第一章(八)
本日は三話投稿します。こちらは三話目です。
エマ達が生まれる数十年前。
フィリス教の教皇は、在位十年記念の祝宴でこう言い放った。
「フィリス教徒にあらずんば、人にあらず」
このような驕慢な態度がまかり通るほど、当時フィリス教の威光は絶大だった。国の首長たる国王ですら、教会の賛同なしには何一つ進められず、高位聖職者の顔色を伺うありさまだったのだ。人々の生活を左右するのは、農作物の収穫量や税ではなく聖職者達の虫の居所だった、と言っても誇張ではない。
だが、権力はそれを持つ者を退廃させる麻薬でもある。フィリス教会の聖職者達も例にもれなかった。
ナリア王国暦六八三年。フィリス教会は「持っていれば現世の罪を浄化し、神々の加護を得、安らかな死後を送れる」と称した、掌ほどの大きさの板を売り始めた。
「浄罪符」と称されたその小さな板には、ヴァンダル文字で聖句が刻まれていた。聖句だけでも畏れ多いことなのに、神聖な文字が使われているとは何とありがたいことか。教徒達は感激し、たいそう崇めた。
これだけなら特に問題はなかったのだが、予想以上に受け入れられたことを知った聖職者達は、欲を出した。「浄罪符を多く持っていればいるほど浄罪の効果が高まる」と宣伝したのだ。より多くの金品を貢がせるために。
効果を疑問視する声が全く上がらなかったわけではない。だがそれらの疑問は、長期化していたランドルニア帝国との戦争、天災、疫病の流行などによって蝕まれ疲弊しきっていた人心を助けてはくれない。むしろ不信心者だと非難される始末である。
更に味を占めた教会は、今度は彫る聖句や浄罪符本体に差をつけ始めた。浄罪符に惜しみなく金を注ぐ者達には手間をかけたものを、貧しい者や寄付をケチる者達にはそこら辺の木切れにおざなりに聖句を彫ったものを、と。
だが、浄罪符自体の差別化は、潜在していた教会への不満を爆発させる原因ともなった。ある事件を境に浄罪符の発行は禁止され、以降フィリス教会は、衰退への道を辿ることになる。
そして代わりに、教会から「神々に挑む愚かな学問」と蔑まれてきた錬金術が台頭してきた。
神々への信仰が揺らぎ教義が疑われる中、錬金術は順調に発展し、あらゆる分野に恩恵をもたらした。製紙、活版印刷技術、ランタン、銀または白金の加工技術、インク、燃料、火薬……と枚挙に暇がない。
錬金術の発展を後押ししたのはフィリス教会の凋落だけではない。長らく戦をしていたランドルニア帝国と和平協定が結ばれ世情が安定したことも、大きな影響を与えた。
こうした複数の事情が背景となり、ナリア王国内で識字や教育の必要性が声高に主張され始めた。そして紆余曲折と年月を重ね、エマ達が大人になった頃、市民夜間学校の設立が実現したのである。他ならぬフィリス教会の建物を学び舎として。
***
学校に到着したエマは、門を通り抜けた。そのまま真っ直ぐ歩き、礼拝堂に向かう。かつてフィリス教徒達が神々に真摯に祈りを捧げていた場所は現在、「講堂」と呼ばれている。
エマが入ると、大きなステンドグラスが視界を占拠した。古いものだが、色ガラスの組み合わせが鮮やかで、エマの視線は自然と吸い寄せられた。
ステンドグラスが讃えているのは、主神エタルナスを中心とした勇姿や美しさだ。製作者がいかに神々を尊んでいたかが容易に推測できる。
偶像化されているのは神々だけではない。ひっそりとではあるが、ステンドグラスの右側の壁には、サンクトゥス=ラクリマが描かれている。主神から恭しく石版をいただく情景だ。フィリス教の創世神話の中でも特に有名な、「クリスタル・タブレットの誕生とラクリマの誓約」の場面である。
