Bの救済
六月の梅雨の頃、奇跡的に雨が降らなかった日の夜のことである。
青年が佇んでいた。
年頃は二十歳に届くか否か。顔つきの割りに頭は白髪が混じり、肩まで伸びるそれを雑に首の後ろで纏めている。オリーブ色の野戦服に身を包み、そのうえに科学者が着るような白衣を羽織っていた。
左手には書類が収まる程度のアタッシュケースがひとつ。その小型さに対し頑強そうな外見で、たとえハンマーを叩きつけてもびくともしない、そんなごつごつとした厳めしさを醸し出している。
青年は何かを口にするということもなく、ただ厳めしく口元を引き締め瞳を細めていた。
青年に相対するように、少年が佇んでいた。
学生である。昔ながらの学ランをだらしなく着崩し、第一ボタンの外れた襟元からは色付きのワイシャツが覗いている。腰のベルトからは銀のチェーンがポケットに伸び、恐らくその中にあるであろう定期入れがジャラジャラと音を立てている。
絵に描いたような不良学生の姿。やぶ睨みに目の前の青年を見据える顔つきからして、とても真っ当な高校生には見えないだろう。
――そんな彼らを、そんな対峙を、僕はただ、観客のように傍らで見ていることしかできなかった。
「――来るかもしれないとは思っていたが。少しばかり驚いたぞ、若槻」
青年――葉伏さんが言った。微塵も歓迎していない口調で、苦々しく。
「無駄だとは思うが一応聞いておく。――俺に手を貸す気になったか?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
少年――若槻さんが一言で切って捨てる。その表情は葉伏さんに負けず劣らず苦々しい。
「お前の方こそ何やってんだよ。こんな所で、そんなカッコでこんな時間に、そんな厳ついモン持って! 何がしたいんだ……!?」
食いしばった口元から絞り出す、悲痛な声。要領を得ない問いであっても、その意は容易く察せられる。
……きっと、若槻さん本人も言葉にしきれないのだろう。葉伏さんがこれからやろうとしていることを、その目的を、どう言い表せばいいのか思いつけないでいる。そしてそれは僕も同じだった。
若槻さんの説得は続く。
「なぁ、葉伏。お前馬鹿なことしようとしてるだろ。考え直せって、今なら間に合うんだから。こんなことしたって何も変わらない、そんなのお前だってわかってるだろ?」
「…………」
「お前昔言ったよな? 民主主義とは多数に寛容、少数に妥協が求められる制度だって。今の世の中じゃお前が少数なんだ。だったら今回はお前が妥協する番なんじゃないのか? だったら――」
「若槻」
街灯の光が、葉伏さんの顔をぼんやりと照らした。
深い陰影に彩られた表情は、強烈な視線をもって若槻さんを射抜いていた。
「時間がないんだ、若槻。事態は差し迫っている。妥協も寛容も講じている暇はない」
「葉伏……!」
「変革だ。今、ここで、人は速やかな進化が求められている」
葉伏さんは語る。これほどまでの凶行に踏み込んだ理由を、深い失望を瞳に滲ませて。
「より強靭に、より英邁に。人は新たなステージに進まなければならない。それは今の世界を生きる現行種の宿命であり義務だ。そう――――生きるものは、常に歩みを止めてはならない」
しかし、と言葉を切る。ぎしり、とアタッシュケースを掴む手が軋む音が聞こえて来た。
「それを望まない者もいる。過程にある苦難を忌み、現状に甘んじようとする怠惰の輩。そんな人間たちが我が物顔でのさばっている。――わかるか、若槻。もはや一刻の猶予もない。停滞に微睡む愚昧どもを一掃し、俺たちが新たな一歩を築くのだ」
その考えにいたるのに、彼はどれほどの葛藤に苛まれたことだろう。どれほど苦悩に満たされたことだろう。
葉伏さんの人となりは知っている。決して、一時の激情で早まったことをする人では――
「でも、やり方が過激すぎるだろ!」
若槻さんが声を荒げた。葉伏さんとは中学の頃からの付き合いだと言っていた彼は、悲痛な表情も露わに説得を諦めない。
「こんな、誰にも話を通さずに! もっと根気よく――」
「誰も聞き入れるものか……ッ!」
怒号が若槻さんの声を遮った。目をいからせ、悪鬼もかくやという形相で葉伏さんが吼えたてる。
「誰も、誰も! ――そう、誰もだ! 誰も聞き入れはしない! 受け入れはしない! 何度繰り返しても同じだった!
