第29話
昔から私は何をしても要領が悪かった。
勉強は緊張して本来の実力を出せず、問題文を読むのが遅くていつも時間が足りなくなる。
運動神経はいい方なのに内気な性格のせいで球技ではボールを触れない。
先生に手伝いを頼まれたら何かしらドジをして仕事を増やす。
そんな自他共に認めるポンコツ――それが私、『漣 美波』という人物だ。
要領が悪いだけではない。性格も人見知りで人付き合いが苦手。頼まれたら断る勇気すら持てない小心者。
自分が何をしたいのか。
何ができるのか。
それすらわからず、日々を生き抜くだけで精一杯だった。
北高に通っていた頃、ドジで怪我を負う機会が多かったため、何度もお世話になった保健室。当時からいる養護の先生――田中先生に『先生に向いていそう』と言われ、それならと何となく教員免許を取り、なし崩しにここまで来てしまった。
「はぁ……」
もちろん、先生になったからといって私という人間は何も変わらない。
『1年D組』で初めて授業をした時も緊張で失敗続き。ほぼ毎日のように残業しなければ授業の準備が終わらない。そんな失敗の中でも一番迷惑をかけてしまったのは榎本先生だ。
入学式があった次の日の夜、木曜日だったが先生たちの都合が合う日がその日しかなく、歓迎会をしようという話になり、断ることもできずについていった結果、飲み慣れていないお酒を飲んで見事に酔った。
しかも、酔った私はいつもよりも行動的になってしまうようで1次会が終わり、解散しようとした直後に持ち前の足の速さでどこかへ走り去ってしまったらしい。曖昧な言い方なのは酔っていた時の記憶がなく目が覚めたのは自宅のベッドの中だったのだ。
そして、走り去った私を夜通し探してくれたのが榎本先生である。目が覚めた後、スマホの通知を確認し、青ざめたのは記憶に新しい。
(榎本先生は笑って許してくれたけど……もう、ほんといやぁ……)
長くて広い廊下を歩きながら私は深いため息を吐く。入学式からすでに1週間ほど経っているが忌々しい記憶は消えてくれない。今度、菓子折りを持って謝ろう。
(授業は西原さんのおかげで何とかなったけど問題は――)
すでに今日の授業は終わっているので廊下に生徒の姿はなかった。下手をすると他の先生たちも帰ってしまっているかもしれない。私は明日の授業の準備があるのでもう少し残っていくつもりだったが、ストレスのせいかお腹の調子が悪くなってしまい、用を足した帰りだ。
その途中で思い浮かべるのは副担任を任されている『1年D組』のこと。いや、具体的には『1年D組』に所属している『鶴来 悠』君について。
とにかく怖い。それだけ。
座っていてもわかるほど鍛えられた体。鋭く突き刺すような目。なにより背筋が凍りつく――威圧、というべきなのだろうか。そんな重圧を感じてしまう。
そのため、彼と目が合うだけで小さく悲鳴を上げてしまうのである。先生が生徒に怯えるなんてあってはならないことなのだが、本能がそれを許さない。他のクラスメイトたちも鶴来君に対してどう接していいのかわからず、様子を見ているようだ。
ただ一人、影野さんを除いて。
学校が始まって1週間。されど1週間。先生である身だが、ある程度、生徒たちの情報は入ってくる。
その情報の中で特に目立っているのが影野さんだった。
容姿が可愛らしい上、人と接するのに慣れていないのか仲のいい西原さんの傍を離れず、楽しそうにしている彼女の姿は人の目を引く。
しかし、何故か影野さんはあの鶴来君と一緒に登校してくるのだ。同じ南町住みとはいえ、仲良くなければ一緒に来ないはず。鶴来君も自分から人に関わろうとするタイプではなさそうなので自ずと影野さんの方から近づいていることになる。
(何もなければいいんだけど……)
あの二人が並んでいる姿を見かける度、その体格差に驚き、心のどこかで影野さんの身を案じてしまう。
「ん?」
2人の姿を思い浮かべているといつの間にか職員室に着いていた。だが、扉越しでも職員室の中が騒がしいのがわかる。何かあったのだろうか。
「戻りましたぁ……あれ?」
おそるおそる職員室の中に入ると深刻な表情を浮かべた田中先生が2人の先生と何か話しているところだった。
「あ、漣ちゃん!」
「は、はいっ!」
私の存在に気づいた彼女は北高に通っていた頃から変わらない呼び方を口にしながらこちらに駆け寄ってくる。お手洗いに行っていた時間はさほど長くないがまた何かやらかしてしまったのだろうか。
「あなた、1年D組の副担だったわよね!?」
「へ? そう、ですけど……」
「だったら、影野さんのことは知ってる?」
「それはもちろん……影野さんがどうかしたんですか?」
「それが――」
それから田中先生は影野さんが貧血で倒れたこと。そして、容態が落ち着くまで様子を見ており、少し用事があって保健室を離れた間に彼女の姿がなくなっていたらしい。担任である榎本先生に相談しようとしたが、今日は用事があるそうで早めに帰ってしまったとのこと。
「校内も走り回って探したけどいなくて……」
「影野さんなら黙って帰らなさそうですし……靴は確認したんですか?」
「ええ、まだあったわ。だから、校内にいるはずなのに――」
「――失礼します」
珍しく慌てている田中先生にどうしようかと思っている時に数回のノックの後、職員室の扉が開いた。
(え、鶴来、君!?)
