彼女の横顔に恋をした
横に五列、縦に五列。
合計二十五の机が並ぶ教室の一角――窓際の一番後ろが僕の席だった。
目指すものもやりたいことも無いまま生きてきた僕は未だにそのままで、高校二年生になってもそれが変わることは無い。
だからこれからも変わらないのだろう。
そう、思っていたのに――
「消しゴムが無くなったんですか? それじゃあ私の半分、差し上げますね」
「……ありがとう」
――僕はこの少女に恋をしていた。
***
僕の前の席に座る彼女の名前は横山清子。
長い黒髪は艶めいていて綺麗だし、言葉遣いから所作の一つまで丁寧で、育ちの良さが見て取れる。
物語の世界に良く居るような眉目秀麗、品行方正のお嬢様だ。
対して僕は何の取り得も無い。さっきも言ったけれど、惰性で生きているだけのつまらない人間だ。
そんな彼女のことを考えるようになったのは、席替えで今の席位置になった時のこと。
常に真っ直ぐ前を見る後ろ姿の印象が強かったのに、不意に彼女が右を向いた。
クラス内を見ているのか、廊下を見ているのか。
それは解らないけれど、その時初めて横山さんの顔をしっかりと見た。
眉上で切り揃えた前髪に、日に焼けていない白い肌。
長い黒髪は綺麗に整えられ、まるで人形みたいだ。
しかし頬はほんのりと赤く上気していて、色づいた唇に当てられたペン先が柔らかく沈んでいる。
人形ではなく生きていることを自覚させられて、吐き出された吐息にどきりとした。
そして極め付けにこれだ。新しい消しゴムを忘れて慌てた僕に笑いかけて、自分の消しゴムを切り分けてくれた横山さん。
その横顔は慈愛に満ちていて、こんな僕でさえ包み込んでくれるようで。
再び前を向く彼女から、目が離せなくなった。
毎日彼女が横顔を見せるたびに、ペンを走らせる手が止まった。
多分、きっと、恐らく――いいや、間違いなく。
僕は恋をしたのだ。
なにかを見つめる彼女の横顔に、恋をしてしまった。
初めて得たこの感情は、とてもふわふわとして心地良い。
彼女のことを考えるだけで心が満たされて、自分でも淡いなと思うくらいに純粋な気持ちが溢れてくる。
そんな日々が嬉しくて、学校に行くのが楽しくなった。
「おはようございます、東野くん」
「おはよう、横山さん」
賑やかな教室内でも、彼女の声は良く通る。
鈴の音のように凛としていて、耳触りの良い柔らかな声色で。
毎朝のこのやりとりだけで、僕はただただ満たされる。
僕に向けられる微笑みも優しくて大好きだ。
だけど、何故だろう。
ふっと今、彼女の横顔が脳裏を過ぎった。
けれどその原因が良く解らなくて、もやもやしたまま今日も授業が始まった。
「今日の休みは新田だけか」
放課後に入ったLHRで、担任が気楽に声を発している。
けれどその内容は僕の頭を素通りし、意識は完全に別のところに在った。
そう、横山さんだ。
席替えして以来、彼女は毎日ふとした時に横を見る。
一つの授業で大体一度、多くて二度は横顔を見せる。
僕はその表情が大好きで、だからこそ気になってしまう。
何せ彼女は今日一日、一度も横を向いていないのだ。
「……以上。今日は解散だ」
担任の一声で、静かだった教室が一気に賑やかになる。
段々と人が消えていく中で、横山さんもふわりと立ち上がった。
いつも朝イチで学校に来て、クラスメイトが帰るのを見送ってから自分も教室を出る彼女にしては珍しい行動だ。
まだ半数が残っている教室を、いつものように清く正しい彼女はあとにした。
今日は用事があったのだろうか。
いつもの横山さんじゃないようで、その違和感がどうしようもなく心を締め付けた。
***
僕が彼女の後ろの席になってから一ヶ月が過ぎた。
至福のひと時はもう直ぐ終わり、今日のLHRで僕らの席は変わってしまう。
結局横山さんが横顔を見せなかったのはあの日だけで、次の日からはまた元通りだ。
僕はと言えば相変わらず見つめるばかりで進展は無く、雑談をした回数だって片手で事足りる。
お礼にと思って新しい消しゴムをいつも鞄に忍ばせてるけれど、それすら未だに渡せていない。
残された時間は一日も無いことにようやく焦りが込み上げて来た僕は、今日こそ話しかけようと決めた。
うん、そう……決めた、のだけれど。
「横山ちゃん、ここ教えて~」
「この方程式を使ってみたらどうかな?」
一限と二限の間に話すことは叶わず。
「横山、ちょっといいか」
「はい、先生」
二限と三限の間に話すことは叶わず。
「おーい横山、隣のクラスの奴が呼んでるぞー」
「直ぐに行きます」
三限と四限の間に話すことも叶わず。
「清子ちゃん、今日はお弁当?」
