第一章(一)
本日二話同時投稿しています。こちらは二話目です。
先ほどから、エマは違和感を抱いていた。
日常使われるナリア文字とは対照的な、直線や曲線の組合せが多いヴァンダル文字。それらがエマをおちょくるように次々に褐色の瞳に飛び込んできてエマを悩ませる。特に不審な点はない。
日常的な単語ほど、発音と単語の綴りが一致しない例外や不規則な変化が多く、なかなか覚えられない。涙が出そう。だが奇妙なことではない。ヴァンダル文字を学ぶ者達の共通の悩みだ。故にこれも却下。
だが、何かが違う。しこりのようなものが、ヴァンダル文字の課題に集中することを邪魔している。
何だろう。何か変な気がするんだけどなあ。
しかし時間は有限だ。太陽はすでに、地上にさしかかっている。講義が始まるまであと少し。エマは自分が当たるであろう箇所の、最後の頁をめくった。
直後、エマの違和感の正体が判明した。
引いた覚えがない下線。ところどころ記されている流麗なメモ。そして何より。
明らかにエマのものではない、黒くて大きな栞が挟んであったのだ。幾何学的な模様が白く染め抜かれていて、どことなく懐かしい印象をうける意匠だが、肝心なのはそこではない。
「え、これ、誰の本?」
慌てて他の頁も確かめた。だが、めくればめくるほど、自分が使っているものではない証拠ばかりが出てきた。
黄ばみが多い。紙の端が欠けている。印字が所々、不自然に太かったり細かったりと粗い。
そして決定的な違いは、黒い栞にあるものと同じような幾何学模様のいたずら書きがあちこちにあること。貴重な本に対し、何と酷いことをする人間がいるのか。
だが、今のエマには他人を批難する余裕は全くなかった。
どうしよう。あの本に挟んでいたメモがないと、今日の講義を乗り切れないのに。
鞄の中をのぞいたが、見慣れた皮表紙の本はなかった。次に、鞄の中の物を全部机上に出し、一つ一つ丁寧に吟味していったが、メモも見つからなかった。
エマの顔から血の気が引いた。
***
エマが机に突っ伏していると、後頭部に軽い衝撃を受けた。のろのろと視線を上げると、ランベールが本を片手にして立っている。ランプの灯りが彼の赤銅色のくせ毛を照らし、昼間とは違った味わいを醸していた。
「よう、どうした。さっきのヴァンダル文字の講義、いつもよりひどかったじゃねえか」
「……」
思い出させないでほしい、あの悪夢のような時間を。アレは厳重に封印してしまいたい。又は、記憶の中から綺麗さっぱりと漂白してしまいたい。
なぜ市民夜間学校に、ヴァンダル文字の講義があるのか。日常的に扱っているのは、フィリス教会の一部のおエラい人達だけだ。自分達のような平民は、ナリア文字が習得できればそれで十分だというのに。
ああ、それよりも。私のはどこにいったんだろ。限りなく嫌がらせに近い煩雑な手続きをいくつも終えて、ようやく手にすることができたのに。運がない。ないったらない。
悶々としているエマの額を、ランベールが勢いよく指先で弾いた。
「いた」
いつものように彼女にちょっかいをかけたランベールに、いつもの通り反撃したかったが、体に指令を出す気力がこれっぽっちも湧かない。せいぜいランベールからわずかに距離をとっただけだ。身構えていたランベールの瞳が困惑に染まった。
「どうした。元気ねえな」
エマの褐色の髪が縦に揺れた。
「今日はとことんツイてなかったから」
「へえ。そんなにツイてなかったのか?」
エマが何か言うより先に、彼女の腹の虫が激しく自己主張した。あまりにも音が大きかったので、ランベールは思わず吹き出した。
「もう、笑わないでよ」
「分かった、分かった。講義も終わったし、俺も腹減ったし。ひとまず晩メシ食いに行くか」
「うん」
まずは早く何か食べよう。もう死にそう。
エマはゆっくりと身を起こした。
***
二人が入ったのは、市民夜間学校から最も近い『ひよこ亭』だった。味はまあまあ。だが、量は多い。加えて、エマ達のような低所得者層にとっては実に良心的な価格でメニューを提供してくれる、実にありがたい食堂だ。客も多い。
今夜もほぼ満席になっており、自称他称の酒豪どもが場を賑わせていた。幸いにも、ちょうど二人分のテーブルが空いたので、相席にもバラバラにもならず座ることができた。エマのツキのなさは、どうやらヴァンダル文字の講義で打ち止めになったようで、エマは密かに安堵した。
