第70話
「うぅ……」
そう思っていた時期もありました。
三連休はあっという間に過ぎ、5月2日の朝。私は肩を落としながら通学路を歩いていた。
この三連休は思いつく限り、色々と試してみた。早朝で静まりかえる住宅街を全力疾走してみたり、あまり人が来なさそうな公園で身体測定もどきをやってみたり、と今考えてみればあまりに無鉄砲に動きすぎたように思う。体の調子が良く、心に火が付いたおかげか少しテンションが高かったのも原因だろう。
だが、その努力は何も全く無駄だったわけじゃない。あの森で榎本先生に大木を投げつけた時点でわかっていたことだが、吸血鬼だと自覚する前より身体能力は遥かに向上していた。
体力は一時間ほど住宅街を全力疾走しても息は切れず、筋トレしても筋肉が悲鳴を上げることはなく、どれほどジャンプできたか確認するために木のそばでジャンプした結果、頭を枝に強打する始末。
(でも……)
傷の治りが早く、身体能力も一般人を凌駕している。反射神経も鋭くなっているようなので男相手でも一方的にノックアウトできてしまうだろう。
しかし、これだけでは足りない。私が相手にしようとしているのは化け物だ。あの森で見た幻影さんたちの戦いには絶対についていけない。それがわかるほど彼女たちの戦いは洗練されていた。
多分、身体能力がどうのこうのという話ではない。私があまりに戦い方を知らなすぎるだけだ。それに加え、幻影さんは弓矢。シノビちゃんは忍術といったそれぞれの武器を持っている。
「……」
思い出すのは幻影さんを助けるために咄嗟に出現させた幾何学的な文字が刻まれた巨大な紅い盾。あれから左目に違和感を覚えない。目に力を込めてみても特に何も起きなかった。
(あれがあれば……)
私でも幻影さんの力になれるかもしれない。体を鍛えるのと並行してどうにかして扱えるようにしなければ。
「……よう」
「ッ……あ、鶴来君」
その声に顔を上げるといつの間にかいつもの合流地点に着いていたようで鶴来君が眠たそうな顔でこちらを見ていた。
「考え事か?」
「えっと、そんなところ……あ、おはよう」
「ああ」
遅くなった挨拶を交わすと彼はバス停に向かって歩き出してしまい、慌てて彼の隣に並んだ。
世間はゴールデンウィーク。そのど真ん中に存在する平日の朝。私たちはいつもと変わらない通学路を進んでいく。答えが見つけられないまま。
「体を鍛えたい?」
お昼休み。いつものように食堂であやちゃんと一緒にお昼ご飯を食べている時に思い切って彼女に相談してみた。なお、私は晩御飯の残りを詰めた適当なお弁当を食べ、あやちゃんはかけうどんをちゅるちゅると啜っている。
「うん、バイトするのに必要かなって」
「いや、あんなに動けるなら大丈夫でしょ……うーん、パッと思いつくのはジムとかに通うことだけどひーちゃん的には厳しいだろうし」
あやちゃんの言うとおり、貯金を崩して生活している状態なのでこれ以上の出費は無理だ。それに私が一番知りたいのは戦い方。本当に体を鍛えたいわけじゃない。
「えっと、鍛えるというより……護身術? そういった感じのでもいいんだけど」
「護身術? え、何かあったの?」
「ううん! 何もない! 何もないから!」
少し言い方がまずかったらしい。本気で心配そうにするあやちゃんに慌てて首を横に振った。
「それならいいんだけど……護身術、か。合気道とか? 漫画とかで女の子が使ってるのよく見るよね」
「あ、確かに」
おそらく、相手の力に逆らうのではなく、むしろその力を利用して投げたりする武術だったような気がする。だからこそ、力の弱い女の子でも扱えるのだろう。まぁ、私の場合、本気を出せば強引に相手を捻じ伏せられるほどの腕力を持っているので合気道にこだわる必要はない。
(そもそも相手は人の形すらしてないだろうから普通の武術じゃ通用しなさそうだし……)
「でも、そういった道場とかは知らないかなー。あったとしても会費とかあるだろうし」
「そう、だよね」
「知り合いにも聞いてみる?」
