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第一章(二)

本日は四話投稿します。こちらは一話目です。

 エマは昔から、どことなく要領が悪いところがあった。逆に、エマの兄・姉・妹・弟は、神童と呼ばれるほど頭のできと見目がよかった。両親は平凡な人間なので、近所の熟女達は「本当の親子じゃないんじゃないの」「鳶が鷹を生むってこのことかねえ」「エマちゃんだけが本当の子だったりしてね」と口さがなかった。

 それほど優れた子達を持つ親が、過剰なほどの期待を抱かないわけがない。エマの両親も例にもれなかった。二人の稼ぎのほとんどがエマ以外の子供達のために費やされた。当然ナリア文字や計算なども小さい頃から学ばせ、教師らの絶賛を浴びた。

 一方、両親によく似て突出したところのないエマは、何かにつけて家事を命じられた。教育など受けさせてもらえなかった。ましてや文字など。年齢や体格に見合わないことも当たり前のようにさせていた。

 その最も顕著な事例が水汲みだ。水汲みは必須だが重労働だ。まして体格が未完成の子供にとっては。

 当時、エマ達が住んでいた地区は水道が引かれていなかったので、水が必要であれば共同の水場まで汲みに行かなければならなかった。しかしエマの両親は「頭の足りないエマにもできることをさせているのだ」と主張して憚らなかった。周囲の大人達は、両親の巧妙な言い訳にごまかされていたから、エマは黙って従うしかなかった。

  ある冬の朝。いつものように、エマは歯を食いしばり水の入った桶を持とうとした。だが、その日は氷柱ができるほど寒く、指先は凍えていた。こわばってしまって関節を曲げられず、取っ手を掴めない。

 エマは、白い息を吹きかけてかじかんだ指を温めると、気を取直して桶を持ち上げようとした。

 その直前に、エマよりやや大きい手が取っ手を掴んだ。桶が滑らかに地面から離れる。桶から溢れる水も、エマがするよりずっと少ない。

 エマが驚いて視線を移動させると、赤銅色の髪と鳶色の目を持つ男の子が持ち上げていた。

 エマは彼に見覚えがあった。数日前に教会の中庭で会った子だ。

 髪と目の色が特徴的だったこと。悲しみと悔しさを押し殺したような表情が印象的だったこと。彼を慰めたくなっていろいろ試したがうまくいかなかったこと。やはり自分はみそっかすなのだと悲しくなったこと。それらが泡のようにエマの記憶の底から浮かび上がってきた。

「これ、どこまで?」

「え」

「ほら、はやくしろよ」

 どこか訛りのある少年は、エマの返事を待たずにゆっくり歩き出した。

 それが、エマとランベールの二度目の出会いであり、仲を深めるきっかけとなった。



 ***



 大人になっても水汲みはきつい。だが、幼い頃と違い、今は「ありがとう」の笑顔と手間賃をもらえる。

 エマは、寝不足の頭を激励しながら調理場の(かめ)に水を満たすと、店内に戻って焼きたてのパンを陳列していった。いつもなら心弾む香りが彼女をウキウキさせるが、気持ちは沈んだままだった。 あれから二人は頭を搾ってみたものの、有効な手立てが見つからず、暗澹たる足取りで帰途についた。下手に隠さず、校長に事情を説明して判断を仰ぐしかない。それが、昨晩二人で出した結論だ。

 だが、校長はどこまでエマの言い分を信じてくれるだろうか。それが二人の最大の悩みである。

 市民夜間学校として使われている建物は、元々フィリス教会が所有していたことから、校長もフィリス教会の関係者が就任するのが慣例だった。現在の校長もフィリス教会の元聖職者だ。彼女を信じるどころか、教会と一緒になってエマを(なじ)るかもしれない。

 せめてエマが借りていた本が見つかれば、少なくとも『聖典』盗難の疑いは持たれないはずなのだが、これもまた、エマにとっては頭痛の種である。本物が紛れ込んだ経緯は不明だし、改めて借りていた複製本を探したけれど、どこにもない。事情が事情なだけに、人に聞いて回るわけにもいかない。

 エマが大きな溜息をついた時、澄んだ鐘の音が鳴った。来客だ。

「エマー、そっち頼んだよー」

「は、はーい」

 奥からクロエの声が飛んできた。今は手が離せないらしい。エマは入り口に向き直った。しょんぼりと下がりそうになる口の端を引っ張りあげ、頑張ってクロエ直伝の笑顔を作る。

「いらっしゃいませ」

「あ、あんた、やっと見つけた!」

「え」

 来客は、若い男性だった。灰色の髪が若干乱れてはいるものの、そこそこ身なりがよい。上品な光沢を放つ服を(まと)う者は、エマの知り合いにはいなかった。常連客でもない。だが、エマの記憶に引っかかっるものがあった。つい最近どこかで会ったような。

