維月のやりたかったこと
藤木歌劇団により三時間に渡って上演された、フィガロの結婚。大団円を見届けた観客たちは、皆満足そうな顔で劇場を出ていた。
アキラと維月。この二人もまた、大勢の観客と同じ感情を抱いていた。
劇場から少し歩いた先にあるイタリアンレストランで、彼らは昼食を摂る事にした。とはいえ、休憩時間に軽食を食べていたのと時間が遅めだった為、シンプルなスパゲッティ一だけで済ませる。アキラとしては物足りないところだが、そんな我儘は言えない。
「いや〜〜でも……マジでめちゃくちゃ凄かったですね、オペラ! オレ普通にCD欲しくなりましたし、話も結構面白かったですしね」
「ふふふ、そうか。気に入ってくれて良かった。フィガロの結婚には前日譚に当たる『セルビアの理髪師』もあるんだが、これはCDなら持って来てるんだがーー」
「借りていいっすか!?」
「はは、勿論だ」
アキラは初めて観たオペラを、予想以上に気に入っていた。
高らかに歌われる登場人物たちの感情。そうして展開される独特な世界観は、歴史と共に魅了される人々が存在する事が、アキラにもよく分かった。
「何ならアレですね! 純と山崎さんにも布教しましょうか! 山崎さんが家にいる間退屈しないように、純は色々考えてるようだし」
「おお、それもいいな。いっその事、上映会なんかもアリかもしれん」
「維月姉ぇ、それ……めっっっっっちゃアリ!」
維月は愛花の現状について、全て知らされている訳ではない。海城建設の関係者とはいえ、『深化の花』と呼ばれアーシェラから身柄を狙われる愛花の存在は、トップシークレットなのだ。何処かにアーシェラのスパイが忍び込んでいる可能性を考慮すれば、維月に話すのはリスクだ。
しかし、彼女もまた社会人である。やむに止まれぬ事情から閉じ込められている事は理解しており、その上で護衛として純をつけるという、彼女の精神的に最も重要と言える方策を出した事には友人として感謝の意を持っている。宮村支部長は愛花に対して細心の注意と最大の配慮をしてくれていて、維月を招待した事さえ、出向を口実にして愛花のメンタルケアとして呼んだ節さえあった。
そしてアキラも、これら大人の事情は呑み込んでいた。
こうした面から、維月の提案を聞いたアキラが破顔し、それに乗るのは明白だった。
「でも最初にちょっと解説した方が、入り込みやすいかもしれないですね。例えばホラ、ケルビーノみたいな美少年は女性が演じるとか……オレも一瞬混乱しましたし」
「いわゆるズボン役だな。確かにちょっと、ややこしいかもしれないな」
会話の内容は、オペラの内容から如何にして純と愛花に布教するか、にシフトしていった。ファーストフードを手土産にして鑑賞会を開くと言えば快諾するだろう、という事で決着した。
「さて、アキラ。確認したいのだが……今日君は、あくまで私の方に合わせるつもりなんだな?」
「え? はい、そうですね。昔はオレが維月姉ぇを付き合わせてたから、今日はそうしようと思ってたんですけど……まあ、速攻見破られましたけど」
「ふぅん……」
アキラの返事に、維月は少し顎に手を当てて考える。二人とも、既に料理は完食済みだ。
やがて維月は、鞄を手に取りながら言った。
「なら、一つ付き合って貰いたい場所がある」
*
「いや、付き合って貰いたい場所って……」
維月に連れられるままに訪れた場所で、アキラは目を丸くして立ち尽くした。
そこは、ゲームセンターだった。四階建てのビルの中には、ゲームの筐体が所狭しと並べられていて、家族連れやらカップルやら一人客やら、様々な客で一杯だった。
「維月姉ぇ、何でここに……?」
維月とゲームセンターに行った事は、過去にも何度かあった。しかし、それは純や愛花と遊ぶ目的であり、維月は言うなれば保護者だった。彼女がゲームをしているところを見た記憶も、殆どない。彼女の人生に、ゲームというものが入り込む余地は無かったと言っても過言ではない。
