第59話
赤黒い靄が私の右頬を掠る。嫌な予感はしたが少しだけ軌道が逸れているようだったので特に進路を変更しなかったが正解だったらしい。そのまま倒れた木を飛び越えて着地したがバランスを崩して倒れてしまいそうになってしまう。手をバタバタとばたつかせて強引に態勢を立て直す。
「なん、でっ!」
その時、後ろから先生の苦しそうな声が聞こえた。逃げ始めてまだ数分しか経っていないが暗い森の中を走っているのでいつもより体力を多く消費してしまうのだろう。私もすでに息は乱れ、気を抜くと咳き込んでしまいそうだ。
それでも足を止めない。全神経を逃げることに集中する。約束の時間まで絶対に逃げ切るのだ。私を信じてくれた幻影さんのためにも。彼女に外套を脱がせないためにも。
「ッ……」
しかし、赤黒い靄は頻繁に飛んできているため、危険なのは変わらない。悪意を感じ取れる私は後ろを見なくても躱せるし、当たったとしても効果がない。しかし、近くの木に直撃して倒れ、進路が塞がれてしまう可能性もある。このまま逃げ続けるだけでは駄目だ。
でも、反撃するとしても武器がない。あえて近づいて戦う? いいや、幻影さんにも言ったが私は戦闘に関して素人だ。悪意を感じ取りやすくてもそれを利用して戦えるとは思えない。むしろ、取り押さえられた終わりだ。
(何か、何かない?)
走りながらキョロキョロとヒントになりそうなものがないか探す。目に入るのは大きな木と生い茂った草。地面からは太い木の根が顔を出し、向かう先は暗闇。
そして、一つだけ妙案が頭に浮かぶ。できるかどうかはわからない。普通なら無理だ。失敗したら先生との距離が近づいてピンチになってしまう。
――だから、自分を信じてください。腕力でもいい。スピードでもいい。何でもいいのでこれだったらできると信じられる何かを見つけてください。
「……よし!」
それでもやってみる価値はある。私は速度を上げ、目的の物を探す。これまでも走りながら何度か見かけていたのですぐに見つかると思うが――。
(あった!)
私の予想通り、走る先に根元から折れてしまった木を見つけた。長さは私の身長の倍はありそうだが、太さは直径50cmほどだろうか。おそらく倒れてからそれなりに時間が経っているようで葉は全て落ちてしまっており、見た目は丸太のようだった。
「んッ!」
その倒木に飛びつき、力を込めて持ち上げようとする。普通の人間なら絶対に持ち上げられないほどの重量。でも、私は吸血鬼だ。
「くっ……ぅ、あ、ああああああああああ!!」
ブチブチと両腕の筋肉が千切れるような感触がする。だが、それでも力を込めるのを止めず、倒木はゆっくりを持ち上がっていく。バランスを取るのが難しく、左右にフラフラと揺れてしまうものの何とかその場で振り返った。
「せいやあああああああ!」
「なっ!?」
頭上まで持ち上げた倒木を先生に向かって放り投げる。あまり飛距離は出なかったもののこちらに向かっていた彼は上から落ちてくるそれを見て目を見開き、慌てて両手を木に向かって突き出して赤黒い靄は射出した。赤黒い靄は木を押しやり、私と先生の間に落下。そのあまりの重量に少しだけ地面が揺れる。
「これ、は……」
先生は私が投げた倒木を見て言葉を失っていた。人間が到底できないことをしたのは驚くのも無理はない。
「ッ……」
その隙に私は再び駆け出す。私が走ったのを見て先生も追いかけてきたがその速度は先ほどよりも遅い。私が反撃してくるとわかったから警戒しているのだろう。
「次ッ!」
倒木を投げたのは無茶だったがそのおかげで吸血鬼の怪力を自覚できた。これを利用しない手はない。早速、落ちていた拳大の石を走りながら拾い、アンダースローで投擲。投げられた石は凄まじい速度で先生に迫り、当たる直前で赤黒い靄が彼を包んで弾き飛ばした。正直、直撃していたら大怪我だけでは済まされないほどの威力だったので少しだけ安心してしまう。
それから私は石や木の枝、土の塊を拾って投げるのを繰り返した。その度に先生は赤黒い靄で無効化していくが、確実に時間を稼げている。
(この調子でたまに反撃していけばっ!)
