第27話
「ッ……」
入学式の朝、初めて訪れた教室で彼女を見た時、アタシは雷に打たれたような衝撃を受けた。
ウェーブのかかった茶髪のセミロング。目が細く、笑っていないと怒っているように見られてしまうアタシとは違ってとても可愛らしい容姿。
なにより、今にも死んでしまいそうなほど何かに怯えながらスマホを操作している姿は庇護欲をそそられ、下に3人の兄弟がいるアタシにはクリティカルヒット。今すぐにでも駆け寄って守ってあげたくなってしまった。
(いや、落ち着いて……)
黒板に貼られている座席表へ向かいながらアタシは小さく深呼吸。彼女の顔に見覚えはない。おそらく、最近、北町に引っ越してきた子だ。いきなり、こんなギラギラ金髪に話しかけられたら余計に怯えさせてしまうに違いない。ぜひ、仲良くなりたいが慎重に関係を築いていかなければならないだろう。
「座席、座席……え?」
そう思っていたのだが、どうやらアタシの席は彼女の前のようだ。今のところ、彼女に興味を示しているクラスメイトはいなさそうなのでチャンスだ。やはり、初めての教室で最初に知り合った人は印象に残りやすい。怖がられないようにゆっくりと近づいて――。
「おはよー」
「ッ……」
――ズズ、と椅子を引きずりながら彼女、『影野 姫』さんに声をかけた。
これがアタシとひーちゃんの出会い。運命、というのは少しだけ大げさかもしれないけれど、アタシにとって一生、忘れられない朝になった。
「……」
ざわざわと賑やか――というより、少しだけ騒ぎになっている廊下をアタシはひーちゃんの鞄を持ったまま、歩く。きっと、今のアタシは嫌悪感を隠し切れず、酷い表情を浮かべているに違いない。
「……」
廊下が騒ぎになっているのも、アタシが嫌悪感を抱いているのもアタシの隣を歩く、苦しそうに呻き声を漏らしているひーちゃんを揺らさないようにお姫様抱っこで運んでいる大男――鶴来のせいだ。180cmを超える身長はもちろん、鍛えているのか制服の上からでも筋肉が盛り上がっているようで筋肉フェチの人にはたまらないだろう。生憎、アタシにはそんな趣味はないが。
そんな男が苦しそうにしている女の子を運んでいるのだ、騒ぎにならないはずがない。それなのに鶴来は興味なさそうに堂々と廊下の真ん中を歩いていた。
(ほんと、こいつ……)
この男は何故かひーちゃんから気に入られている。ひーちゃん曰く、何度も助けてくれた上、とても優しい人らしい。だが、アタシはどうしても彼女の言葉を信じることができなかった。
「着いたぞ」
「っ……わかってるつーの。失礼しまーす」
北高の保健室は職員室の斜め前――つまり、西棟に移動するために渡り廊下を歩いていたのだが、考え事をしている間に保健室まで辿り着いていたようだ。両手が塞がっている彼の代わりに保健室の扉を開け、中にいた養護の先生に事情を説明。その間に鶴来は先生に指示されたベッドにひーちゃんを運び、丁寧に布団をかけてあげていた。
「貧血、かしら? 少し様子を見てみましょうか」
「わかりました。鞄、置いておきます」
「ええ、ありがとう」
『じゃあ、あとは任せて』と笑う養護の先生に頭を下げてアタシと鶴来は保健室を後にした。ひーちゃんの鞄は持ってきたが、自分のそれは教室に置いてきてしまったので仕方なく、鶴来と並んで『1年D組』の教室を目指す。
「……」
「……」