ふと、エマの脳裏に創世神話の一節が浮かんだ。
ーーかつて神々は、人に世界を委ねる際に「よき世界を創るための道標となるように」と、神々の叡智を刻んだ石版を、サンクトゥス=ラクリマに授けました。
ーー神々の叡智をヴァンダル語とヴァンダル文字で表した石版、それがクリスタル・タブレットです。
ーークリスタル・タブレットを授かったサンクトゥス=ラクリマは、人の心を豊かにする教えを厳選し規範としました。それがやがて『聖典』となり、私達を導いてくれているのです。
だが、フィリス教にとって神聖なはずの壁画は色褪せ、所々絵具が剥がれていた。角度によってはサンクトゥス=ラクリマの顔が滑稽に見える箇所すらある。皮肉なことに、壁画を囲むように彫られている飾り模様の方が、しっかりと原形を保っていた。
エマは妙な既視感と寂寞感に囚われたが、気持ちを切り替えて講堂内を見回した。ジュリーの特徴であるタンポポ色の髪を探す。
もう来てる頃だと思うんだけどな。
講義の開始時刻まで結構時間があるが、既に何人か来ており、思い思いに過ごしていた。
少しでも体を休めようと机に突っ伏している男性。黒パンを頬張りながら教本に目を通している女性。お喋りに花を咲かせている男性三人と女性三人の集団。その中にジュリーはいた。だが、ジュリーの隣にある特徴的なアンバー色の髪も見つけてしまってげんなりした。腐れ縁のダヴィドだ。極力関わりたくない男である。
今日はジュリーに話しかけるのをやめようか。エマは弱気になったが、貯蓄の残高が彼女を小突いて地道ないじめを開始した。
エマは「生活のため!」と気合を入れると、できるだけダヴィドの視界に入らないようにジュリーに近づいた。
「こんばんは、ジュリー」
「お、こんばんは〜、エマ。どうしたの〜?」
ジュリーは澄んだ空色の目を笑みで細めた。今日も変わらず美しく、彼女の背後に薔薇が咲いたような錯覚に陥る。惚けそうになったが、慌てて気を引き締めた。
「今いいかな? ジュリーに聞きたいことがあって」
「いいよ〜。どうしたの〜」
エマが手短に事情を話すと、ジュリーはタンポポ色の巻き毛を指先でいじった。困った時の彼女の癖だ。
「う〜ん。残念だけど、そのテの情報は、今ないのよ〜」
「そっか。ありがと」
「ごめんね。よさそうなのがあれば、すぐに連絡するね〜」
ジュリーが謝ると、エマは気にしないでと大らかに返した。ジュリーが情報を持っていないとなれば、次の相談相手はロイクになる。
ただ、昼間の祖父宅には、ランベールもいる。おまけにランベールは、野生動物並みに勘が鋭い。これまで、何度エマのささやかな変化や隠し事を看破してきたことか。ただでさえ苦労しているランベールに余計な心配をかけたくなくなかった。
よし、学校が終わってから、おじいちゃんちに行ってみよう。
エマが結論を出した時、今度はジュリーから話しかけてきた。
「あ、そうだ〜。ちょっと気になってることがあるのよ〜。エマは知ってる〜?」
「気になること? 何?」
「あのね、ランベールさんのこと〜」
「ランベールがどうかした?」
「ランベールさんね、今、校長室にいるみたい〜」
「校長室に?」
エマは首を傾げた。校長に何の用なのだろう。
「そう。それとね〜、バルサン司祭様の怒鳴り声が廊下にまで響いてたのよ〜」
「バルサン司祭の?」
エマの脳裏に先日の『聖典』のことがよぎったが、即座に打ち消した。アレはもう返したから関係ないはず。
「そう。『聖典』を盗んだのは貴様だったのか〜って」
「え」
エマは絶句した。
『聖典』が盗まれた? ランベールが犯人? どういうこと?
