第73話
「それでは講義を始めます」
「よ、よろしくお願いします……」
相変わらず表情に変化のない長谷川さんがホワイトボードの前に立ち、淡々とそう告げたので慌てて頭を下げた。
私を生徒会庶務に任命してから音峰先輩は『じゃあ、あとはよろしくね』と長谷川さんに言って奥の部屋に行ってしまった。どうやら、あの部屋は音峰先輩の部屋らしく、少しだけ休むそうだ。吸血鬼の聴力は奥の部屋からごそごそと彼女が動く音を拾っていたがすぐに何も聞こえなくなったので寝てしまったのかもしれない。長谷川さんも声のトーンを下げているようなので私も小声で話すことにしよう。
「では、本日は大まかに3つのことについて話します」
「3つ、ですか?」
「ええ、お嬢様もおっしゃっておりましたが影野様にはこのゴールデンウィーク――つまり、3日の間、一緒に行動していただきます。主に昼間は座学。夜は実戦となります」
「実践……」
思わず、長谷川さんの言葉を反駁してしまう。元々、集中して聞くつもりだったがあの紅い盾の使い方もわかるかもしれないと思うとより気合が入る。あれは絶対に必要になるため、何としてでも使いこなせるようにならなければ。
「では、本日の座学ですが」
そう言いながら長谷川さんはホワイトボードに文字を刻み込んでいく。先ほど、色々と書いていたようだがそれらしき文字は見当たらなかった。
(裏に書いてるのかな?)
「この3つのことを話します」
「『ヤツラについて』。『相棒システム』……それと『飛来森とサブ』?」
イメージとは違い、長谷川さんが可愛い丸っこい文字を書いたため、それに驚いてしまい、無意識にそれらを音読してしまう。確かに私はヤツラのことを詳しく知らない。相棒も私が思っている以上に意味のあるシステムのようなので最初に聞きたかった項目だった。だが、最後の『飛来森とサブ』という文字列には見覚えがなく、首を傾げてしまう。
「勝手ながらこの3つは影野様が真っ先に知りたいこと。そして、知っておくべきことだと判断し、選別させていただきました。今は気になることもあるでしょう。ですが、時間がないので先に進ませていただきます」
(時間がない?)
その言葉を聞いてチラリと生徒会室の壁に掛けられている時計に視線を向ける。今の時刻は午後17時。確かに下校時間まであまり猶予はなさそうだ。夜は実践があると言っていたのでどこかの施設に移動するのかもしれない。
「まず、『ヤツラ』について。影野様、ヤツラについて何か知っていることはございますか?」
「えっと……化け物、ですよね? 先週の木曜日の深夜に街の中央にある森で幻影さんたちの仕事に同行した時はゴブリンとサイクロプス、影を見ました。他にもいたような気がしますが少し記憶がうろ覚えで……」
「ふむ、なるほど」
私の回答に長谷川さんは一つだけ頷く。それから数秒ほど考え込んだ後、話す内容が決まったのか、ペンを置いた。
「最初に忠告しておきます。極力、ヤツラのことを固有名詞で呼ばないでください」
「……は?」
固有名詞。もしかして、私がゴブリンやサイクロプスと呼んだことだろうか。しかし、あれはどう見ても空想上の生物であるゴブリンたちだ。ヤツラと曖昧に呼ばずに名称を付けた方がわかりやすいはずだ。
「そもそもヤツラとは何か。それを説明させていただきます。影野様は『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という言葉はご存じでしょうか?」
「あ、はい……真夜中に幽霊だと思ってたものが実は枯れたすすきだった、ということわざですよね?」
恐怖心や疑いの気持ちがあると何でもないものが恐ろしいものに見える。もしくは恐ろしいと思っていたものは実は何でもないものだった、という意味だ。おじさんたちの教育方針でそういった雑学を詰め込まれたのでたまたま知っていた。
「その通りでございます。起源は江戸時代の俳人、横井也有が残した句、『化け物の正体見たり枯れ尾花』であり、それが変化して伝わったことわざと言われています。ヤツラはまさしくそれです」
「……はい?」
「つまり、ヤツラの正体は人類の恐怖心。それが具現化した存在です」
