第95話
拳が空を切る。いや、チリ、と僅かに手の甲に感触が伝わってきたため、掠ったのだろう。でも、攻撃が外れたことに変わりはない。腕を振るった状態の私に向かって右と左から黒装束に包まれた人影が迫る。
「――ッ」
それを前に倒れ込むように跳躍することで回避。しかし、地面を蹴る直前に小さな掌が目の前に広がっていることに気づいた。そう、私の拳を躱した分身だ。
このまま何もしなかったら捕まってしまう。しかし、すでに体は宙に投げ出されているため、逃げることはできない。
(こ、のっ!)
だから、あえて予定通りに地面を蹴る。だが、少しだけ調整。方向を前から上へ。そして、力は最大。
化け物の脚力で蹴られた地面が砂埃を巻き上げる。それと同時に体を丸めるように下方向へ頭を振るうと私の体はその場でくるりと一回転した。逆さまになった視界に左右から私を捕まえようとした分身たちが一瞬だけ映る。
「せいっ」
止まっていた呼吸を吐き出すためにあえて小さく声を漏らす。そのまま、右足を伸ばして前から私を捕まえようとした分身の脳天に踵を落とす。
「がふっ」
私の反撃をもろに受けた分身は煙と共に消え、獲物を失った踵は地面へと落とされた。その瞬間、地面が炸裂。先ほどまで地面だった破片が周辺へ飛び散り、その威力に私自身、少しだけ引いてしまう。隔離世がなければ中庭の修復に時間がかかっていただろう。
「よっと」
踵を落とした勢いを利用して再び、前へ跳躍。これで左右から捕まえようとしてきた分身たちの追撃を牽制する。しかし、私の予想とは違い、彼女たちは私を追いかけてくることなく、その場でこちらを睨みつけていた。
「すぅ……はぁ……」
思考速度を下げ、体感時間を通常に戻した私は少しだけ乱れた呼吸を整える。そして、いつでも動けるように構えながら周囲の気配を探った。どうやら、負の感情に慣れていた私はいつの間にか気配を読む適性を身に着けていたようで幻影さんのアドバイスですぐにできるようになった。
残りの分身3体。前にいる2人と少し離れたところで様子を見ている1人。最初は10人だったのでよくここまで耐えたと思う。
「ッ――」
目の前にいた2人の分身が左右に分かれながらこちらへ向かってくる。速度や手の動き、歩幅などその全てが同じ。その光景は鏡に映る分身を見ているようだった。
(同時に来る? ううん、多分――)
私に手が届く範囲になった瞬間、私から見て右の分身が手を伸ばし、左の分身が更に姿勢を低くする。
それを何となく察知していた私は思考速度を上げ、体感時間を引き延ばす。すると、分身たちの動きがゆっくりになった。これが幻影さんの言っていたゾーンに似た現象。
そんなスローになった世界で私は一人、観察する。この状況をどうするべきか。どうすれば切り抜けられるのか。私にできることを、考える。
考えて、考えて、考えて――私はあえて一歩前に進んだ。後ろに引いて右の分身をやり過ごしても左の分身を回避できるとは思えなかった。
「―――――」
音の消えた世界で私と右の分身が対峙する。そして、真っすぐに伸ばされる手――いや、その手首に当てるように右腕を沿えた。そのまま押しのけて分身の体を後ろへ流す。
もちろん、それを黙って見ているシノビちゃんじゃない。右の分身とすれ違い、前に出てきた私へタックルするように左の分身が突っ込んでくる。
(でも――)
わかっていた。右の分身と左の分身による波状攻撃。だからこそ、分身の手首に右腕を沿えて押しのけ――私の体は今、右に向かって体を開いている途中。つまり、押しのける動作と左腕を振るう準備を同時に終えていた。
「ふんッ!」
最小の動きで左腕を振るう準備を終えた私は左の分身の顔面に左拳を全力で叩き込んだ。殴られた分身はまた煙と共に消える。残り2体。
「なんの!」
殴った硬直が消え、態勢を立て直したところで後ろへ流された分身が後ろから襲い掛かってくる気配がする。殺気、とまではいかないが怒気を感じ取った私はそれに向かって振り向きざまに裏拳を放つ。どうやら、私の気配察知も馬鹿にならないようで私の裏拳は見事に分身の頬を抉り、煙となった。
