クズでもいい
額から血が噴出するほどの大怪我でありながら、愛花は何事もなく学校に行った。というのも、親戚夫婦は救急車を呼ぶ事無く、自分たちで応急処置をしたからだ。仕事に差し支える事を恐れた彼らは、頭に包帯を巻いた以上は何もしなかった。
流石にこれ程の怪我となっては、担任教師も黙ってはいられなかった。両親に電話で連絡を入れたものの、どちらも『忙しい』という理由から来る事を拒否した。タツヤは愛花を見るや目を逸らしたが、約束があるからか、無関係を主張するためかは分からない。
流石に体育は見学になったが、愛花は平然と授業を受けた。確かに痛むが、頭痛や吐き気などの症状は無かったので、自分のことは気にならなかった。ただ、やはり親戚夫婦が普通でない事は改めて認識できた。彼女が何より心配していたのは――純の存在だった。あの身勝手な『勇者』が包帯に巻かれた姿など見ようものなら、何をしでかすか分からない。昨日の段階で目的を達せた以上、今日からはもう会う事もない――筈だったのだが。
「……あっ」
悪い予感というのは、斯くも当たるものなのだった。
*
土曜日の山崎家は、異様な空気に包まれていた。父怜一、母恵梨香、そして一人息子の克哉。家族三人がリビングに揃いながら、一家団欒という雰囲気ではない。
その原因は、居間の一人の少年。彼らからすれば家族と言って過言ではないが、彼が今日ここを訪れた理由は、歓迎されるようなものではなかった。それどころか、叩きだされないだけマシな内容だった。
「もう一度言います。一ノ森愛花という女の子を――『養子』として迎えて貰いたいんです」
少年――滝本純は、山崎家の面々に頭を下げていた。彼自身、不躾なお願いだというのは分かっていた。何しろ、既に自分の両親に直談判して父から張り倒されている。山崎家を頼るというのは、彼にとっても最終手段。それでもやるしか無かった。
何故なら純は、大怪我をした愛花に会ってしまったのだから。親戚の縁とはいえ、引き取った子が気絶する程に頭を打っても無関心な保護者なんて、非常識だと小学生でも分かる。だからこそ純は、愛花を現保護者から引き離すべく、最も頼れる大人を頼ることにしたのだ。
とはいえ、彼も駄目で元々ではない。山崎家に頭を下げに来たのには、考えがあった。
「……純くん。どうして家に頼むんだい?」
最初に口を開いたのは、父の怜一だった。克哉と同じ銀色の髪と黄金の瞳を持つ彼は、優しい口調で純に問いかける。
研究職という『理』の世界で働く怜一を前に、純は努めて毅然とした表情を作った。
「前に恵梨香さんが言ってたのを思い出したんです……。『本当は男の子と女の子、少なくとも一人ずつ欲しかった』って」
怜一が目を大きく見開いた。同時に克哉も、眉間に深い皺を寄せる。唯一、母恵梨香の表情だけは変化が無い。
純は以前、恵梨香に聞いた事があった。『どうして自分をここまで可愛がってくれるのか』と。
恵梨香と純の母である早苗は中学時代の友人、という縁はある。しかし、彼女にとってはそれ以上に、切実な理由があった。
恵梨香は、体質上妊娠しづらかったのだ。可能性がゼロではないが、克哉一人を無事出産出来ただけでもかなりの幸運だった。その為、多くの子供を望んでも、二人目を産む事は確率的に殆ど不可能だった。事実、精力的な治療をしても、彼女は遂に克哉の弟か妹を産む事は出来なかった。
その彼女にとって、唯一腹を痛めて産めた克哉が弟のように扱う純は、自分の家族も同然だった。それだけで、恵梨香が純の世話を焼くには十分過ぎる理由だった。
これが、純が山崎家を頼った最大の理由。娘が欲しい恵梨香と、半ばネグレクト状態の愛花。恵梨香たちが愛花の身柄を引き受ければ、両者の利害が一致する。九歳の少年が必死に知恵を絞って考え出したにしては、上出来だと言える。
