第28話
喉が渇いた。
ふわふわと水に漂う感覚に陥りながらそんな欲求が襲う。
今、私は何をしているのだろう。前にもこんなことがあったような気がする。
そんな思考が頭を通り過ぎ、何もなかったように消えていく。
ただわかっているのは私は喉が渇いており、それをどうにかしたいと思っているということだけ。
――――――、――――。
何か聞こえたような気がする。気のせいだろうか。
あれ、何が気のせいなのだろう。私は何を気にしていたのだろう。
駄目だ、わからない。何も、わからない。
―――――――――――。
不意に襲う、懐かしい気配。それと同時に鼻腔をくすぐる甘い香り。
まるで、熟れた果実のような香りに引き寄せられる。これだけ美味しそうな香りなのだ、水分もたっぷり含んでいるだろう。
フラフラと、フラフラとそれに近づく。そして、やっと私に体があったことを思い出した。
体を認識した瞬間、匂いを強く意識してしまい、頭がクラっとする。視界もオレンジに染まっており、どこか哀愁を覚えた。
そんなことを他人事のように思っているとその果実との距離が離れる。いや、果実の方が私から距離を取った、というべきか。
――にげないで。
また、あの声だ。しかし、どうしてもその声がどのようなものなのか認識することができない。
唯一、わかったのはその声には嬉しさと悲しみ、ほんの少しの恐怖が込められていることぐらい。
いや、今はそんなことよりも逃げようとする果実だ。ここでこれを逃せば私の喉の渇きは一生、満たされることがないだろう。
そんな私の考えを読み取ったように果実の動きが止まった。ああ、丁度いい。そのままでいて。今、そっちに行くから。
ゆっくりとその果実に近づき、思いのほかそれが大きいことに気づいた。だからだろうか、そっとそれを押して地面に倒す。その上に跨り、一番食べやすそうな細い部分に目を付ける。
口を開けながらその部分に顔を近づけると甘い香りが強くなる。だが、何故だろう。その香りを嗅ぐと胸の奥がキュッと締め付けられた。
いいや、そんなことはどうでもいい。早く、早く――。
――いただきます。
いつもの習慣で食膳の挨拶を済ませた私はその果実にかぶりついた。
重い。まるで、重力が何倍にもなってしまったように体を上手く動かすことができない。
それでも懸命にもがいて私は何とか立ち上がった。
(ここは……)
目を開けても私の瞳は何も捉えてくれない。真っ暗なのか、目隠しをされているのか――それとも視力を失っているのか。体の感覚が鈍くなっている今、それを確かめる術はない。
ゆっくりと両腕を持ち上げ、目の前になにかないか彷徨わせるが触れるモノはなかった。だが、逆説的に言えば前方に障害物はないということでもある。私はのそのそと両手を突き出しながら慎重に歩き始めた。
(どこ……私は、何を……)
フラフラと歩き出したものの、意識がはっきりしないせいでそんな曖昧なことしか考えられない。夢心地、というべきなのだろうか。少なくとも今の私は普段の私とは違うことだけは確かだ。
「ぁ……」
どれほど歩いただろうか。目の前に小さな光が視えた。視界が奪われたわけではないとわかった安心とあの光の正体に対する不安が一緒に込みあげ、思わず足を止めてしまう。だが、その数秒後には再び私は歩みを進めた。
――行かなくちゃ。
少しずつ光が大きくなる。その度に足を止めそうになった。今すぐ体を反転させてあの光から逃げたくなる衝動に駆られてしまう。
――行かなくちゃ。
あれは駄目だ。見ちゃいけない。あれを知ったら戻って来られなくなる。そう、私の中の何かが警告を鳴らす。
――行かなくちゃ。
それでも私は足を止めない。どんなに怖くても、逃げたくなっても、私が私でなくなったとしても、あれはきっと、避けられない。だから――。
――行かなくちゃ。
気が付けば私の目の前には一つの小さな扉が鎮座していた。古ぼけた扉。今にも壊れてしまいそうな、どこか懐かしくて、全く見覚えがないのにもう見たくなかったモノ。
「……」
その扉のドアノブを私はしっかりと握りしめ、捻る。鍵はかかっていない。そのまま、扉を引くと木材の軋む独特な音が響いた。
「こ、こは……」
目の前に広がったのはやけに古い一つの部屋。簡素なベッドとそれに敷かれたボロボロのシーツ。部屋の隅には小さなタンス。そして、ベッドとは反対側の壁に設置された小型のブラウン管テレビ。
私はこの場所を知っている。記憶になくても、体が、心がこの場所を覚えている。でも、これは懐かしさではない。
孤独感、焦燥感、怒り――そして、少しの楽しみ。
そんなごちゃまぜの感情が私を襲い、ふらついた拍子にバランスを崩す。
その拍子にいつの間にか閉まっていた扉に背中を強かに打ちつけ、衝撃で視界が揺れた。
「……え」
そして、ベッドの上に誰かが座っていることに気付く。さっきまではいなかったはずなのに最初から存在していたと言わんばかりに小さな女の子がいた。でも、そんな、だって、あれは――。
「――私?」
私には幼い頃の記憶がない。具体的には6歳以前の記憶を覚えていない。
だから、幼い私の姿はおじさんたちが撮った写真でしか見たことがないし、そこに写っていた私は目の前で笑っている女の子よりも少しだけ成長した姿だった。
(でも、あれは――私だ)
だが、ベッドの上で座っていたのは間違いなく幼い私。断言できるほど私の本能がそう告げていた。
そんな彼女はニコニコとこんな何もない部屋に似つかわしくない笑顔を浮かべながら私を見つめている。心の底から嬉しそうに、笑っていた。
だが、明らかにおかしな点がある。彼女の目が深い紅に染まっていた。あれはまるで――。
「――――」
「え?」
――そんな思考を遮るように幼い私はパクパクと口を動かして何かを伝えようとする。しかし、声は聞こえず、思わず聞き返してしまった。
「? ―――、――。――――――。―――――?」
「えっと、聞こえないよ? なんて言ったの?」
「――……――――――。―――、――――――――」
どれだけ彼女が話そうとしても聞き取れない。それを悟ったのか、幼い私は残念そうに苦笑を浮かべた。その瞬間、ぐらりと体が揺れる。
(あ、まずっ……)
立っていられない。そう思った頃には遅く、私の視界は急速に暗くなっていく。最後に見た光景はこちらに手を振りながら笑う幼い私の姿だった。
――またね。
気を失う直前、そんな声が聞こえたような気がした。




