第89話
「んー……風が気持ちいいね」
お昼ご飯を食べ終え、移動しようと言った、あやちゃんが私を案内したのは東棟の屋上だった。ここに来るのは赤川君が鶴来君に謝った時以来である。
実はあれから赤川君は何かと鶴来君に話しかけるようになった。もし、仮に鶴来君が本当にトリガーだったとして、常に威圧を放っているのだとしたら赤川君は彼に関わろうとする度に相当なストレスがかかっているはずだ。
(それでも……)
赤川君はいつもの明るい笑顔を鶴来君に向けている。それがどれだけすごいことなのか、やっとわかった。
「……ねぇ、ひーちゃん」
「っ……なに?」
「ちょっと座ろうよ」
考え事をしている私にひーちゃんが笑いかけ、フェンスの方へと向かっていく。断る理由はないので素直についていき、二人で屋上に腰掛けた。その拍子にあやちゃんがフェンスに背中を預けたため、ガシャンと金属が僅かにひしゃげる音が耳に届く。
「……」
「……」
ここに来たのはあやちゃんに悩み事を相談するためだ。だから、彼女はジッと待ってくれている。私が焦らないように、私が話しやすいように、私のために。
「……」
でも、言葉が出てこない。お昼ご飯を食べている間も、屋上に向かっている間も、今もなお。
だって、どうやって説明すればいい?
この世には人ならざる存在がいて、私も化け物で、憧れの人の傍にいたいから化け物退治に参加して、鶴来君がトリガーかもしれないと知って、先輩たちは私の手を借りる必要はなくて、私は――結局、何もできないまま、俯いているだけ。
「……ひーちゃん」
どれほど時間が経っただろう。不意にあやちゃんが私を呼んだ。いつまで経っても口を開かない私に痺れを切らしてしまったのだろう。
「話す前に一つだけ確認させて。無理させちゃってない?」
「え?」
「ほら、少し強引だったっしょ? だから、話したくないのに話さなきゃならない空気にしちゃったっていうか……」
彼女は申し訳なさそうな顔で私の手に手を重ねた。そのぬくもりが冷え切った私の体を少しだけ温めてくれる。
「アタシはね、無理強いするつもりはないんだ。そりゃ、悩んでることがあったら相談してほしいってのは本心だけど……話すこと自体が苦しいならむしろ、止めてほしい」
「あや、ちゃん……」
「ひーちゃんは頑張りすぎちゃうところがあるし、全部、自分が悪いんだって責めすぎちゃうところもあるっしょ?」
「……」
「でもね? それは違うと思うんだ」
私があやちゃんの手を払いのけなかったからか、彼女は嬉しそうに笑って空を見上げる。少しだけ風は強いものの、そこには青い空と白い雲がどこまでも広がっていた。
「人ってお互い何を考えてるかわからないし、相手のためにって思って行動したことが裏目に出ちゃうことだってある」
「あやちゃんでも?」
人の気持ちを汲み取るのが上手く、人のために動ける人がそんな失態をするとは思えず、彼女の言葉を遮るように質問してしまった。
「そんなのたくさんあるよ。特に弟たちは『ねーちゃん、うざい!』とかめっちゃ言ってくるし!」
「でも、あやちゃんは……すごい人だよ」
そう、あやちゃんだけじゃない。
わざと威圧して人を避けているはずなのに困っている私を助けてくれる鶴来君も。
威圧に負けずに鶴来君に話しかける赤川君も。
毎晩のように戦い続けている音峰先輩も。
そんな彼女を特別な力を持たずに支え続けている長谷川さんも。
皆、すごい人だ。私では到底、真似できないことを平然とやってのけてしまう。
それに比べ、私は――。
「――ひーちゃんもすごい人だよ」
そんな私の思考をあやちゃんの言葉が止める。思わず、目を見開いて彼女の方を見てしまうが私が驚くとわかっていたのか、あやちゃんは優しげに微笑んでいた。
「私が、すごい?」