残りの分身は1体。襲ってくる気配は感じないので思考速度を戻しながら分身へと視線を向けると彼女はこちらをジッと見ているだけだった。
「……」
「……」
先ほどまでの激しい攻防が嘘だったように思えるほどの静かな沈黙。そんな私たちを幻影さんとシノビちゃんの本体は無言で見ている。
幻影さんの修行が始まって数時間が経つ。最初は何度も駄目出しされ、半泣きになりながら修正するのを繰り返していたがそのおかげでここまで戦えるようになった。それだけ幻影さんの指摘は的確だったのだろう。
そして、この戦いはその集大成。10体の分身を全部消したら私の勝ちというシンプルなルールだ。だが、分身も黙っているだけでなく、回避はするし、彼女たちに捕まった時点で私の負けとなる。
もちろん、シノビちゃんが本気を出したらすぐに私は捕まってしまうだろう。そのため、彼女は手加減して戦うようにと幻影さんに指示されていた。
因みに長谷川さんは音峰先輩のお世話をするために生徒会室に戻っている。
(それでやっと互角……)
本当に遠い。戦えるようになってわかった。私と幻影さんの間には越えられない壁がいくつもそびえ立っている。その壁を壊さない限り、私は彼女の隣に立てない。
でも、それでいい。最初からわかっていたことだ。だから、今はとにかく前に進む。それだけを考える。
「……ッ」
先に動いたのは私だった。
思考速度を上げ、すっかり慣れてしまった体感速度が引き延ばされた世界へ。
構える分身へ一気に距離を詰め――その途中で踵落としで砕いた地面の破片を蹴る。蹴られたそれは真っすぐ分身へと向かう。石礫と私による波状攻撃。先ほどの分身の真似事だ。
「シッ」
だが、戦い慣れているシノビちゃんは特に動揺することもなく、躱して私と対峙する。だが、回避したせいで彼女の態勢が僅かに崩れているのを見逃さなかった。
「これでッ!!」
分身との距離がほぼゼロ距離になったところで右腕を振るう。これまでの戦いで間違いなく、最速の拳。その速度に対応し切れなかったのか、シノビちゃんの分身は私の拳を受け――。
「ッ!?」
ボフン、という音と共に分身が短く切られた丸太へ変化する。私の一撃は丸太に激突し、粉砕。木片が散らばる視界で私は息を飲んでしまった。
(変わり身の術!?)
シノビちゃんは幻影さんに手加減するように指示されていたが忍術を禁止されたわけではない。
しかし、私は戦うのに夢中になってそれを失念していた。
少し戦えるようになって油断していた。
それに気づいた瞬間、ピリ、と首筋に走る悪寒。怒気、じゃない。これは殺気だ。本気で私を殺そうとする、気配。そして、その持ち主は――。
(上ッ!)
上を見上げるとそこには忍刀を逆手に持ち、今まさに私に突き立てようとしていた。
駄目だ、この距離では回避も、迎え撃つのも間に合わない。
(それ、でもッ!)
体感時間が引き延ばされた世界。それは思考や観察する時間を稼ぎ、次の一手を導く時間稼ぎ。そのため、相手が遅くなると同時に私の動きもゆっくりとなる。
(絶対に、諦めない!!)
そんな気持ちが引き金となったのか、ゆっくりとなった世界で私の体は不自然に加速し、体を半身にすることで必殺の一刀を紙一重で躱す。
まさか回避されるとは思わなかったらしく、私のすぐ横を通り過ぎていく彼女の顔には驚愕の色が浮かんでいた。
「お、おおおおお!」
「がはっ……」
そして、無我夢中で頭を前へ振り下ろすと私の頭突きは分身の腰に直撃して吹き飛ぶ。分身はそのまま地面を転がり、煙となって消えた。
「はぁ……はぁ……」
シン、と静まり返る中庭。乱れた呼吸を整えながら念のために周囲の気配を探るが分身の気配はなし。消した分身は10体。私は最後まで捕まらなかった。
【おめでとうございます。第一目標クリアです】
「……やったぁ」
幻影さんの青白い文字が目の前に浮かび、私は脱力してその場で崩れ落る。
現在、15時半。5時間以上にも及ぶ幻影さんの修行が終わった。