「あんた、アレ、アレを持ってるだろ、早く返してくれ!」

 エマの顔に勢いよく唾が飛んできた。幸いパンには被弾しなかったが、被害が広がらないうちにと、エマはさっと陳列棚から離れた。結果的に、男から距離をとった(てい)となる。それを男はどう解釈したのか、不躾にエマの腕を掴んだ。

「あんたが持ってるアレを、アレがないと、僕は、僕の」

 髪と同じ色の目が濡れている。大の男が泣きそうになっているとは、よっぽど切羽詰まっているのだろうか。エマにしても力になりたいのはやまやまだが。

「あの、アレって、何でしょうか」

「アレだよ、アレっ」

「いや、だからソレを聞いているんです」

「ソレはだからアレだよっ! どうして分からないんだ!」

「ソレが分からないから聞いてるんですが……」

 指示代名詞ばかりで(らち)が明かない。エマはじれったくなった。

 男は粗野に舌打ちすると、周囲をキョロキョロと見回してから懐に手を入れ、何かを取り出した。

「コレ、あんたのだろ?」

「あ」

 焦げ茶色の皮表紙の本。ひょっとして。

「ちょっと貸してください!」

 男の同意を得る前に、ひったくるようにして本を借りた。右上がりのナリア文字のメモが、所々に挟んである。間違いない。エマの筆跡だ。

「よ、よかったあ、一時はどうなることかと」

 念のため、裏表紙も確認した。教会の紋章はない。複製本だ。エマが感動の海に浸ろうとした時。

「そんなことより早くっ。僕のは、あんたが持ってるはずだろ」

「あ、すみません、忘れてた」

 いけない。事実をそのまま伝えてしまった。

「笑ってごまかすなよ。いいから早くっ!」

「人間だから、こんなドジもしますって」

「それは僕のセリフだろ! それにまるっと無視かよ!」

 いや、内心とても悲しかったから、無視していない。ただ、うっかり表立って応酬するのを忘れただけである。

「ちょっと待っててください」

 男の恨めしそうな視線に対して愛想笑いを返すと、エマは店の奥に引っ込んだ。例の本は、部屋に置いておくのも怖かったので、愛用の鞄に入れて持ってきていたのである。

 急いで店内に戻り、男に手渡す。本の中身を確かめた男の顔が、やがて安堵で崩れた。

「よ、よかったぁ。一時はどうなることかと」

「私もです。よかったあ」

 エマはぎゅっと本を抱きしめた。男も似たような状態である。落ち着いたところで、エマは男をよく観察してみた。

「ん?」

 会ったことがあるはずだ。昨日エマとぶつかり、彼女の昼食のパンを台無しにした男である。失礼にならないよう、男の全身を盗み見る。しかし。

「あの、フィリス教会の人、ですよね?」

 男は、フィリス教会の紋章――葡萄、薔薇、百合――のペンダントをつけていない。

 それなのに、教会の刻印が入っている本を「僕の」と言っていなかったか。

「え、いや、その」

 男の挙動が急におかしくなった。

「あ、そうだ。コレ、よかったら、く……じゃなかった、お礼に」

 怪しい雰囲気を混ぜながら男が差し出したのは、『聖典』に挟んであった、紙製の黒い栞だった。

「え、いりません」

「いいからとっとけよ」

 エマは即座に断ったが、力任せに押し付けられてしまった。慌てて返そうとしたが、男はもう店の扉付近にいた。コソ泥のように妙に素早い。

いや、エマはコソ泥に出くわしたことはないのだけれども。

「どうせインクで汚して使い物にならないんだ。売れなさそうだし、あんたにやる」

 エマは目を丸くした。

 栞の模様は一定の規則性があったように見えた。汚したのであれば、もっと歪な状態になっているはずだ。持ち主ならば、そのことを知らないはずはないのではないか。

 それにさっき男が言いかけたのは、気のせいでなければ「口止め」。

 言動がおかしい。果たしてこの男は正当な持ち主なのだろうか。エマは不信感を抱いた。

「本当にいりませんよ。それより」

 カランカラン。

 店の鐘の音が鳴った。続いて、恰幅のいい女性が入ってきた。常連客の女性だ。

「こんにちは、エマちゃん。今日は何がおススメ、うわ!」

 エマと女性が互いに気を取られている間に、男は女性を突き飛ばし、逃げるように店の外へと出て行った。

「何だい、ありゃあ」

「さ、さあ」

 結局あの男に『聖典』を渡してしまったが、これでよかったのだろうか。エマは釈然としないまま複製本と栞を傍らに置き、接客を始めたのだった。


お読みいただき、ありがとうございます。

次話は、2月16日(土)15時(午後3時)に投稿します。

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