「ええ、早起きして作ってきちゃった」
結局僕は、昼休みも何も出来ずに過ぎてしまった。
これはやばいぞ。話し掛けるには絶好の席だというのに、決心してからは何も出来ていない。
そもそもの話、彼女が一人になる隙が無いことに今更ながら気が付いた。
みんなから好かれる彼女のことだ。
いつも周りに人が居て当然なのに。
囲まれていることが普通なのに。
どうしてだろう、そんなことが頭からすっ飛んでいた。
記憶の中の横山さんが一人だったのは、それが常に授業中の光景だからで。
ふと見せるあの横顔だけは、記憶の中でも色褪せることが無い。
遠くを見ているような、近くを見ているような。
何かを憂いているような、何かを愛おしく感じているような。
辛く泣いているような、幸せそうに笑っているような。
十秒にも満たない短い時間だけれど、その瞬間に彼女の全てが詰まっていると思った。
それだけで彼女のことを知れた気になって、彼女のことがますます好きになった。
これが恋なのだと、そう思った。
ならばどうする?
このまま手をこまねいていては今までと何も変わらないじゃないか。
今出来なくて、この先彼女と仲良くなれるはずが無い。
そんなことは解っているのに、行動に移せない自分に嫌気がさした。
話しかけたいけれど、休み時間にその隙はきっと来ない。
じゃあ授業中か?
幸い五限はグループワークで、六限は自習だ。話すタイミングは幾らでもある。
今度こそ話しかけよう。
彼女が横を向いた時を狙えば声もかけやすいはずだ。
チャンスはその時しかない。
そう思うと同時に、どうしてか話しかけたくない衝動にも駆られた。
話したい。でも話したくない。
相容れるはずの無い思考の海から抜け出せなくて。
結局午後の授業も、僕はただ彼女の横顔を見つめるだけだった。
***
席替えをした。
だけど僕の席は替わらず、窓際の一番後ろの席だった。
もしかして横山さんも……と期待したけど、前の席は新田さんだ。
新田さんは横山さんと違って無表情な人だけど、決して大人しいわけじゃない。
軽音部でギターを弾いている彼女の印象は、クールで近寄りがたい人だった。あとちょっとだけ怖い。
横山さんはといえば、よりにもよって廊下側の一番後ろに座っている。
彼女がいつも見ていたのは廊下の方だった。
この位置では横顔はおろか、顔すらも見えなくなってしまう。
「これが一ヶ月、か……」
思わず呟いた言葉に反応する人は勿論誰も居なかった。
結論から言おう。この席もなかなか悪くなかった。
教師の目を盗んで横山さんを見ると、真っ直ぐに教卓を見る彼女の横顔をじっくりと見ることが出来た。
前の席に居たときは一瞬だけしか見ることが出来なかったそれを、ゆっくり見られるようになったのは素直に嬉しい。
だけど、どうしてだろう。
凄く綺麗で可愛いのは変わらないのに、あの時のように魅せられるというわけではなかった。
単純に遠いからか。それとも、頻度が多すぎて慣れてしまったのか。
判明しないその感情すら、横山さんに抱いたのかと思うと愛おしく思えた。
そしてひとつ、気付いたことがある。
僕の前の席に座る新田さんも、横山さんと同じように廊下の方を見ることがあった。
単なる偶然ではなく、毎日何かを気にするように横顔を見せる。
横山さんよりも頻度は少ないけれど、一日一度は必ずその横顔を見た。
表情の変化が乏しいと思っていたのに、心なしか優しげに笑っている。
その瞳は大事なものを慈しむように細められ、どうしてか僕の心臓はぎゅっと握られるようだった。
その横顔が、どうしてか横山さんと重なる。
心臓がドクドクとうるさくて、なんだか不安を煽られていくような気がして。
だけどその理由が解らない。
横山さんに関する感情は心地良かったはずなのに、引っ掛かった魚の骨のように喉の奥に留まり続けた。
そして、その感情の理由を知ったのは翌日のこと。
いつものように授業を受けて、なんとなく横山さんの方へ向いた時だった。
「ッ!」
横山さんがこっちを向いている。真っ直ぐに見つめている。
思わず出そうになった声を押し込めるも、彼女から目を逸らすことが出来なかった。
高鳴る鼓動につられ、体温もじわじわと上がっていく。汗が出るほど暑くなって、一刻も早く風に当たりたくなった。
そろそろ前を向く頃合いだろう。そう思ったのに、横山さんは少しだけ目を大きくして固まった。
もしかして僕が見ていたことがばれてしまったのだろうか。
熱を持った身体が一気に温度を下げ、背中を冷や汗が流れていく。
ごくりと飲み込んだ音がいやに頭の中に響いた。
そして、ふと気付く。
(あれ、もしかして……僕じゃない?)