いくつかのメニューを適当に注文すると、ランベールが口火を切った。
「で、そんだけ弱るほど何があったってんだ?」
「うん……一つ一つは、大したことじゃないのよ。多分。きっと」
エマは悟りを開いたような笑みを浮かべて、ポツポツと語り出した。
隣の部屋に住んでいる夫婦の、愛の肉体言語が、ほぼ一晩中筒抜けだったこととか。やっと明け方静かになってウトウトし始めたら、全く手をつけていなかったヴァンダル文字の課題を思い出したので、慌てて飛び起き足の小指をベッドの柱に打ち付けたとか。
「うわぁ。そりゃ痛えな」
「うん。でね、その後ね」
「まだあるのか?」
エマは厳かに続けた。
アパルトマンを出た直後に鳥からフンを落とされたこととか。勤め先のパン屋のおかみさんに、彼女の旦那様との浮気を疑われたこととか。疑いは晴れたが、この騒動がいい見世物になったのでパンがいつもより多く売れ、その結果、おすそ分けしてもらえるはずだった昼食用のパンが1つだけになったこととか。
「……」
仕事を終えて店を出たら、男性とぶつかって転んだこととか。その際、鞄を落とし入れていたもの全てをパンも含めて石畳の上にぶちまけてしまったこととか。ぶつかった男が、転がっていたパンを踏み潰して脱兎のごとく走り去ったこととか。
パンの代わりになりそうなものを、と大通りに出て屋台を見ている途中、悪ガキからスカートをめくられたこととか。
「あのエロガキか」
会ったらシメてやる。ランベールの物騒な呟きは小さすぎて、幸か不幸か、エマの耳には届かなかった。
「そう。で、その後ね」
「お、おう……」
まだあるのか。喉元まで出かかったが、ランベールは辛うじて飲み込んだ。なるほど、相当ツイていなかったらしい。エマは、ふうっと大きく息を吐いた。
今日の下着の色を周囲にも見られてしまい、男性陣にからかわれたこととか。その場にたまたま居合わせた初老の男性から、なぜかエマだけが破廉恥だ、とお説教される羽目になってしまったこととか。
学校に着いてヴァンダル文字の本を広げたら、自分のものではなかったこととか。
「え? マジか?」
ランベールも同じ本を持っており、入手事情もエマと変わりない。至極当然の反応である。エマは「マジよ」と重々しく頷いた。
「で、とどめが、さっきのヴァンダル文字の講義」
講義に関しては、そもそも課題を忘れていたことが原因なので自業自得と言えなくもないのだが、エマは心の平穏を保つために不運のせいにした。
「いや待て。本のことだけど」
「鶏の香草焼きとハムのステーキ、焼きチーズの盛り合わせだよ。お待ちどおさま!」
威勢の良さがウリのおかみが、できたての品々をテーブルに運んできた。熱々の湯気と香ばしさがエマの鼻腔をくすぐる。おかみは手際よく料理を並べると「残りはあとでね!」と軽快な足取りで厨房へと戻っていった。
エマは一通り匂いを堪能した後、顔を上げた。視界にランベールの荒削りな容貌が入る。表情が一変していた。
「ん? どうしかしたの」
ランベールは声を潜めた。
「どうかしたの、じゃねえよ。ヴァンダル文字の本がお前のじゃなくなってたって、ちゃんと確かめたのかよ?」
エマはムッとした。
「確かめたよ。ほら、見てよ、コレ」
鞄の中から本を取り出し、黒い栞が挟んである頁をめくり提示する。ランベールの眉が顰められた。
「こんなこと、できるはずないでしょ」
「うわ、何だこれ。落書きか? ひでぇことする奴もいるんだな」
「それにこの黒い栞、私のじゃないもの」
ランベールが栞を摘んだ。
「皮でもないし、布でもなさそうだな……まさか、紙か?」
「え、紙製? 随分贅沢な使い方してるんだね」
「そうだな。っておい、気づいてなかったのかよ」
「他人の物だから、あんまり触りたくなかったのよ」
あらぬ疑いをかけられるのが、エマやランベール達のような階層である。ランベールにも経験があることなので、深く追求はせず、丁寧に栞を本に戻した。
「そりゃそうだな。余計なことはしねえ方がいいもんな」
「うん」
「で、それはそうとして。栞のこの模様と、本の落書き……なんか、こう、懐かしいっていうか、見たことある気がしねえか?」
「あれ、ランベールもそう思ったの?」