無言。それもそうだ。アタシはこいつのことを毛嫌いしているし、1週間でわかってしまうほどこいつは人と関わろうとしない。休み時間は机に伏せて寝ているし、放課後はいつの間にか消えている。そんなところも気に食わない。
「……ねぇ」
我慢の限界が来たアタシは立ち止まって鶴来を呼び止める。さすがにこの状況で他の人を呼んだとは勘違いしなかったようで彼は数歩先で立ち止まり、こちらを振り返った。
「……ッ」
真っ黒な目。何もかも吸い込んでしまいそうで、何も映していないその瞳に背中が凍り付く。ああ、やっぱり、駄目だ。本当に、気に食わない。
「あんた、ひーちゃんのこと、どう思ってんの?」
「……何が言いたい」
自分でも驚くほど低い声が漏れた。しかし、それでもその声以上に低い声で鶴来が聞き返してくる。あまりに低くて大きな声を出しているわけでもないのにビリビリとお腹の奥が揺れたような気がした。
「ひーちゃんは……あんたのこと、すっごく褒めてた。優しい人だって」
「……」
「それだけじゃない。クラスメイトたちがあんたと関わることを心配して声をかける度、そんな人じゃないって説明してた」
この1週間でアタシは思い知らされたのだ、ひーちゃんが鶴来に向ける感情があまりにも大きいことに。
『違うよ』。
『そんな人じゃないよ』。
『優しい人だよ』。
『悪い人じゃないよ』。
『友達になりたい人だよ』。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
ひーちゃんは丁寧に説明した。そのおかげで今ではクラスメイトのほとんどが鶴来に対する警戒心を和らげた。もう少しだけ様子を見よう。それが皆の答えだった。
「あんたはどうなの? あんなにひーちゃんに想われて……肝心のあんたはひーちゃんのこと、どう思ってんの?」
まだ彼女たちが出会って1週間。されど1週間。
アタシは嫌というほどひーちゃんが楽しそうに鶴来のことを話す姿を見た。
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに――そして、僅かに寂しそうにしている姿を何度も見た。
その度にアタシの心が悲鳴を上げた。ああ、こんないい子がそんなに褒めるのなら、鶴来は悪いやつじゃない。そう、思いたかった。
でも、それをアタシの弱い心が許さない。
思い出すのは入学式の日、自己紹介の時間。
彼が席を立った瞬間、アタシはどうして同じクラスにこんな化け物がいるのか、理解することができなかった。
こいつは駄目だ。一緒にいてはならない存在だ。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
そんな衝動に襲われ、ガタガタと震える体を抑えるので精一杯だった。
「……」
アタシの問いに鶴来は答えず、ジッとこちらを睨みつける。
そう、その目だ。その目が、怖くて仕方ない。きっと、ひーちゃんが関わっていなければ喚き散らしながら脱兎の如く、この場から逃げ出しているだろう。
「答えてよ、鶴来。ひーちゃんのこと、どう思ってんの?」
でも、逃げちゃ駄目だ。
あんなに可愛くて、自分のことより他人を優先してしまうほどやさしくて、驚くほど自分に自信がなくて、誰かが守ってあげなきゃすぐに壊れてしまいそうなアタシの大切な友達を守るために。
「……変な奴」
「……はぁ!?」
しかし、決死の覚悟で聞いたアタシに鶴来はため息交じりにそう答えた。あんないい子に好かれているのに答えが『変な奴』? ふざけんな!
