泥被りの勇者(下)
地面に尻を着いたまま、タツヤは暫く動かなかった。今の自分の状況が信じられなかったからだ。
タツヤは強者だ。高学年男子と並んでも見劣りしない雄大な体格。他人を蹴落とす事を躊躇しない、良くも悪くも闘争向きの性格。相撲でも、近い年で彼に敵う男子はいなかった。ましてや、一学年上だろうと、ろくに外で運動もしていない男子など、タツヤの敵では無い――筈だった。
だが、現実はどうだ。容易に勝てていた筈の相手に、二度も地に手をつかせられている。グチャグチャとぬかるんだ地面の感触が、はっきりと現実を伝えている。
そしてそれが、タツヤに理解させた。自分が負けた理由を。
目の前で直立する少年――滝本純。彼は、ただ弱いだけではなかった。力での不利を補うために、雨上がりの地面を利用したのだ。どんなに地に根を張ろうと、肝心の地面が緩んでいては簡単に崩される。この滑りやすい地面に『足裏以外地面に身体をついてはいけない』相撲のルールは最悪だ。
とはいえ、それだけなら純にとっても同じ。ただでさえ力に差がある以上、タツヤもまた、平時より軽い力で純を転がせる。実際、先日の三戦目は純が泥で滑って自滅している。
それこそが、タツヤを一層油断させた。放っておけば純は勝手に転ぶと思わせ、彼を『侮らせた』。
一戦ごとに土俵を変えるというルールは、自分が滑るのを防ぐだけでなく、滑りやすい場所を分からなくするためだったのだ。
それら一つ一つが分かると、純に対する見方も変わってくる。
タツヤのものよりずっと汚れた靴に一度目線を向けてから、タツヤはゆっくり立ち上がった。そうして決めていた通り、地面に円を描く。この狭い公園では、四戦目ともなれば綺麗な場所など残っていない。後の二戦は、今までよりもっと滑りやすい地面になるだろう。
だが――関係ない。
「何か色々考えてきたんだな。正直、お前のこと甘く見てた……」
開始と同時に、タツヤは全霊の張り手で純を弾き飛ばした。食らった純は漫画のような勢いで吹き飛び、地面を二、三度転がりさえした。
後ろで四人分の息を呑む音が聞こえた。
「すげえ……」
「タッちゃん、本気だ……」
教育テレビでやっていた。大昔、弱い者が強い者を打ち倒すのが流行った時代があった、と。たまたま点いていただけで、真面目に見た訳じゃないが、変な時代があったのだと思った。
けど、今は少しだけ分かる。考え抜いて、強い相手に一泡吹かせる。従わせられるばかりの弱者からすれば、確かに快感だろう。だが、それが憧れとなったのは、裏を返せば――失敗する事の方が多いからだ。つまり、例外的な事態だ。順当に戦えば、そんな事は起こらない。
ならば、タツヤがやるべき事は、強者に徹する事。ともすれば自分に土を付かせかねない相手を、強者として『教育』する。
「もう舐めない。本気でお前の弱さを……叩き潰してやる」
*
タツヤの宣告は、純の耳には殆ど入っていなかった。吹き飛ばされたせいで背中を強くぶつけ、うまく呼吸するのに必死だったからだ。鼻呼吸に頼ろうにも、鼻血で詰まっているし、横隔膜が機能しなければどの道変わらない。
これまで罰ゲームで何度も痛い思いはしてきたが、呼吸を止められたのは初めてだった。今までとは桁外れのパワーで弾き飛ばされ、なすすべなく地面を転がった。
これが、タツヤの本気。
純はどうにか正常な呼吸を思い出し、泥で満ちた地面から立ち上がろうとした。
しかし――膝が伸びない。
先の取り組みで怪我をしたのではない。純の精神が、立ち上がるのを拒否していた。
これで四戦目を終え、二対二。次が最後だ。次で負ければ――純の目的は、達成出来なくなる。厳密にそうと決まった訳では無いが、彼が決めた『ルール』を通すのは、難しくなるだろう。
それを思うと――怖くなった。
純は、自分が好きではない。生まれた事を後悔する程では無いが、『自分を通せない・通せるものがない』自分の弱さを常々嫌に思って生きていた。