どんなに見せつけても、どんなに知らしめても! 奴らは目を背ける、耳を塞ぐ! 都合が悪いからと忘却し、甘い楽観に酩酊する。現実など何も見えていないッ! 十年後どころかひと月先の破滅すら捨て置く蒙昧、度し難いにもほどがある!
だからこそ――――そう、だからこそ! 俺が変える、ここから変える……!」
熱い――――ただ、そう感じた。
言葉の端々から迸る圧倒的な熱量。真実彼は己のためでなく他の誰かのために行動を起こし、それに殉じようとしている。その覚悟が、肌で感じられるほどの熱気となってこちらにまで届いてきた。
「わかるか、十介。すべては変わる! そう、全てだ! 人も、世界も――――未来も! 変革の時は今ここから! 誰もが健やかに、誰もが活きるために! 最初の一歩は今ここから始まる――――!」
思わず呑み込まれそうになる。
彼の全霊をかけた言説の一つ一つに、ともすれば魅入られそうになった。
ここが彼の言う最後の戦線。一歩ですら退く余地もなく、踏み外せば破滅あるのみ。全てを懸けるとはそういうことなのだと、彼の振る舞い一挙手一投足から滲み出る何かから目が離せない。
――唐突に直感した。
これこそが『カリスマ』。巷に膾炙する普遍的な意味のそれでなく、周囲の人間を狂奔に駆り立てる気質――それこそがこの言葉の本来の意味なのだと。
しかし――
「――――――駄目だ」
「若槻……!」
青年の瞳が驚愕に見開かれる。彼が唯一の理解者だと信じていた少年は、あろうことか真っ向からその考えを否定してみせた。
「させないぞ、葉伏。俺はお前を止める。お前は間違ってる! いいか、よく聞け葉伏……!」
決意に満ちた瞳。必ずや目の前の男を止めるという不退転の覚悟を秘めた少年は、狼狽する青年にその言葉を突きつけた。
「――――いくらなんでも、学校支給の牛乳を豆乳にすり替えるとかふざけ過ぎだろうが――――ッ!」
壮絶な沈黙。
若槻さんの言葉を受けた葉伏さんは、沈痛な表情で瞑目し、
「…………アレルギー持ちには、配慮する手はずだが」
「関係あるかっ! 馬鹿かお前!?」
ですよねー。
――うちの高校では県内でも珍しく昼休みに牛乳が配られる。なんでも21世紀の初めに起きた健康促進運動の名残だそうで、特に止める理由もないという消極的な言い分でこの慣習は残されているのだった。
パン食の生徒からすれば別にどうということはないのだが、おにぎり派や学食で麺類を頼む生徒からすれば食べ合わせの悪い飲み物であることに違いはない。そのうえ夏場は保存の関係からキンキンに冷やし過ぎてて半ば凍り付いた牛乳が饗されることもあり、一部胃腸の弱い生徒からは顰蹙を買っていた。
……まぁ、食後に時間を置いてから飲めば済む話ではあるのだけれども。
――と、そうこうしている間にも二人の口論は続く。
「大体なんだよ豆乳って! なんで牛乳の代わりに豆乳が出てくるんだ!」
「厳格を喫した選考の結果だ。不正はなかった」
「十割お前の独断だろうが!」
「だが待ってほしい。巷では豆乳が牛乳に劣ると流布されているが、それは果たして事実なのだろうか?」
「知るか馬鹿! どこぞの新聞みたいな言い回しで煙に巻こうとするな!」
「糖質脂質カロリーコレステロールそしてカルシウム。すべて豆乳の方が控えめで、かつたんぱく質はほぼ同値。もはや勝負は決まったようなものだろう」
「肝心なカルシウムが少ないだろうが! 成長期だぞ俺らは!」
「笑止な。カルシウムなど炒り子を齧れば済む!」
「一体どこの国に昼休み豆乳といりこを配る学校があるんだ……ッ!」