「今言ったよね? ひーちゃんはあんたのためにクラスメイトの誤解を解いてるって!」
プチンと何かが切れたような音がした。恐怖よりも怒りが勝ったアタシは鶴来の胸ぐらを掴もうとして――ちょっと身長が足りず、届かなそうだったのでネクタイを引っ張りながら叫んだ。
「なのに、あんたは……図体でかいし、顔は怖いし、近づいてくるなオーラがすごいし、絶対、何人か殺してそうだし!」
「殺してねぇよ」
「知ってるよ!! 知ってるけど……怖いの。ひーちゃんのこと、信じてあげられないの!!」
ああ、そうか。やっと、わかった。アタシ、ひーちゃんのことを信じてあげられなくて悔しいのだ。友達が誤解を解こうと必死に話しているところを何度も見ているのにどうしても信じきることができなかった。
おそらく、ひーちゃんにクラスメイトたちを紹介したのもそう。彼女に友達が出来て欲しいというのは嘘ではない。しかし、たくさん友達を作って鶴来のことを忘れて欲しいと無意識に願っていたのだ。
結局、ひーちゃんのためと宣い、あれこれと世話を焼いていたが全てアタシのためだった。そんな奴が彼女の友達であっていいのだろうか。ひーちゃんが許してもアタシがアタシを許せるだろうか。
「……お前は」
「……え?」
不意に鶴来が呟くように声を漏らした。それにハッとして顔を上げる。そのタイミングで彼のネクタイを掴んでいる手が白くなっているのに気づき、自然と力が抜けた。
「何?」
「いや、何でもない」
「そんな――」
「――あいつは」
何か言いかけたのでその内容を聞き出そうとしたが、彼は答えるつもりはないようだ。さすがに無視できないがアタシの言葉を遮るように話し出したので咄嗟に口を噤む。
「噂とか、見た目とか、雰囲気とか……そんな曖昧なもので判断しない。自分で見たもの、感じたこと、信じたことを疑わず、真っ直ぐに受け止めてる」
「……」
「だから、総合して変な奴」
「ちょっと……」
「普通、俺に絡んでくるのは変だろ」
そう言いながらため息を吐く鶴来。それを見てアタシはやっと気づいた。
アタシはひーちゃんの気持ちがわからない。こんな恐ろしい奴に自分から近づいていく彼女の気持ちを理解できなかった。
もしかしたら、アタシは大きな勘違いをしていたのかもしれない。
アタシ以上に鶴来は自身の異常性を把握し、その上で近づいてくるひーちゃんの正気を疑っているのだ。
「……はは」
なんと皮肉な話なのだろう。アタシは一番理解してあげたいひーちゃんよりも鶴来の考えの方が理解できている。つまり、アタシの感性はひーちゃんより彼に近いのだ。
「……もういい」
そんな彼の様子を見てアタシは思わず脱力してしまう。正直、今もこいつの傍にいるだけで悪寒が止まらないのだが、少しだけ見方は変わった。
「今回はそれで勘弁してあげる」
「そりゃどうも」
「でも、やっぱり、まだあたしはあんたのこと、疑ってるから。少しでもひーちゃんに悪影響を与えそうだって思ったら引き離すよ」
「ああ」
これでアタシも他のクラスメイトと同じように様子見勢だ。だが、警戒は解かない。アタシがひーちゃんを守るのだ。
「……それにしても、ひーちゃん、大丈夫かな」
再び、歩き出したアタシは気が抜けたのか、思わず独り言を漏らしてしまう。保健室には届けたが問題は家までどう帰るかだ。
「大丈夫だろ。症状が悪化したら親を呼ぶだろ」
「え? あんた、知らないの? ひーちゃん、一人暮らしだよ」
毎朝、一緒に登校しているのですでに聞いていると思っていた。それから鶴来は少しだけ考える素振りを見せ、仕方なさそうにため息を吐いた。
「そういうことなら一応、残っておく」
「え? 残るって……」
「俺も南町住みだからな。影野が一人が帰るってなった時、付き添う」
「でも、すごく遅くなるんじゃない? ひーちゃん、いつ起きるかわからないし」
「いや、気にするな」
まさか自分からそんな提案をしてくると思わなかったアタシは目を丸くしてしまう。鶴来も南町住みなのは知っていたが、待っていれば家に着く頃には完全に日は沈んでいるだろう。
(こういうところ、か?)
ひーちゃんが鶴来のことを優しいと言っていた理由が何となくわかったかもしれない。本当はアタシが残ってあげたいのだが、今日は兄弟たちの世話をしなければいけないので早く帰らなければならないのだ。
「……じゃあ、お願いね」
「ああ」
不安はある。しかし、ひーちゃんも懐いているし、彼しか頼れないのも事実。仕方なく、ひーちゃんを託すことにする。
(ひーちゃん、早く元気になってね)
帰り支度をするため、教室を目指す。その前に保健室の方に振り返り、友達の快復を祈った。




