第81話
「えっと……つまり、音峰先輩はこの寝室にいる時以外はトリガー能力によって性格が変わる、と」
「はい、その通りでございます。本当の彼女は弱虫でちょっとしたプレッシャーでも潰れてしまうほどの小心者でございます。それをトリガー能力で誤魔化しているに過ぎません」
起床から数十分ほど経ち、私はなんとか先輩の事情を呑み込むことができた。まぁ、私の太ももを枕にしてすやすや眠っている彼女の姿を見れば嫌でも納得してしまう。先ほどまでぐずぐずと泣いていたのだが、泣き疲れて倒れるように寝てしまったのだ。
「どうして、そこまでして……」
先輩はこの寝室にいる時以外、自分を偽って過ごしている。それはトリガー能力のせいだとしても彼女は自ら進んで仮面を被っているような気がした。
「お嬢様が音峰家の次期当主――『音峰 恵玲奈』だからです」
「ッ……」
「彼女の母君……現市長である『音峰 クレア』様は立派なお方です。きっと、歴代の市長の中でもトップクラスの才をお持ちです」
静かに寝息を立てている先輩を長谷川さんは見下ろしながら事実を淡々と零す。しかし、その瞳にはどこか悲しげに見えた。
「お嬢様はそんな母親の傍にずっといました。だからでしょうか。それをプレッシャーに思い、次第に自信をなくしていったのです。私にクレア様と同じように市長を務めることができるのか、と」
「……」
私が先輩と同じ立場だったらどう思うだろうか。そんな考えがふと浮かび、ほんの少しだけ自分も同じような境遇であると自覚する。
きっと、将来の私はおじさんとおばさんの会社を継ぐ。だからこそ、テスターと称して製品開発に関わっているし、おじさんたちも私に継がせるために色々と勉強させようとしていたし、私もそれを受け入れてどんなものでも吸収しようとそれなりに努力してきたつもりだ。そのおかげで変な雑学も覚えてしまったが、知識はあって損はしない。
私自身、会社を継ぐのが嫌なわけじゃない。でも、プレッシャーがないわけじゃないのだ。私の考え方一つで会社の経営が傾くかもしれない。あんな大企業が倒産したらとんでもない損失だし、大勢の人が路頭に迷う。
そんなこと、あってはならない。だから、常に気を張っておく必要がある。
どうしたらもっと会社が良くなるのか。
本当にこの方針で大丈夫なのか。
社内で問題は起きていないか。
もちろん、人間一人でその全てを担うことは不可能だ。だから、会社という組織があり、大人数で支えていく。重要なのは組織を形作る仕組み。会社がより良くなるための仕組みを考えることが経営者だ。おじさんはそう語っていた。
でも、私と先輩ではプレッシャーの大きさが桁違いだ。こちらは会社一つだが、彼女の場合、世界の命運を背負っているのだから。
自分の指示一つで世界が滅ぶかもしれない。そう考えただけで体が震える。
ましてや、精神的に弱い先輩ならなおさらだ。想像するだけで顔を引きつらせてしまう。
「……頑張ったんですね」
気づけば私は彼女の頭をゆっくり撫でていた。さらさらの金髪は指にほどよく絡まり、少し動かすだけでするりと指から抜ける。
「……そう言ってくださる方だからこそお嬢様は影野様のことを気に入っているのでしょう」
「え?」
その言葉に顔を上げると長谷川さんは私のことを見て微笑んでいた。無表情な顔しか見ていなかったので思わず、目を見開いてしまった。
「トリガーになってからお嬢様はこの寝室を手に入れるまで寝ている時しか気が抜けなかったのです」
「それ、は……トリガーになった方が辛かったんじゃ」
つまり、家にいる時ですら仮面を被っていたことになる。それはどれほどの心労となるだろうか。むしろ、トリガーにならないほうが幸せだったのではないだろうか。そう考えてしまい、自然と言葉を零していた。
「違います。精神が弱かったからこそ……お嬢様はトリガーとなったのです」
「それってどういう……あ」
――それは感情の爆発。怒りや悲しみなど強い感情を抱いた時、稀にトリガー能力に目覚めます。
あの夜、幻影さんから聞いたトリガーになる方法。それは感情の爆発。きっと、先輩は不安という感情が爆発し、それを覆い隠すトリガー能力が発現したのだ。
「もちろん、きっかけはありました。自身の心が壊れそうになるほどの不安と……とある方への強い憧れ」
「ッ……それって……」
「ええ、その方こそあなた様の相棒である幻影様です」
幻影さんの名前が出てきて言葉を失ってしまう。だが、それと同時に先輩が私を試そうとしたことも理解できた。
私たちは幻影さんに憧れている。問題はその気持ちの大きさ。彼女はそれを図るため、私を生徒会庶務に任命した。
もしかしたら、私と同じなのではないか?
そんな先輩の声が聞こえたような気がした。
「影野様」
いつの間にか先輩を見つめていたのか、下を向いていた私は長谷川さんの声で顔を上げる。彼女は先ほどの微笑みはどこかへ消え、見慣れた無表情を浮かべていた。だが、すぐに頭を深々と下げる。
「こんな見栄っ張りで泣き虫なお嬢様ですが、どうかよろしくお願いいたします」
「……もちろん」
「むにゃぁ」
「……はぁ。本当にこの人は」
彼女の言葉に私はしっかりと頷いたが、その拍子に間抜けな寝息を漏らす音峰先輩。そんな彼女を見て仕方なさそうにため息を吐く長谷川さんはまるで子供の成長を見守る母親のように優しい目をしていた。




