第30話
第29話で時系列がおかしいところがあったため、修正しました。
車は国道をゆっくりと走る。時刻は18時過ぎであり、帰宅ラッシュ中なので車の交通量が多く、なかなか前に進まない。しかし、帰宅ラッシュといってもここまで車の流れが悪いのは珍しかった。
「……」
赤信号で停車している間、対向車線をパトカーが走っていくのを目で追う。サイレンは鳴っていないので緊急車両ではないため、周囲の車たちは特に気にすることなく、安全運転を心がけている。
しかし、パトカーを見たのはパトカーが目に入ったからではなく、助手席に座る鶴来君から少しだけ意識を逸らしたかったからである。
(うぅ……こんなことなら助手席に座らせるんじゃなかった……)
鶴来君と影野さんを送ることになってからすでに数十分。眠っている影野さんを後部作責に座らせ、シートベルトを締めた後、鶴来君を助手席に座らせた私は南町に向かって車を走らせていた。
最初、鶴来君は影野さんの隣に座ろうとしていたがバックミラーを見る度に彼の姿が映ることに気づいた私は慌てて助手席に座るように頼んだ。さすがに運転中に鶴来君を見て驚いていたら事故を起こしかねない。
彼も断る理由がなかったようで素直に頷き、助手席に座った。そして、気づいたのである。
(ち、近いッ……)
見るだけでビビっていたのに物理的に接近すればどうなるか。その答えは冷や汗が止まらなくなる、である。私も初めて経験する感覚に戸惑い、今にも死にそうになっていた。
「……」
チラリと彼を見ればこちらに興味がないのか、窓の外を眺めている。ただ、彼の顔を見ていないのに何故か底知れぬ威圧感が襲い、ブルリと体が震えた。
その時、信号が青になり、また車が前に進む。速度はさほど出ていないのでまたどこかの信号で捕まるだろう。
「……」
しかし、と私は自分に問いかける。
果たして、鶴来君は怯えなければならない相手なのだろうか、と。
これまで私は彼の何を知っていた?
休み時間は眠っているそうだが、授業中は真剣に話を聞いている。
怖そうな見た目をしているが、実際に事件を起こしたという話はない。
自分勝手な印象を受けるが、こんな時間まで影野さんのために学校に残っていた。
「あの、鶴来君」
気づけばあれだけ怖がっていたのに私は鶴来君に話しかけていた。はっとした時にはすでに遅く、のそりと彼がこちらを見た気配を感じ取る。
「……なんでしょう?」
「ぁ……えっと」
話しかけた。じゃあ、私は何を言おうとした? 何か言いたいことがあったから勇気を振り絞って話しかけたのだ。何か、彼に言いたいことが――言わなければならないことがあったはず。
それは一体、なんなのだろう。
私は何が言いたかったのだろう。
考えるな。考える前に話しかけたのだから、その続きも考えてはならない。考えたところで答えが出ないのなら胸の奥底から湧き上がった何かを伝えろ。それが、きっと――。
「……すみませんでした」
――零れ落ちたのはそんな小さな謝罪の言葉だった。
「何が、ですか?」
鶴来君は僅かに言葉を詰まらせながらそう聞いてくる。無理もない。いきなり謝罪されたのだ、困惑するに決まっている。
だが、困らせた張本人である私は自分の謝罪に納得していた。当たり前だ、私が今まで彼に見せていた態度は教師としてはあるまじきものだったのだから。
「わ、私……昔から臆病で、その……鶴来君のことが、怖くて……」
「まぁ、そうですね」
私の言葉に彼は何の躊躇いもなく、頷いた。
ああ、そうか。
そんな彼に思わず、納得してしまう。
鶴来君は今まで他人から怯えられ続けてきたのだ。
話しかけただけで、顔を見られただけで、そこにいただけで。
人は彼に恐怖し、震え、離れていく。
だからこそ、彼にとって私の態度は当たり前のことであり、特に気にするほどのことでもなかった。
「……今日のことで私が一方的に怯えてるだけだってわかりました」
再び、赤信号に捕まったため、ブレーキをかける。そして、完全に停車したのを確認した後、助手席に座る鶴来君を見た。鋭い目をしているが彼にとってそれが普通であり、怖がっていたのは私が情けない教師であったからだ。
「でも、これからは違います。だって、影野さんのためにこんな時間まで学校に残るなんて……鶴来君は優しい人なんだってわかりましたから」
「……………俺は、そんな奴じゃないですよ」
数十秒。鶴来君が言葉を漏らすのにかかった時間だ。
その間に彼は何を考えたのだろうか。私にはわからないが、少なくとも絞り出すように声を出した彼の様子を見るにいいものではなさそうである。
しかし、考える前に信号が変わってしまい、慌てて車を発進させた。
(う、もしかして地雷、踏んじゃった?)
