少女の日常と非日常の影
この手は血に塗れている。
この身は闇に堕ちている。
この魂は咎に彩られている。
失くしたモノは自分自身。得たモノは自分自身。
決して戻らないと知りながら、ただこの手を闇に伸ばす――
ここは都心からほど近くにある街「楽陽町」。
夜の帳に閉ざされた闇の中に煌めく人工的な光の灯と、夜空を彩る星々が、まるで合わせ鏡のように瞬く都会的な高層ビルが立ち並んでいる。
その町並みの一際高いビルの上に腰を下ろし、夜空に輝く満月を背に町を見下ろしている一つの影があった。
「――――」
背後から照らされる月光を反射し夜の闇に煌めく白銀の髪、逆光で見えないその顔の中に、満月と同じ金色の二つの瞳が輝いている。
その影は明々と輝く町の明かりを遮るように自らの手を開く。
特に何の変哲の無い手に何かを見るように視線を向けていたその影は、不意に開いていたその手で何かを掴むように空を握るとおもむろにゆっくりと立ち上がり、一陣の風と共に吹き消されたかのようにその姿を消していた。
※※※
ある五月の晴れた朝。清々しい陽光と小鳥のさえずりとは裏腹に、遠慮のないけたたましい目覚ましの音が響く。
朝の清々しさとは無縁の騒がしいスマートフォンの目覚まし機能が奏でる音に、布団の中で丸まっていた人物が、呻くように身を捩らせた。
「う……ん……」
布団の中から手だけを伸ばし、充電器に刺さったままのスマートフォンを取ってその音を止める。
けたたましい目覚ましベルが止まり静寂を取り戻した部屋の布団の中に篭っていた人物は、しばらくの沈黙の後、布団の中からゆっくりと起き上がる。
「ふぁあ……」
水色のパジャマに身を包んだその人物――少女は、睡眠への未練を抱きながらしばらくそうしていたが、やがて意を決したように活動を始める。
カーテンを開き、窓から朝の光を取り込み、爽やかな陽光に目を細めた少女は、それを二度の目覚ましとして、寝ぼけていた表情に晴れやかな表情を浮かべていた。
「いい天気」
その少女の名前は「天原恋詠」。
この四月に高校生になったばかりの、特に変わったところのないどこにでもいるごく普通の平凡な女子高生である。
その快活な性格を表すような生き生きとした表情で目覚めた恋詠は、寝癖で乱れた黒く長いストレートヘアを櫛で丁寧にすいて整えると、頭の後ろで黒い髪に映える白色の飾り紐で一つに束ねる。
白いブレザーに黒いスカート、膝までの黒い靴下という楽陽学園の制服に着替えると机の上に立てかけた姿見に自分の姿を映す。
「――うん、よし」
自身の身だしなみを確かめた恋詠は、机の上に置かれた一枚の写真立て――そこに写っている銀髪金眼の青年を一瞥する。
「おはよう、黒須君」
ゲームに出てくるキャラクターであり、初めて見た時からずっと推し続けている「暗城黒須」に日課の挨拶をした恋詠は、部屋を後にする。
「あら、おはよう」
恋詠が自分の部屋のある二階から一階に下りてくると、同時に開け放たれたリビングからおっとりとした優しい口調が恋詠を迎えてくれる。
天原家は郊外に建てられた二階建ての一軒家。ここに恋詠と弟、両親の四人家族で暮している。
そして恋詠を出迎えてくれたのは、茶色がかった長い髪を首の後ろで一つに束ね、実年齢から十歳以上は若く見られる容姿を持つ母の「日依」だった。
「おはよう母さん」
優しく微笑みかけてくれた母に応じた恋詠は、朝食の並んだテーブルの自分の席に腰を下ろす。
恋詠の席の隣にはすでにもう一人の人物が腰掛け、静かに朝食を取っていた。
「早いじゃない、『勇詩』」
「姉ちゃんが遅いだけだろ」
恋詠の言葉に、中学二年生の弟である勇詩が眼鏡越しに視線を向けながら呆れたように応じる。
「勇詩の言う通りよ。恋詠は、いつも時間ギリギリじゃない」
自分よりも優秀な弟に加え、母からの援護射撃も加わって恋詠は反撃することもできずに口を噤むしかない。
「すみませ~ん」
この戦いは不利だと即座に認識した恋詠は、早々に弁論を戦わせることを諦め、心の籠っていない謝罪と共に、日依が用意してくれた朝食のパンを口に運ぶ。
「じゃあ、行って来る」
「はい。気を付けて」
その時、恋詠が朝食を取り始めるのとほぼ同時にリビングに入ってきた恋詠の父――「暦哉」に、日依が応じる。
「いってらっしゃい」
そんな母に続いた恋詠は、仕事へ向かう父の後ろ姿を見送る。
母、日依は年齢以上に若く見えるが、父「歴哉」は年相応の外見をした、どこにでもいる中肉中背の平凡な父親だ。
