第一章(六)
本日は三話投稿します。こちらは一話目です。
いつもこの一時は緊張する。ランベールは無意識に息を殺していた。
ロイクの研ぎ澄まされた目は、寸分の歪みさえ見逃さない。節くれだった手指は、わずかな違和感も察知する。熟練工だからこその神業。
ロイクは、ランベールが作った木のレターケースを隈なく検証した後、不機嫌そうに呟いた。
「ふん。使えねえことはねえな」
親方なりの賞賛に、ランベールは安堵した。
***
ロイクは、工房の入口で役人と話をしている。ランベールは昼食のパンを頬張りながら、『聖典』のことを考えていた。
予想もしない形で『聖典』を押し付けられ、保管すること今日ではや七日。ランベールは文字通り『聖典』を肌身離さず持っていた。眠る時ですら『聖典』を側に置いているありさまだ。ランベールとて、健全な結婚適齢期の男である。何が悲しくて、妙齢の女性とではなく堅苦しい書籍と寝台を共にしなければならないのか。
ランベールはあの後、咎められることを覚悟の上で教会に直接返しに行った。コトがコトなので、できるだけ、より上位の聖職者ーー少なくとも司祭以上の人間がいい。そう思い、取り次いでもらうよう頼んだ。経験上、露骨に嫌な顔をされることはよくあっても、問答無用で断られることはあまりなかったからだ。
だが、門番から「お偉い方が当面の間滞在なさるので、司祭はご多忙でいらっしゃる。面会は後日にせよ」と、けんもほろろに断られたのである。ランベールの無意識の威圧感も通じなかった。
ではそのお偉い方とやらはいつ帰るのか。そう問うと、「当面は当面だ」と実に曖昧な返答である。挙句の果てには、怪しい奴めと警棒で小突かれてしまった。完全に当てが外れ困惑しきったランベールは、教会がダメなら学校で相談しようと考え、一旦仕事に戻り、いつもの時間に行った。
ところが到着すると、校門の前には「しばらく臨時休校します」との立て看板。間が悪いことこの上ない。一瞬ランベールの脳裏を『聖典』ことがかすめたが、不運な偶然が重なっただけだ、と強引に自身を納得させて、帰途に就いたのだった。
数少ない友人からの情報によれば、学校は今日から再開されるらしい。少しでも早めに行って、できるだけ穏やかに『聖典』を渡さないと。ランベールは気力を奮い立たせ、パンを喉に押し込むと、仕事を再開すべく腰を上げた。
道具の準備をしている最中に、客の出入口用の扉が閉まる音が聞こえた。どうやら役人との話が終わったらしい。どことなく不機嫌なロイクが工房内に入ってきた。
「ランベール、今日はもういい。終わりだ」
「え? でも、あの箪笥の修繕の納期、迫ってるんじゃ」
ロイクの指示は渡りに舟だったが、工房の片隅にある小さな飴色の箪笥が気になった。確か「引き出しの開け閉めがうまくいかないので、なるだけ早く修理してほしい」との注文だったはずだ。客は壮年の男性で、「買い替えればいいのでしょうが、死んだ妻が大切にしていたものですから」と淋しげに呟いていたのが印象に残っている。
「ああ、あれな。注文は取り止めだとさ」
「どうして取消になったんですか」
「差し押さえだと。ひとまずそのままにしておけ、とのお達しだ」
「差し押さえ?」
耳慣れない単語にランベールが首を傾げると、ロイクはばつが悪そうに頭を掻いた。
「つまり、回収できない借金があるから、代わりにそいつを売っぱらっちまって、その代金を借金の返済に充てるってこった」
ランベールは、再度件の箪笥に視線を向けた。いい表現を使うなら風格と歴史がある。悪い表現を使うなら古くて流行遅れだ。
「あれ、売れるんでしょうか」
「さあな。たく、久しぶりに“温もり”を感じれるはずだったのによ」
ロイクは王都でも五指に入る優秀な家具職人だ。だが当の本人は、古い時代の家具を修繕するのが好きで、なかなか現代風の家具を作ることはない。加えて頑固一徹なので、お世辞にも商売上手とは言えず、工房の羽振りは決してよくなかった。
だが、ランベールはロイクのこの気質が嫌いではなかった。「大切に使われる家具には命が宿ってる。触れると温もりがあるんだ」と目尻を下げて家具を撫でるロイクは、とても誇らしげだからだ。
