第87話
「……」
非常灯のみが光る廊下。私はその先に広がる闇を前にして無言のまま、立ち尽くしていた。もう少しでここに音峰先輩と長谷川さんが来る。それはつまり、私の覚悟を見極める審査の時が近づいているということでもあった。
「……」
きっと、半日前の私だったら気合を入れ、どうやってこの心に灯った火の強さをアピールするか悩んでいただろう。だが、今の私はあまりに集中力を欠いていた。それを自覚しているということはおそらくそれ以上に私の心は乱れているに違いない。
(こういうところこそ、長谷川さんが言ってた客観的視点っていうやつなのかな)
そんなどうでもいいことを考えている時点で論外。それをわかっていても集中できていない時点で終わっているのだ。
「影野様」
あまりに未熟な私を呼ぶ声が後ろから聞こえた。意図的にゆっくりと振り返る。そこにはカリスマを纏った音峰先輩とその後ろに控える長谷川さんが立っていた。
「お待たせ。調子はどう?」
「……すみません。おそらく、今日は何もできません」
誤魔化したって意味はない。むしろ、隠した場合、連携が乱れる可能性が高いため、危険だ。減点を受ける覚悟で音峰先輩の問いに私は頭を下げて謝罪した。
「っ……素直に話してくれてありがとう。ここで強がったらすぐに帰ってもらってたところよ」
私の選択は正しかったらしく、音峰先輩は少しだけ息を飲んだ後、くすりと笑って慰めてくれた。その反応に顔を上げた後、ホッと安堵の溜息を吐く。
「長谷川から講義の途中から様子がおかしくなったと報告があったわ。原因はわかるの?」
「はい……すみません」
「謝ることじゃないわ。誰だって調子のいい日と悪い日があるもの。たとえ、トリガーではない貴女でも」
彼女の言葉を聞き、今日の最後に聞いた『能力の練度』に関する講義の内容が自然と頭に浮かぶ。
トリガー能力には練度、と呼ばれる現象が存在するらしい。トリガー能力の内容にもよるが能力を使えば使うほどその効果が高まるそうだ。その効果も様々であり、例えば、炎を操るトリガー能力なら火力が強くなる、など影響力が増したり、新しい派生能力が使えるようになったり、抵抗力も強くなることもある、とのこと。そのため、起きている間、ほぼ能力を使っている音峰先輩の練度は『ストライカー』の中でもトップクラスであり、影響力が尋常ではなく、並大抵の抵抗力では歯が立たない。
つまり、常にトリガー能力を使えば強くなれる。簡単に言えばそうなのだが、言うほど簡単ではない。その原因こそ、トリガーに目覚めるきっかけとなる『感情の爆発』にある。
長谷川さんも言っていたが感情の爆発は負の感情であることがほとんどである。トリガー能力の内容もその時の状況に関係しているものが多く、血によって感情が爆発した榎本先生の能力は『拒絶』となった。
そんなトリガー能力を常に使い続ける。それは自らの意志で常にトラウマやコンプレックスに晒され続けるということだ。それはどれだけ精神に負担がかかるのか、計り知れない。
そして、その精神的負担が爆発した時、暴走が起こるのだ。
実際、トリガー能力の練度を高めようとして無理をした結果、自滅してしまうことも少なくないらしい。
だからこそ、トリガーたちは己の精神状態は常に気にしている。少しでも調子が悪かった場合、仲間に申告してトリガー能力をあまり使わないようにフォローしてもらう。それが暗黙のルールとなっているそうだ。
もちろん、それはトリガーに限った話ではない。音峰先輩も言ったが、人にどれだけ気を付けていても不調な時はある。それを隠して無茶をしても何もいいことはない。むしろ、足を引っ張って連携が乱れ、全滅してしまうことだってある。
問題はその不調をどう治すか、だ。
「プレッシャーの恐ろしさは私が一番知ってるわ。だから、今日は見逃すけど……明日もそんな調子なら容赦なく、切り捨てるわ」
