第23話
視界がぼやける。頭も上手く回らない。フラフラとあてもなく歩いているのは理解しているが、薄暗くてどこにいるのかわからなかった
(私、何を……)
どうして、こうなったのだろう。記憶を呼び起こそうとしても霧がかかったように何も思い出せない。それでいて私の体は本能のまま、歩き続けている。
なにより、そんな状況なのに私自身、どうにかしようと思えなかった。まるで、ぼーっとテレビに映る適当な番組を眺めているような感覚。そんな夢心地のまま、他人事のようにゆっくりと流れる景色を見ていた。もしかしたら、本当に夢なのかもしれない。あの深い森の夢とは違い、はっきりと夢だと認識できていないので何とも言えないが。
「ぁ……」
その時、不意に私は掠れた声を漏らす。あまりにも小さくて発した自分でさえ微かにしか聞こえなかったほどだ。そして、不意に喉の違和感に気づいた。
――ああ、喉が渇いた。
私が顔を上げる。そこには人影一つ。ゴクリと喉を鳴らす音が異様なほど耳に突き刺さった。そのまま、ゆっくりとその人影に近づく。
最後に映ったのはウェーブがかかった長い黒髪だった。
「ッ――」
目を覚ます。そして、何か考える前に襲う吐き気。ベッドから転げ落ちるように降りた私は部屋を飛び出し、トイレへと駆け込んだ。そして、そのまま胃の中の物をぶちまける。
「ッ……ぁ、はぁ……はぁ……」
口から酸っぱい液体が便器の中へ落ちていくのを見ながら震える手でレバーを引いて水を流す。僅かに残る吐しゃ物特有の匂いに顔を歪めながら便器にすがりつくようにへたり込んだ。久しぶりに吐いたので呼吸が乱れ、自然と目から涙が零れた。
(な、なに、が……)
起きてすぐ吐いた経験などなく、私が正気に戻ったのはしばらく経った頃であり、何とか立ち上がったが力が入らず、すぐにその場で尻もちを付いてしまう。
(どうしちゃったんだろ……)
4月8日、今日で高校生活3日目。もしかしたらあやちゃんと仲良くなって緊張が解け、一気に疲労が出てしまったのかもしれない。
「ぁ……」
これからどうしようと思ったところで微かに目覚まし時計の音が聞こえた。どうやら、トイレでぼーっとしている間に起床時間になってしまったようだ。
改めて体の調子を確かめたが、少し体がダルいだけで体調自体は悪くない。フラフラと立ち上がって深呼吸をすればすっかりいつも通りに戻っていた。
「ほんと、なんだったんだろ?」
首を傾げるが原因らしい原因を思い出せず、仕方なく私は朝の支度を始める。その頃にはあの不思議な夢のことはすっかり頭の中から抜け落ちていた。
「……」
今朝の騒動のせいで昨日よりも遅く家を出たため、鶴来君との待ち合わせ(厳密にはしていない)の時間まであまり余裕はなかった。しかし、走るほどではないので少しだけ早歩きで向かっていたのだが、少しだけ体の違和感を覚える。
(なんか、軽い?)
ほんの少しだけだが、昨日よりも調子がいいような気がしたのだ。今ならあの忌まわしき体力テストの記録を更に塗り替えられそうである。これ以上、化け物染みた記録を出せば本格的に周りから浮いてしまいそうなのでやらないけど。
「……あれ」
約束の時間まで残り数分というところで合流地点が見えてきた。すると、この二日ですっかり見慣れた大きな男の子が電柱に背中を預けて待っているのに気づく。あれだけ私のことは待たないと言っていたので思わず目を見開いてしまう。
「鶴来、君? おはよう……」
「……ああ」
戸惑いながら挨拶すると彼は短く答えた後、ジッと私を見つめてきた。鋭い眼光に自然と背筋が伸びる。何か私の顔についているだろうか。
「……行くぞ」
「え? あ、うん!」
数秒ほど私を見つめていた鶴来君だったが、満足したのかさっさと歩きだしてしまう。慌てて私も彼の隣に移動してバス停へ向かった。
「……ぁ、昨日、大丈夫だった?」
歩き出してしばらく無言のままだったが、鶴来君が早退したことを思い出す。ああ、私の馬鹿! 本来なら出会ったときに体の調子を聞くべきだったのだ。これではあまり心配していなかったように聞こえてしまう。
「……ああ。そっちは?」
しかし、鶴来君は早退した自分のことより、私の体調を気にしているようだった。確かに今朝は嘔吐してしまったが、今はむしろ調子がいい方だ。
(あ、もしかして……)
彼が気にしているのは彼に触れた時に受けたあの衝撃のことだろうか。あれ以降、体調を崩したわけではないし、さすがに今朝の嘔吐とは時間が空きすぎているため、無関係だろう。異常に向上した身体能力についてはわけがわからなすぎて考えないものとする。
放課後だってあやちゃんとファミレスで話をしただけで変なことは起きていない。バスに乗って帰って――それから……それから?
「影野?」
「へ? あ、ううん! 特に問題ないよ!」
「……そうか」
何かを思い出しかけた時、鶴来君に呼ばれ、慌てて返事をした。そんな私の答えに彼は頷くだけで口を閉ざしてしまう。
(何だったんだろ、今の)
昨日は普通に帰った、はずだ。帰ったからベッドで寝ていた。そのはずなのに、私はどうしても家に帰ってからの記憶を思い出すことができない。初めて友達と一緒に放課後を過ごしたので疲れ切っており、朦朧としたまま、眠ってしまったのだろうか。そのせいで今朝、トイレで胃の中の物をぶちまけてしまったのかもしれない。精神的疲労、というやつだ。もっと、精進しなければ。
そんなことを考えているうちにいつの間にかバス停に辿り着き、昨日と同じ席に並んで座る。もちろん、それまでの間に私たちは無言だった。私は考え事に夢中だったし、鶴来君から話題を振ってくることはない。当然の結果といえばそうなのだが、せっかく一緒に登校しているのだから話せばよかったと少しだけ後悔。
「……だよねー」
そして、鶴来君はさっさと寝てしまい、私は苦笑を浮かべた後、鞄から本を取り出す。
高校生活が始まったばかりだが、これからも鶴来君とこうやって登校したいな、と思いながら。
(それにしても――)
――少しだけ、喉が渇いた。