その維月が、アキラに振り向いて微笑んだ。
「実を言うとな、ずっとやりたかったんだ」
そう言うと維月は、クレーンゲームの前に立った。中には大きな箱にパッケージされたお菓子が並べられていた。中身はスーパーやコンビニで見かけるものだが、クレーンゲーム専用の大容量のものだ。維月はそれを、目を輝かせて見ている。
彼女はスナック菓子が好物だった。加えて実家では、健康に配慮して作られた菓子が間食として出されていたので、こうしたスナック類を食べる機会は、意外に無かったのだ。
通常可愛いぬいぐるみに向けられるような熱い視線を、彼女は駄菓子に向けていた。迷いのない動作で二枚の百円玉を入れると、二つのボタンでクレーンを操る。
そうして維月はーー
「何だこれは……こんな貧弱なアームで取れる訳ないだろう……」
三プレイしたが、景品を動かす事さえ出来なかった。
クレーンゲームのクレーンには、時としてアームが非常に弱い場合がある。
頻繁にゲーセンを訪れるアキラはよく知っているが、維月はそんな事を知らない。
「これはアレですね……持ち上げるより、引っ掛けて動かすのを繰り返すタイプですね」
「引っ掛ける……」
「1プレイで一つも二つも取られたら店も商売上がったりなんで、数回プレイすること前提で設定してるんだと思います」
「引っ掛けて動かすか……」
維月は再びゲームに挑む。今度は掴むのではなく、アームの先で引っ掻くように。
「よしっ、倒したぞ」
箱がバタンと倒れ、出口まで大きく近づいた。
アキラは維月の飲み込みの早さに、思わず舌を巻いた。自分が取ってあげようかとも考えたのだが、そうするまでも無かった。
維月はそうして二、三回、確実に箱を出口に近づけていった。そしてーー
「よしっ、取れた!」
維月は五プレイ、金額にして一千円で景品を獲得した。それもアキラのアドバイスで動かす方向にシフトしたのは、後の二プレイ分。
基礎スペックの違いを見せた維月は、少女のように大きな箱を抱えて笑っている。
「やったぞアキラ! 君のおかげだ!」
「いやいやいや、維月姉ぇが天才だからだって!」
「私が天才なら、アキラだって教える天才じゃないか?」
これほどはしゃぐ維月は、アキラでもそうそうお目に掛かれない。きっと昔から、ずっとやってみたかったのだろう。
アキラの胸に、熱いものが込み上げてきた。そして耐え切れなくなり、早口気味に言った。
「維月姉ぇ、他になんかやりたいやつある? ゲームの事なら、それこそオレ専門家みたいなモンだし。何でも言って」
「……良かった」
そんなアキラの様子を見て、維月は再び少女のように笑った。
「やっと『敬語が取れた』な」
「……あっ」
今日、アキラは殆どずっと敬語で話していた。言葉遣いに気をつけるつもりはあったが、アキラ自身半ば無意識でやっていた。
「……ははっ」
ダメだ。維月には絶対に敵わない。
何処か乾いた笑いを浮かべたアキラに、維月は一瞬怪訝な目を向けた。しかし次の瞬間、アキラは両手を強く打ち鳴らした。
「すまねぇ、維月姉ぇ。気遣わせっぱなしで……けど、ここからはオレらしく行くぜ!」
デートも後半になって、漸くアキラは素の自分のままでいる決意を固めた。維月は安堵と共に、アキラの手を取った。
「おえっ……維月姉ぇ!?」
「じゃあ、一緒にやれるゲームが良い。こっちにもう一つ気になるのがあってーーああ、アレだ」
「あ……あそこ!?」
維月が指名したのは、一際強い熱気を放つエリア。アキラにとっても馴染み深いエリアだがーーだからこそ、狼狽えた。
そこは、某国民的ロボットアニメシリーズ。それをゲーム化した対戦ゲームだった。
「どうだアキラ、タッグ戦らしいから丁度ーー」
「あそこはやめて!! 後生だから!!」
通称『動物園』の前で、アキラは悲鳴にも似た声で嘆願した。




