2022年1月1日 創作者はすべからく高慢にして不遜であるべし
2022年最初の話題は
『創作者はすべからく高慢にして不遜であるべし』(※1)
というのが私の持論だという話です。
高慢・不遜はいい意味では使いませんね。
では、高慢にして不遜であれとは具体的にどういうことかというと、創作者はみな『この世界には自分にしか生み出せない創作物があって、それは必ず世界にとって価値があるはずだ』という考えを持っていて、そして持つべきなのだってことです。
その思い上がりの根拠は熱意でしょうか、技術でしょうか、経験でしょうか、あるいは着眼点でしょうか。
なんにせよ貴方以外の何者も、貴方に代わってその作品を生み出すことはできないのです。
この思い上がりこそが創作者にある核だと思います。
貴方が書かなければならない、それこそが出発点なのです。
創作者は他のどんな優れた創作者であっても批判・批評する資格があります。
どんな天才であっても、貴方が目指すその場所には到達していないのですから、きっと何かが足りないのです。
もちろん優れている点は認めて、取り入れていけばいい。でも、何かが足りないはずなんです。
その何かに辿り着けるのは貴方だけなのです。
もっとも、ここでいう高慢さ、不遜さというのは、創作者の心のうちにあるものです。
それを他者に対して露わにすることがいいことだとは思いません。
内なる獣を否定するのでなく飼いならすことが肝要だということです。
さて、私が高慢さ、不遜さというそれはひょっとして『自尊心』という言葉で言い換えられるのではないかと気付いた人がいるかもしれません。
でも私はあえてネガティヴな言葉で、表現したい。なぜなら、『高慢さ、不遜さ』というものは報われることが保証されているものではないから、誰からか評価されることが担保されているものではないからです。
むしろ、ほとんどの創作者は実を結ぶことなく果てることになるのでしょう。
そして、創作者の心のうちに巣くっていたその何かは『高慢さ、不遜さ』で片付けられてしまうことでしょう。
それを受け入れる必要がある。
『末路哀れは覚悟の前やで』
これは桂米朝が、四代目米團治に弟子入りしたときに言われた言葉とされています。そして、私が学問の道を志した時に心に刻み込んだ言葉でもあります。
『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良いの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』
世界は、創作者たちに対して無知であり無理解です。だが、そのリスクは創作者各々が負わなければならないものです。たとえゴールがどんな立派なものだとしても、我を通す以上はわがままでしかありません。
『高慢にして不遜』と言い切ることは覚悟の表れでもあると思うのです。
というわけで、私の考える創作者のサガ。
『創作者はすべからく高慢にして不遜であるべし』についてお話ししました。
最後にうんちくをご紹介、あじさいの花言葉 (のひとつは) は『高慢』。
※1 正しいすべからの使い方です
「すべからく~べし」で当然に~すべきであるという意味です。すべての~という意味ではありません。
すべからく警察からのお知らせでした。
高慢:すぐれていると思い上がって、人を見下すさま
傲慢:おごりたかぶって人を見くだし、行動するさま
不遜:すぐれていると思い上がって、へり下らず礼に欠くさま
高慢と傲慢の違いですが、高慢は思い上がりが気持ちや態度にとどまっている状態、傲慢がそれが行動に出てしまっている状態ってニュアンスでしょうか。