靄が土の塊を弾き、空中に霧散していくのを見ながら思わず笑みが零れる。約束の時間までもう少しだ。このままいけば後は幻影さんが――。
「もういいや」
それは突然、訪れた。背中に突き刺さる悪意の塊。それは今まで以上に強く、重たい威圧感が先生から放たれたのを知覚する。きっと、赤黒い靄を放ったのだろう。
しかし、問題はその範囲。吸血鬼の身体能力でも躱しきれないほどの広範囲に放たれたのである。
回避は不可能。でも、あの靄は私には通用しない。だから、大丈夫。
「ガッ……」
そう思っていたのに気づけば私は吹き飛ばされていた。視界全てが赤黒く染まり、私が今どんな状態になっているのかわからなくなる。
体を襲う衝撃で体の骨が軋む。息もできず、靄に翻弄されて脳が揺れた。その激しさに気を失ってしまいそうになるが歯を食いしばって耐える。幻影さんは北町から西町まで吹き飛ばされたと言っていたがこんな激流の中、どうやって正気を保っていたのだろう。
(ミ、サンガが……)
そんな中、右手首に付けていた幻影さんから貰った黒いミサンガが解けて消えていくのが見えた。こんな状況なのに駄目にしてしまったという喪失感を抱いてしまう。
「かはっ……」
そして、私は何かに背中から叩きつけられた。体のどこからかゴキリ、と嫌な音がする。いや、それだけじゃない。まだ、靄の放出が終わっていない!
「ぁ、あああああ……」
叩きつけられた後、そのまま靄は私を押しつぶそうとしてくる。ギリギリと体から嫌な音がし、肺から空気が強制的に吐き出された。何とか脱出しようと藻掻くが吸血鬼のパワーでもどうすることもできない。
「……ぁ」
どれほど時間が経っただろう。いつの間にか赤黒い靄は消え、私の体はずるずると背中をこすりながら落ちていく。そのまま何かに背中を預けた状態で尻もちを付いた。
「ごほっ……」
ピシャリ、と口から何かが零れる。掠れる視界の中、着ている制服が赤く染まっていくのが見えた。体に力が入らない。それでも、動かなきゃ。
「ぐっ……はぁ……」
もぞもぞと身じろぎをして顔を上げる。その時、全身に激痛が走って思わず顔をしかめてしまう。グラグラと頭を支えられず、今にも俯いてしまいそうだ。
そんな状態の私の前で誰かが立ち止まる。視界が霞んではっきりと見えないがおそらく榎本先生だ。
「殺すつもりでやったんだが……さすが吸血鬼というところか」
何か先生が言っている。聞き取れはするのだが、その言葉を咀嚼する思考回路がショートしており、上手く理解できない。
まだ、だ。まだ約束の時間じゃない。急いで逃げなければならない。だから、立て。逃げろ。もうちょっとで幻影さんが来てくれる。だから、早く……早く!
「っ……動けるのか。なら――」
のろのろと立ち上がろうとしている私に先生は手を向け、また靄を放つ。それは押しつぶすことなく、私の体を包んでいき、すぐに全身が覆われてしまった。
「――――」
その途端、私の体はピクリとも動かなくなってしまう。まるで、『動くな』と言われているように。呼吸や目を動かすことはできるが声すら出せない。まずい、これでは逃げられない。万事休す。これで何もかもがおしまいだ。
「本当は無傷で連れて行きたかったが最悪、体の一部だけでもいいって話なんだ」
赤黒い靄に包まれた私を見下ろし、先生が独り言を呟いた。もう私が抵抗できないと判断して最後に教えてくれたのだろう。いつの間にか敬語が完全に抜けている。もしかしたら、こっちの口調が先生の素なのだろうか。そんな呑気なことを考えてしまう。
(ごめん、なさい……)
動けない中、心の中で幻影さんに謝罪する。黒いミサンガは消えてしまったため、ここの場所はわからず、約束の時間もまだ来ていない。私は失敗した。もう、彼女がここに来ることはないのだ。
「じゃあ、死ね」
そう言って先生は私に右手を向ける。体の一部だけでもいい。つまり、最初から私の生死は関係なかったのだ。私が抵抗してしまったせいで先生が見切りをつけてしまった。そのせいで私は先生に殺される。あんなに気を付けろと言われていたのに調子に乗った私の自業自得。
「お、まえっ!?」
その時、私と先生の間に何かが落ちてきた。
揺らめく漆黒の外套。その手に持つのはバチバチと火花が散るように紫電が走る細い得物。その輪郭はぼやけており、体格を掴めない。
(幻影さん……)
そう、その人は絶対に間に合わないと思っていた幻影さんだった。




