第61話
先生が放った赤黒い靄から幻影さんを守るようにそびえ立つ巨大な紅い盾。見上げるほど大きく、なによりあの幻影さんを苦しめた靄を完全にシャットアウトしている。
「これ、は……」
そこでやっと自分が何をしたのか状況を把握し始める。これがどんなものなのかわからない。でも、この紅い盾は私が作り出した物だ。この左目に映る幾何学的な模様が刻まれた円形の陣と同じものだし、何となくあの盾と私が繋がっている感覚がする。
「なんだ、それ……なんだよ、それ!!」
いきなり現れた紅い盾に先生が叫ぶ。その声には戸惑いと怒りが含まれていた。私たちを追い詰めたと思ったら紅い盾に邪魔されたのだ。怒るのは当たり前である。
でも、そのせいで彼の集中力が切れたらしく、赤黒い靄の放出が止んだ。
「うっ……」
それとほぼ同時に私たちを守ってくれた紅い盾も消失する。緊張の糸が切れてしまい、私はその場で崩れ落ちてしまった。あれだけの大怪我を負って転倒したが痛みはない。アドレナリンが分泌して痛覚が麻痺しているのだろうか。
(もう、一回……)
しかし、まだ先生は動ける。きっと、すぐに赤黒い靄を放ってくるだろう。だから、急いで紅い盾を展開しようとするがどうやっても出てくれない。気づけば左目も熱いだけで円形の陣が消えていた。もしかしたら左目の陣が出ている間だけあの盾を使える?
【ありがとうございます】
「幻影さん?
その時、私の目の前にすっかり見慣れた彼女の文字が浮かんだ。だが、少しだけ様子がおかしい。彼女の文字はたまにノイズが走っていたはずなのにいつまで経ってもそれが起こらないのだ。
【あなたのおかげで助かりました。あとは任せてください】
「え、いや、でも!」
私が言い終える前に彼女は先生へと駆け出す。走る速度はこれまでの中で一番遅かった。多分、身体強化を使っていない。それでも幻影さんは気にすることなく、走り続ける。
「無駄だ!」
それを見た先生が赤黒い靄を放ってしまう。まずい、幻影さんの能力はあの靄と相性が悪い。このままではやられてしまう。だから、急いで紅い盾を出そうとするのだが、どうしても出てこない。
【大丈夫】
そんな私の前にまた彼女の文字が浮かぶ。こちらを振り返った様子はないが、私の行動を予測したのだろう。だが、大丈夫と言われてもあれだけ靄に攻撃を無効化されたところを見ていた私としてはどうしても心配してしまうのだ。
(あれ……)
走る彼女の手にいつの間にか弓が握られていた。問題は弓に番える矢。これまでどんな状況でも彼女は一本の矢を放って戦っていたはずだ。だから、能力で作り出せる矢は一度に一本までだと思っていた。
でも、彼女の手には三本の矢がある。あの文字と同じようにノイズは走っていない。いや、青白い光も今まで以上の輝きを放っていた。
「まさか……」
その輝きに呆然としていると幻影さんは走りながら人差し指と中指、中指と薬指、薬指と小指の間に矢を挟み、弓に番えた。
【調子が戻りましたので】
そんな文字が浮かぶと同時に三本の矢が放たれる。その直後、二本の矢が上空へと軌道を変えた。ドッペルの時もそうだったが、幻影さんの矢は生きているように飛翔する。しかし、問題は残った一本の矢だ。それは真っ直ぐ赤黒い靄へと向かっていく。このままではこれまでと同じように解かされてしまう。
「なっ……」
そんな予想を裏切り、赤黒い靄を矢は切り裂いた。ただ突っ込んだだけじゃない。矢の威力に靄が吹き飛ばされている。靄が晴れた先で目を丸くする先生の顔が見えた。
「くそっ!」
飛んでくる矢を先生が倒れこむように回避する。躱された矢はそのまま暗い森の奥へと消えていった。そして、轟音と振動。おそらく、回避された矢が何かに当たってその衝撃がここまで届いたのだ。
【トリガー能力にはいくつかの傾向があります】
あまりの威力に振り返って言葉を失う先生と私の前に幻影さんが文字を浮かばせる。その間も彼女は先生へと向かっているのだが、その手にはまた新しい矢が握られていた。
【攻撃に向いている能力。身を守る能力。道具を作り出す能力。トリガーには様々な能力があり、それらを細かく分類するのは難しいとされています】
そんな文字を浮かばせながら幻影さんが矢を放つ。今度は先生に当てるつもりはなかったようで彼の足元に矢は着弾した。その瞬間、地面が爆発して先生はその場でひっくり返ってしまう。
【ですが、その全てはトリガー本人が能力に目覚めた時に抱いた感情やその原因に何らかの関係性を持っています】
「関係性……」
【榎本、お前は血を飲んだ時、体がそれを受け付けなかったことにショックを受け、トリガーとなった。つまり、お前の能力は『血液』に関係する何かであることは予想できます】
「だ、だからなんだ……ひっ」
ひっくり返った先生は叫びながら体を起こす。だが、その時にはすでに幻影さんは彼の顔の前に弓矢を構えていた。
【これまでの能力の傾向。『血液』に関する能力。お前がトリガーになった状況。それらを考慮すれば一つだけ仮説を立てることができます】