しかし、それは特別な事ではない。十年にも満たない人生しか歩んでいない子供たちの圧倒的多数は、『今の楽しさ』だけが行動の指針だ。確たる夢や信念など、無い方が当たり前。
だが、純は不幸にも『世間の子供と同じ』という事を、慰めだと思わない子だった。良く言えば他人に流されない、悪く言えば自己中心的。幼少の頃から、純はそう言った人間だった。
そんな彼に生まれたルール。一度決めた事――愛花を守る事をやり遂げる。彼にとってこれは、自己変革の始まりだ。自分の弱さを打ち破る為の戦いだった。
しかし、そんな素晴らしい動機を得ただけで急成長など、出来る筈がない。これまで戦う事をしなかった純は、負ける恐怖を知らなかった。だからこそ、自分の分水嶺と言える事態に、身体が動かなくなった。
土壇場で恐怖する自分はつくづく弱い人間だと、純は自嘲した。タツヤが純を『弱者』と言ったのも、何一つ否定出来ない。
それでもこの時、純が最終的に立ち上がれたのは――視界の奥に、彼女の姿が見えたからだった。
他の子たちも気付かなかったか、或いはゲームが大事だから無視していたか。いずれにせよ、確かに彼女は――愛花は、このゲームを見ていた。
金網の向こうからこちらを覗く彼女の眼には、やはり何の色も宿っていない。光が注がれればエメラルドも斯くやとばかりに輝くだろう翠の瞳は、ただ純とタツヤを見ているだけだ。
そうだ。あの瞳に光が灯れば。それを自分が出来れば。
純の全身に、再び力が宿る。タツヤを打ち倒して、彼女の中にある暗闇を払う為に。そして、何も持たない自分自身を打ち破る為に。相手がどれだけ強いかなんて、最早関係なかった。
「……次で最後だね。場所は……ここでいい?」
「……うえっ」
純が立った場所を見て、誰かがうめき声を漏らした。
そこは、誰が見ても相撲など出来そうもない場所だった。何しろ、地面の八割以上が、濁った水たまりと化している。オタマジャクシが泳いでいても違和感の無い、沼と言っても過言ではない場所だ。
「お前正気かよ……そんな場所で相撲なんて取れる訳ないじゃん……」
「出来るよ。底なし沼って訳じゃないんだし」
呆気に取られる全員に対して、純は冷静な顔のまま、こともなげに言う。
だが、彼らの気持ちは純にも分かる。下手なところを踏めば、滑るどころか足を取られる。ただでさえ純もタツヤも、スニーカーは靴下ごとずぶ濡れだ。当然、動きは少なからず遅くなる。そこに落とし穴のように隠れた泥濘に嵌れば、どうしようもない。
実力も何もない。どちらが先に自然の罠に嵌るかだ。普通ならこんな事、突っぱねられる。
だが、タツヤは必ず乗る。純は確信していた。
「いいよ、それで。最後は俺が勝つんだし」
タツヤは今、純の心を挫く事に執心している。彼は純の思惑全てを受け入れ、その上で叩きつぶすつもりだ。なら、ある程度無茶な事を言っても聞いてくれる。
彼の『ルール』を利用して、戦場を整えた。とはいえ、本気のタツヤを出し抜けるかどうか、まだ純は自信が持てなかった。
それでも――勝つ。
純は愛花のいる方向を一瞥してから、木の棒で円を描いた。
純は、ゆっくり土俵に足を踏み入れた。何百年先まで残りそうな程、ハッキリとした足跡が刻まれた。
「じゃあ、いい……か?」
審判役の取り巻きが、おずおずと二人を見た。彼は土俵のかなり外、比較的乾いた上にいる。純とタツヤが無言で頷くと、震えた声で開始の合図を発した。
「……潰す!」
タツヤが叫び、純に突進する。一度の跳躍で近づいてしまえば、地面に嵌るリスクも下がる。本能からの行動だろうが、合理的な動きだった。
対する純は、タツヤの突進を避ける素振りを見せなかった。このまま受ければ、彼は先のように軽く吹っ飛ばされるにも関わらず。
迫りくるタツヤに対し、純は――右足を高く上げた。四股を踏むというより、踵落としのような上げ方だ。