「もー、すごいよ。ちょーすごい。アタシ、親元を離れて遠い街で一人暮らしとかできないと思うし、鶴来相手に真正面から接するとかマジで無理」
そういえば、あやちゃんは今でも鶴来君相手には冷たい態度を取っていた。もしかしたら、彼女は鶴来君の威圧を他の人よりも感じ取りやすいのかもしれない。
「そんな私なんて――」
「――なにより、そんなに苦しそうでも悩むことを止めないところがすごいと思うんだ」
「ッ……悩むことを、止めない?」
その言葉の真意がわからず、聞き返してしまう。私の力が及ばないからこんなに悩んでいるのだ。どこにすごいところがあるのだろうか。
「あくまでアタシの予想だけどさ……ひーちゃんの悩みってそう簡単に解決できないんだよね?」
「……」
「それに友達に気軽に相談できないようなことだろうし……多分、人生を変えちゃうような、すごく重要なことでもある。合ってる?」
「……うん」
音峰先輩に認められなければ私は一生、幻影さんと関われなくなる。今日と明日でこの先の人生が変わってしまうのは間違いないだろう。
「自分の力じゃどうにもできないのに誰の手も借りられないような難しい問題……それでも悩み続けてる。今にも死んじゃいそうな顔で、それでも考えてる。それってさ、ひーちゃんはまだ諦めてないんだよね?」
「ッ――」
ガツンと金槌で頭を殴られたような衝撃が走った。
私はまだ、諦めていない? こんな状況でも他にできることはないかと考え続けている?
「だって、諦めたらもうその問題のことを考えないっしょ。『もういいや』って放り投げちゃう」
言葉を失っている私の耳にあやちゃんの優しい声が滑り込んでくる。彼女の温もりが伝わる右手から冷たかった体に少しずつ熱が広がっていく。
「でも、ひーちゃんは足掻いてる。『諦めたくない!』って無我夢中に走ってる。食堂の前で見かけた時にアタシはそう感じたよ」
「……」
「だからさ、その問題ってひーちゃんにとって苦しんでも諦めたくないほど大切なことなんだよ」
悩んでいることは諦めていない証拠。何もできないとわかっているのに私はまだ諦めたくないと思っている。
そうだ、私は諦めたくない。
どれだけ苦しんでも、惨めでも、どんなことをしてでも成し遂げたいのだ。
長い間、憧れ続けたあの人の隣に立つために。
「……あ、あははー。なんてね! アタシ、知ったような口聞いちゃって――」
「――あやちゃん」
「ッ……ひーちゃん?」
数秒ほど経って誤魔化すように笑った彼女の名前を呼ぶ。名前を呼ばれたあやちゃんは私の顔を見て目を見開いた。
考え方を変えよう。どうしたらいい、と漠然と考えるのではなく、絡んだ複数の糸を解くように一つ一つの問題を解決していく。
それでもし駄目だったら、とは考えない。歯を食いしばりながらギリギリまで足掻く。
そうでなければきっと私はこの先、一生後悔するだろうから。
「ありがとう、もうちょっと頑張ってみるね」
「う、うん……頑張って」
「えっと、何かあった?」
くよくよ悩んでいた私の背中を押してくれた彼女にお礼を言ったのだが、何故か顔を逸らされてしまう。何か変なことでも言ってしまっただろうか。
「なんでもない! なんでもないよ! ほら、ひーちゃんも立ち直ったみたいだからそっちに集中して! じゃあ、アタシ、夕方まで図書館にいるから何かあったらいつでも来てね!」
「え、あ、あやちゃん!?」
慌てたようにあやちゃんは屋上を逃げるように出て行ってしまう。追いかける間もなかったため、手を伸ばした状態で戸惑うしかなかった。
「……よし」
とりあえず、あやちゃんの件はゴールデンウィーク明けに聞いてみようと結論付けた私はもう一度、空を見上げる。
どうしたらいいと嘆くのは後で構わない。
とにかく今は私にできることを考えよう。
後悔しないように。
未来の私に胸を張れるように。
そして、上手くいったよとあやちゃんに笑顔で報告できるように。




