第18話
「……」
教室に到着してから数十分ほど経過し、時刻は8時15分を過ぎたところ。朝のホームルームが8時40分から始まるため、クラスメイトたちはすでに半分以上が登校済み。しかし、私の前の席はまだ空席だった。
(昨日も結構ギリギリだったよね)
私が待っているのは昨日、唯一私に話しかけてくれたクラスメイト、あやちゃんである。少し目に刺さるギラギラとした金髪をサイドにまとめたギャルっぽい子だ。
「……」
そわそわ。そわそわ。そわそわ。
そんな効果音が聞こえそうなほど私は自分の席であやちゃんが来るのを待っていた。もちろん、朝の挨拶をするためである。
正直、今の私には鶴来君とあやちゃん以外のクラスメイトに自分から話しかける度胸はない。なので、まずはあやちゃんとの関係を深めることに集中することにしたのだ。焦ってはいけない。ゆっくり、確実に行動するべし。
「おっはよー」
「ッ……」
その時、教室の入口近くで待ち人の明るい声が聞こえる。そちらへ視線を向けるとあやちゃんは廊下側の席に集まっていた女子生徒たちに笑顔で話しかけていた。やはり、彼女もほとんどのクラスメイトたちとすでに知り合いのようだ。
(き、来たッ……)
だが、挨拶もそこそこに彼女はこちらへと歩いてくる。もう少し話すと思っていたので心の準備ができておらず、心臓が跳ねてしまった。
「ひーちゃん、おはよー」
私がドギマギしている間に自分の席に着いたあやちゃんは鞄を机に置いて私に笑いかけてくれる。ああ、よかった。昨日の出来事は夢ではなかったらしい。
「お、おおおおはよ……」
私も挨拶を返すが緊張のせいで情けないものになってしまった。鶴来君に対してはもっとマシな挨拶ができたのに、と落ち込んでしまう。
「もー、そんなに緊張しなくても大丈夫だよー。今日から授業が始まるね」
「そ、そう、だね!」
「あ、でもその前に校内を回るんだっけ? よかったら一緒に並ばない?」
「う、うん! い、いいよ!」
あやちゃんは私に気を使ってくれているのだろう。どんどん話題を提供してくれる。それに答えるのに精一杯な私だが、会話が途切れて気まずくなるよりはるかにマシ。私から話題を振るということも難しいので正直ありがたかった。
「あとは部活とかの説明があるんだっけ? ひーちゃんはどっか入るん?」
「あー……今のところ、入る、つもりはないかな」
「えー? なんかあるの?」
「えっと……私、南町住みで……」
「……へ?」
私が南町住みだと告げると彼女は目を点にしてポカンとしてしまう。昨日は用事があると言ってお誘いを断ったが、住んでいる場所までは伝えていなかった。そのため、まさか私がそんな遠いところから登校しているとは思わなかったのだろう。
「み、南町!? めっちゃ遠いじゃん!」
「う、うん……」
「うへぇ……そりゃ部活には入れんわけだ。あれ、南町っていえば……」
そう言ってあやちゃんは私の隣で眠っている鶴来君へ視線を送る。その視線にはどこか恐怖の色が見てとれた。
「まぁ、放課後に聞けばいいか……じゃあ、放課後は真っ直ぐ家に帰るんだ?」
「い、一応バイトはするつもりだよ?」
「おー、バイトかー。お金は欲しいもんねー。アタシもやろっかなー」
「うん、そうだね……」
私の事情を知らない彼女は腕組みをしてうんうんと納得している。まぁ、わざわざ話すことでもないので曖昧に頷いておく。
それから他愛のない雑談をあやちゃんとして過ごしていると不意にチャイムが鳴った。いつの間にかホームルームが始まる時間になっていたらしい。
「皆さん、おはようございます」
(あ、起きた)
榎本先生の登場とほぼ同時に鶴来君が体を起こして枕代わりにしていた鞄を机のフックに引っかける。さっきまで寝ていたとは思えない俊敏な動きに私は思わず破顔してしまう。
「号令は……山崎君、お願いします」
「はーい、きりーつ」
廊下側の一番前に座っている山崎君の号令で朝のホームルームが始まった。
榎本先生から今日一日の日程を話されたが、始業式が体育館で行われており、在校生がそれに参加している間に1年生は順番に校内をぐるりと一周するらしい。それから部活に関して話した後、通常の授業が始まるそうだ。
「それでは早速、校内見学に行きましょう。廊下に出て二列に並んでください」
「ひーちゃん、行こっ!」
「う、うん!」
朝のホームルームも終わり、榎本先生の先導に従って校内見学が始まった。私は朝、約束した通り、彼女と並んだのだが、鶴来君のことが気になってチラリと後ろを見ると最後尾で欠伸をしていた。隣の男子は一つ前に並んでいる男子たちと話しているのであそこだけ3人横に並ぶような形になっているため、実質、彼は一人で歩いている。きっと、それは隣に並ぶはずだった男子も、彼自身もそう望んだ結果だ。私がとやかく言うのは余計なお世話なのだろう。ちょっとだけ気に食わないけれど。