「ッ……」
少しだけ低い先輩の声にビクリと肩を震わせる。
失望させないでちょうだい。
言葉の端々に隠れた音峰先輩の真意に私は息を詰まらせるしかなかった。
「お嬢様、お時間です」
「そう」
長谷川さんが腕時計を見た後、短くそう告げた後、音峰先輩は私の隣を通って廊下の先に広がる闇へと向かう。
「長谷川、今日は影野さんのフォローをしなさい」
「かしこまりました」
そして、音峰先輩に指示された長谷川さんは私の隣に立った。その拍子に長谷川さんと目が合ったが、彼女の顔はこれまでと同様に無表情。しかし、その奥には私に対して罪悪感を抱いているような気がした。おそらく、私の精神が不安定になった理由を察しており、自分の発言がきっかけになったからだろう。
もちろん、長谷川さんがきっかけだったのは確かだ。だが、それでもあれだけで集中力を切らしてしまう私のせいであるため、彼女のせいではない。
「……」
私は無言のまま、先を歩く音峰先輩の後を追う。ほぼ同時に長谷川さんもゴーグルを付け、私の後ろへと回った。
それからしばらく私たちは校内を散策する。ほとんどのヤツラは長谷川さんのゴーグルで探知できるものの、一部のヤツラはそれすらもすり抜けて出現するらしい。そのため、レーダーに頼りすぎるのは危険であり、このように校内を歩いて警戒する必要があるのだ。
「……」
その間、考えるのはもちろん、ヤツラが出現した時にどう行動するか。様々な状況をシミュレートし、最善の動きをするために神経を研ぎ澄ませる。
――その観点から彼は十中八九、トリガーであると確信しております。
だが、それを邪魔するように鶴来君のことが頭に浮かんだ。それが私の集中力を欠く理由。考えないように必死に別のことを考えるのだが、どうしても鶴来君の顔が浮かんでしまう。どうしても気になってしまうのだ。
彼は本当にトリガーなのだろうか。
一体、どのような能力なのか。
『ストライカー』には所属していないようだが、別の組織にいるのか。
ヤツラとは戦ったことがあるのか。
――私の正体を知っているのか。
考えたくない。今は忘れたい。そんな場合ではないし、考えたところですぐに答えが見つかることはない。
わかっている。わかっているのだ。わかってはいるのに――どうしても、気になってしまう。
「出現しました。場所は――西棟3階、生徒会室前。真上です!」
そして、その時は不意に訪れる。ヤツラの出現を長谷川さんのゴーグルが感知した。それと同時に天井からピシリ、という異音がする。
(まさかっ!)
咄嗟に上を向いてしまい、すぐに血の気が引いた。天井に無数のヒビが走っているのが見えたからではない。案の定、集中しきれていなかったため、無意識に上を見上げるという無駄な行動をしてしまったからだ。
真上に出現したヤツラが巨大だった場合、床が抜けるのは当然の現象。その可能性を考えなかったわけじゃない。
だから、吸血鬼となり、五感が鋭くなった私なら天井から異音がした瞬間、真上を見上げることもなく、長谷川さんの手を掴んでこの場を離れられただろう。
「ッ――」
しかし、それはあくまで最適解を導き出せた場合だ。現実は上を見上げることで初動が遅れた間抜けな私がいる。
今すぐに回避行動に移らなければ押しつぶされる。
駄目だ、すでに天井が崩壊した。
今から回避行動に移っても間に合わない。
長谷川さんも巻き込まれてしまう。
鶴来君はこんな時、どうするのだろう。どうにかできるのだろうか。どうにかできるほどの実力者なのだろうか。
いや、鶴来君は関係ない。今はどうにかして助けないと。私が、どうにかしないと。
でも、どうやって。だって、私には何の力も――。
ああ、もう私たちを押し潰さんとする巨大な体は目の前に――。
駄目、間に合わな――。
「――狐火」
そんな無駄な思考を吹き飛ばすように私の視界は真っ赤な炎で埋め尽くされた。




