第82話
一向に起きる様子のない音峰先輩をベッドに寝かせた私は第二体育館に行き、シャワー室を借りてさっぱりした後、再び生徒会室へ。そこで長谷川さんが用意してくれた朝ご飯を食べ終わった頃にはすでに十時半を過ぎていた。
「それでは本日の講義を始めます」
「お願いします」
今日は5月3日、ゴールデンウィーク後半戦。昨日、何があったかわからないが少なくともあの黄色い鶏にしてやられたのは間違いないので今日から挽回しなければならない。気合を入れて長谷川さんの話を聞こう。
「まずは……申し訳ありませんでした」
「へ?」
しかし、長谷川さんから開口一番に謝罪の言葉が飛び出たため、目を白黒させてしまう。謝られる理由がわからない。むしろ、情けない姿を見せた私の方が頭を下げたいぐらいだ。
「こちらの不手際で影野様に大怪我を負わせてしまいました。本来であればしっかり警戒すべきところを……油断していた、と言われたら言い訳できません」
「大怪我? 警戒?」
長谷川さんの説明に首を傾げてしまう。吸血鬼のおかげで怪我はすぐに治るため、特に体に支障はない。そもそも昨日の夜に何があったのかすらわかっていないのだ。謝罪を受け入れる、受け入れない以前の問題である。
「……そうですね。まずは昨日の一件を説明させていただきます」
私の様子を見て状況を把握してくれたのか彼女は少しだけ目を伏せた後、私の方を向き直った。
「後から出現したヤツラですが、あの個体は衝撃を与えると大爆発を起こします」
「……は?」
「そのため、影野様の策略により、廊下の壁に激突した瞬間、爆発が起こり、あなたはそれに巻き込まれてしまったのです」
「ち、因みにその爆発の規模は?」
「この校舎が半壊するほどです」
「はあああああ!?」
なんだ、その馬鹿みたいな特性は。それではあまりに生物として欠陥を抱えすぎている。だって、少し躓いただけで自爆してしまうのだ。
(いや、そのための脂肪?)
あの鶏はスライムのように体が柔らかく、少し殴っても衝撃を吸収してしまうだろう。だが、廊下の壁に激突させた時、鶏もそれなりの速度が出ていたため、爆発してしまったのだ。
「ギリギリのところでお嬢様が風の盾で防ごうとしましたが……流石に守り切れずに大怪我を負ってしまうことになってしまったのです」
「そう、だったんだ」
北高の校舎を半壊させるほどの爆発だ。防ぎきる方が難しいだろう。
でも、あの鶏の出現はあまりに唐突だった。私も安直に衝撃を与えてしまったことも悪い。自分でどうにかしようとせず、音峰先輩たちと合流する方を優先するべきだった。
「いいえ、違うのです。影野様は何も悪くありません」
反省していると私の心の中を読んだように長谷川さんがそれを否定する。
「貴女様は昨日の夜、初めて本格的にヤツラと対面しました。たとえ、見学だったとしてももっと詳しくヤツラと戦う心構えを伝えるべきだったと――」
「――ちょ、ちょっと待って!」
長谷川さんの言葉に聞き捨てならない言葉があったので立ち上がって慌てて止めた。私がいきなり声を荒げたので彼女は少しだけ驚いたように口を閉ざす。
「見学? 実戦だったんじゃないの?」
「いえ……実戦ではありましたがさすがに我々もいきなり戦えとは言いません。それにお嬢様も仰っておりましたが、貴女様の覚悟を見るのはゴールデンウィーク中の3日間です」
「だから、昨日の夜から……あ」
そうか、ゴールデンウィークは今日から5日までの3日間だ。昨日の夜はその期間に含まれていない。それを私は昨日の夜から3日間だと勘違いしてしまったのである。
つまり、今回の一件は私の勘違いと気合の空回りによって引き起こされた事故だ。
「……なるほど。あの個体に追われている時、影野様が異様に覚悟を決めたような表情を浮かべていたのは本番だったから、というわけですね」
「あ、その……ごめんなさい」