一瞬で冷えた頭を働かせて彼女をしっかりと見た。
すると僕を見ていると思っていた視線はわずかに逸れていて、それをたどると――僕の前の席に座る新田さんへと向けられていた。
当の新田さんの瞳も、しっかりと横山さんを捉えている。
その瞬間、僕は理解してしまった。
横山さんが廊下を見ていた時、新田さんの席は廊下側だった。
横山さんが廊下を見なかった時、新田さんは学校を休んでいた。
横山さんが廊下ではなくこちらを見ているのは、新田さんがそこに居るから。
横山さんが僕を見ていると思ったのは勘違いで、最初から彼女が見ていたのは新田さんだけ。
ああ、そうか。そうだったのか。
少し考えれば解りそうな事実を、今ようやく理解した。
僕が恋した横山さんは、新田さんに恋をしている。
横山さんと付き合いたいと思う男がたくさん居ることは知っていたけれど、恋敵が女の子だなんて思いもしなかった。
何の取り得もない僕が新田さんに勝てるだろうか。そもそも新田さんのどこを好きになったのだろう。
次から次へと頭の中に疑問が沸いて生まれ、そして思考に流されてしまう。
そんな中でも視界の中に留めていた横山さんがふと笑った。
優しく、柔らかく、そして愛おしそうに。
それを受けた新田さんも、同じように笑う。
それを見て僕は悟った。
この勝負は“勝てる”“勝てない”の話ではない。
僕は最初から土俵にすら立っていない、ただのクラスメイトでしかないのだと。
そう理解した途端、胃が捩れるように痛み出した。
脳裏に浮かぶのは、横山さんの横顔と新田さんの横顔ばかり。
新田さんの横顔を見て彼女と重ねてしまったのは、お互いに“好きな人”を見ていたからだろう。
こっそりと見つめて、愛おしさを募らせる。
似たようなことをしていた僕には痛いほどその気持ちが解ってしまった。
理解して、飲み下して。だけど自分の気持ちはすぐに昇華出来やしない。
その日、ギリギリと痛む胃を押さえながら僕は早退した。
***
歩き出せば、ふわふわとした感覚が足裏から伝わってくる。
歩くたびにころころと景色が変わって、僕は夢を見ていることに気が付いた。
身も心も軽くなったようで、気分良く歩き続ける。
たどり着いた先は公園で、誰かが僕を待っていた。
「こんにちは、東野くん」
黒い髪をたなびかせたその姿は見間違えるはずがない。
微笑んだ横山さんが優しい声で僕を呼んだ。
「それでは行きましょうか」
一体どこへ行くのだろう。
その疑問が口を出ることはなく、代わりに情けない声が出た。
「あの、横山さん」
「はい?」
「どうして、その、僕の手を?」
左手に感じる体温を指して言えば、横山さんはふわりと笑う。
「ふふ、おかしなことを言いますね。デート中は手を繋ぎたいと言ったのは東野くんですよ?」
凄いな僕。そんなこと言えたのか。
なんて考えている間にも僕たちはどこかへ向かっている。
横を見るとそこには横山さんが居て、心がぽかぽかと温かい。
その反面で頭はゆっくりと冷えていく。
どうしてだろう。大好きなはずのその横顔が、夢の中ではくすんで見えた。
次の日も横山さんの夢を見た。
内容はデートの続きで、僕たちは遊園地で遊んでいた。
二人してジェットコースターではしゃいで。
二人してお化け屋敷で叫んで。
二人してコーヒーカップで目を回して。
めまぐるしくも変わる舞台の全てが楽しくて、僕たちはずっと笑っていた。
それなのに、どうしてだろう。心にかかったもやは晴れてくれない。
