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MUD_BRAVER  作者: 笑藁
五章 鏡と硝子
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理想の鏡

 維月の父は、良い父親では無かったのだろう。それは純たちにも分かる事だ。だが同時に、長男に絶縁されても自己を省みない程愚かでも無かった。

 実際のところ、純も維月も知らないが――維月の父は、失敗と反省を繰り返す事で昇り詰めた努力家だった。子育てと家庭の維持は、彼が失敗した数少ない物事だったのだ。だが失敗というものには、必ず犠牲が伴う。その犠牲を受けた維月にとっては、全く救えない話だが。或いは維月にとっては、彼が擁護の余地もない親だった方が良かったかもしれない。何しろ、親としての情を持っていたと聞けば、心優しい維月は彼に対して『恨み』だけを持てない。憔悴した維月の姿は、彼女の葛藤をこれ以上なく、雄弁に語っていた。


「……すまない。こんなことを言っても仕方ないな」


 維月はフラフラと立ち上がると、廊下へと歩き出した。


「風呂に食事に……色々ありがとう。必ず洗って――」

「ああもうダメですって維月さん! 今日は泊まってください!」

「駄目だ。そんなところまで世話になる訳にはいかない」

「ああもうこの人は……! 純! 絶対通しちゃダメだよ!」

「分かってる」

「くっ……!」

「どうしてもって言うなら雨も止みそうみたいだし、霧嶋くんも呼んで――」

「やめろ!!」


 アキラの名前を聞いた途端、維月は悲鳴のような声を上げた。思わず目を見開いた愛花に、消え入りそうな声で懇願した。


「それだけはやめてくれ……。アキラには、今の私を見られるのは……」


 声と身体を震わせる維月は、幽霊を怖がる子供のように見えた。常に強かな大人だった維月の姿は、見る影も無い。愛花は彼女の肩を抱くと、語りかけるように言った。


「じゃあせめて、今日一日ぐらいは私と純の言葉に甘えてください。今維月さんを一人にするの、怖くてたまらないんですから」

「……分かった」


 暫く迷った後、維月は白旗を揚げた。



「しかし……本当にこれで良いのか?」

「だから良いんですって! 維月さんが普段寝てるベッドに比べたら畳みたいなものでしょうけど……」

「いや、そんな事は無いが……」


 維月は愛花の部屋で、ベッドに寝ていた。愛花はその横に布団を敷き、そこで寝ていた。どうしても維月を一人にしたくなかった愛花は、自分の部屋で維月の隣で寝る事を、彼女に強引に迫った。やはり維月は、いつになく弱気に拒否したが、逆に強気な愛花に押し切られた。

 灯りを消して少し経った頃、維月はポツリと口を開いた。


「……愛花は、純が好きなんだよな?」

「へ、へぇ!? い、いきなり何ですか!? というか維月さんは知ってますよね!? 会ってないうちに心変わりとかも絶対しないですから!!」


 突然の質問に狼狽えながらも、愛花は首肯した。彼女は顔まで布団を被り、赤くなった顔を隠している。


「ああ、知っている。何年経っても、愛花にとって純はヒーローだもんな」

「ヒーロー……ですか」


 愛花は咀嚼するように、『ヒーロー』という言葉を繰り返した。暫くして愛花は、小さく笑って言った。


「まあ、辛い時はいつでも助けてくれるって『信じて』ますけど……でもヒーローちょっと違うな、って思ってるんですね」

「違う?」

「だって純、普段は全然ヒーローっぽくないですし。手先はちょっと信じられないくらい不器用だし、見栄張るのもかっこつけるのも苦手だし。多分、得意な事より苦手な事の方がずっと多いですよ」

「なら、どうして好きでいられるんだ?」

「それは、ですね……」


 愛花は少し、次の言葉を出すまで溜めを入れた。迷いのせいではない。あまりに恥ずかしい言葉だから、口にするのに羞恥心を抑える時間が必要だったからだ。


「純が純だから。それだけで、一生大好きです」


 隣の部屋に純がいる中で、彼への愛を口にした。万が一聞こえていたらと思うと、愛花は羞恥のあまり、布団の中で唸りつつ膝を抱えた。


「純だから、か……。長所も短所も全て受け入れているんだな」


 維月は羨むように呟いた。少しの沈黙の後、維月は独り言のように話し出した。


「私は海城正光の子、海城建設の子として生きていた。周囲の私を見る目は、全て私ではなく……私の後ろの海城建設に向けられていた。共学だった小学校と大学は、私に近づこうとする男にしばしば告白を受けたな。まあ中学高校は女子校だったが、同性だろうと大して変わらなかった。海城建設の財産と地位だけがあの人たちの狙いだったのだろう」