しかし、少年の考えには、致命的に足りないものがあった。そしてそれは、少年が父に叩かれたのと同じ理由だ。
「……働いていない俺が言える事じゃないかもしれんが……」
克哉が眉間を二本の指で揉んだ。これは彼が呆れた時の癖だった。
「まずはお前、今すぐ二千万円用意出来るか?」
「……二千万?」
突然お金の話をされて困惑する純。その上二千万などという未知の金額を提示されて、完全に思考が止まっていた。
しかし、純の答えを待つほど、克哉は甘くない。明晰な頭脳から生まれる正論という名の刃で、少年の幻想を真っ向から切り捨てる。
「その一ノ森とかいう娘は、今八歳だろう? 子供一人をゼロ歳から大学卒業まで育てる場合、掛かる養育費は概ね三千万という話がある。実際には金なんぞ掛けようと思えば幾らでも掛けられるだろうが、とりあえずこの俗説を採用するとしてーー既に二十二歳の三分の一以上を過ぎているなら、大体二千万。山崎家がその娘を養育する場合、それだけの金を使うことになる。二千万……お前の一ヶ月の小遣いを千年貯めても、到底足りん額だな」
自分の父に言われた事と同じだった。しかし、これほど具体的な話はされなかったため、定時された金額の大きさに、純は言葉を詰まらせた。
しかし、純も何も考えていないわけではない。
「将来的に――」
「『出世払い』か? それなら金の事は脇に置いてやらん事もないが……問題はそれだけじゃない」
が――十年も生きていない小僧の浅知恵は、簡単に見透かされた。
「子供を育てるのと、犬や猫を飼うのとは訳が違う。やるべき事の数は比較にならん。仲の良い夫婦が子育てが原因で険悪化する例が腐る程あるように、大人二人で挑んでも難しいのが子育てだ。そんな事を、縁も所縁もない子供相手にやれ。それがお前が、今要求していることだと自覚しろ」
克哉の眼が一層鋭くなる。父親譲りの金色の眼は、怜一のそれと違って優しくはない。
あくまで『子供』としての接し方を崩さない両親と比べて、克哉は真剣に純の要求に向き合っている。良く言えば真摯だが、悪く言えば容赦が無い。この克哉の性質こそ、純が彼を慕う理由であるのだが。
「そもそも俺たちはその娘の事を何も知らん。可哀想だろうが何だろうが、一度も会った事のない子供をいきなり養えなど……舐めているのか? 推測するに、本人には知らせずお前自身が独断で動いたんだろうが……今の家が嫌だとかそういった事を、そいつからちゃんと聞いたか? 助けるとかどうとか言っていたが、全てお前の自己満足だろうが。今のうちにハッキリ言っておいてやるが――今のお前のような自己満足の正義に他人を巻き込むような奴の事をな、世間では『クズ』と呼ぶんだ」
直球の罵倒に、思わず純は身体を震わせた。
しかし、辛辣な態度とは裏腹に、克哉は怒ってなどいなかった。彼としてはただ単に事実を述べただけであり、どちらかと言えば道徳の授業をしているような感覚だった。独りよがりとはいえ善意を基にした子供の行動に腹を立てる程、彼は狭量ではない。
しかし、人間とは存外に『言い方』というものに引きずられる。元々言動の辛辣な克哉の言葉は、同年代の男子でも涙を流してもおかしくない程の圧力があった。
「……克哉の言葉は悪いけど、概ね私も同意だな。突然にもう一人子供を養って何の支障もない程、我が家は裕福な訳じゃないからね」
怜一は控えめに頷いた。『言いたいことは克哉が言った』というように、それ以上は何も言わなかった。
それきり、室内に沈黙が降りる。克哉もまたそれ以上追い打ちはせず、純の反応を伺っている。純は頭を垂れたまま、両の拳を握っている。
