第37話
鶴来君が用事で帰った後、先生と資料室に残った私は黙々と無言で作業を続け、一時間と経たずに資料室の中はすっかり綺麗になった。
「綺麗になりましたね」
「ええ、本当に助かりました。鶴来君も影野さんも手際が良くて予定よりも早く終わりそうです」
顔を上げて先生に声をかけると彼もニコニコと笑いながら頷いた。後は床に溜まった埃を掃除をすれば終わりだ。掃除道具も先生が作業の合間に掃除道具を取りに行ってくれたのでいつでも掃除を始められる。
「それにしてもすっかり日も沈んでしまいましたね」
最後の段ボールを棚に置いたところで先生がボソリと呟くように言葉を零す。それにつられるように窓から外を見れば暗くなっており、壁に掛けられている時計を見れば18時を超えていた。
「さすがにこれ以上、学校に残しておくわけにはいかないので掃除は僕の方でやっておきます」
「え? でも……」
「ここは小さいですし、影野さんを送った後でもできますから」
「……いえ、最後までやります」
確かに先生に車で送ってもらったとしても家に着くのは19時を過ぎるのは確実だ。それからクッキーの材料を買いに行けばもっと遅くなってしまうだろう。
しかし、このまま榎本先生に任せてしまうのは申し訳ないし、私が無茶をしたせいで心配をかけてしまった負い目もある。私としては最後までやり切ってしまいたかった。
「……わかりました。じゃあ、パパっと終わらせちゃいましょうか」
「はい」
最初は困ったように笑っていた先生だが、最終的には頷いてくれた。
それから先生がバケツに水を汲んできて掃除を始める。4月とはいえ、まだ水は冷たかったようで先生が拭き掃除をやると言ってくれた。私が箒で床に落ちた埃を集め、埃の溜まった棚を先生が雑巾で拭く。
「……」
「……」
その間も先生と会話はなく、僅かに気まずい空気が流れる。いや、先ほどとは違い、何度か先生が何か言いたそうにこちらをちらちらと見ていた。
「……何か、ありました?」
「あー、えっと……すみません、少々、気になることがありまして」
このままでは掃除に集中できなかったので私の方から声をかけると彼は居心地悪そうに言葉を濁す。だが、すぐに切り替えたようで続きを話し始めた。
「実は影野さんの体力測定の結果を見まして……」
「え?」
予想外の言葉に私は目を白黒させてしまう。体育テストの結果、というと身体能力が異常に向上したせいでとんでもないことになってしまったあれだろうか。
「すみません、影野さんの結果があまりに……予想外のものでしたので教師陣でちょっとした騒ぎになりまして」
「それは……仕方ないと思います」
私だって50m走5秒台の女子高校生がいたら存在を疑うだろう。いや、ここにいるというか私自身のことなのだが。
それに50m走だけでなく、全種目で規格外の結果を残してしまったのだから騒ぎになるに決まっている。
「それでですね……あの結果について影野さんはどう思っているのか、と」
「どう、思ってるというと?」
「昔から身体能力が高かったので予想通りだったのか……それとも、予想外の結果、だったのか」
先生はそんな質問しつつ、こちらをジッと見据える。いつも微笑んでいる彼には似つかわしくない、探るような目。その鋭い視線に私は自然と生唾を飲み込んでしまった。
「……予想外、でした。確かに自分の身体能力が他の人より高かったのは自覚あったんですけどあそこまでではなかったです」
「じゃあ、飛躍的に身体能力が向上した、と?」
「そう、ですね」
「原因に心当たりは?」
先生の問いかけに黙って首を横に振る。そうだ、あれから色々あったせいで忘れていたが、身体能力が向上した原因をまだ突き止めていなかった。だが、原因らしい出来事はなかったように思える。そもそも、そんな簡単に身体能力が向上したら世界で活躍するスポーツ選手たちはもっと楽に記録を伸ばしているはずだ。
しかし、問題は今の回答で先生が納得するかどうか。もしかして、何か不正を働いて記録を伸ばしたとでも思われているのだろうか。
「……そうですか。それなら仕方ないですね」
「へ?」
不安に思っていると先ほどまでの真剣な雰囲気を吹き飛ばすように榎本先生はにへらと笑った。切り替えの早さに間抜けな声を漏らしてしまう。