「……それだけじゃないと思いますけど……」


 愛花は小さく呟いた。特に男子は、維月の容姿に惹かれた者もいただろうと確信出来た。尤も、彼女には大した違いは無いだろうが。


「私はな、愛花。そういう同級生や先輩後輩との関係に疲れていたんだ。そんな時にアキラや君たちと知り合って……他者から打算なく好意を向けられるというのを、生まれて初めて体験したんだ。七つも下の子供と親しく付き合うなんて、考えてみればおかしいだろう? けど私にとって……君たちと遊ぶ時間は、本当に癒やしだったんだ。もし海城建設に生まれていなければ保育士を目指してもいい……そうも考えた」


 思えば愛花は、維月が自分たちと付き合い続けた理由を初めて聞いた気がした。生まれた時から既に地位や財産を手にしていた彼女からすれば、それらの価値を知らない子供との付き合いが、癒やしであり救いだったのだ。


「なかでもアキラは私の事をとても良く思ってくれたな」

「そうですね。『永遠に超えられない理想の女性』とか色々言ってました」

「ああ、言っていたな。小さい頃からずっと、ずっと……」


 維月の昔を懐かしむような、感傷に満ちた声が小さくなっていく。寝返りを打ったらしい衣擦れの音の後、維月は震える声で言った。


「アキラからの好意は嬉しかったけど、そのうち卒業すると思っていたんだ。それこそ愛花のような可愛い女子も学年にいるだろうと思ったからな。……だがアキラは、今日という日までその憧れを持ち続けていたんだ」


 アキラが維月に対して持っていた想いについて、愛花は当然知っていたし、叶えば良いと本気で思っていた。愛花とアキラは、想い人に対する感情について通じるものが多くあった。だからアキラが維月に告白すると聞いた時は、『遂に来たか』と胃がキリキリと痛む気さえした。

 アキラが振られるとすれば、『恋愛対象として見れない』という線が濃かった。実際には維月は保留したのだが――その理由には、まさにアキラからの『憧れ』が大きかった。


「ようやく分かった。私がアキラの想いを受け入れられなかったのは……怖かったからだ」

「怖い……ですか?」

「アキラにとっての私は、理想を体現した存在。しかし、恋人や伴侶となれば、それまでとは比較にならない程、距離が近くなる。そうなれば私に、今のイメージを維持出来る筈もない。……ああ、そうだ。私はな愛花、彼との距離が近くなる事で――彼に幻滅されるのが怖いんだよ」


 維月が今の自分をアキラに見られる事をあれほど嫌がった理由。それは今の自分を見たアキラの中の『海城維月』が崩れてしまう事を恐れていたのだ。アキラにとって理想を映した『鏡』である事が、彼女にとって誇りのようなものだったのだ。特に海城建設という拠り所を失った今、心の支えとなるものは、一つたりとも手放したくないのだろう。

 しかし、愛花が驚いたのはそれ以上に――維月にとってアキラがそれほど大きな存在だったという事だった。

 そして愛花には、確信があった。


「その気持ちも含めて、やっぱり霧嶋くんにはちゃんと言ってあげてください。むしろ喜ぶと思いますよ、維月さんにそんな風に思われてたこと」

「喜ぶ……のか?」

「ええ、きっと。だって霧嶋くん、『維月さんに相応しい男になるんだ』って純を追いかけて魔導協会に入って、新人でもあんなに頑張ってるんですから。それでも、今でもまだ、全然足りないって思ってるんですよ? そんな霧嶋くんが……維月さんがちょっと思い通りの人じゃなかったぐらいで『やめた』なんて……なると思えないです」


 愛花とアキラには通ずる部分があった。それは、『愛する人とずっと一緒にいる』という未来像が一切揺らぐ事が無いという事だった。愛花はアキラも自分と同じだと確信しているから、維月が理想通りで無くても一切好意が変わらないと断言出来た。仮に衝撃を受けたとしても、愛花が過ぎた道を再び行くだけに過ぎない。


「だから言い辛くても、早く霧嶋くんに伝えてあげてください。むしろ今の状況でも理想通りの凜々しい維月さんなら、余計自信無くしちゃいそうですから」


 維月は暫く押し黙った後、呟くように「そうだな」と言った。それからは何も言わなくなったが、暫くして静かな寝息が聞こえてきた。愛花はそれを聞いた後、そっと目を閉じた。



 朝、愛花が目を覚ましたとき、既に維月はベッドにいなかった。リビングに行くと、既に純が起きていた。朝一番に純に会えるというのは、愛花からすれば幸福極まりないことなのだが、今日はそれどころではない。


「維月さん見た?」

「いや。俺が起きたときにはもう出て行ってたらしい」


 純は手に持っていた一枚のメモを差し出した。維月の書き置きだ。


『本当に世話になった、ありがとう。起きるまで待ってから出ようとも思ったが、愛花の言うとおり、早い方が良いと思った。始発で戻って準備をする。この礼は、落ち着いた後で必ずしよう』


「いやまあ、早い方が良いとは言ったけど……」


 まさか始発で帰るとは、凄い行動力だ。

 愛花はベランダに続く窓に目を向けた。徐々に夜明けが遅くなる時季ゆえ、まだ日は昇っていなかった。

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