混乱しているエマをよそに、傍にいた受講生達が思い思いに情報を交わし始めた。
「あ、じゃあ、学校がしばらく休みだったことと関係があるのかしら?」
「どういうことだ?」
「何かね、とんでもないことが起きたらしくて、偉い人が直々に調査してたらしいの。それで講義をしてくれてる人達も全員、調査やお世話に駆り出されたらしくて。だから講義ができなくて臨時休校になったみたい」
「へえ。ここ最近教会の様子が変だって思ってたら、そのせいだったのか」
「そう。うちのおばあちゃん、いつにも増して態度が悪いって、カンカンに怒ってたわ」
「わかるわかる。俺らの寄付金で生活してるようなもんなのにさ」
「ほんと迷惑よね。それに『聖典』を盗まれたって本当かしら」
「信じられないわよね。盗んだ人間を見てみたいもんだわ。神罰が怖くないのかしら」
「だよな。でもまあ、あの人が犯人なら納得だよ。お祈りすらまともにしてなかったしなあ」
エマはようやく我に返った。
「違うよ。ランベールはそんなことしない」
「そ、そうそうっ。まだ犯人だって決まったわけじゃないよ〜? バルサン司祭様も疑問形だったし〜」
きっかけを作ってしまい焦ったジュリーもランベールの擁護に回ったが、白熱した雑談を止めることはできなかった。
「でもさあ。あの人、教会を嫌っているみたいじゃない。実は恨みでもあったりして」
「へえ。他国の人間がこの国で生活できるのは、教会が居住証を発行してくれてるおかげだっていうのにな。感謝こそすれ、何様のつもりなんだろうな」
「言えてる」
「違う、そんなんじゃない。教会の人達っ」
エマはランベールを庇おうとしたが、慌てて口を噤んだ。
「なによ、エマ。言いたいことがあるなら言えば?」
「どうせ大した理由じゃないんだろ。ほっとけほっとけ」
エマはランベールがあまり教会と関わろうとしない理由を知っている。だが決して口外しないと、ランベールと約束していたことも思い出した。破れない。
悔しさともどかしさで唇を強く噛んだエマを、ジュリーが心配そうに見つめた。
「とにかく、絶対に、何かの間違いだから。ランベールのことを、そんな風に言わないで」
エマが強く主張すると、ジュリーの隣で黙って成り行きを見守っていたアンバー色の髪の青年が鼻で笑った。エマが関わりたくなかった男性、ダヴィドだ。
「奴もしょせん、狡くて卑しいランドルニア人だったってことさ。どうせ『聖典』を売っぱらっちまおうって魂胆だったんだろ」
「ダヴィド、それは言い過ぎ〜!」
ジュリーが色を作してダヴィドに反論したが、全く効果がなかった。
「へえ。ジュリー、お前もあのランドルニア人を庇うのかよ」
ダヴィドが眉を上げた。
「そんなんじゃないよ〜。一方的に決めつけるのがヤなだけ〜」
ジュリーが頬を膨らませて上目遣いになり、雰囲気に艶が増した。大抵の男はこの色香にやられて降参するのだが、あいにくダヴィドには通じなかった。
「へっ。決めつけなんかじゃねえよ。あいつが犯人だって分かるのも時間の問題さ」
「ダヴィド、やめて。ランベールじゃない」
エマが反論すると、ダヴィドの口角がいやらしく吊り上がった。
「なあ、エマ。聞いたか? あいつの親、また酒をせびってたらしいぜ。ツケが溜まってんのによ。さっすが、ランドルニア帝国の元お貴族様は、やることが俺ら庶民とは違うよなあ」
ダヴィドが愚弄すると、所々で同意するような嘲笑がもれた。エマは拳を握りしめた。
「あの人達は関係ないでしょ」
「いいや。親が親なら、息子も息子だってことさ。これでやっと、あいつの本性が分かっただろ、エマ」
ダヴィドはエマへ近寄ると、馴れ馴れしく肩を抱いた。ジュリーが諌める。
「ちょっと〜。ダヴィド〜、近すぎ〜」
「なあ、エマ。この際、あいつとは縁を切っちまえよ。俺が、ナリア人の男のよさをたっぷり教えてやるぜ」
「必要ない」
エマはダヴィドを睨むと彼の手を振り払って距離をとった。だがダヴィドは一瞬で間を詰めた。今度はしっかり獲物を確保すべく、彼女の腰にダヴィドの腕が回る。エマの全身に鳥肌が立った。
「やめて、ダヴィド」
ダヴィドはエマの抗議を無視すると、身を屈めた。エマの首筋に自分の鼻先をくっつける。思い切り息を吸い込み、陶然となった。
「ん、相変わらずいい匂いだな」
「パンの匂いでしょ。離れてってば」
