第一章(四)
本日四話同時投稿しています。こちらは三話目です。
鐘の音が、大聖堂の中の厳粛な空気を震わせた。だが、主神エタルナスに祈りを捧げている教徒達は身じろぎもせず、ひたすら神々の慈悲を請うていた。ステンドガラス越しの柔らかな色彩の光は、老若男女を分け隔てることなく降り注いでいた。
先年還暦を迎えたドゥルマ枢機卿は、上階から満足げに眺めながら、傍の男に問いかけた。
「ジュストの弟は見つかったのかね」
「いえ、まだです」
「随分手こずっておるようじゃな。儂の部下も使うかね」
男の背中に冷や汗が流れた。
ドゥルマは、現職に就く前は、長く異端審問官長として采配を振っていた。そのためか、彼の部下と言えば異端審問、つまり捜索だけでなく残虐な手口や拷問に長けた者達が多い。男は焦りつつも平静に答えた。
「そこまでしていただくわけにはまいりません。これ以上、猊下のお手を煩わせることはできません」
目的は、あくまでもジュストの弟が持っている『聖典』を取り返すことである。決して無残な死体を増やすことではない。そのことを分かっているのだろう。ドゥルマは捜索に関してはそれ以上口にせず、豊かな顎鬚を撫でた。
「あれから、ジュストはどこまで話したのかね」
「それが何も。あれは焼いた、との一点張りです」
「強情なやつじゃの。さて、どうしたものか」
ドゥルマの表面はあくまでも穏やかだ。だが、内心は果たしてどうか。ドゥルマは決して気が長い方ではない。現に、地下牢に繋がれている元主教は、ドゥルマの意を受けた者達によって、肉体的にも精神的にも苦痛を与えられ続けている。
ドゥルマの眼下で、教徒達が起立した。続いて、パイプオルガンの荘厳な音色が大聖堂を満たす。聖歌の時間になったらしい。拙くも真剣な歌声があちこちから聞こえ始めた。初代教皇サンクトゥス=ラクリマの偉業を讃え御魂を慰める詩が、教徒達の心を震わせた。
ドゥルマは目を細めた。
「教皇様へ謁見したい。早急に準備を」
「承知しました。先触れは言伝でしょうか、それとも」
「文をしたためる。時間はかからぬから、ここでしばし待て」
「は? はい」
普通は一旦退出させられるものだが、かなり急ぎで秘匿性が高い要件らしい。ドゥルマは、男の目の前で羊皮紙に羽ペンを走らせていった。
かなり珍しい事態なので、好奇心が抑えられず、つい男の視線は羊皮紙へと吸い寄せられる。男が全容を読み取る前に、ドゥルマが吸い取り紙で覆ったので、さっぱり理解できなかったが、それでも、二つの単語が男の印象に残った。月神の恩寵。クリスタル・タブレット。
男は怪訝に思った。クリスタル・タブレットとは、あの、クリスタル・タブレットのことだろうか。
男の思考は、ドゥルマの質問によって中断させられた。
「そなたは今何歳だ」
「え、五十三歳ですが、それが何か」
唐突な質問に首を傾げつつも男は答えた。
「その歳で司祭止まりか」
「は、はあ」
自分には出世するための学も意思も足りないことも、十分に承知している。司祭の上位は主教だが、主教といえば複数の教区を管轄する者でもあるため、教会内でもかなりの権力を有するようになる。したがって関門は狭い。ここ数年は、アレクサンドルによる巧妙な干渉で教区自体が激減し、更に難しくなった。
ドゥルマは何を言いたいのだろうか。彼のうだつの上がらなさを嘲りたいのだろうか。
「余計な好奇心は身を滅ぼす元になるぞ。ジュストのようにな」
頭の良さ、とりわけ語学の才能を認められ、若くして主教になった男。だが、今の彼は。悪寒が男の全身を駆け回った。
「今見たモノは忘れることじゃな。やっと手にした司祭の地位、失いたくはあるまい?」
ドゥルマの抜け目のなさに、男は平服せんばかりの勢いで頭を下げた。男の胸で古ぼけた紋章ペンダントが揺れ、磨耗した薔薇が鈍く光った。聖歌がこの場の空気を支配する。
そこへ、別の男が現れた。息が若干乱れている。
「猊下、今よろしいでしょうか」
「構わぬよ」
「ジュストの弟が見つかりました。現在、地下牢に連行しています」
「ほう。意外に早かったな」
ドゥルマの片眉が跳ね上がった。男も驚いた。王都はかなり広いし人口も多い。彼がその気になれば探し出すのは相当困難なはずだった。捜索者達が優秀なのか、ジュストの弟が間抜けなのか。
「で、ですが、その……でして」
男の声がか細くなっていった。
何だろう。嫌な予感がする。五十三歳の司祭は、あまり賢くはなかったが、教会関係者としての経験はそれなりに積んでいる。こういう時、勘はそこそこ働いた。
「どうしたのかね。はっきり言いなさい」
「せ、『聖典』を持っていなかったんです」
ドゥルマのこめかみに青筋が浮かんだ。
「至急、これを持って教皇庁へ向かえ」
「は、はい」
司祭は恭しく羊皮紙を受け取り、踵を返した。
司祭の背後で、聖歌とドゥルマの押し殺したような怒声とが不協和音を作り、今後起こるであろう不穏さを告げていた。