第26話
結局、土日はあやちゃんと遊ぶことなく、予定通りに部屋の掃除やバイトについて調べるだけで終わった。成果といえば金曜日の放課後、校門前で別れる前にあやちゃんを始めとした3人と連絡先を交換したぐらいだろうか。さすがに赤川君とはやり取りしていないがあやちゃんや杏子ちゃんとSNSでそれなりの頻度で連絡を取っていた。
それから特に語ることもなく、学校生活は続く。
朝は鶴来君と一緒に登校し、授業を受け、あやちゃんとお昼を食べて、放課後は少しだけクラスメイトたちと交流し、長い時間をかけて家に帰る。
相変わらず、鶴来君の評判は悪いものだが、少なくともクラスメイトたちが私の心配をすることはなくなった。様子見、ということなのだろう。鶴来君本人も休み時間は自分の席で寝ているので良くなることも悪くなることもない。まぁ、明らかに怖がりな漣先生には授業の度に怖がられていた。クラスメイトはともかく先生に鶴来君の話をするタイミングなどなく、どうしようかと頭を抱えている。
問題があるといえば気のせいかもしれないが――日が経つにつれ、落ち着いていた喉の渇きが酷くなっていったことだろうか。
いや、この喉の渇きこそ兆候だったのだ。どんなに水を飲んでも満たされない渇き。
今思えば、全てはこの日から始まったのだろう。
それに気づいた時には何もかもが手遅れで、すでに大切なものは手を伸ばしても届かないところにあった。
高校に入学してから1週間ほど経った4月14日の木曜日、その日は朝から調子が悪かった。
頭は上手く回らないし、力が入らないせいでベッドから降りるときに転んでしまったほどである。なにより、喉の渇きが酷く、学校に向かう前に2Lペットボトルのミネラルウォーターを飲み干してしまった。
「はぁ……」
北高に入学してすでに1週間が経ち、気が抜けて体調を崩してしまったのだろうか。しかし、家を出る前に熱を測ってみたが平熱より少し高いだけで特に異常は見受けられなかった。
「ひーちゃん、大丈夫?」
午前中の授業も半分が終わり、次の教科の準備をしていると前に席に座っているあやちゃんが心配そうに振り返りながらそう問いかけてくる。表に出さないようにしていたが、彼女にはばれてしまっていたようだ。
「うん、大丈夫大丈夫」
「でも、すごくダルそうだよ?」
「熱があるわけでもないし、ちょっと力が入らないだけだから」
「風邪かなぁ。保健室、付き合おうか?」
「そこまでしなくて大丈夫だよ! ほら、授業始まっちゃうから」
そう笑ってみせるが、まだ納得してなさそうなあやちゃんは『具合悪くなったら教えてね』と言いながら視線を前に戻した。こんな私を心配してくれる喜びと気を遣わせてしまった罪悪感で少し胸がもやもやしてしまう。
「……」
「……えっと、どうしたの?」
「いや、何でもない」
私とあやちゃんのやり取りが聞こえていたのか、珍しく起きていた鶴来君がジッとこちらを見ていることに気付いた。首を傾げながら声をかけるものの、彼は短く答えて机の中から国語の教科書を取り出す。もしかしたら、あやちゃんだけでなく、鶴来君も私の不調に気づいていたのだろうか。
(あまり心配かけないようにしなきゃ)
普段から二人には助けられているので余計な心配をかけたくない。今日は木曜日なので明日も学校があるし、早めに寝ようと心に決め、教科書を机の上に置いた。
「……」
「ねぇ、ひーちゃん……早退した方がいいよ」
時間が経ち、お昼休み。いつものように食堂にお昼ご飯を食べに来たのだが、どうしても食欲がわかず、私はテーブルに伏せていた。そんな私を見かねたあやちゃんが呆れたようにそう口にする。
「やだぁ……」
「やだって……だって、そんな状態じゃ午後の体育、しんどいでしょ?」
「そう、なんだけど」
でも、この生活に慣れてきたとはいえ、まだ入学して一週間。早退して変なイメージを持たれるのは避けたい。
「体調は悪くないの。ただ、すっごくダルいの」
「それを体調が悪いって言うんだよ……」
私の言葉を聞いた彼女はため息を吐き、チュルチュルとうどんを啜る作業に戻った。食堂に初めて来た時、あやちゃんは食堂のうどんのクオリティーに感動して以来、そればかり食べるようになったのである。
「ほら、鶴来は二日目に早退してたじゃん?」
「あれは本当に具合悪そうだったから」
「ひーちゃんも十分、具合悪そうだよ」
「うっ……」