時間にして十秒にも満たない時間。その時間を掛けて上げられた顔には――明確な意志が宿っていた。
「構いません……諦めて見ない振りするなら、クズでも」
その発言に、その場にいた全員が目を見開いた。
「克哉さん、前に言いましたよね。『自分の中のルールを大事にしろ』って。僕のルールは『自分でやると決めた事から逃げない』事です。周りを自分の事に巻き込むのはクズだとしても、自分のルールを捨てるだってクズだと思うんです。それなら僕は――たとえ泥に塗れても、自分を貫きます」
純は床に膝を着いた後、額と両手も着いた。いわゆる『土下座』だ。
「なっ……」
「純くん……!?」
克哉が息を呑み、怜一が驚愕の声を上げる。純は自らの影で黒くなった床を見つめながら、三度目の要求をした。
「お金が掛かるなら、将来良い仕事をして返します。手間が掛かるなら、いつでも手伝いに行きます。彼女に関する事ならどんな事でもやります。だから――一ノ森愛花という女の子を、よろしくお願いします」
純の声に、一切の迷いや躊躇いの色は無い。
自分のやっている事が最低の我が儘だと知っていても、純に『諦める』という選択肢は無かった。
自ら決めたルールを通す――今純にとって、それ以上に優先することなどないのだ。
これでも駄目なら、再び父に頼むか。たとえ何度殴られても、意志を曲げる事など有り得ないと、確信を持って言える。
再び訪れた沈黙。それを破ったのは――
「言い負かされちゃったわね、克哉」
それまで黙して成り行きを見守っていた、母恵梨香だった。
「克哉もあなたも、分かったでしょ? 純くんの覚悟は本物よ。本当に、何をしてでも自分を通すわ」
「確かにコイツにしては強情だけど……土下座ぐらいじゃ覚悟を示した事にはならない」
「何言ってるの、克哉はとっくに分かってたじゃない。純くん、克哉はね――」
「待て、それ以上は――」
「克哉はね、純くんのしている事を知った後、早苗に『純をギリギリまで止めないで』ってお願いしてたのよ。『万が一の事があれば責任は自分が取る』って」
「……え?」
純は思わず顔を上げた。そこには優しく微笑む恵梨香と、ばつが悪そうに顔を背ける克哉がいた。
「だからまあ、他人のために我が儘言ったのは、お互い様。とはいえ……克哉の言う事は最もよ。私たちはまだ、その娘がどんな娘なのか知らない」
恵梨香は純の前でしゃがむと、本当の我が子に向けるような、優しい笑顔で言った。
「だから――今度、その娘を連れて来て。純くんがここまで必死になるなら、きっとすごく良い子だと思うから」
恵梨香の言葉は、純からすれば『了承』にも等しかった。克哉を育て上げた彼女なら、愛花の問題点である暗さや全てを諦めた態度にも柔軟に対応出来ると信じているから。
そして恵梨香が認めたという事は、怜一と克哉も前向きに考えるしかなくなったという事でもある。
「一ノ森か……聞かない名だが、一度調べてみる」
「恵梨香に言われたら仕方がないな……」
怜一と克哉は、それぞれ恵梨香に従う意志を見せた。鶴の一声というが、山崎家にとって鶴とは恵梨香の事だった。
床に座ったまま、純は恵梨香を見つめた。
「……本当にいいんですか?」
「口にしないだけで、山崎家はみんな純くんの事が大好きだから。内心では純くんが頼ってくれた事が嬉しいのよ。それでなくても、怜一さんは克哉にきょうだいを作りたいって思ってたし、克哉も嫌ではないでしょ」
それまでの張り詰めた空気がいとも容易く消え去った事に、純はしばらくついていけなかった。
だが、山崎家が持つこうした軽さ、或いは切り替えの早さこそ、彼の行動が正解だった理由だった。後にこの軽くもふざけてはいない、恵梨香を中心に構成される空気が、愛花の心を解かす事に大きく貢献することになる。