エマは目を瞬かせた。
「お前もか?」
「うん。でも、気のせいだと思うんだよね。この模様見たの、初めてだし」
「だよなあ。俺も、見たことはねえはずなんだが」
ランベールは首を傾げた。ただ、記憶力に関しては、エマもランベールもそれほど自信がないし、良い方ではない。そのことをきちんと自覚しているので、エマもランベールもそれ以上は考えなかった。ランベールはざっと目を通した後、表紙を閉じた。
「しかし、困ったもんだな。この本のことはともかく、お前の本、どうやって探したものか」
「うん」
顔は険しいままだが、これがエマが使っているものと違うことは十分納得できたようだ。
「いったん返すぞ」
本を持つ腕がエマの方へ伸びる。革製の裏表紙がランプの光を柔らかく反射した。
エマがそれを受け取ろうと身を乗り出した直後、ランベールの鳶色の目が見開かれた。本がサッと彼の元へと引っ込められる。エマの手が空を切り、姿勢を崩してしまった。肘を派手にテーブルに打ち付けてしまう。
「ちょ、ちょっと、何するのよ!」
だが、ランベールはエマには目もくれず、本を凝視していた。
「どういうことだ、これ」
「私の話、聞いてる?」
エマが打撲箇所をさすりながらランベールを睨んでいると、彼は本の裏表紙を上にして卓上に置いた。
「ここ、見ろよ」
ランベールが指差したのは裏表紙の隅だ。銅貨ほどの大きさの丸が刻印されているようである。
「これが何?」
「フィリス教会の紋章だ」
「まさか」
冗談にも程がある、と笑おうとしたが、ランベールの気迫に押され、エマは目を本に近づけた。
エマの褐色の瞳に初めに映ったのは、精緻に刻まれた葉付きの葡萄。次に、葡萄に囲まれるようにして描かれている大輪の薔薇。最後に、その薔薇を守るようにして交差している二本の百合。フィリス教が説く、人間の三つの徳ーー善行、慈愛、高潔ーーを象徴する植物が組み合わさっている。
エマは最近まで、より厳密には、ヴァンダル文字の本を手にするまで、これらにイヤというほどお目にかかっていた。フィリス教会内の、あちらこちらで。手続きの書類で。
「うん。フィリス教会のに、よく似てるねえ。流行りの科学っていうやつで、似せて作ったのかな? うん、すごいね、科学って」
「現実逃避したい気持ちは分かるけどよ、多分本物だろ。そんな簡単に真似できるもんじゃねえだろが」
「に、偽物って可能性はないかなぁ?」
エマはわずかな希望を込めつつ、敢えて明るく反論した。だが、彼は首を横に振った。
「ないと思うぜ。仮にそうだったとしてもよ、それはそれで面倒だぞ」
エマは頭を抱えた。
「ちょ、ちょっと待って。ヴァンダル文字が使われているのは、本来、フィリス教の『聖典』だけ、でしょ」
ヴァンダル文字は、遠い昔、神々が使っていた文字と言われている。フィリス教が伝えている創世神話では、神々が人間に世界を譲った際に大半が失われ、フィリス教の『聖典』にのみ残されている、とされていた。
そして『聖典』とは、神々が人間に「世界をより良くするために」と預けた言葉をヴァンダル文字で記述したものだ、という。
ちなみに、神々が使っていた話し言葉はヴァンダル語といい、こちらは現在にも伝わっていて、ナリア王国の公文書に用いられている。ただし表記にはナリア文字が使われているという、複雑な状態だ。
「だから、『聖典』も文字も、フィリス教の高位聖職者以外は、見ることもできないはず、なんだよね。当然、禁帯出だし。」
「そうだな。あのうすらハゲにさんざん愚痴られたな。ありがたみが薄れてしまうとか、神罰が下るぞとか」
今は、あらゆる不可思議が研究されている時代だ。神々の奇跡ですら、解明可能であるはずの事象と見なされ、「科学」の名の下で研究され、実態とやらを明かされ始めている。
フィリス教の『聖典』もヴァンダル文字も、例外ではなかった。創世神話が生まれた背景を正しく知るためにも、一部の聖職者だけではなく一般のフィリス教徒達もヴァンダル文字と『聖典』を学ぶべきだ、という意見が出、力を強めてきたのだ。
だが、どちらもフィリス教にとっては神聖不可侵のものである。したがって、フィリス教会はかなり難色を示した。
主張はこうだ。