最近、あやちゃんも遠慮がなくなってきたのか、ピシャリと言い切られてしまい、言葉を詰まらせてしまう。どうにか言い訳をしなければ、と上手く動かない頭で考えていると不意にあやちゃんが『ごちそうさま』と呟いた。
「まぁ、早退するかどうかはひーちゃん次第だから。でも、絶対に無理しちゃ駄目だからね?」
「う、うん……ありがと」
「はいはーい、片づけてくるから大人しく待っててねー」
顔を上げてお礼を言う私にあやちゃんは苦笑を浮かべた後、食べ終わった食器を下げに行った。
(午後からの授業、がんばろ……)
今一度、気合を入れ直した私は食堂に来た時に買っておいた紅茶の入ったペットボトルを手に取り、一気に飲み干した。
(やばい、かも……)
午後の授業を乗り切り、帰りのホームルームも終わって榎本先生が教室を出ていった瞬間、私は力尽きた。ガン、と頭を机にぶつけるように倒れ込んでしまう。
「ちょ、ひーちゃん!?」
その音を聞きつけたあやちゃんが慌てように私の肩を揺らすが、それに答えることもできず、情けない呻き声が口から漏れた。
「だから、無理しないでって言ったのに!」
「ご、めん……」
頭が痛い。吐き気がする。体がダルい。熱っぽい。
そんな症状が一気に襲ってきて声を出すのも億劫。完全に体調を崩してしまっている。席を立つのも難しいかもしれない。
「大丈夫? 帰られそう?」
「……」
「さすがに無理か。とりあえず、保健室に行って寝た方がいいかも。哲史、あんた手伝いなさい」
「お、おう」
あやちゃんは赤川君に声をかけながら立ち上がり、私の脇に肩を差し込むようにしてグイっと持ち上げる。赤川君も私の腕を掴んでそれを手伝っていた。だが、女子の体だから遠慮しているのかあまり力が入っていない。そのせいであやちゃんがバランスを崩しそうになって悲鳴をあげた。
「ちょっと、哲史! もっとしっかり支えてよ!」
「いや、だって!」
「あ、の……」
「……はぁ」
耳元で騒がれてガンガンと頭に響き、目の前がグルグルと回り始める。これは本格的にマズいと一度、座らせてもらおうと二人に声をかけようとするがその前に聞き慣れたため息が耳に届いた。
「え、何?」
「ちょっと診せてみろ」
「……鶴来、君?」
いきなり立ち上がった鶴来君にあやちゃんは戸惑うがそんな彼女を無視して彼は私の顔を覗き込んでくる。ジロジロと見られて少しだけ恥ずかしい。
「貧血っぽいな。保健室で薬を貰ってしばらく安静にしてたら治るはずだ。影野、歩けるか?」
「……無理、かも」
「ああ、それで構わない。背負うつもりだが、掴まってられそうか?」
「……」
それも厳しいかもしれない。手先が痺れて上手く動かず、姿勢を保つのも辛いのだ。こんな状態では背負われている時にバランスを崩してしまいそうである。
「……悪く思うなよ。西原、そのまま支えてろ」
「ちょっと、何する気って……わお」
突然、訪れる浮遊感。それでいて温かい何かが私の体を包みこんだ。ボーっとする頭で状況を確かめようと顔を上げるとそこには鶴来君の顔があった。
「つる、ぎくん?」
「そのまま丸くなってろ。暴れるなよ」
どうやら、私は鶴来君に横抱き――いわゆる、お姫様抱っこなるものをされているようだ。これなら力の入らない私を運ぶことも可能だろうけど、こんなほとんど脱力している人を保健室まで運ぶとなると鶴来君に負担がかかってしまう。
「……うん」
でも、彼のガッシリとした体を間近で感じ、安心して目を閉じる。鶴来君なら大丈夫。何故か、そう確信できた。
「じゃあ、連れていくから影野の鞄、持ってきてくれるか」
「……わかった。アタシも付き添う」
「ああ」
どこか納得していなさそうな声音であやちゃんがそう言ったが鶴来君は特に気にしている様子はない。多分、まだあやちゃんは鶴来君を信じ切れていないのだろう。また今度、鶴来君のことを話して誤解を解かないと。
「じゃあ、行くぞ」
目を閉じている私を驚かせないために声をかけた後、彼はゆっくりと歩き出す。極力、揺らさないようにしているのがわかる。
(結局、迷惑かけちゃったな……)
少しだけ肌寒い廊下を鶴来君に運ばれながら小さくため息を吐いた。
人の目を気にするあまり、無理をして、せっかくの気遣いを無下にして、最終的に手を煩わせて。
「ご、めんね」
「別に気にするな」
「うん……」
鶴来君は特に気にする様子もなく、廊下を歩き続ける。それでもやっぱり、お礼をしたい。鶴来君だけじゃなくてあやちゃんや赤川君にも。
(早く、元気にならなきゃ)
そう考えながら私の意識はゆっくりと遠のいていく。
ああ、喉が渇いたな。