恋詠の母、日依は学生時代今と変わらず美人で引く手数多だったらしい。
そんな母を何故特に冴えない平凡な父が射止めたのか恋詠は不思議に思っていた。
『――続きまして次のニュースです。ここ三ヶ月頻繁に発生している謎の失踪事件は、未だに手がかりもつかめず、市民の不満が高まっています』
恋詠と勇詩が学校へ行く支度をしているとテレビから流れてきたニュースに母が不安そうに眉をひそめる。
「またこのニュース――最近は物騒だから二人とも気をつけてね」
穏やかな朝に水を差すような不吉なニュースに眉をひそめた日依は、恋詠と勇詩に念を押すように言う
「まあ、少なくとも姉ちゃんには無縁の話だけどね。だってさらわれるのって結構優秀な人ばっかりって話だし」
「それどういう意味?」
勇詩の冗談めかした言葉に、恋詠はわずかに声のトーンを落として問い返す。
最近巷を騒がせている失踪事件――「神隠し」には、一つ共通点があった。
それは、運動や勉強などの違いはあれど、誰もが優秀な人材であるということ。
無論それは年齢性別国籍一切を問わない神隠しに、強引に見つけ出した共通点というだけであって、ワイドショーや人の噂が話題にする程度のもの。
だが、もしもそれが正しいのなら、恋詠は安全であると実弟の勇詩は、確信に近い感想を持っていた。
「言おうか?」
「別に、いいわよ」
説明してもらうまでも無くその意味は分かりきっている恋詠は、無用な言い争いを避けて納得いかないと言った体で呟く。
「ほら。二人も遅れるわよ」
「はーい」
そんな他愛もない会話を交わしていた言われた恋詠と勇詩は、日依に急かされてそそくさと登校の準備を始める。
平凡な日常、特に家庭の問題も無くそれなりに満たされた生活。しかしその平穏に暗い影が忍び寄っていることを恋詠は知る由も無かった。
※※※
恋詠たちが住んでいる楽陽町は都心に近いベットタウンで大きな川によって北と南に分断された町である。
近年は都心に近い立地条件を武器とした大都市としての発展も視野に入れた開発が進められ、特に開発の進んでいる南側は駅やビル、公共の施設などが整えられ、近代化を目指した工事が頻繁に行われている。
天原家は住宅地の密集した北側にあり、恋詠の通う「楽陽高校」は橋を渡った南側徒歩五分の所にあり橋の上を歩いていればその斜め前方に校舎を目視することが出来る。
多くの車が往来できる片側二車線の橋の両側には歩道が設けられており、恋詠は徒歩や自転車で通学する同じ制服を着た生徒達にまばらに囲まれながらその歩道を一人でゆっくりと歩いていた。
「?」
手にしたスマートフォン――ゲームを起動して、その画面に映る黒須を見ていた恋詠は、ふといつもとは違う感覚を覚えて顔を上げる。
(なんだろう? なんか、ざわついてるような……)
顔を上げ、注意を払ってみると、自分と同じ制服に身を包み、同様に学校へと向かっている学生達が、進路の方でざわめいているのが感じられた。
特に、女生徒達が黄色い声を発しているのを感じ取った恋詠が怪訝な表情を向けていると、その原因らしい人物が視界に入ってくる。
「――!」
その人物を見た瞬間、恋詠は全身に雷が落ちたような衝撃に見舞われて息を呑む。
そこにいたのは、上下黒の服に身を包んだ整った顔立ちをした少年だった。
思わず見とれてしまうほどに整った顔立ちはまるで人形のようであり、その動きに合わせて胸の前で揺れる何かのエンブレムを模ったようなペンダントがどこか現実離れした雰囲気を感じさせる。
だが、恋詠の目を奪ったのは、その顔立ちではなかった。
朝日を浴びて煌めく白銀の髪。そして光の加減なのか、そこに見える双眸に抱かれた金色の双眸は、今まさに手中にあるスマートフォンの中にいる恋詠の理想の男に酷似していたのだ。
「く、黒須君!?」
思わずその名を零してしまった恋詠は、周囲の反応など全く意に介した様子もなく歩いていく銀髪金眼の少年に目を奪われ、ただ茫然と見送るしかなかった。
その人物――「暗城黒須」は、現実には存在するはずのないゲーム上の人物。その人を理想の男性としながらも、あくまで空想の存在であると理解し、割りきっていた。
しかし、今まさに恋詠は、現実に存在する「暗城黒須」の存在を認識していた。
まさに夢のような現実に直面した恋詠は、言葉を発することもできないまま、ただその人物を見つめ続けるのだった。