恐怖心の具現化。長谷川さんは確かにそう言った。だが、その言葉の意味を汲み取れず、困惑してしまう。
「まぁ、恐怖心というものは一例。もっと、簡潔に言えば人の『存在する』と思う信仰心によって生み出された存在です」
「信仰、心……でも、私のように実際に見なければそう思わないですよね?」
ゴブリンやサイクロプスは想像上の化け物。世間ではそう言われており、多くの人間が実在するとは思っていない。
「だからこその『幽霊の正体見たり枯れ尾花』でございます。ヤツラは『いるかもしれない』程度の思考で生み出されます」
「ッ……」
恐怖心、というものは厄介だ。例えば、寝る前に誰もいないはずの部屋で物音がしたり、気配が感じただけで『何かいる? もしかして、幽霊?』と一瞬でも疑ってしまう。たったそれだけでヤツラが生まれるとしたらとんでもない数になる。
「で、でも……私が見たゴブ――化け物はよく物語に出てきますよ? そんな事情があるならあまりよくないのでは? そうすればヤツラの数も減るはず」
「いえ、影野様、そもそも前提が違うのです。貴女様が見たヤツラはその姿を固定するためにあえて広められた姿のものなのです」
「姿を、固定?」
では、私が見たヤツラはゴブリンやサイクロプスに似ていたのではなく、ヤツラをゴブリンやサイクロプスにするために想像上の化け物として世間に広められた、ということになる。
「その通りでございます。恐怖心や信仰心、というものは非常に厄介でございます。人によって想像する姿は違い、それらが自分勝手にこの世を闊歩すればたちまち人類は滅亡するでしょう」
「姿が違うと何か問題はあるんですか?」
「対処法が姿によって変わります。初見殺しは当たり前。そんな存在が無限に現れたらどうでしょう?」
「……」
思い出すのはゴブリンの影から飛び出してきた得体の知れない黒い影。確かにあれは初見殺しと言っても過言ではない存在だった。
「実際、姿を固定化できるまで被害は甚大だったそうです。それが神話や物語となり、世間に広まったとも言われています」
「そうだったんですね……」
「現在では姿の固定化も進み、有名な怪物が多く出現するようになりました。そのおかげで対処もしやすくなり、被害は最小限に抑えられております」
――慣れていない者たちはよく餌食になっているでござる。
長谷川さんの意味ありげな言葉にふとシノビちゃんの発言を思い出す。姿の固定化に成功していても対処が難しい個体もいるのだろう。そのため、対処を教えるためにオペレーターが付くのかもしれない。
「先ほど、固有名詞は出さない方がいいと言った件ですが、同じ個体が増えるのもよくありません」
「それはどうしてですか? ヤツラが全員、弱い個体になれば対処もしやすくなるのでは?」
「全員、弱い個体になればそれらはヤツラという枠組みを外れ、別の存在として確立してしまうと言われております。大昔、予言のトリガー能力を持つ者がそう告げたそうです。確立した存在はその後、無尽蔵に出現するとのこと。そうなってしまえば、この世界はその存在に乗っ取られてしまうでしょう」
例えば、ヤツラが全員、ゴブリンになったとしよう。その瞬間、ゴブリンという種族がこの地球上に確立する。そして、ヤツラはゴブリンとはならず、別の姿で現れてしまう。そのままゴブリンの波に飲まれ、人類は滅亡する。
「だからこそ、姿を固定してしまうような行為はご法度とされております。また、世間にその存在が知られた時点でおしまいなので一般人には見られないように対処しております。なお、事故により一般人に知られてしまったらトリガーアイテムを使い、記憶を消します」
そういえばあの運命の日、私が先生に襲われている時、幻影さんは漣先生をヤツラから助けていた。その後、トリガーアイテムで記憶を消したと言っていたが、ヤツラのことを考慮すれば当然の処置である。
「そして、最後に――」
そんなことを考えていると不意に長谷川さんの声がほんの少しだけ低くなった。
「――ヤツラの最も恐ろしい特性は『因果律』。ヤツラのことを知ってしまったら死ぬまで狙われ続ける、というものです」
それに私が気づくと同時に彼女はその事実を淡々と告げた。




