第60話
榎本先生と私の間に降り立った幻影さんだったが手に持っていた細長い得物を握り直す。おそらく槍だと思うが青白く輝いており、たまにノイズが走るように紫電が迸っている。
「ちっ、やっぱりまだいたのか」
私の態度から彼女が協力していると予想していたようで先生はそこまで驚いている様子はない。
(駄目……)
私の危機に駆けつけてくれたことは嬉しかった。でも、まだ約束の時間じゃない。たった数十秒だが私は持ちこたえられなかった。そう、幻影さんの準備はまだ終わっていないのだ。
「ッ……」
彼女が持つ青白い槍の輝きが一際大きくなる。そして、投げた。バチバチと音を立てながらその槍は先生に向かって一直線に向かっていく。
「く、来るなッ!」
自分に向かってくる槍に恐怖を抱いたのか、先生は慌てて赤黒い靄を放出する。槍と靄が激突し、青白い閃光が暗い森を照らす。
(ッ……やっぱり、まだ……)
一見、幻影さんの槍は先生の靄に対抗している。しかし、少しずつ槍が融解していくのが見えた。いずれ槍は完全に解け、赤黒い靄が彼女を襲うだろう。
「――――」
それがわかっていない幻影さんではない。槍を投げた彼女は前へ駆け出し、槍の柄を殴りつけた。その衝撃で拮抗していた槍が少しずつ靄を切り裂いて前に進み始める。
「く、そおおおおおお!」
このままではまずいと思ったのか先生は靄の出力を上げた。コントロールまで気にしていられないのか、私を覆っている靄も大きくなったような気がする。
だが、それでも幻影さんの槍は止まらない。きっと、彼女がトリガーが使える肉体強化を駆使して後ろから押しているからだろう。
そして、ついに彼女の槍が赤黒い靄を突き破った。すでに解けかかっている青白い槍は先生の右肩に突き刺さり、少なくない量の血が迸る。
「ぎゃああああああああああ!?」
先生は右肩を押さえながら絶叫。激痛のあまり、声を抑えられないようだ。
幻影さんの槍は見事、先生の靄を突破して一撃を与えた。そう、一撃を与えただけに終わった。先生はまだ動ける。
「お前ッ! お前、お前お前お前!!」
(あ、れ?)
ドクドクと右肩から血を流す彼は自身の体を靄で包み込みながら幻影さんを睨みつける。そして、それとほぼ同時に何故か私の体から痛みが消えた。木に叩きつけられ、押し潰されたせいで動けないほどの大怪我を負ったのに今は何も感じない。
「へ、へへ……痛みなんか感じないぞ……この力があればそれぐらいできるんだ」
あれほどの大怪我を負った先生も私と同じように痛みを感じていない。もしかして、この靄が痛みを消した?
幻影さんや私を吹き飛ばした。
幻影さんの攻撃を無効化した。
私を動けなくさせた。
痛みを感じなくさせた。
先生の靄は統一性のない効果を持っている。ましてや、最初の頃は靄を受けても私に影響はなかった。
最初と今。何が変わった? 時間? 場所? タイミング?
いいや、違う。おそらく、先生の考え方だ。最初は私を生きたまま、連れて行こうとしていた。しかし、今は私を殺すつもりでいる。それがあの靄に影響を与えているのかもしれない。
「……」
先生の言葉に幻影さんは何も答えない。だが、答えるつもりがないのだろう。いつの間にか弓矢を手に取っており、矢を番えていた。そして、そのまま矢を放つ。
「無駄だ!」
さすがに右腕は動かせないようで迫る矢に左手を向けた先生は靄を放つ。靄に当たった矢は解けて消えてしまった。
先ほどの槍は長い時間をかけて用意した幻影さんのとっておきだ。つまり、先生に有効打を与えるためには同じように準備をしなければならない。
だが、肝心の狙われている私が動けない状態になってしまったのでそれは不可能だ。彼女が準備を始めた瞬間、先生は私を狙うだろう。そうなったら幻影さんは外套を脱いででも私を守ろうとするはずだ。
(動いて……動いてよッ)
ここにいても幻影さんの迷惑になる。だから、逃げようとしているのだが体は一向に動いてくれない。これではただの足手まといだ。
「っ……」
「何度やっても意味ないぞ! この力は最強なんだ!」
幻影さんは今も矢を乱射して先生を攻撃している。しかし、どうやってもあの靄が矢を無効化してしまう。
「……飽きたな」
そして、ついにその時が来てしまった。自身を覆う靄が幻影さんの矢を消していくのを見ていた彼だったが、幻影さんから視線を外してこちらを見たのである。おそらく、幻影さんは私が狙われないように先生の注意を引きつけようとしてくれていたのだ。
