第一章(五)
本日は四話投稿します。こちらは四話目です。
レオは、窓もない暗い地下牢で、ずっとふてくされていた。
まったく、なんで『聖典』ごときでこんな目に。ついてないぜ。
何もすることがない彼は、ここ数日間の出来事を思い返していた。
***
レオは賭博が好きだ。だが弱い。負けがかさんでいた。負けた分は借金して返済していたものの、徐々に首が回らなくなってきた。
債権者の取り立てが不穏さを増したきた頃、彼は世俗から離れた兄のことを思い出した。共通の知人に様子を聞くと、どうやら主教に大出世したらしい。
この時レオの脳裏に浮かんだのは、兄の聖職者としての姿ではなく、一度だけ見たことがある主教の、羽振りの良さだった。顔色も肌艶も恰幅もよかったし、法衣は染みひとつなくうっとりするような光沢を放っていた。手には金色の指輪がいくつもはまっていた。
これはツイている。兄貴も貯め込んでいるに違いない。
思い立った翌日、さっそく兄を頼った。だが、ジュストは弟との数年ぶりの再会を懐かしむどころか、ひどく焦っていた。ジュストは自室内にあったお金を全てかき集めた後、彼に『聖典』を手渡した。
「足りなければこれを売れ。だが、できることなら燃やしてほしい」
彼の手に握らされたジュストの全財産は、残念ながら完済にはほど遠かった。
肉体言語だけで語り合おうとする債権の取立屋から逃れながら、彼は悪友の家の扉を叩いた。『聖典』を売るための相談をするためだ。教会の紋章が入ったものを正規の手段で捌くのは難しい。そこで、悪友が持っているであろう闇ルートの伝手を頼ったのだ。在宅していた悪友は、彼に複数のルートを紹介した。
彼が、最寄りのルートがある第六区に向かっている途中、取立屋に遭遇した。更に間が悪いことに、『聖典』を取り返そうとする者達まで加わった。しかも後者は、殺意を剥き出しにして彼にナイフを突きつけた。
彼は隙をついて全速力で逃げ出した。途中でパッとしない女と接触事故を起こし本を落としたものの、素早く拾い上げ、ようやく撒けたとホッとした時、『聖典』がすり替わっていたことに気づいた。手にしていた本には、教会の刻印がなかったのだ。
まさか、あそこでぶつかった時か。お互いに荷物を路上にばらまいてしまっていたから。彼は己の不運と女の鈍臭さを呪いながら一夜を明かした。
早朝に目が覚めた彼は、おぼろげになりつつある記憶を頼りに、本を落とした場所を探した。女を見つけたのは、昼を過ぎた頃だ。少し怪しまれはしたが取り戻せた。
さっさと売っぱらってしまおう。ひとまず借金を返してしまって、それから後のことを。そう考えていた矢先、教会関係者と思しき男達に見つかった。彼はまた全力疾走する羽目になった。
だが、今度は奴らの方が二枚も三枚も上手だった。彼はゆっくりと追い詰められ、体力と気力の限界が近づきつつあった。
何とか距離を稼ごうと適当な裏通りに入った直後、誰かとぶつかりそうになった。今度は体格の良い、やけに風格が漂っている成人男性だった。
彼は男性に怯えつつも、小狡く計算し『聖典』を押し付けた。
だが、せっかく身軽になったのに捕まってしまい、このような暗くて黴臭い場所に放り込まれてしまったのだった。彼は怒りの矛先を兄に向けた。
こうなったのも、兄貴のせいだ。主教のくせに、あれっぽっちの金しか持ってないなんて、おかしいだろ。おかげで僕はひどい目に遭ってしまった。
いや、ひょっとしたら、僕にお金を渡すのが惜しくなって、ケチったのかもしれない。くそ、ここから出たら兄貴からもっと搾り取ってやる。どうせ信者どもから巻き上げてるに違いないんだ。
彼は自分の不道徳を棚に上げ、悶々とした。
***
レオがここに来てからどのくらい時間が経過したのか。
鉄格子の向こう側に、光が差し込んできた。続いて、甲高い音と、何かを引き摺るような重い音が交互に聞こえてくる。彼は手探りで鉄格子にしがみついた。
「おい、ここから出してくれよ! 『聖典』は持ってないって言っただろ!」
やがて音は止まった。続いて蝋燭の優しい光が彼と周囲の様子を照らす。苔むした石造りの壁。染み出る水。むきだしの地面。