ごめんなさい、お昼にいりこ丸齧りは僕でも無理です。なんというか、そんなことをすれば流石に女として終わる気がする。
苛烈な突っ込みを受けた葉伏さんは、しかし諦めきれないのか憮然と唇を尖らせた。
「……まったく、何が不満なんだ。理解に苦しむぞ」
「お前がいちいち事あるごとに隙あらば大豆製品を捻じ込もうとするところが不満なんだよ!」
「大豆の何が悪い。妹だって毎回文句も言わず喜んで食べているというのに」
「あ、それ妹さん愚痴ってましたよ。夕飯時にマンションに遊びに行くたびに豆腐料理納豆料理味噌料理でうんざりだって」
「宗像ァ! いい加減なことを言うな! 俺のレパートリーは二百を超える、梓が飽きるわけがないだろう!」
どれだけ種類が増えても大豆料理は大豆料理である。あとこっちをすごい形相で睨むのはやめてください。めっちゃ怖い。
「そもそもだ、豆乳が高校生徒に受け入れられないと誰が言った!?」
「誰もが言うわ! あんな白濁した生ぐっさい液体高校生が飲みたがるか!」
「前例がないからと新たな試みに二の足を踏む、その鈍重さが進歩を遅らせる害悪だと何故わからない!?」
「その台詞、去年屋上の貯水槽に味噌ぶち込んだ時にも同じこと言ってたよな……!?」
あったなぁ、そんなこと。
体育のあと水を飲もうとしたらウォータークーラーから冷たい味噌汁が飛び出て来た時はもう、この世の終わりがきたものかと。
アレのせいで学校の配水管は総取り替え。貯水槽も最新のものになって、蛇口からの水の勢いがかなり改善されたっけ。
改修工事の経費は確か、事件の大元だった葉伏さんの懐から出たはずである。このセレブめ。
「……あの件は確かに俺の間違いだった」
過去の過ちを若槻さんに指摘された葉伏さんは気まずげに目を逸らす。
「初歩的な手違いだ、味噌に含まれる塩分で配管が劣化することを考慮していなかった」
「もっと他に反省することがあるだろ……!?」
「問題ない、次はそれ用の配管を別途用意すればいい。今度はもっとうまく――ぶ!?」
あ、殴った。
とうとう我慢ならなくなった若槻さんの跳びかかってのベアナックル。体重の乗りきった右拳を頬にうけ、葉伏さんの顔がぐりんと横を向いた。
なおも怒り冷めやらぬ若槻さんの連打が続く。
「お前は! どうして! そんなに! 人の話を!」
左右のワンツー、フックからアッパーの惚れ惚れするほどのコンビネーション。腰の捻りを加えて加速した拳打が葉伏さんに叩き込まれる。為す術もなく打ち込まれる葉伏さんは、苦悶の声をあげながらもじろりと少年を睨みつけ、
「――――若槻」
左腕が跳ね上がる。
手には銀色に光るアタッシュケース。振り上げた先には、無防備に開脚した若槻さんの――
「――ぉ、ぅご……!?」
「うわぁ……」
いま、こっちにまでゴリって。
「邪魔を――」
「がふっ!?」
返す太刀でのアタッシュケース平面打ち。頬骨をしたたかに打ち込まれ、若槻さんが大きく体勢を崩す。
「するな……ッ!」
「ばはァ!?」
往復ビンタですね、分かります。
残像すら霞ませて振るわれたアタッシュケースが若槻さんの顔面にクリティカル。ついでに留め具が外れたのか、アタッシュケースが全開になって中身の書類がバサバサとぶちまけられた。カラカラと音を立てて何物かが僕の足元にまで転がってくる。
よほど腹に据えかねたのだろう、手持ちの惨事を意に介さず葉伏さんは若槻さんへの追撃に移る。具体的にはマウントを取ってのグーパンである。
「おい! この! やめ……!」
「何故わからない!? 今の時代に必要とされるものを何故否定できる!?」
「豆乳が必要ってどんな時代だ!?」
