第一章(七)
本日は三話投稿します。こちらは二話目です。
パンを作るには力がいる。生地を捏ねる時も、パンを鉄板に乗せて石窯へ入れる時も。したがって、パン職人もそれを手伝う人間も、そこそこ筋骨が鍛えられている。「小麦の妖精」の主人兼パン職人のパトリスと、妻のクロエも例外ではなかった。
だが、いくら頑丈だとは言え、ちょっとした不自然な動きが積み重なると、恐ろしい事故に繋がる。今日のパトリスがまさにそうだった。無理な姿勢を繰り返した彼は、突然猛獣のように吠えたかと思うと、膝をついて四つん這いになったのである。
クロエは慌てて夫に駆け寄った。
「あんた、どうしたんだい!?」
「うお、うおおお」
パトリスの厳つい顔が土気色になっている。腰を手で押さえていた。
クロエはピンときた。びっくりして厨房にやってきたエマにも。
「あんた、また腰をやっちまったのかい?」
「う、うう、うお」
「どうなんだい? それとも、他のところなのかい?」
「ん、のああ、おう」
「ああ、もっとハッキリ喋っとくれよ!」
「ぐおお!?」
「ク、クロエさん! ギックリ腰かもしれない人を激しく揺するのは、やめた方が」
「甘やかすと癖になるんだよ、この人は! ねえ、あんた、どこが悪いのかキチンとお言い!」
いや、脂汗を額にびっしり浮かべているパトリスを揺さぶるのは、甘やかしではなく拷問ではないだろうか。それとも、荒療治というやつか。エマは「小麦の妖精」で働き始めてから二年ほど経つが、未だにクロエ達の上下関係が分からなかった。夫婦とは、普通男性が偉そうにしているものだ。エマの実家がそうであるように。
呆然とするエマをよそに、クロエは「こりゃラチがあかないね!」と、唐突にパトリスの胸倉を掴んでいた手を離した。
受け身を取れなかったパトリスは衝撃をまともにくらい、白目をむいて悶絶した。口から泡を吹いていないのがかえって不思議なくらいだ。
「く、クロエさん?」
クロエは二階に走って行き、しばらく階上で賑やかな音をさせたかと思うと、豪快に駆け下りてきた。
「エマ、これであのヤブ錬金術師を呼んできとくれ」
クロエはエマに銀貨を渡した。エマにとっては大金ではあるが、治癒をしてくれる錬金術師への報酬としては、相場よりも安い。問題は別のところにあった。
「え。あの。またシモンさんに来てもらうんですか?」
「ここから一番近いのはあいつんトコだからね。第四区まで行く時間も金も惜しい」
錬金術師シモン。主に人体の研究をしており、その延長で仕方なく外傷や病を診ている偏屈な男性。彼の研究部屋は、自宅がある第四区ではなく第六区にある。こちらの方が珍しい病人・怪我人の相談者が少ないので研究に没頭できる、という理由からだ。
「でも、本当にシモンさんがいいんですか? 前みたいに、診察したくないってごねるかもしれないですよ」
シモンは、診る人間を選り好みすることでも有名だ。選択基準は、身分や貧富ではなく、珍しい症状かそうでないかであること。それがせめてもの救いと言えなくもない。しかし一刻も早く治したい人間達にとっては大迷惑である、という点では大差ない。
「なら、ただのギックリ腰じゃないかもって伝えとくれ」
「え。そんなこと言っちゃってもいいんですか」
エマが戸惑ったのは、クロエのこじつけに対してだけではない。そのまま伝えた時のシモンの浮かれようが、容易に想像できたからである。もしぬか喜びになったら、果たしてシモンはどう出るか。錬金術師は、とかく予測不能な行動に出がちだ。
「いいんだよ。私らは素人なんだから、正確な判断ができないじゃないか。そうだろ?」
「……それはそうかも? うーん、でも何か違うような?」
釈然としないエマの背をクロエが押した。
