第一章(三)
本日四話投稿します。こちらは二話目です。
夏の気配がだいぶ薄れ、露店に並ぶ野菜や果物は、秋の彩りが多勢を占めている。市が間もなく終わろうとしている昼下がりの時刻。王都第六区は、まだまだ雑然とした賑わいを見せていた。
店主と客の駆け引きが飛び交う中央大路を、ランベールは足早に歩いていた。向かう先は「小麦の妖精」。エマが働いているパン屋だ。王都の第六区では一番おいしいと評判の店で、ランベールもたまに買うことがあった。
あいつ、大丈夫かな。
別れ際のエマはかなり上の空で、ランベールが何を話しても生返事だった。
夜になれば学校で会えるのは分かっているが、彼女が気にかかって仕事に集中しきれなかったランベールは、親方に簡単に事情を説明し、了承を得て抜け出してきたのだった。
昔に比べて衰えたとはいえ、フィリス教会の影響は決して小さくはなく、権力の残滓はそこかしこに存在する。市民夜間学校がいい例だ。
ナリア国王アレクサンドルは、十数年前からフィリス教会が教育に介入することを禁じたものの、皮肉なことに、読み書き計算を教えることができるほどの教養と余力を持っている者達は、ほぼ教会関係者だった。単に「できる」のであれば、商人や職人の中にもいるのだが、彼らにも生活やその他諸事情がある。教会の色を拭い去ることができるのは、まだ先の未来だろう。
王都の南大門が見えてきた辺りで脇道へと入る。更にしばらく歩き角を曲がったところで、誰かとぶつかりそうになった。
「と、すまねえ」
ランベールはとっさに謝った。灰色の髪が視界に入る。
「あぶねえ、気をつけ、え」
「何だよ」
ランベールが男を見下ろすと、髪と同じ灰色の目に怯えが浮かんだ。
「あ、あの、とても、いや、大変、誠に申し訳ありませんでしたッ!」
「いや、別に怒ってねえよ」
「ナメた態度とってすんません」
「だからどうも思ってねえって」
「ひょえっ、勘弁してください、ホント、すいませんッ!」
「だから違うって!」
「あばば、申し訳ごじゃいまてん! すみまてん!」
「……」
舌を噛んで更に涙目になっている。ランベールは心の中で嘆息をもらした。
彼の容貌は決して怖い部類には入らないのだが、視線や声音に他人を屈服させる力があるらしく、このような時、相手が先に、平謝りに謝るのが常だ。体格もかなり良い方なので、余計に威圧さを増すらしい。
男は卑屈なまでに自らの非礼を詫びた。
「今は時間と持ち合わせがないんで、後で必ずお詫びしますから」
「だから俺は別に何とも思ってねえよ」
「追われてるんです、捕まったらどんな目に遭わされるか」
「いや、だから俺は」
男はランベールに縋った。その拍子に男が手にしていた物が落ち、ランベールの足の甲に激突した。やけに硬い。
「いてぇッ! おい、なんか落としたぞ?」
「あっ、許してくださるんですね、なんて寛大な人なんだ!」
「お前、人の話を聞いてんのか!?」
涙ぐむランベールの抗議を、男は無視し身を屈めた。落ちていたのは焦げ茶色の直方体。革製のようだ。
ふと、どこからか別の声が聞こえてきた。
「あいつ、どこ行きやがった」
「クソっ。こざかしい真似しやがって、ただじゃ済まねえ」
「今度は逃すな。アレごと持ち帰るんだ。でないと、俺らがやばいぞ」
真昼間には似つかわしくない物騒な会話が聞こえてきた。ランベールは訝しんだだけだが、灰色の髪の男は違った。体を大きく震わせると、ただでさえ落ち着きのない視線が、宙をさまよい始めたのだ。ランベールの本能が、敏感に厄介事の気配を嗅ぎ取る。
そうっと立ち去ろうとした時、袖を強く引かれた。
「すみません、ちょっとお願いが」
「は?」
「この本売ります。お金は後で、でいいです」
強引に持たされたのは、先程ランベールを悶絶させた物体だ。記憶に新しい手触りと外見に、ランベールの頬が盛大に引き攣った。
「え。困る」
「じゃああげます」
「いらねえよ。あんたが持っとけ」
ランベールが突き返すと、男は涙ぐんだ。
「僕がコレを持ってるのはまずいんです、お願いしますっ」
だが、ランベールは絆されなかった。逆にカマをかけてみる。
「俺に渡すよりも、教会に返してくりゃいいじゃねえか。『聖典』だろ、これ」
男が青ざめた。どうやら大当たりだったようだ。
「訳あって返せないんです。でも、僕が持っているよりはマシなんです! 多分!」
「つべこべ言わずに返してきやがれ! うわ、俺に寄越すな!」
ありがたいはずの『聖典』だが、二人は互いに投げ合った。フィリス教の聖職者が見たらさぞや嘆くであろう、この上なくぞんざいな扱いである。
「ありがとうございます、じゃ!」
ごく短かったやり取りは男の勝利に終わった。一方的にランベールに『聖典』を渡し、転びそうな勢いで走って行く。
「おい、待て!」
ランベールが追いかけようとすると、複数の足音が聴こえてきた。頭で考えるより早く、ランベールの体が最寄りの建物の陰へと動く。
結果的に、ランベールの行動は正しかった。人相があまりよくない男達が、足音も荒く血相を変えてやってきたのだ。
「あっちだ!」
「ちくしょう、手こずらせやがって」
「とにかく奴を捕まえろ。そして、目撃者を出すな」
ランベールは懸命に気配を押し殺した。その甲斐があり、男達は彼には気付かないまま去って行った。
辺りに静寂が戻っても、ランベールは動かなかった。十分すぎるほど時間が経ってから、慎重に体を動かした。手元の本に視線を落とす。
焦げ茶色の皮表紙。裏表紙の隅を見ると、教会の紋章が刻まれていた。ざっと頁をめくると、ナリア文字や、昨晩見たばかりの不届き千万の落書きがあった。
どういうわけか、『聖典』はエマの手から離れて、彼の手元にきてしまったようだった。
ランベールは天を仰いだ。困った時は、敢えて上を向いて、息をしやすくする。
鳶色の目が空の青さに慣れた頃、市の終わりを告げる鐘が高らかに響いた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次話は、2月16日(土)16時(午後4時)に投稿します。