第62話
「……」
どれほどの時間が経っただろうか。榎本先生がいた場所を私は呆然と眺めていた。
目の前で人が消える。そんな衝撃的な光景を見たせいか、指先が凍りついていると錯覚するほど冷たくなっていた。呼吸も浅く、気を抜けば息を吸うのをわすれてしまいそうだ。
【大丈夫ですか?】
「……ぁ」
そして、視界の端に幻影さんの文字が浮かんでいることにやっと気づいた。私の正気が戻るまで彼女は辛抱強く待ってくれていたのだろう。
「大丈夫、です……」
彼女の問いに答える私の声は自分でもわかるほど震えていた。ただの見栄。これ以上、幻影さんの迷惑になるわけにはいかないから、と軋む心に鞭を打って何とか立ち直った。
「……」
「あ、待って……きゃっ」
私の返事を聞いた彼女は文字を消す。そして、先ほどまで榎本先生がいたところへと歩き出した。私もその後に続こうと立ち上がったが、体に力が入らずにその場で前のめりに倒れてしまう。
(あ、れ……)
そうだ、榎本先生は消えたが私の怪我が治ったわけじゃない。派手に倒れたのに不思議と痛みは感じないが身動き一つできなくなってしまった。気が抜けてしまったのか、それとも無理が祟ったのか。きっと、その両方なのだろう。
【文字は読めますか?】
「は、い……なんとか……」
このまま倒れているわけにもいかないため、もぞもぞと動こうとしていると再び幻影さんの文字が目の前に浮かんだ。視界のかすみ――特に左目はほとんど見えないほど酷いものだったため、その文字を読むまで少し時間がかかってしまったが何とか返事をした。
【わかりました。後始末はこちらで済ませますので今は休んでください】
「え、でも……」
榎本先生は消滅してしまった。つまり、真犯人を捕まえられず、私の無実を証明する方法がなくなってしまったである。これから他の方法を探さなくてはならないため、気を失うわけにはいかないはずだ。
【あなたと奴の会話はすでに『ストライカー』に送ってありますので安心してください。すでに指名手配は撤廃されていますよ】
しかし、彼女は私の思考を読むように続きの文字を浮かばせる。そういえば、榎本先生の能力を暴くために『ストライカー』に情報を送ったと言っていたが私と先生の会話そのものを送っていたらしい。
(そっか……私、やり遂げたんだ……)
彼女の文字を読み終えた直後、体から力が抜けていく。そして、瞼も少しずつ重くなっていった。駄目だ、起きていられない。
【お疲れさまでした】
暗くなっていく視界の中、最後に見たのはそんな青白く光る文字列だった。
「……」
不意に目を覚ます。何の前触れもなく、私は意識を取り戻した。微睡みも、戸惑いも、驚きもない。ただ、古ぼけた扉の前に立っていた。
その扉は前にも見たことがある。今にも壊れてしまいそうな、どこか懐かしくて、全く見覚えはないのにもう見たくなったモノ。
でも、それは以前の話。相変わらず、この扉に対する既視感の正体はわからない。しかし、この先にいるヤツには心当たりがあった。
ドアノブを握る。鍵はかかっていない。そのままドアノブを引くと木材が軋む独特な音を響かせながら扉が開いた。
「……」
目の前に広がったのはやけに古い小さな部屋。簡素なベッドとそれに敷かれたボロボロのシーツ。部屋の隅には小さなタンス。そして、ベッドとは反対側の壁に設置された小型のブラウン管テレビ。
やはり、知っている。見たことがある。でも、違う。最近見たのもそうだが、私はずっと昔からこの部屋を知っている。記憶になくても、体が、心がこの場所を覚えている。
「ッ……」
キュッと胸が締め付けられた。痛い。痛い。痛い。でも、その痛みの奥に大切な何かがある。忘れてしまった何か。いいや、違う。忘れてはいない。そもそも、最初から私のものじゃない。じゃあ、なんでこんなに自分のことのように感じて――。
「――――――」
そんな私の思考を遮るように誰かの息遣いが聞こえた。本当に微かな音。しかし、この部屋には何もないため、はっきりと耳に届き、自然とその音がした方へ視線が動く。
「……」
その音の正体はベッドに座って私を見つめる小さな女の子だった。初めて見る少女。しかし、その見た目は完全に私の幼い頃のそれにそっくりだった。
だが、一部だけ明らかに違うところがある。目だ。目の前でベッドに座る女の子の目は血のような紅に染まっていた。
「……初めまして、かな」
どうして、幼い私の姿をしているのか。
何故、こんなところにいるのか。
なんで、こうやって出会うことができたのか。
わからないことばかりだが、はっきりしていることはただ一つ。彼女こそ、私の中にいる吸血鬼その人だ。
「―――? ―――――!」
私の言葉に最初はキョトンとした吸血鬼だったが、すぐに楽しそうに笑いながら手を振る。その間、会話をするように口をパクパクさせているのだが、その声は聞こえない。息遣いは聞こえるのでおそらく言葉を発することができないのだろう。
「ごめんね、君の声、聞こえないや」
「……――――。――――――!」
素直に謝ると彼女は少しだけ悲しそうな顔をするがわかっていたのか、気にしないでと首を横に振った。そして、小さなブラウン管テレビに視線を移す。何だろうと私もその後を追うとどうやらテレビに何かが映っているようでそれを見ているらしい。
「これって……」
そこに映っていたのはボロボロの私を横抱きにして暗い森を歩く幻影さんの姿だった。もしかして、このテレビは外の様子を映しているのだろうか。
「……外?」
自然と浮かんだ単語に首を傾げる。この場所はどこかわからない。でも、なんというか本能的に理解しているような気もする。
「♪」
吸血鬼はテレビに映っている私たちを見て嬉しそうに笑っていた。体を揺らして今にも踊り出してしまいそうだ。
「君は……どうしてここにいるの?」
聞きたいことはたくさんある。しかし、私が一番知りたかったのはそれだった。
「?」
だが、私の質問に吸血鬼は首を傾げる。そして、少しだけ考えるような仕草をした後、ベッドからピョンと降りた。そのまま、私に抱き着いてくる。
「え? ええ?」
まさか抱き着かれるとは思わず混乱してしまった。仄かな温もりが広がっていく中、急に意識が朦朧とし始めた。おそらく、タイムリミットが来てしまったのだろう。
「待っ、て……まだ、聞きたい、ことが……」
掠れた声で言葉を漏らすが吸血鬼は何も答えず、私の背中を撫で続ける。その手つきはまるで私を労うようだった。
――頑張ったね、お疲れ様。
気を失う直前、聞こえたのはそんな幼い私の声だった。