そこに立っていたのは先ほどまで頭に思い浮かべていた鶴来君の姿だった。だが、すぐに彼が何かを背負っていることに気づく。
「か、影野さん!?」
私よりも早く気づいた田中先生は鶴来君に背負われている影野さんへ駆け寄る。そのまま、触診を行い、命に別条がなかったようで安堵のため息を吐いた。
「教室で倒れてたんで連れてきたんですけど……」
「教室……目が覚めて朦朧としたまま、鞄を取りに行こうとした? ううん、そんなことより鶴来君、見つけてくれてありがとう」
「いえ」
田中先生の言葉に短く答えた彼は職員室を見渡す。何かを探している? そう思っていると彼と目が合い、ビクッと肩を震わせてしまった。
「でも、どうしてこんな時間まで学校に?」
「こいつ、南町住みだし、一人暮らしらしくて……一人で帰ることになったら危ないだろうって一応、残ってました。俺も南町なんで」
彼の言い分に思わず私は目を見開いてしまう。彼と影野さんは知り合って1週間だ。一緒に登校している仲とはいえ、いつ目を覚ますかもわからない彼女のためにこんな時間まで学校に残るのはあまりに人が良すぎる。しかも、鶴来君はそれをさも当たり前のように受けている様子だ。
(もしかして……鶴来君って)
「そうだったの……顔色もいいし、本当ならこのまま帰られるぐらいなんだけど」
田中先生はそこで言葉を濁らせる。そういえば、田中先生は北町住みで学校まで徒歩で通勤している。免許も持っていなかったはずなので車で送ることはできない。
しかし、だからといって鶴来君たちをこのまま帰すわけにもいかなかった。体調は戻ったとしても彼女は未だ眠ったままだ。気絶した女の子をバスに乗せるわけにもいかないし、タクシーで帰った場合、運賃はとんでもないことになってしまうだろう。
「……まぁ、どうにかして帰りますよ。なので、影野の住所を――」
「――あ、あの!」
私たちの様子を見て状況を察したのか、鶴来君は自分で帰ると告げた。だが、さすがにそれはまずいと思わず口を挟んでしまう。まさか遮られると思わなかったようで彼はこちらに視線を向け、その拍子に私の心を恐怖が襲う。
「わ、私が……送ります! 私も南町住みなので車で通勤してますし!」
だが、ここで引くわけにもいかず、声を震わせながらなんとか提案する。それを聞いた鶴来君は数秒ほど考え込んだ後、そっとため息を吐いた。
「……なら、お願いしてもいいですか? 正直、どうやって帰ろうか悩んでいたので」
「は、はぃ! く、車を玄関前に持ってきます!」
あまりに情けない声でそう告げた私は自分の机まで走り、帰り支度を始める。授業の準備は家でもできるので続きは寝る前にやろう。
(榎本先生、お借りします!)
影野さんと鶴来君の住所が載っている名簿は榎本先生の机にある。今回は緊急事態なので榎本先生の机にあるブックスタンドから名簿を抜き取って鞄に突っ込む。
「で、では、お先に失礼します!」
まだ残っている先生に頭を下げ、私は職員室を後にする。生徒を車に乗せるのは初めてだし、その相手があの鶴来君。緊張で事故を起こさないようにしなければ、と自分に言い聞かせながら駐車場へと向かった。