その場にいた全員が、一瞬目を疑った。相撲で蹴りなど、聞いた事もないからだ。
ルール上、相撲は蹴り技を禁止していない。いわゆる『けたぐり』という、蹴りによる決まり手も存在する。しかし、蹴るのは膝から下というのが、暗黙のルールだった。彼らのゲームが相撲の体を取っているだけだとしても、足を高く上げるのは異様としか言えなかった。
しかし、タツヤは止まらない。そもそも蹴りなど出したところで、純の細い足ではタツヤを止められない。返り討ちが関の山だ。
当然、純もそれは分かっていた。だから純が狙ったのは、タツヤではなく――足元。たっぷりと泥水が張られた水たまり。
「うぶっ……!」
激しい水しぶきが上がり、純とタツヤが泥水を被る。最高で彼らの頭より高く上がったそれは、当然二人の顔にも容赦なく降り注ぐ。
タツヤの顔面に、泥水と水分を含んだ砂が叩きつけられた。彼は悲鳴と共に突進を止め、両手で顔を覆う。その瞬間――両手で顔をガードしていた純が、タツヤの右足を払った。
「あっ……」
間の抜けた声と共に、タツヤの体躯が倒れた。泥に塗れた顔で、タツヤは目を丸くしている。
タツヤと同じ――それ以上に泥に塗れながら、純は言った。
「……僕の勝ちだよ。これで……もうあの娘には関わらないでくれるね」
*
「……なんで?」
全てを見ていた少女は、独り言ちた。
純がタツヤに勝ってしまった。
体格からして話にならない上に、向こうは経験者。誰がどう考えても、勝ち目のない戦い。そんなものに四回挑んで、その度にボロ負けして、痛い思いをした。
なのに、今立っているのは純だ。相手よりもっと泥に塗れて、正々堂々なんて言えない方法で。
女の子を救う男の子なんてのは、もっと格好いい筈なのに。青空の下、軽く蹴散らすなんて事をやるのが相場だ。
しかし、現実はこうだ。考えてみれば誰でも思いつくかもしれない事だが、やるとなれば話が違う。素肌の色も分からなくなるぐらい泥に塗れ、鼻血さえ流している。ハッキリ言って、恰好悪い。早くお風呂に入れと言いたくなる。
しかし、その恰好悪い少年は、諦めずに戦い抜き、そしてやり遂げた。どうしてそんな事が出来たのか、分からなかった。
確かなのは――あの『泥被り』の少年が、愛花の中に根付いた『諦め』を大きく揺さぶった、という事だ。
*
愛花は頭の中をかき回されたような感触を抱いたまま、座敷牢のような部屋で横になっていた。
純がタツヤを倒した瞬間が、頭から離れない。
何故彼の姿がここまで愛花を揺さぶったのか、この時の彼女には分からなかった。
そうしているうちに、どうやら眠っていたようだ。目が覚めると、周囲は完全に真っ暗になっていた。
喉がひどく渇いていた。水を飲みにリビングに行こうと、一度部屋の明かりをつける。すると、脇に乱雑に新聞が置いてあった。一面記事の見出しは、『G2ロケット、打ち上げ失敗』。
愛花は養父母の僅かな記憶を、記憶の奥底から引っ張り出した。記事にあるG2ロケットというのは、彼らが心血を注いでいたロケットの名前だった筈。
そこまで思い出すと、愛花はリビングへと向かった。扉の向こうは電気が付きっぱなしで、何やら二人分の大声が聞こえる。中に養父母がいるらしい。
どうしたものかと少し立ち止まる。逡巡の後、部屋に戻ろうとした矢先――不意に強い衝撃と共に、床に倒された。何が起こったか一瞬分からず、頭が真っ白になった。
「……お前何してるんだ」
「こ、こんな朝早くに起きてるなんて思う訳ないでしょ!」
二人の声と共に、愛花は状況を理解した。
養母が勢いよく開けたドアに、運悪くぶつけられたのだ。頭が割れるように痛い。額に触れると――手が、真っ赤に染まっていた。
「ひっ……」
それを見た瞬間、愛花は全身から血の気が引いていくのを感じた。にも関わらず、鼓動は早く、激しく鳴る。
愛花は意識を手放す直前――純の顔を思い浮かべていた。