「あ、ううん。そこまでしなくていいよ。ただの思い付きだから」
『そう?』と少し不思議そうにするあやちゃんだったが、この話はそれで終わりだと判断したようで再びうどんを啜る作業に戻った。
「うーん……」
人が少なくなった教室で私は自分の席に座りながら項垂れていた。因みに鶴来君はいつの間か帰っているのはいつものことだが、あやちゃんも今日は家の用事があるということで慌てた様子で教室を出て行ってしまった。以前、幼い兄弟がいると言っていたが、そのためなのかあやちゃんはたまに早く帰ることがある。私は自分のことでせいいっぱいなのに学校に通いながらきちんとお姉ちゃんをしていて尊敬してしまう。
「はぁ……」
一日中、考えてみたが思った以上に難航しそうだ。
ひとまず、体を鍛えるのは日常的に続けていくのは決まりだろう。吸血鬼のおかげで身体能力は向上しているとはいえ、相手にするのは化け物だ。可能な限り、体を鍛えておけばいざという時に役に立つはずである。
しかし、やはり問題なのは戦い方を学ぶ方法だ。それも私が知りたいのは普通の武術ではない。化け物相手でも殺せる戦い方である。ただ乱暴に殴って殺せる相手ではないだろう。
(それ以前に私がヤツラを殺せるかどうか、か)
榎本先生と戦ったせいか、幻影さんたちがヤツラを殺しているところを見ても不思議と動揺しなかった。だが、自分が殺す時に躊躇わない保証はない。これは私の覚悟の問題なのでその時になってみなければわからないが、日頃から意識しておいた方がいい。私はいつかヤツラをこの手で殺さなければならないのだ、と。
「……」
いや、それは戦えるようになってからの話だ。まずは幻影さんに認めてもらえるようにならなければならない。
(戦う方法……うーん)
腕を組んでうんうんと唸るがいい案は思いつかない。やっぱり、誰かに教えてもらう? だが、私が頼れそうなのは幻影さんしかいない。だが、その本人に否定されてしまっているため、他の伝手がない。シノビちゃんは私を目の敵にしているようなので頼るわけにはいかないし、他の『ストライカー』に知り合いなんて――。
(そういえば……)
確かシノビちゃんの話ではドッペルと共に私を襲った先生は『人間の才能を見抜く』能力があり、それを利用して能力を鑑定したり、その人に合った戦い方を教えているそうだ。今は幻影さんの相棒なので頼めば引き受けてくれるかもしれない。
(いや、連絡を取る手段ないし、そもそもそれだって『ストライカー』として仕事を引き受けるってことになるから依頼料が発生しちゃう!)
「あー、駄目だぁ……」
幻影さんに先生と会わせてほしいとお願いしても突っぱねられてしまうだろうし、依頼料を払うお金もない。これはまさに八方塞がり。
「影野様」
「ひゃいっ!?」
その時、不意に私を呼ぶ声がした。だが、その声に聞き覚えはないし、『様』と呼ばれたのは久しぶりだったので驚いて顔を上げてしまう。
(綺麗な人……)
いつの間にか私の席の傍に立っていたのは一人の女子生徒だった。
全ての光を吸い込んでしまいそうなほど艶のある黒いミディアムショートヘア。佇まいは凛としており、気配を全く感じられない。北高の制服を着ているがあまりに礼儀正しくありすぎて逆に似合っていなかった。
教室に残っていたクラスメイトたちは私と彼女を見て何事かとこちらを注目しているのがわかる。しかし、彼女の黒い瞳に捕らわれた私は動けなかった。
「お嬢様がお呼びです」
「お嬢、様?」
「『音峰 恵令奈』。市立音峰北高等学校の生徒会長です」
「あ」
脳裏に浮かぶのは入学初日、クラス表の前で困っていた私を助けてくれた金髪の先輩。また、入学式で背筋が凍りつくほどのカリスマ力で体育館にいたほぼ全員を魅了したあの光景。
その時、あの感覚が榎本先生の赤黒い靄に吹き飛ばされた時と似ていたことを思い出す。そして、気づいた。
「引き金を引いた貴女様とお話がしたいそうです。ついて来てくださいますか?」
生徒会長である音峰先輩は――トリガーだ。