「いえ、むしろ誇るべきです。こちらの不手際で勘違いさせてしまった挙句、戦い方すら把握していない状態であのような一策を講じたのですから」
恥ずかしさのあまり、顔を伏せてしまったがそんな私を長谷川さんが褒めてくれた。嬉しい反面、やはりもっと何ができたのではないかと落ち込んでしまう。
「それに……大変失礼ですが、貴女様の気持ちも理解できます」
「え?」
「3日間で己の覚悟を見せてほしい。それができなければ憧れの方と別れてしまうことになるかもしれない。そう考えてしまったら何かしなければと気持ちが急いてしまうでしょう。ただでさえ、たった半月で価値観がガラリと変わってしまうことが起こったのですから精神的にも不安定になっていてもおかしくありません」
長谷川さんはゆっくりと私の傍まで歩み寄り、私の両手を優しく包むようにして握りしめ、持ち上げた。手の動きに合わせて自然と伏せていた顔も上がり、彼女と目が合う。その顔は無表情だが、僅かに尊敬の色が見て取れた。
「私はやはり貴女様は誇るべきだと思います。そんな状況で冷静に相手を観察し、状況を把握。ろくに武器を持たない中、己にできる最適解を導き出し、それを見事、成功させた」
「ッ……」
あ、駄目かも。その言葉は今の私の心にはあまりにも猛毒だ。でも、感情を揺さぶられたせいで言葉が詰まってしまい、声が出せない。
「先ほどのお返し、というわけではございませんがお嬢様の代わりに私がお伝えいたします。よく頑張りましたね。貴女様はとても勇敢で、真っ直ぐな心の持ち主でございます」
私と音峰先輩の境遇は似ている。
全身が押し潰されそうになるほどの重圧。
一度でも失敗したら二度目はない立場。
心の拠り所がなく、己の気持ちを押し殺す日々。
そんな音峰先輩の傍にいたからこそ、長谷川さんは私の気持ちを汲み取ってくれた。だから、本気で私のことを褒めてくれたのだ。
「……」
たった半月。されど半月。ずっと、ずっと責められているような気分だった。
お前が吸血鬼だったせいで榎本先生は死んだ。
お前が弱かったせいで幻影さんに迷惑をかけた。
お前が生きているせいで、生きているせいで。お前がいるせいで。
でも、私は生きている。あの夜に生き残りたいと願い、幻影さんの手を取って私よりも価値のある命を蹴落とし、ここにいる。
だから、生きた。あの人の分まで生きなきゃ、と心に鞭を打って辛いことがあっても前を向き続けた。ここで折れてしまったら消滅した彼に申し訳が立たないから。
「ぅ、……くっ……」
味方のいない半月。憧れの人に必要とされなかった悲しみ。何もできない悔しさ。
それが積もりに積もって起こった勘違いと空回り。
でも、今の長谷川さんの言葉でほんの少しだけ報われたような気がした。私はまだ頑張っていいのだと思えた。
(そっか……私――)
――誰かに認めてもらいたかったんだ。
勝手に流れる涙をそのままに私は長谷川さんの手に包まれている両手を握りしめる。その拍子にできた隙間を彼女はなくすように僅かに力を込めてくれた。
「大丈夫。あんなに泣き虫なお嬢様にもできているのです。貴女様もきっと成し遂げられます。今回の一件で私はそう確信いたしました」
「……うん、ありがと」
彼女の温もりに心がポカポカする。そうだ、こんなことで挫けている場合じゃない。こうやって私の行動を見て認めてくれる人もいる。それがわかっただけで私は前を向ける。あの人の隣に向かって歩みだせる。
「長谷川さん」
「はい、何でしょうか?」
「お願い。もっと色々と教えて。ヤツラのこと。トリガーのこと。私が知るべきことを全部」
何もない私にとって無駄にできる時間はない。涙はもう止まった。だから、あとはがむしゃらに、みっともなく、現実に抵抗するだけだ。
「っ……ええ、もちろんでございます」
私の顔を見てはっきりと目を見開いた長谷川さんも真剣な表情で頷く。
この先の行く末を決めるゴールデンウィーク後半戦、初日が始まった。