それに、ランベールも古い家具は好きだ。長く丁寧に扱われたもの特有の柔らかい艶があり、囲まれると心がくつろげる。
「で、その代わりと言っちゃなんだが。今日は学校があるんだろ。遠回りになるが、その前に第四区の西南通りに行ってくれ」
「えっ」
ランベールは不思議に思った。第四区の西南通りは、錬金術師が多く住んでいる地区だ。近頃は『科学者』と称する者もいるらしいが、どちらにせよ、ロイクにはあまり縁がない人々が集中している所である。
「それは構いませんが。どんな用件です?」
「そいつの注文主に、差し押さえの件を一言かけといてくれ。念のためにな」
役人がこちらにも来たくらいだ。当然持ち主にも連絡が行っているはずだが、万事に慎重なロイクは、情報の突合せをしたいようだ。
「分かりました。もう少し詳しく教えてください」
ロイクはランベールに詳細な住所を伝えた。確かに遠回りだが、寄れない距離ではないし時間もある。
ランベールが承諾すると、ロイクは棚から鉋を取って日課の点検を、ランベールは道具の片付けを始めた。
「ところで。ヴァンダル文字の勉強はどんな調子だ」
不意打ちの質問にランベールはどきっとした。
「あ、えと、大丈夫、です」
「そうか。早いとこ覚えちまえよ。自分の身を守るためにも、な」
「は、はい」
ロイクは昔、教会から家具の注文を受けた時、詐欺紛いの目に遭った。最初は何の変哲もなかった書類が、いつの間にかヴァンダル文字で記されているものにすり替えられており、しかも彼にかなり不利な条件で契約を結んでいたことになっていたのだ。ロイクの腕を妬んだ貴族・聖職者お抱えの高名な職人達と、金に目が眩んだ聖職者達が結託して、彼を陥れようとしてのことだった。
ヴァンダル文字は市民にはほとんど普及していないが、条項がどんな言語や文字であれ、当事者欄に直筆のサインが入っていれば契約は成立する。それがナリア王国の商慣習である。ロイクは窮地に立たされた。
幸い、不審を抱いた職人組合や別の高位聖職者が介入してくれたおかげで、辛うじて信用だけは失わずにすんだが、受けた金銭的・時間的損失は計り知れなかった。このことがきっかけで、ロイクはフィリス教からも教会からも距離を置くようになった。礼拝すら行っていないらしいーーとは、孫のエマの言である。
このような因縁があるため、市民夜間学校の開設を知ったロイクは、すぐに愛弟子のランベールを通わせることにした。入学時の年齢に制限がないことが幸いした。
それだけではなく、ロイクは自分の貯蓄を、ランベールとエマの学費援助に充てた。当時エマが、雇われたパン屋で計算に四苦八苦し悩んでいたことを知っての行為だった。ちなみに、このことを人伝に聞いたエマの両親が「孫はエマだけではない」「赤の他人の弟子にやる分があるなら他の子達の分もよこせ」とロイクに喧嘩腰で詰め寄ったそうだが、彼は一歩も譲らなかったという。
学校に通うためには、さまざまな費用がかかる。教本も高額だ。ゆえにロイクからの援助は、彼らにとっては涙が出るほどありがたいものだった。
しかし、皮肉にも『聖典』の存在がそれを脅かそうとしている。昨日ロイクに外出の許可をもらう際、エマが困っていることは告げたが、『聖典』のことまでは話していない。
一体どこまで信じてもらえるか。ランベールは嘘をつくつもりなど毛頭ないが、正直なだけで信頼を勝ち得ることができるなら、世の中苦労はない。
それともう一つ、気がかりがあった。
『聖典』を持っていた男は、何者かに追われていた。教会関係者だと思われるが、風体がそれらしくなかった。加えて、暴力を生業としている者達独特の酷薄さがあった。
確かに『聖典』はフィリス教会にとって重要なものだろう。だが、単に取り戻すだけのはずなのに、言動が穏やかでなかった。
自分は男だからまだいい。もしエマが持っていたままだったら。
残暑で工房の中は熱がこもっているのに、ランベールの背筋には悪寒が走った。
お読みいただき、ありがとうございます。
次話は、3月2日(土)15時(午後3時)に投稿します。