エマはすげなくあしらったが、ダヴィドは引かなかった。むしろ火がついたようだ。ダヴィドの腕に力が籠もり、下半身を擦り付けられる。
エマは身をよじって逃れようとしたが、体格差が大きく敵わない。おまけにダヴィドの腕は筋肉の塊だ。エマのか弱い力ではビクとも動かなかった。
「なあ。今夜こそ、俺と一緒にどうだ?」
「やだってば!」
「ダヴィド、エマが嫌がってるのが分かんないの〜? いい加減にしなよ〜!」
ジュリーが非難したが、ダヴィドはどこ吹く風だ。他の受講生達は、視線を逸らしているか、下卑た笑いを貼り付けているかのどちらかである。エマの味方はほぼいない。ますますダヴィドは調子に乗った。
「嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ。なあ、エマ、『聖典』泥棒のランドルニア人はやめて、俺にしろよ」
エマは自分の頭の中で何かが切れた音を聞いた。
「嫌なものは嫌なの! 屁理屈言うな!」
エマはダヴィドの足を思い切り踏みつけた。ダヴィドの腕が緩む。
その隙に、エマは渾身の平手打ちをお見舞いした。華麗に決まり、ダヴィドの頬に季節を先取りした紅葉がくっきり現れた。が。
「い、いつっ」
エマもダメージを受けた。誰かを叩けば、叩いた方も痛いのだということを、すっかり失念していたのである。格好がつかないあたりがエマらしい。
「エマ、大丈夫〜?」
ジュリーがエマの手を優しく包み込んだ。冷たくて気持ちいい。
「おい。 被害者は俺だし痛え」
「ええと? ありがと、ジュリー」
「ううん。ごめんね、私、考えなしだった〜」
ジュリーの眉がしょんぼりと下がった。
「ダヴィドがここまでケダモノだったなんて〜。怖かったよね、エマ〜」
「くそ、殴られたのも蹴られたのも俺の方だぞ」
「当然でしょ〜。あのね〜、いくらあんたの顔がよくて女にモテているからっていってもね〜、本人の了解なくあんなことしたらダメなのよ〜」
エマは大きく頷いた。
そう。どんなに容貌が優れていても、破廉恥野郎はお断りである。ましてや、陰口を叩いたり意地悪する男など、もっての外だ。
ダヴィドの顔が赤く染まったが、エマは真っ向から見返した。
まったく。どうしてこの人は、いつもランベールを目の敵にするんだろう。
エマとダヴィドはしばらく睨み合っていたが、先に険しさを和らげたのはダヴィドの方だった。エマよりもずっと蠱惑的な女性がダヴィドにしな垂れかかったのだ。
「ねえ、ダヴィド。エマなんか放っておいて。私はどう?」
「アンヌ」
アンヌの豊満な胸が、自然にか故意にか、ダヴィドの上腕で押し潰されている形となっている。誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
「あなたのよさを、手取り足取り教えて。ね?」
「……」
だが、ダヴィドは再び目尻を険しくすると、アンヌを払いのけて講堂の出入口に向かった。
「ダヴィド、待って」
アンヌが引き止めようとしたが、ダヴィドは振り返りもせず、そのまま足早に出て行った。アンヌは口を尖らせつつもダヴィドを追いかけた。ダヴィドは、外見だけは男前なので、女性がつきまとうことは別に不思議ではない。むしろ、エマのようにダヴィドを遠巻きにしている女性は少数派なのだった。
二人の姿が消えると、エマは大きく息を吐き出した。あの様子だと、ダヴィドは今日の講義を受けずに帰るかもしれない。それに。
「びっこ引いてなかったわね、ダヴィド」
「そうね〜。普通に歩いてたわね〜」
「もっと重みをかけて踏んでやるんだった」
「エ、エマ〜?」
まさかクロエさんの性格が移ったのかしら。おっとりしてるのがエマの長所なのに。真剣に悩み始めたジュリーを放置し、エマは講堂の外へと走り出した。
「エマ〜、どこ行くの〜?」
「ランベールのとこ!」
答える時間すら惜しみつつ、エマは急いで校長室へと向かった。
ランベールが無実であることを、エマは寸分も疑っていない。
気になっているのはランベールと『聖典』との関連性だ。どうして『聖典』が彼に絡むのか。教会の人間はランドルニア人であるという理由だけで泥棒扱いをしていないか。きちんとこの目で確かめたかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は、3月16日(土)14時(午後2時)に投稿します。