【『拒絶』。自分の気に入らないこと、嫌なことを全て赤黒い靄で拒絶するトリガー能力ですね】
「拒絶、反応……」
臓器移植や輸血をする際、ちゃんと適応する人からの提供でなければ体はそれらを外敵だと判断し、反抗して体を壊してしまう。それが拒絶反応である。
幻影さんと一緒に赤黒い靄に襲われた時、彼女だけ吹き飛ばされたのは私を捕まえたかった――つまり、私のことは拒絶していなかったからだ。しかし、思った以上に抵抗する私を面倒に思った彼は私さえも拒絶したから赤黒い靄に吹き飛ばされてしまった。彼の認識一つで靄が反応する対象が変わる。それがこの現象のカラクリだったのだ。
「……はは、よくわかったな」
【一応、『ストライカー』に連絡を取り、トリガー能力を予測するトリガーの方に確認しましたがほぼ間違いないとのことでした。情報収集をしてくれた彼女に感謝ですね】
そうか、そのために彼女は私に情報収集をさせたのか。それにしてもトリガー能力を予測するトリガー能力、か。幻影さんも言っていたがトリガー能力には本当に色々な種類があるらしい。
(そっか……役に立てたんだ……)
こんな私でもできることがあった。できたことがあった。やり遂げられた。それが嬉しくて思わず視界が滲んでいく。でも、駄目だ。まだ終わっていない。もう私にできることはないが最後まで見届けなければならない。それが全てのきっかけとなった私の義務である。
【もうお前の能力は通用しません。大人しく罪を償いなさい】
「……は?」
幻影さんを読んだ先生は本当に意味がわかっていないようにキョトンとした。そして、次第に自分の状況を理解したのか顔を歪ませていく。
「俺が、負けた? 負け? あ、あはは……ありえない。だって、俺の能力は最強だってあの人も……」
【むしろ、弱い方です。概念系のトリガー能力の多くは能力が強力過ぎてすぐにガス欠を起こすか。お前のように暴走していなければ使い物になりません】
「暴走? なんだそれ? そんなこと教えてもらってないぞ?」
暴走を知らない。それはトリガーにとってあまりに致命的なことではないだろうか。それに先生が言った『あの人』という人物。トリガーに目覚めた彼に能力のことや私のことを説明した人。その人こそ、私を狙う組織の人間だ。
「それにまだ俺は諦めちゃ――」
彼の言葉は最後まで紡がれることはなかった。いきなり、倒れている先生の右頬を掠るように上空から幻影さんの矢が降ってきたのだ。おそらく、最初に上空へ軌道を変えた二本の内の一本だろう。
【たとえ、この状況をどうにかできても上空にある矢がお前を射抜きます。諦めてください】
「なん、だよ……それ」
地面に刺さった青白い矢が消えていくのを見ながら先生はボソリと呟く。その声は震えており、ここからでは彼の表情は見えない。だが、少しずつ彼の体から靄が漏れていく。幻影さんは先生との距離が近すぎてまだ気づいていない。
「幻影さん!」
「……ッ」
私の声で靄に気づいたらしく、彼女は咄嗟に後方へ跳んで距離を取った。それからすぐに先生がフラフラと立ち上がる。まだ諦めていないのだろう。
しかし、幻影さんは何もしなかった。手に持っている弓は降ろしているし、上空の矢も動かさない。まるで、全てが終わったような佇まいだった。
「あの、幻影さん?」
【よく見ておいてください。これが暴走を起こしたトリガーの末路です】
「え?」
「あ、ああ……あああああああああああああああああああ!?」
その言葉の意味を聞く前に先生が絶叫する。すでに彼の体は赤黒い靄に覆われているのだが、様子がおかしい。自分の両手を眺めて体を震わせている。
「き、消え……消えて……」
「何、あれ……」
先生の体が少しずつ透けていく。手足の先からゆっくりと消えていくのだ。あまりにもおぞましい光景に私は言葉を失ってしまう。
【『拒絶』という能力を持つ奴が暴走した場合、どうなるのか。それは想像が容易です】
「……自分自身の拒絶」
これまで色々なものを拒絶していた彼は自分自身の能力に拒絶され、消える。因果応報。そんな言葉がふと脳裏に浮かんだ。
「嫌だ! た、助け……消えたくない、消えたくない!!」
助けを求めるようにこちらに手を伸ばす先生だったが、伸ばすはずだった手はすでにない。しかし、立つための足もないはずなのに彼の体は不思議と地面に落ちていなかった。
「ふぁ、幻影さん……」
【無理です。こうなる前に捕まえたかったのですがこうなってしまえばこちらから手を出すことはできません】
「そんな……」
助ける手段はない。彼女ははっきりとそう言った。いや、でも何かあるはずだ。私だってあんな絶体絶命の状況から救われたのだ。先生もきっと――。
「いやああああ! ああああああ! ああ、ぁ……俺、消え――」
しかし、何か思いつく前に先生の体は赤黒い靄の向こうに消える。そして、靄が晴れた時、彼の姿はどこにもいなかった。
こうして、私の常識を根底から覆すことになった今回の事件は真犯人の消滅、という後味の悪い形で幕を閉じた。