「いいから。店はもう閉めるから、早く呼んできておくれ!」
「は、はい」
エマは銀貨を握りしめると店を出、馬車を捕まえるため大通りへと走って行った。
***
錬金術師シモンは、ベッドの上のパトリスを舐めるように観察した。続けて触診し、苦しそうに唸っている彼のシャツのボタンを外すと、黒い鞄から細長い管の先に小さな円盤が付いた器具を取り出す。円盤の方を左胸にあてて、瞼を半ば伏せた。
直後、シモンの瞳が翳った。
「む、これは」
シモンの周りの空気が、憂いと剣呑さを帯びた。エマは唾を飲み込む。
「これは……」
「こ、これは?」
まさかかなり深刻な状態なの? エマは不安になった。
「これは」
「もったいぶらずに一思いに言っちまいな!」
クロエが、シモンの後頭部を力任せにしばいた。彼女の平手打ちは凄まじく、シモンの上半身は振り子のように揺れた。
「ぐ、乱暴な。診察してやっている錬金術師に、何という仕打ちだ」
「まともな奴になら、まともに対応するさ。ん? 不満があるなら、もう一回いっとくかい?」
クロエがパキパキと拳の関節を鳴らしたので、シモンは怯み後ずさった。だが、エマの憐れみを含んだ視線に気づくと、背筋を伸ばし、もったいぶったように眼鏡の位置を整え、キリっと表情を引き締めた。
「残念なことに、ただのぎっくり腰だよ」
やはりぎっくり腰だったようだ。だが、残念さを強調する対象の語句が明らかにおかしい。それがクロエの癇に障った。
「何が残念なんだい、このヤブがぁ!」
ばか正直なシモンは、側頭部にクロエの右強打を受け、よりにもよって、パトリスの上にダウンした。不運で哀れなパトリスは、蛙が潰れたような声を出した後「よくぞ言ってくれた……」と素晴らしい笑みを浮かべ親指を立て、そのまま気絶した。
傍観していたエマは、無意識に自分の腰をさすった。あれは痛い。否、痛いなんてものではないだろう。
「紛らわしい真似をするんじゃないよ! おかげで無駄にハラハラしたじゃないか!」
「く、クロエさん、そのくらいで。シモンさんがコレなのは、今に始まったことじゃないじゃないですか」
「コレとはなんだ。失礼な」
「ほら。シモンさん、全然応えてないじゃないですか」
「十分応えたぞ。見ろ、たんこぶができている」
シモンは痛そうに殴られた箇所をさすったが、エマからは完全に無視された。
「どうせ殴るんなら、薬をもらってからの方がよくないですか。打ち所が悪かったら、変なものを渡されちゃうかもしれないですし」
「論点がおかしい。ここは、暴力はよくないと諌めるべき場面ではないのか」
指摘内容はまともだが、発言者本人に問題があるので、全く説得力がなかった。
「確かに。これ以上変人になっても困るしね」
「私はまともだ。錬金術師の中では」
「比べる相手が間違ってますよ! 私達からみると、十分変わってますからね、シモンさんも」
「その通りだね」
「うむ、確かに」
エマは脱力した。
「あの……自覚あったんですか? なら、少しは改めてください」
「そんな簡単に改められるくらいなら、人間苦労はせん。ほら、今日の往診代を払ってもらおうか」
どこまでもマイペースなシモンが催促すると、クロエはぶすくれながらも、銀貨をシモンに叩きつけるように渡した。
「くっ。他にもっといい錬金術師がいたら、あんたなんかに頼らなくて済むのに」
「私より腕が良い錬金術師に診せるのなら、もっと金がかかるぞ」
これは彼の負け惜しみではなく、厳然たる事実だ。彼より優秀な錬金術師が滅多にいないことも、いたとしてもかなり高額な診療代となることも。それが分かっているだけに、クロエは余計に悔しがった。地団駄を踏むあたり、まるで癇癪を起こした幼児のようだ。