「死ね」
しかし、無情にも先生は私に赤黒い靄を放った。避けられない。あれが直撃すれば今度こそ私は死んでしまうだろう。
「……」
もちろん、それを見過ごす幻影さんではない。私を前に立ち、両手を前に突き出した。すると、どこからか五枚の青白い盾が出現して靄を受け止める。そして、すぐに二枚の盾が解けて消えた。
先生の能力はまだどんなものなのかわからない。でも、幻影さんの能力と相性が悪いことはこれまでの戦いで嫌になるほど目の当たりにしてきた。きっと、あの盾たちも数秒後には破られてしまうだろう。
「ッ……」
動けない私はその行く末を見守るしかない。だから、気づいた。私の前に立つ彼女の手が僅かに震えている。
――そうですね。あなたの言う通り、私はこの外套を脱ぎたくありません。いえ、脱ぐことを躊躇してしまいます。
幻影さんの文字が脳裏に浮かんだ。私が時間を稼げなかったせいで先生を止めるためには彼女が外套を脱ぐしかない。そのために破られるとわかっていながらも盾を作り、外套を脱ぐ時間を稼いだ。
でも、彼女にとって外套を脱ぐ、という行為は私の想像上に辛いことなのだろう。だから、何かに怯えるように手を震わせている。盾が壊されていくのを見ながら動けずにいる。
「……ぁ、ぐ」
やっぱり、駄目だ。このまま幻影さんに全てを任せるのは間違っている。
だって、この事件は私がいたから起きたことだ。私が漣先生を襲い、先生たちに殺されそうになり、自分が化け物だと知っても生きたいと願い、榎本先生に狙われ、幻影さんを巻き込んだ。
また盾が壊れた。残り二枚。
赤黒い靄は私を覆っている。動けない。動きたくても私の体は言うことを聞いてくれない。
早く、早く動いてよ。このままじゃ、幻影さんは私のために外套を脱いでしまう。
足手まといなのは嫌だ。迷惑をかけるのは嫌だ。私のせいで彼女が傷つくのは嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
「ガっ……ハ、ぁ……」
話すことすら許させない。かろうじて口から漏れるのは情けない呻き声だけ。
盾が壊れる。残り一枚。それを見た幻影さんの手は自然と震えが止まる。覚悟が決まったのだ。
お願い、動いて。動いてよ。だって、私は吸血鬼なのだろう? なら、こんな靄ぐらい、どうにかできるはずだ。どうにかできなければ私は一生、後悔し続ける。
「ぁ、ああ……あああああああああああ!!」
力づくで動こうとしているからか、全身からブチブチと筋肉が千切れる感覚がする。でも、そのおかげなのか、あれだけ出なかった声が出た。
それに痛みは相変わらず感じないが異常に体が熱い。今にも燃えてしまいそうなほどだ。その影響からか、左目の視界が赤く点滅している。赤黒い靄に覆われているから見間違いかもしれない。無我夢中で抗っているから気のせいなのかもしれない。でも、左目に異常が起きているような気がした。
(そんなことよりも今はッ!!)
あえて左目の異常を無視して体を動かす。やっと、ゆっくりと手が上がった。でも、それだけ。それしかできなかった。
今更、幻影さんに手を伸ばしたところで意味はない。結局、私は何もできない役立たず。いないほうがいい存在なのだ。
「ッ――」
そんな自虐、どうでもいい。今は彼女を助ける方法を考えろ。こんな私を助けようとしてくれたあの人を守れるように。
私にできること。私にしかできないこと。私だからできること。
吸血鬼の力でもいい。トリガー能力でもいい。超能力でも、化け物でも、魔法でも、奇跡でもいい。なんだっていい。今だけでいい。この先、私がどうなろうと構わない。
だから、お願い。人生の全てを賭けていいから。お願いだから――命の恩人ぐらい守らせてよ!!
――じゃあ、一緒に守ろ? きっと、ワタシたちならできるよ!
誰かの声が聞こえた瞬間、私の左目で何かが弾けた。それと同時にカチリ、と何かの歯車が噛み合ったような感覚がして私を覆っていた赤黒い靄が吹き飛び、視界がクリアになる。
でも、何故か左目の視界に幾何学的な模様が刻まれた円形の陣が映っている。色は血のような紅。僅かに輝いており、早く使えと言っているようだった。
「お願い、守って!」
ほとんど無意識にそれを行使する。その瞬間、幻影さんの盾が壊れ、滑り込むように直径5メートルほどの巨大な盾が赤黒い靄から彼女を守った。