他のクラスと鉢合わせて混乱しないようにクラスごとに回る順番が決まっているようで私たちは渡り廊下を通って西棟から見学するらしい。あやちゃんと小声で話しながら歩いていると途中、他のクラスの1年生と廊下で出会ったが、廊下の幅が広いため、難なくすれ違うことができた。こうしてみると廊下の幅が広いのも悪くないかもしれない。
程なくして校内見学が終わり、再び教室に戻ってきた。
「それでは部活に関してですが――」
そして、予定通り、部活について榎本先生が話し始める。北高にはポピュラーな部活はもちろん、他の学校ではあまり見ない部活も多いらしい。そう説明した後、先生は部活の一覧が記載されたプリントと入部届を配った。
(部活か……)
部活。青春を語るには避けては通れないもの。私自身、本当は入りたかった。運動部で一緒に練習して汗を流したり、文化系の部活に入って趣味を見つけたり。きっと、楽しいことがいっぱいのはずだ。
しかし、登下校にかかる時間とバイトをしなければならないことを考慮すれば部活は諦めるしかない。それに――。
――少し運動できるからって調子乗んなよ。
「……」
それにしても、と改めて部活の一覧に視線を落とす。榎本先生の話にあったように聞いたことのある部活から初めて見るものまで記載されており、北高は本当に部活の種類が多いようだ。
(野球部、サッカー部、バレー部……漫研、軽音部。落研ってなんだろ? あ、オカ研まであるんだ)
中学校は帰宅部だったので部活には疎く、部活名だけでは内容がわからないものがあった。後で調べてみようと詳細がわからない部活に印をつけるためにペンを――。
「ぁ……」
――取ろうとして手が滑ってしまい、カランと音を立てて床に落ちてしまった。コロコロと転がったそれは私と鶴来君の席の間で止まる。
落としてしまった物を拾う。それは当たり前の行為であり、私も何も考えずに床に落ちているペンに手を伸ばした。だからこそ、反対側から伸びた手に気付くのが遅れたのだろう。
「……っ」
ペンに触れる直前、温かい感触が指先に広がる。その手の持ち主はわざわざ私が落としたペンを拾おうとしてくれた鶴来君。彼も私のペンを拾おうとしてくれたようで偶然、手と手が触れてしまったらしい。
やはり、彼は優しい人だ。こうやって、自然と手を差し伸べることができるのだから。
しかし、その思考は一瞬だけ。お礼を言おうと口を開けた時だった。
バチリ、という音と共に凄まじい衝撃が体を駆け巡った。
「ッ――」
そのあまりの衝撃に私は左手を庇いながら音を立てて立ち上がってしまう。鶴来君も大きく目を見開いて右手を凝視している。そして、彼が私を見上げ――目と目が合った。
(何、今の……)
静電気、にしては衝撃が強すぎる。明らかに別の何かが起きた。しかし、その正体はわからない。ただ、間違いなく、私と鶴来君の間で何かが起こったのである。
「影野さん、どうかされましたか?」
「……ぁ、いえ……静電気にビックリして……」
「そうですか。一応、授業中なので気を付けてくださいね」
「す、すみません」
榎本先生に注意され、私は縮こまりながら着席する。心配そうにこちらを見ていたあやちゃんに大丈夫だと小声で伝え、床に落ちていたペンを拾った。そのまま、鶴来君へ視線を向け、彼の様子を窺う。驚いたね、と軽く笑い合えたらと思いながら。
「……」
しかし、彼は見るからに顔を青ざめさせて右手を見つめていた。抑えているようだが、呼吸も乱れている。見るからに異常だった。もしかしてさっきの何かで体調を崩してしまったのかもしれない。
「つ、鶴来君? 大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だ」
思わず声をかけるが鶴来君は見つめていた右手を隠すように机の下に移動させてそう答えた。だが、その声すら震えている。このまま放っておける状態ではないのは確かだ。
「でも、顔色が……保健室、行った方がいいんじゃない? 今にも倒れそうだよ?」
「……そう、だな。そうする」
「うん、わかった……先生!」
鶴来君が頷いたのを見て慌てて先生に声をかける。それから鶴来君が体調を崩したことを伝えた。
「それはいけませんね。鶴来君、急いで保健室に。付き添いは――」
「――いえ、付き添いは必要ないです」
先生の言葉を遮って鶴来君は立ち上がり、フラフラと教室を出ていってしまう。心配だったが、意識ははっきりとしていたし、昨日の帰り道のこと思い出して呼び止めることもできず、彼の背中を見送った。
「鶴来、どうしたんだろ? さっきの静電気で感電したとか?」
「わかんない……」
さすがにあやちゃんも鶴来君のことが心配になったのだろうか。冗談を交えながら聞いてくるものの、私にも原因はわからない。
「では、話の続きを――」
ざわついていた教室は榎本先生のその言葉で静かになる。それでも私は彼の机から目が逸らせず、まだ少しだけ痺れている左手をギュッと握りしめた。
結局、鶴来君はそのまま帰ることになったらしく、授業が始まる前の休み時間に私が自動販売機で飲み物を買って帰って来た頃には鞄はなくなっていた。