「そ、そんな自分を卑下しないでください……少なくとも気絶した影野さんを見つけたのは鶴来君なんですから」
「……そう、ですね」
なんとかフォローを入れようとしたが、鶴来君の態度は変わらない。きっと、田中先生ならもっと上手くやれただろう。私は彼女に何度も相談し、的確なアドバイスをもらって救われたのだから。
「はぁ……ほんと、私ってダメダメだぁ」
「……何かあったんですか?」
情けない自分に深いため息を吐くとさすがに見捨てられなかったようで彼の方から話を振ってくれた。人付き合いを避けているようだったが、こちらを気にかけてくれるのは彼が優しい人だからだろう。
「はい……入学式で挨拶しようとしたら失敗しましたし、授業も全然、上手くできなくて。先週なんて先生方が歓迎会を開いてくれたのに慣れないお酒で……酔いつぶれてしまって、多大な迷惑を……」
そんな彼の優しさに甘えてしまい、愚痴が零れた。生徒に自分のミスを話す先生。あまりに理想の先生像とかけ離れたそんな自分が更に嫌になった。
「お酒ですか」
「そうなんですよ、普段はあまりお酒を飲まないので慣れない場で緊張してしまってペースがわからず、そのまま……」
「……帰り道とか大丈夫だったんですか? タクシーとか?」
「いえ、ちょっと目を離した隙に迷子になってしまったらしくて……自力で家には帰られたんですけど、榎本先生は夜通し探してくれてて」
馬鹿正直に走り去りましたとはいえず、少しだけ内容を誤魔化す。それにしても鶴来君からこんなに質問されるとは思わなかった。もしかして、意外と話してくれるタイプだったのだろうか。
「……」
「鶴来君?」
「……いえ、何でもないです。大変でしたね」
何故か、反応が返ってこなくなった彼だったが、声をかけると慰めてくれた。うぅ、本当にいい子だ。どうして、私はこんなに優しい子を怖がっていたのだろう。
「はい……本当にこの先、やっていけるんでしょうか」
そして、その流れでずっと溜めこんでいた本心を吐き出してしまう。
ああ、やってしまった。自覚した時にはもう遅かった。
教師になってから見て見ぬふりしていたそれを言葉にしてしまった。でも、口に出してしまったのならもう戻れない。このまま、私は近い将来、教師を――。
「……先生は、北高の卒業生なんですよね?」
不意に鶴来君から聞かれたのは私の学歴だった。しかし、どうして彼は確認するように聞いてきたのだろう。それではまるで、私が北高の卒業生だと誰かに聞いたような言い方だ。
「え? なんで、それを?」
「先生が車を玄関に移動させている間に養護の先生が教えてくれました。漣先生が生徒だった頃から知ってるって」
「へ?」
「その時、先生の顔が……なんというか、懐かしいものを見るような感じだったので……きっと、生徒の頃から漣先生はこうやって誰かのために動いてたのかな、と」
そう言いながら鶴来君はチラリと後部座席へ視線を向ける。そこにはすやすやと眠っている影野さんの姿があった。
――漣ちゃんは人のために一生懸命になれる子だから先生に向いてるかもね。
急いで家に帰らなければならなくて困っていた子の代わりに教室の掃除をしていた時、その途中で転んで頭を強打してしまったことがあった。そして、私の額に湿布を貼りながら事情を聞いた田中先生は楽しそうに笑ってそう言ったのである。
「だから、大丈夫じゃないですか? 先生は自然と生徒に手を差し伸べられる人だと思いますよ」
「ッ……つ、るぎ、君……」
駄目だ、耐えられない。運転している視界がぼやけていく。ポロポロと涙が勝手に落ちていく。
田中先生の言葉を思い出して、鶴来君に大丈夫だと言われ、私は安心したのだ。もうちょっとだけ頑張ってみようと思えたのだ。
ああ、本当に――私はこんな素敵な生徒のことを怖がっていたなんて馬鹿だ。
「え、ちょ……あの、泣かないでください。危ないですから」
「そ、そう、ですね……うえぇ……」
「……はぁ、そこ、コンビニありますよ」
「あい」
このままでは事故を起こしかねないと踏んだ鶴来君に涙を止めるように言われたがそれで止まれば苦労はしない。本当に駄目な先生でごめんなさい。
あえなく私の車はコンビニへと進路を変更したのだった。




