者になり、さらには領地運営にも失敗。没落まったなしなのに、「ここから逆転して僕を笑う者どもを見返してやる!」などと言っていると聞く。
娯楽小説の中で、無能だと蔑まれた人物が馬鹿にしてきた者たちへやり返すのはお決まりだが、そんなこと現実ではあり得ない。それがガレタ伯爵には理解できないのだろう。
相変わらずな彼に呆れを禁じ得ないが、これから幸せになる私にとってはもはやどうでもいいことであった。
お読みいただきありがとうございました。
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