彼と対峙したのは、豊かな顎鬚を持つ初老の男だった。真っ白な法衣を身に纏っている。彼はフィリス教徒ではないが、初老の男がかなり高位の聖職者であろうことは容易に察することができた。
「そなたか、ジュストの弟とやらは」
「だったらなんだってんだよ」
「単刀直入に聞こう。『聖典』はどうした」
「知らねえよ。持ってねえよ、そんなもん」
ボソボソと第三者の声が介入した。衣服も隅々まで探したがない、隠し持っている形跡もない、と。
「ふむ。持っていないのは確かなのだね」
「さっきからそう言ってんだろ、そっちの勘違いだって」
疑いを持とうにも、証拠がなければ水掛け論である。『聖典』を手放したのは、どうやら正しかったらしい。彼は密かに安堵した。
「では、言いたくなるようにしてやろうか」
ソレをここへ。初老の男が静かに告げると、彼の目の前に、何かが現れた。誰かが投げたらしい。かなり重量があるらしく、落ちた時かすかに地面が揺れた。
突然現れたソレは、赤黒くてボロボロだった。初老の男はそれを掴み、ゆっくり持ち上げる。
初老の男がやけに平静だったので、彼はまともにソレを見た。直後、喉が裂けそうになるほどの絶叫をほとばしらせた。
初老の男が持ち上げているのは、人間だった。本来あるべき位置に目はなく、眼窩が露出している。鼻は削ぎ落とされ、耳は欠けていた。力なく開いた口には、歯がほとんどない。皮膚が焼け爛れている。
急激に胸の底から異物が湧き上がった。耐えられず、彼は胃の中の物を吐いた。
初老の男は微動だにしなかった。彼の嘔吐がひと段落するのを待つ余裕すらあった。
「薄情なものだの。ジュストがこうなったのは、弟のお前を守ったためでもあるのにな」
「あ、兄貴、なのか?」
赤黒く見えたのは乾きかけた血だった。その間から、彼とお揃いの灰色の髪が見える。ジュストだと確認できるのはそれだけだ。兄の穏やかな容貌は、全く残っていなかった。彼はガタガタと歯の根が合わなくなった。
「な、な、で、こん、な」
「アレを隠そうとした罪じゃ。当然の報いよ」
アレとは『聖典』のことか。確かにフィリス教にとっては大切なものだろう。だが。ここまでするほどのことなのか。
「う、そ、だろ。たかが、本のことで」
「兄弟揃って、この痴れ者どもが!」
初老の男が激情のままにジュストを地面に叩きつけた。ジュストは呻き声すら出さなかった。ただ指先がわずかに動き、辛うじて息だけはあることを示した。
「たかが、だと? これだから俗物は困る」
初老の男からは、傲慢さと酷薄さとが滲み出ていた。
「『月神の恩寵』をここへ」
この緊迫した場にそぐわない清らかさを持つ言葉だが、レオにとっては禍々しいものにしか思えなかった。
「この男から情報を引き出せ。手段は問わぬ」
「はい」
抑揚のない返事が、ますます彼の恐怖を高めた。無意識のうちに彼は鉄格子から後ずさった。だが、程なく背中に何かが当たる。振り返ると石壁だった。逃げ場がないことを改めて悟り、レオは焦燥感で喉がカラカラになった。
わずかに空気が動いた。レオがそちらに視線を転じる。
いつの間にか第三者がいた。背後に明かりがあるため、目鼻立ちなどの細かい部分は判別しづらかった。
「え、おい、なんだよあんた、て、ぎゃあああ!」
彼の指先に衝撃が生じた。苦痛のあまり息も絶え絶えになる。
今度は足の指先に高熱が生まれた。立っていられず地面に転がり回る。泥と鼻水と涙で顔が汚れたが、そんなことに構ってはいられなかった。
「や、やめ、お、ああ、あああ!」
「必ず聞き出せ」
「承知しました」
迷いのない返答に、初老の男ーードゥルマ枢機卿は、満足して頷くと、期待している成果が出ることを確信し、ジュスト兄弟の前から立ち去る。
ドゥルマ枢機卿は、背後から聞こえてくる濁声には、もはや何の関心も抱かなかった。
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次回は、3月2日(土)14時(午後2時)に投稿します。