気にしないようにと意識して、今度は観覧車へと向かった。
「楽しみですね、東野くん」
今この笑顔を浮かべさせたのは僕なんだと考えると、それだけで心のもやなんかどうでも良くなっていく。
僕も楽しみだと返して、二人で一緒に乗り込んだ。
正面に座る彼女が見せる表情も、口から紡がれるその言葉も。
全部が全部愛おしくて、このまま夢の中に居続けたいな……なんて思っていた、その時のことだ。
不意に外を眺めた横山さんの表情が一変した。
それは僕がいつも見ていたあの――僕が魅せられた横顔だった。
夢の中で見せたどの表情とも違う。今日初めて見たその笑顔に、心のもやが一瞬で身体の外まで広がった。
「横山さん……?」
声を掛けても返事が無い。浮かれていた身体が冷や水を浴びたかのように冷たい。
目の前に居たはずの彼女の姿が段々と遠のいていく。
彼女は依然何かを見つめたまま、僕のことなんて眼中に収めてくれやしない。
僕は最後の悪あがきだと、横山さんの視線の先を追いかけた。
そして、その先に居たのは――
「……やっぱり、そっか」
――横山さんが見つめるのは新田さんだ。
新田さんもまた、横山さんを見つめている。
急速に遠のく意識の中で僕は考えた。
楽しいはずのデートで、心にもやがかかっていたその理由を。
大好きなはずの横顔を見ても、心が揺れなかった不可解さを。
僕が魅せられたその横顔は、僕と一緒じゃ生み出されることは無いという事実を。
僕は彼女の横顔に恋をした。
そう思っていたけれど、どうやら正確ではないらしい。
僕が恋をしたのは、そう――新田さんを見つめる横川さん。
|僕は恋をした彼女の横顔に、恋をしていたのだ。
***
目が覚めた。二日掛けて見た夢の内容はしっかりと覚えている。
夢の中でこんなことに気付きたくなかったけれど、不思議と心のもやは晴れていた。
胃の痛みも無く、吸い込んだ朝の空気が清々しい。
いつもより早く家を出た僕は、足取り軽く学校へと向かった。
「おはよう、横山さん」
「おはようございます、東野くん」
教室に入ると、そこにはまだ横山さんしか居なかった。
僕は初めて自分から声をかけ、いつもなら挨拶だけで終わってしまう弱気な心を奮い立たせる。
「これ、ずっと渡そうと思ってたんだ」
意を決して、鞄の中に入れっぱなしだった消しゴムを取り出した。
あの時の恩を返したかったと言えば、気にしなくてもいいのにと彼女は笑う。
その愛らしい笑顔を見て、僕の気持ちは完全に固まった。
「それとは別に、横山さんにお願いがあって」
「私に出来ることなら」
いつものように微笑む横山さんはいろんな人を魅せてしまう。
だけど、僕が見たいのはそれじゃない。
僕を魅せてくれた、あの笑顔だ。
「最近お腹が痛くて……直ぐに移動出来るように、僕と席を替ってもらえないかなって」
理由はなんでもいい。とりあえず思いついた言い訳を口にすれば。横山さんは僕を心配してくれた。
それが嬉しくて、なんだか目の奥がじわりと熱くなった気がした。
そこから先はもう、いつも通りの日常へと戻った。
廊下側の席に替っただけで、目立った変化は特に無い。
僕が座っていた席には横山さんが座って、その前の席は新田さんが座って。
横山さんはもう、授業中に横を向くことが無くなった。
だけど僕から見える横顔は、僕を魅せたあの横顔で。
僕はひとつの解を心に得る。
ああ、やっぱり僕は――新田さんを好きな横山さんの横顔が大好きだ。
Fin.