「本人がわからないのであれば仕方ないですよ。それに体力測定で不正しても何の得にもなりませんし、そもそもたくさん目撃者がいる状態で誰にもばれずにズルができるとは思えませんしね」
「は、はぁ……」
「申し訳ありません。混乱させてしまいましたね。一応、影野さんの話を聞くように教頭からお願いされてまして」
「そう、だったんですね……あ、あはは」
正直、生きた心地がしなかったので止めてほしかったが、これだけの問答で済んだのならよかったのかもしれない。ホッと安堵のため息を吐きつつ、止まっていた手を動かす。先生もそれを見て拭き掃除の続きを始めた。
それから数分ほどで掃除が終わり、道具を片付けて資料室を後にする。ガチャリ、と資料室を施錠する音が廊下に響いた。
「本当に助かりました。これでしばらく資料室の片づけをしなくて良さそうです」
「い、いえ! お役に立てたようでなによりです!」
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。車の鍵を取ってきますので職員室に寄りますね」
「わかりました」
そう言って先生と並んで職員室に向かう間、チラリとスマホで時刻を確認する。すでに18時半を過ぎようとしていた。鶴来君が帰って1時間。彼の用事はすでに終わったのだろうか。いや、家庭で何かあったかもしれないから家に戻っているかもしれない。
「では、少しだけここで待っていてください」
そんなことを考えていると職員室に到着し、先生は中へと入る。生徒はもちろん、他の先生たちもあまり学校に残っていないのか、職員室から音は聞こえない。そのせいで廊下は不気味なほど静かだった。
「え、それは本当ですか!?」
「ッ……」
だからこそ、職員室から榎本先生の声が聞こえた。なんだろうと職員室の扉に近づいて耳を澄ませてみる。昔から聴覚はいい方なのでこれだけでも中の音は聞こえるはずだ。
「……困りましたね。連絡は?」
「それがいくら電話を掛けても出なくて……榎本先生、どんな物を頼んだんですか?」
「文房具数点とテストの問題を作るために参考にしようと思っていた本を数冊です。在庫がなければ買わなくてもいいと伝えたはずですが……」
「真面目な漣ちゃんのことだから探し回ってるかもしれないわね。でも、だからこそ、こんな時間まで連絡一つないのは余計に変だわ」
職員室で話しているのは榎本先生と先日、私が倒れた時にお世話になったという保健室の先生だった。他の人の気配はないので学校に残っているのは二人だけのようである。
それよりも保健室の先生の口から出た『漣ちゃん』は――もしかして、漣先生のことだろうか。
「心配ですね。探しに行った方が……いや、でも……」
「あのー」
さすがにこのままスルーできるわけもなく、軽くノックしてから職員室に入ると榎本先生と保健室の先生がこちらに視線を向ける。やはり、周囲を見渡しても他の先生はいなかった。
「あれ、あなたは……あー、そういえば、今回の資料室の片づけの担当は……」
「あ、あはは……すみません、お話を聞くついでに手伝ってもらっていて」
保健室の先生は私がまだ残っていると思わなかったようで驚いている様子だったが、すぐに状況を飲み込んだようでジト目で榎本先生を睨みつける。そんな視線を受けた彼は居心地悪そうに顔を逸らした。
「はぁ……お疲れ様、影野さん。あれから体調はどう?」
「あ、はい! おかげさまでバッチリです!」
「そう、それならよかったわ……もしかして、今から彼女を送っていくつもりだったの?}
「そうなんですよ……なので、ちょっと困ったことになっておりまして」
「何かあったんですか?」
私の質問に二人は顔を見合わせて簡単に事情を説明してくれた。
どうやら、資料室の掃除をする前に榎本先生が漣先生に買い出しを頼んだらしい。だが、あまりにも帰りが遅く、探しに行こうかどうか悩んでいたそうだ。
「他の先生は?」
「それが今日は皆、色々用事があるみたいで帰ってしまったの。元々、学校に遅くまで残っちゃ駄目ってことになってるから私も榎本先生が戻ってきたら帰ろうと思ってたところで」