シモンは素早く懐に銀貨をしまい、てきぱきと湿布薬と鎮痛薬をパトリスに処方した。これがまた小憎らしいことに、シモンが作る薬はよく効く。彼は、怪我や治療に関してだけは、優秀で常識的だった。
「全く、こんなありふれた、つまらない症例で私を呼ぶな。迷惑だ」
シモンの愚痴を耳にしたクロエの形相が、悪魔も裸足で逃げ出すようなものに変わったが、彼は表面上は涼しげに受け流した。
「ではな。せいぜい安静にしておくことだ」
「言われなくったって休ませるさ! もう二度とあんたの世話にはならないよ!」
「ぜひそう願いたい」
シモンは、後ろ手に扉を閉めて出ていった。クロエはべえっと舌を出す。
確かクロエは、前回も前々回も同じ台詞を吐いた。だが、前回も今回もシモンを呼んだということは、彼女なりに彼を信頼しているのだろうか。
「まあまあ。クロエさん、ただのぎっくり腰でよかったじゃないですか。」
「……まあ、そうだね。そうだよねえ。エマの言う通りだ」
クロエは自分自身に言い聞かせるように、何度も頷いた。いつの間にかパトリスの表情から険しさが取れている。寝息も穏やかになっている。さっそく薬の効果が現れてきたらしい。だが。
「エマ。すまないけど、当分ウチは休業するよ」
肝心のパン職人がこれでは、開店する意味がない。エマを働かせたくても仕事がない。エマは努めて明るく笑った。
「私は大丈夫です。早く治してくださることが大切ですから」
「……ランベールは頼れないのかい」
エマの家庭環境を把握しているクロエは遠慮がちに提案したが、エマは首を横に振った。
「ランベールは、家に仕送りをしてるから、生活は結構ギリギリなんです」
「え、そうだったのかい」
クロエは目を丸くした。まさかランベールが、あの手間賃の中でやりくりして仕送りをしているとは、夢にも思わなかったのだろう。エマも知った時は驚いたものだ。
「じゃあ教会はどうだい? 確か、女でも手間賃をくれるまともな仕事を斡旋してくれるはずだよ」
エマを可愛がってくれているロイクは、教会を嫌悪している。ロイクが受けた心痛を考えると、学校のこと以外で教会と親密になるのは、できれば避けたい。エマがやんわりと断ると「ロイクさんがらみだね。まあ無理もないか」とクロエもそれ以上勧めはしなかった。
「いえ。気を使ってくださって、ありがとうございます」
「いや。こんなことになって、すまないね」
「クロエさんのせいじゃないですよ。もし、私でお手伝いできそうなことがあったら、言ってくださいね」
そうだ。クロエはエマより大変なのだ。自分の生活だけではない。夫の世話や看病もしなければならないのだから。
エマはクロエを励ましながら、当座の生活を考えた。
エマに支払われている賃金は、日給制の後払いだ。したがって、パン屋「小麦の妖精」の休業は収入減を意味する。エマは急いで頭の中で当分の収支を概算した。
借りている部屋の前払い期日が迫っている。貯えは少々あるが、パトリスがこの様子では休業が長引く可能性がある。やや心許ない。
休業中はいっそのこと、実家にしばらく帰ろうか。だが、エマはすぐにその思いつきを消去した。あそこに自分の居場所はない。
ほかに頼れそうなのは、祖父のロイクと友人のジュリーだ。
ジュリーは服屋の看板娘で、情報通でもある。どこで人手不足か、エマにもできそうな仕事があるか、彼女なら把握しているかもしれない。
幸い、今日は久しぶりに学校で講義が行われる。ジュリーも学校に通っているから、会えるはずだ。
もしジュリーに心当たりがなければ、おじいちゃんに相談してみよう。
よし。そうと決まれば、くよくよ考えずに今できることをしなくちゃ。
エマはぐっと拳を握った。
お読みいただき、ありがとうございます。
次話は、3月2日(土)16時(午後4時)に投稿します。