第44話
先ほどまでの戦いが嘘だったように静まり返った住宅街。その道の真ん中で私はちらちらと隣に立つ黒い影を見やる。そう、何度も夢に見た憧れの人――幻影さんその人だ。
「……」
実物を見たのは初めてだが、夢に見たままなので私は思わず生唾を呑んでしまう。彼、もしくは彼女は輪郭すらもぼやけているため、背丈以外の情報はほとんどない。それに加え、瞬きをすればその瞬間に消えてしまいそうなほど気配が薄く、思わず手を伸ばしそうになってしまう。
【大丈夫ですか?】
その時、私の目の前に青白く光る文字列が浮かび上がった。ハッとして顔を上げるとフードに隠れた幻影さんのフードの虚空がこちらを向いている。顔は見えないがおそらくこちらを見ているのだろう。その様子は浮かんだ言葉通り、私の安否を確かめているように見えた。
「あ、はい! おかげさまで助かりました!」
【いえ、こちらこそもっと早く来ることができればよかったんですが】
そこで幻影さんの文字が消える。消える直前、文字にノイズが走ったので文字数が多くなると不安定になってしまうのかもしれない。
【こちらも緊急事態が発生しましてシノビの分身が消されるまで気づけませんでした】
「分身が消されるまで?」
【はい、シノビの分身は消えると本体に分身が得た情報が流れます】
つまり、シノビちゃんの分身が消えた後、本体に私が襲われていることを知り、駆け付けてくれたのだ。シノビちゃん自身、ドッペルに分身が消されるのをわかっていたため、時間を稼げと事前に伝えてくれたのだろう。そのおかげで私は幻影さんが来るまで持ちこたえることができたのだ。
「あの、シノビちゃんは大丈夫でしたか?」
一先ず、自分の危険は去ったのでずっと気になっていたシノビちゃんの容態を確かめる。ドッペルのワイヤーが刺され、消えてしまった。刺されたのは分身とはいえ、本体にも何かしらの影響があるかもしれない。
【シノビの分身は初撃で消えれば本体にダメージは移りません】
私の質問に幻影さんはそう答えた。逆に言えば本体にダメージを移すことを覚悟すれば分身が攻撃を受けても残せるらしい。しかし、本体が別の場所で戦っている最中、ダメージを受けた分身が消えてしまうと本体にダメージが移り、思わぬ隙となってしまうはずだ。だからこそ、シノビちゃんは最初からドッペルに消されると判断したのだろう。
【では、本題に入りましょうか】
シノビちゃんの無事を聞いてホッと安堵のため息を吐いていると幻影さんが何の躊躇いもなく、その文字を私の前に浮かばせる。そうだ、今は他の人のことを気にしている場合ではない。先生とドッペルを退いたとしても私が狙われていることには変わりないのだから。
【シノビから話を聞いていると思いますがあなたは人間ではなりません】
「っ……」
シノビちゃんから聞いていたし、自分でもすでに受け入れている。しかし、憧れの人からその事実を突きつけられると心に来るものがあった。
【シノビに話は聞いていましたが本当に受け入れているんですね】
数秒ほど私を見つめた後、幻影さんは再び文字を浮かばせる。確かに受け入れるには早いかもしれないが、思い当たる節はいくつもあった。
(それに……)
ドッペルに追い詰められ、死んだと覚悟を決めたあの時、何故かドッペルの攻撃を躱した。それから私の身体能力は飛躍的に向上したのである。あの身体能力は人間の域を超えていただろう。きっかけはわからないがあの時、私は確実に人間を止めてしまったのだ。
【その方が話が早くて助かります。この後ですが――】
「え……」
私の様子に軽く頷いた彼、もしくは彼女は次の文字を浮かばせようとした時だった。不意に幻影さんが私を守るようにさっと体を移動させる。
「ッ!?」
その瞬間、幻影さんの体の向こうに赤黒い靄が見えた。それはどんどん大きく――違う。私たちに向かって近づいてきているのだ。きっと、幻影さんはいち早く赤黒い靄に気づいて私を守ろうとしてくれたのだろう。
幻影さんは真っ黒な手袋をはめた右手を赤黒い靄に向かって突き出し、青白い板を出現させた。それが盾だと気づいた頃には赤黒い靄と激突し――。
「ッ――」
――盾が融解して赤黒い靄が私たちを襲う。そして、私には何も起こらなかったが、幻影さんの体が後方へと吹き飛んだ。
「幻影さん!?」
慌てて幻影さんを目で追ったが赤黒い靄は連れ去るように軌道を上へ変え、どこかへ飛んでいってしまった。
一人、住宅街に取り残されてしまった私は呆然と彼、もしくは彼女が消えた先を見つめる。どこまで飛ばされたのかわからないほど遠くまで飛ばされてしまったらしい。
「影野さん!」
「ッ!? あ、なたは……」
突然、名前を呼ばれたせいで肩を震わせてしまった。そして、急いで振り返り、私の名前を呼んだ人物に思わず目を丸くしてしまう。
「よかった……無事だったんですね」
「え、榎本、先生?」
そこにいたのはまるで何かを撃ち出したようにこちらに右腕を向けている榎本先生だった。