「行き過ぎたダイエット志向は若者に破滅をもたらす、俺には未来が見えている! 知っているか、梓のクラスでは今月だけで貧血患者が三人も出たんだぞ!」
「だからって発想がぶっ飛んでんだよ!」
「ぐぉ……!?」
若槻さん会心の巴投げ。攻守逆転の機会となるか。
噛み合わない口論を交わす二人のさまは、あたかも逆シャアでみっともなくいがみ合う天パとロリコンの如し。誰か拳銃持って来て。
――と、そんな時のことだ。
「…………ん?」
足元に転がる『何か』、それにふと目をやった僕は、それが何であるかようやく気付いた。
携帯端末。かなり旧式の、キーボタンのついている通信機器だ。
液晶が明滅を繰り返し、どこからか着信が着ていることを示していた。
取らない理由などどこにあろうか。
「…………もしもし……えぇ。私、葉伏の友人の宗像といいまして……はい。――――豆腐屋さん? それって近々……えぇ、えぇ……あぁー。ジョークだと思ってた? つまり今夜納入する予定の商品は……用意してない? よかった……!」
吉報、取引先の豆腐屋さんは良識に溢れる人物だった模様。
「それで、今回の件は……えぇ、大変申し訳ないのですけど……はい? もう話はついてる? 理事会と? 豆乳プリンが購買に? あーなるほど……」
「おい宗像、何をしている。勝手に人の携帯で――」
「えぇ……はい。是非。楽しみにしてお待ちしておりますので……はい。よろしくお願いします。では――」
ぶち、と電源ボタンを押し通話を終了する。視線を上げると、顔を痣だらけに腫れ上がらせた葉伏さんが呆然とこちらを見ていた。
決戦の土壇場で味方に裏切られた総大将ってこんな顔をするんだろうなー、と内心思いつつ、僕は非情な事実を突きつけることにする。
「……日頃の行いです。葉伏さん、まともに相手されてませんでしたよ」
●
――――かくして、世界の危機は防がれた。
しかし我々は心しなければならない、あれが最後の大豆とは限らないということを。
我々が健康への配慮を失った途端、大義名分を得たと心得違いを起こした大豆キチは再び立ち上がるであろう。
この教訓を我々は忘れてはならない。後々まで伝え聞かせていかなければならないのだ。
ダイエットはほどほどに。栄養バランスは適切に。
食事を制限する前に、燃焼させる脂肪を増やす努力をしよう。
登場人物
宗像綾
本作語り部。僕っ娘。
大豆は好きでも嫌いでもない。でもパン食と合わないのは勘弁してほしい。
そこそこ裕福な育ちで学力も上位の方。運動は中の下あたり。
常識人枠。
騒動を起こす二人組といつの間にか腐れ縁ができてしまい、行動を共にすることがよくある。
本人としては振り回されているつもりなのだが、周囲の認識は『三人組』扱い。むべなるかな。
葉伏聡美
白髪の仏頂面。男です。
やむない理由で二回留年しておりもうハタチが近い。
気が付けば不法占拠した第三家庭科室で不気味な実験に没頭している。白衣はそのため。
学力は上位。偏差値は90を上回る。でも留年生。
腕っ節は軍人レベル。由緒は明らかにしたがらないが手斧の扱いが大の得意。
オカルトが大嫌い。あと宇宙人も大嫌い。
若槻十介
見た目ヤンキーな常識人。ボケも突っ込みもこなせる。
全方位広く浅いオタクだが、特に人形関連に強い。家業がそれ絡みなのだとか。
何故か葉伏と絡む機会が多く、周囲からはセットで数えられている問題児その二。
学力は意外と平均以上。腕っ節は有段者クラス。得手は槍や杖といった長柄を好む。
オカルトは別に嫌ってはいないが、超能力や未確認生命体といったSFは苦手。
世界を大豆の愛で満たすのです。
なるほど、これがBL……