「ですが、漣先生が帰ってきていないのでそれどころではなくなってしまって……田中先生は車を持っていないので自然と僕が探しに行くことになるんですが……」
そこで言葉を濁した榎本先生は私の方を見やる。私を南町まで送ってから学校に戻ってくるのに2時間弱はかかる。その間、漣先生の捜索はできない。もしかしたら何か事件に巻き込まれていたら手遅れになってしまう可能性がある。もちろん、車を持っていない保健室の先生――田中先生は私を家まで送ることは不可能だ。
「じゃあ、私は一人で帰りますよ?」
どうしようかと唸るような声を漏らして悩む二人に私は何の躊躇いもなく、そう答えた。私がいなければ榎本先生が漣先生を探しに行き、保健室の先生が学校に残ることができる。そうすれば全部、解決だ。
「いや、しかし……さすがにこんな時間から一人で帰すのは……」
「それに影野さんは南町住みでしょ?」
「バスで帰りますので大丈夫ですよ」
幸い、バス停は学校の目の前にある。バスが来る時間は調べてみないとわからないが、行きとは違い、西町周りでも東町周りでもいいので本数はそれなりにあるはずだ。
「でも……」
「大丈夫ですよ! では、先に帰りますね! さようなら!」
「あ、影野さん!」
正直、私も漣先生のことが心配だった。私が倒れた時にお世話になったし、なにより、漣先生の身に何かあったら榎本先生が探しに行けなかったのは自分のせいだと責めるだろう。
だからこそ、私は先生たちに断られる前に逃げるようにして職員室を後にした。追いつかれないように廊下を走り抜け、玄関に辿り着き、靴を履き替える。まさか無駄に高くなった身体能力がこんなところで役に立つとは思わなかった。
学校の外は昼間と違い、肌寒くて反射的に身震いしてしまう。それに加え、陽が沈んでしまったため、薄暗くて少しだけ不気味だ。こんな遅くまで学校に残ったことがないので夜の学校がここまで姿を変えるとは思わなかった。
(えっと、バスが来るのは……)
早く帰ろうと駆け足で校門を目指しながらスマホでバスの予定時刻を調べる。本数はそれなりにあったが、運の悪いことに一本で南町に行くバスは少し前に出てしまったらしい。乗り換えも考えたが、乗り換え後の運賃は自己負担だし、あまり慣れていないので可能であれば避けたいところだ。
(あ、この路線なら一本でいける)
条件を色々と変えながら調べていると学校前より西町方面に向かって2本先のバス停にあと15分ほどで南町行きのバスが来る。2本先ならさほど学校から離れていないだろうし、私の足なら余裕で間に合うだろう。
そう思って駆け足で北町の歩道を走る。
私を照らすようにパトカーが通り過ぎ、赤いサイレンが道の向こうへ消えていく。
用事があるようで慌てたように駆け足で私の横を通り過ぎたサラリーマン。
学校帰りなのか、楽しそうに笑う他校の生徒たちの笑い声が聞こえる。
車の往来のおかげで光源に困らないが、街灯はどこか頼りないので足元に気を付けながら走らなければ人とぶつかってしまいそうだ。
「……?」
そう思いながら走っていたのだが、薄暗いはずの道は何故か昼間の時と同じように不自由なく見える。その現象を不思議に思うが、今は時間がないので後回しにして目的のバス停を目指した。
走って、走って、走って、時刻を確認して、間に合いそうだと笑い――。
――ふと、先ほどまで車道を走っていた車の往来がないことに気づいた。
「あ、れ……」
そんな言葉を零しながら立ち止まる。
車だけではない。仕事帰りのサラリーマンや部活帰りの他校の生徒。先ほどまで歩道を歩いていたはずの人影がない。
まるで、この世界に私一人だけになってしまったような、そんな状況。
この先、一人で生きていけ、と現実を叩きつけられたような感覚に心が冷えていく。
キョロキョロと何かを求めるように周囲を見渡すが、私の視界には誰も映らない。
「お前が、影野か」
だからこそ、そんな低い声が後ろから聞こえた時、少しだけ安心してしまった。
一人ではなかったのだとホッとしてしまった。
こんな状況で話しかけてくる人が普通であるはずがないのに。
「……え?」
救いを求めるように振り返った先で不機嫌そうに私を睨みつける背の高い中年の男性とその隣にお人形のような女の子が立っていた。