ヴァンダル文字や『聖典』を俗世の人間が研究しようなど、おこがましいにもほどがある。第一、ヴァンダル文字は神々が使っていたヴァンダル語を正しく表記できる唯一の文字である。それが使われている『聖典』は、神々の言葉そのものだ。公開しろだと? とんでもない。ましてや『聖典』を渡すなどもってのほかだ。等々。
それに対して、反論はこうだ。
ヴァンダル文字を学ぶことは、フィリス教の神々の御心を直に感じ取れる貴重な機会ではないのか。文字の習得を通じて教徒が『聖典』の内容に直に触れることができれば、信仰が深まるはずだ。我々にも、神々の存在をより身近に感じる権利はあるだろう、と。
喧々諤々の論争の末、折衷案として、教会外のヴァンダル文字の本の取り扱いは、次のようになった。
その一。教会が『聖典』の一部を複製して貸し出す。したがって、ヴァンダル文字の習得が一通り終われば、教会へ返却すること。
その二。複製である以上、教会の紋章を刻印することはできないが、取り扱いを厳重にすること。
他、いくつもの条件が決められ、紆余曲折を経て、やっとヴァンダル文字の講義が開始された。エマ達の市民夜間学校でも先月始まったばかりだ。
「『聖典』も含めて、教会の所有物には必ずフィリス教の紋章が入っているから、お前達が本物と偽って横流ししようとしてもすぐにバレるぞ、って言ってたよね」
「そうだったな。あのハゲ、そんなこともぬかしていやがったな」
ヴァンダル文字の本は紙製だ。近年の製紙技術や印刷技術の発展のおかげで、紙は平民階級にも浸透しつつあるものの、まだまだ高価な部類で、貴重品に属する。『聖典』であることを除外しても、売れば相当の金額になる。
したがって、複製本の貸出手続きを担当した司祭の危惧は至極真っ当なものであるのだが、司祭の居丈高で偏見に満ちた態度が彼の癇に障ったらしい。司祭と言えば、フィリス教会の中では高位の聖職者だ。フィリス教徒でなくても、それなりに敬意を払ってもよい存在なのに、ハゲ呼ばわりである。
エマも、担当の司祭に対しては決してよい印象は抱いていないのだが、ヴァンダル文字の本、それも教会の紋章入りのものが手元にある今は、彼の身体的特徴をあげつらう心境にはなれなかった。
「うう。どうしよう。まさか本物かもしれないだなんて」
泣きたくなってきた。アパルトマンを出るまでは、確かにエマが借りていたものだったのに。
「そいつも問題だが、もう一つ、気になってることがある」
彼女に追い討ちをかけるように、ランベールの声音が重たくなった。
「少なくとも、さっきのアンラッキー物語を聞いてた限りじゃ、教会関係者が一人も出てきてねえ」
「あ」
「持ち出しできそうな可能性が高いのは、教会の人間だけどよ。今日は、奴らに会ったり見かけたりしてねえのか?」
「ま、待って。ちゃんと思い出すから」
慌ててエマは記憶を隅々まで探った。
パン屋のおかみさん、旦那さん。お客さん達は、ほぼ常連さん。
店の裏口でぶつかった男性は怪しいけど、フィリス教の紋章ペンダントを身につけていなかったから却下。大通りに出て、悪ガキに遭遇。パン屋のご隠居。ヴァンダル文字の先生。
他、今日出会ったり見かけた人間を思い浮かべたが。
「あれ……一人も、いない?」
ランベールの言わんとすることを察し、エマは青褪めた。
「誰が持ち出したのか。いつすり替わったのか。お前が使っていたのはどこにあるのか。きちんと説明できなけりゃ、下手すると、お金欲しさにお前が『聖典』を盗んだんだと疑われかねん」
「そ、そんな」
エマが呆然となったところで、威勢のいい声が割って入った。
「豚肉の赤ワイン煮込みとキッシュパイ、お待ちどおさま! って、おい、アンタ達、全然食べてないじゃないか。とっとと食べとくれよ、温かいうちにさ!」
「……」
「ウチの料理を食べたら、おいしくって笑顔になるよ! 夫婦喧嘩も続けられなくなるってもんさね!」
おかみの豪快な笑みと明るさが、かえって虚しく響く。
エマは食欲が完全に失せてしまっていた。おかみの盛大な勘違いを訂正する気力すらわかず、項垂れる。ランベールも料理を口にする気にはなれず、腕を組んで黙ってしまった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次話は、2月16日(土)14時(午後2時)に投稿する予定です。